「歴史部会」カテゴリーアーカイブ

歴史部会8月度開催報告「大久保利通を語る」

日時:2022年8月
場所:ZOOMに依るオンライン開催

「大久保利通を語る」
会員各位より、各々の大久保像を語ってもらい、その実態を浮き彫りにする?
彼は良い男なのか、悪い悪い男なのか?
悪い男 国を思う誠心からの 要するにワル
冷徹なリアリスト 冷厳なリアリスト 冷酷なリアリスト
骨の髄までの政治家 堅忍不抜、国を背負った真の政治家
日本を兎も角にも、日本国を大変革しようとした男
基本的長期的国家構想は、特段持ち合わせなかったと思うが、重要な局面で、決意したら絶対枉げない胆の男、意思の男

大隈の大久保評「大久保は辛抱強い人だ。喜怒哀楽を顔に表さない。言葉少なく、沈黙 常に他人の説を聞いている “よかろう”と言ったら最後、必ず断行する 決して変更しない 百難を廃しても遂行する 熟慮断行の人(司馬遼太郎)

大久保の決断の歴史
雲にのぼり海にひそむも時ありて龍のうごきのやすくもあるかな 大久保利通
囲碁で島津久光に接近 10手 先を見る目
佐幕から、薩長同盟への転換
徳川慶喜の大政奉還に、危機感を抱き、小御所会議で慶喜排除
鳥羽伏見を利用して、慶喜を朝敵に 王政復古の大号令
不義の密勅は勅命に非ず 錦の御旗
天皇の可視化(行幸で国民の前に、軍服軍馬、東京遷都)
明治6年の政変(留守政府急進派の排除、内務省充実発展)
暗殺の朝、10年は創業期、10年は内地・民産 10年守勢

明治6年の政変
台湾出兵時の西郷から大久保への手紙、「この度の台湾に罪を問う挙は、到底私には条理ある理由は見当たらない」
征韓論ではありえない。韓国がない。李氏朝鮮500年の時代。
西郷の平和的使節としての派遣の可否で西郷には征韓論の意思なし。
内治派と征韓論の対立も、その後の台湾出兵、江華島事件を見れば矛盾が多すぎる。江藤への過酷な制裁も。
西郷と大久保が閣議で論争して、結局西郷派遣が決まりそれに不満の大久保、岩倉の辞表を受けて三条が発狂?、岩倉が太政大臣代理で、二案を奏上し、派遣中止となったと言うが、これは政治を止めたがっていた西郷と大久保の狂言で、留守政府急進派の排除が目撃と考えれば、すべてが明快に解釈できる。

大久保の回覧から得てきたもの
回覧中に大久保は6人コンパートメントにおり、ほとんど沈黙していたが、岩倉・木戸・久米などの話は、しっかり聞いている。すなわち、憲法への漸進的アプローチ、ドイツモデルへの傾倒、帰国後のこの国のかたちへの共通認識を得た。
一度、もう年寄りは引退すべきかとの弱気をはいたが、その後の各国の近代西洋の実体を見るうちに、初めて自前の国家構想を得て帰国した。自分のやり方で、確実に日本の近代化を軌道に乗せなければ死んでも死にきれない。=大久保の真骨頂。それは、政変後のたて続けの彼による諸建言にも表れている
一君政治、富国強兵、殖産興業、民力養成
内務省には旧幕臣や佐幕派からも人材を集めた。(西周、福沢諭吉、松浦武四郎にも声をかけた)(慶喜赦免)
大久保の建議から考える大久保の政策
立憲政体に関する意見書(明治6年11月)
殖産興業に関する建議(明治7年5月)
家禄奉還中止の建議(明治8年3月)
勧業寮定額見込書(明治8年)
海外直売の結社設立の建議(明治8年)
内国勧業博覧会開催の建議(明治9年2月)
国本培養(勧業施設)の建議(明治9年4月)
貸付局・資本手形発行建議(明治9年5月)
地租軽減の建議(明治9年12月)
行政改革の建議(明治9年12月)

文責(吉原)

米欧亜回覧の会 歴史部会 講演一覧表(2002-2022)

2002・03・05 『対支21ヶ条と加藤高明』(深津真澄氏)
2002・04・   『米欧回覧実記の英訳事業について』(斉藤純生氏)-全体例会
2002・07・   『第三の開国と明治維新』(松本健一氏)-全体例会
2002・11・   『H.ビックス氏の明治天皇について』(ジョウージ・秋田氏)-例会
2003・04・   『科学技術レポーター・久米邦武』(高田誠二氏)-全体例会
2003・06・04 『明治日本の技術導入―東京大学工学部・誕生秘話』(山尾信一氏)
2003・07・12 『近代日本の三つの岐路を巡って』(中村政則氏)-全体例会
2003・09・30 『満鉄調査部の歴史的考察』(永富邦雄氏)
2003・10・   『アメリカン・グローバリゼイションと日本』
(対談:ドナルド・キーンと松本健一氏)
2004・01・29 『大正デモクラシーの運命』(中村政則氏)
2004・02・28 『十五年戦争―回帰不能点はどこか』(中村政則氏)
2004・03・27 『戦後日本の岐路-グローバリゼイションの視点から』(中村政則氏)
2004・04・   『実記精読、訳出の旅』(水沢 周氏) -全体例会
2004・07・03 『国際情勢と日本の外交について』(岡崎久彦氏)-全体例会
2004・10・15 『私の伊藤博文論』(石川直義氏)
2004・10・30 『中国から見た昭和という時代』(保坂正康氏)-全体例会
2005・04・   『和魂漢才から和魂洋才へ』 (杉谷 昭氏)―全体例会
2005・06・23 『鈴木貫太郎内閣の終戦処理』(永富邦雄氏)
2005・07・16 『日本の近代 百五十年』(五百旗頭真氏)-全体例会
2005・09・21 『秀吉と利休のイメージ-明治・大正・昭和の変遷』(田中仙堂氏)
2006・06・14 『大久保利通と米欧回覧』(勝田政治氏)
2006・07・20 『新渡戸稲造と士魂』(石川直義氏)
2006・07・29 『ポスト小泉と岩倉使節団』(橋本五郎氏)-全体例会
2006・09・19 『天皇制と道教と祭天の古俗』(小野博正氏)
2006・10・20 『岡倉天心と山本七平』(泉 三郎氏)
2006・12・08 『東京裁判史観』(永富邦雄氏)
2007・03・15 『石橋湛山と小日本主義』(小松優香氏)
2007・07・14 『昭和史の失敗から何を学ぶか』(保坂正康氏)-全体例会
2007・08・03 『ある小国のサクセス・ストーリー・ルクセンブルグ』(吉野忠彦氏)
2007・11・05 『戦後史最大の謎』(堤 堯氏)
2008・04・01 『銃を持つ民主主義-日米関係と大統領選』(松尾文夫氏)
2008・05・19 『幕末と維新』(井上勝生著)(小野博正氏)近現代史シリーズを読む
2008・06・30 『民権と憲法』(牧原憲夫著)(大平 忠氏) 同上
2008・07・29 『世界の江戸化-エドナイゼイション』(小野寺満憲氏)
2008・09・22 『日清・日露戦争』(大森東亜氏)近現代史シリーズを読む
2008・10・21 『満州事変から日中戦争へ』(藤原宣夫氏)近現代史を読む
2008・11・18 『アジア太平洋戦争』(吉田裕著)(藤田 実氏) 同上
2008・12・15 『大正デモクラシー』(成田龍一著)(桑名正行氏)同上
2009・02・16 『高度成長』(武田勝人著)(山田哲司氏)    同上
2009・03・23 『占領と改革』(雨宮昭一著)(西井正臣氏)   同上
2009・04・20 『ポスト戦後社会』(吉見俊哉著)(永富邦雄氏) 同上
2009・05・25 『近現代史シリーズを読む』総括
2009・06・15 『渋沢栄一・論語と算盤の現代的意義』(渋沢 健氏)
2009・07・10 『伊藤博文が描いた国のかたち』(瀧井一博氏)-全体例会
2009・09・24 『大隈重信・井上馨と明治国家』(五百旗頭馨氏)
2009・11・16 『帝国主義日本の外交-小村寿太郎と加藤高明』(深津真澄氏)
2010・01・27 『陸奥宗光-近代日本外交の元祖』(永富邦雄氏)
2010・02・22 『三井八郎右衛門高棟と団琢磨』(油井常彦氏)
2010・04・23 『横井小楠-維新の群像』(小野寺満憲氏)
2010・05・11 『村田省蔵』(半澤健市氏)
2010・07・17 『岩倉使節団の群像―歴史写真からの発見』(倉持 基氏)
2010・10・15 『渋沢栄一・青春時代』(泉 三郎氏)
2010・11・15 『渋沢栄一・壮年時代-実業家栄一の業績と生き方』(小野博正氏)
2010・12・06 『岩崎四代の生きざま-彌太郎、彌之助、久彌、小彌太』(成田誠一氏)
2011・04・18 『幕末から終戦まで-木戸孝允と木戸幸一』(芳野健二氏)
2011・05・11 『西郷南洲が残した日本精神の記憶』(小野寺満憲氏)
2011・06・20 『大久保利通』(大平 忠氏)
2011・07・19 『山県有朋とその時代』(永富邦雄氏)
2011・09・20 『伊藤博文-明治国家を創った大政治家』(泉 三郎氏)
2011・10・17 『フルベッキ-明治の国づくりに貢献した宣教師』(岩崎洋三氏)
2011・11・21 『岩倉具視-国のかたちを探り続けた男』(山田哲司氏)
2012・02・20 『大隈重信と佐賀藩』(小野博正氏)
2012・03・21 『近代治水の祖・デ・レーケ-お雇い外国人の画期的な功績』
(仲津真治氏)
2012・04・16 『幕末維新海外派遣使節団と留学生』(泉 三郎氏)
2012・05・21 『岩倉使節団の裏方・その裏方の頭領・田邊蓮舟』(田邊康雄氏)
2012・06・18 『工業立国の父-山尾庸三』(小野寺満憲氏)
2012・07・24 『薩摩藩第二次米国留学生・大原令之助を語る』(吉原重和氏)
2012・09・20 読書会『最後の将軍』を読んで、徳川慶喜を語る 有志座談会
2012・10・22 『高橋是清-生涯学び続けた実践の人』(井上 泰氏)
2012・11・19 『中江兆民―破格の明治人』(芳野健二氏)
2013・03・17 『近現代史に学ぶ―新視点』(吹田尚一氏)
2013・04・21 『日本の対外発展「転機」を巡って-「大東亜戦争」への道』(吹田氏)
2013・05・19 『大東亜戦争とは何であったのか』(吹田尚一氏)
2013・06・17 『勝海舟-江戸城無血開城の英雄にして倒幕の仕掛け人』(小野博正氏)
2013・07・19 『福沢諭吉―そのアキレス腱を問う』(泉 三郎氏)
2013・07・25 『国政選挙の理想と現実』(保坂正康氏) -全体例会
2013・09・27 『福地源一郎-セカンドベストの探究者』(五百旗頭馨氏)
2013・10・13 『金融の世界史』(板谷敏彦氏) -全体例会
2013・10・21 『加藤高明―その外交政策と政党政治の光芒』(吹田尚一氏)
2013・11・18 『新島 襄』(多田直彦氏)
2014・02・17 『榎本武揚―変革時代の万能ピンチヒッター』(岩崎洋三氏)
2014・03・17 『徳富蘇峰―三代を生きて①』(吹田尚一氏)
2014・03・24 『徳富蘇峰―三代を生きて②』(吹田尚一氏)
2014・04・21 『福沢諭吉の文明開化思想』(大久保啓次郎氏)
2014・05・19 『日露戦争―資金調達の戦い』(板谷敏彦氏)
2014・06・23 『小ナポレオンと言われた男―知られざる山田顕義』(泉三郎氏)
2014・07・22 『森鴎外』(池央耿氏)
2014・09・16 『もう一つの蘇峰論』(半澤健市氏)
2014・10・22 『天下の双福と言われた男の生涯―福地桜痴と福沢諭吉』
(久保啓次郎氏)
2014・10・26 『岩倉使節団はどのような西洋知識持っていたか』(平川祐弘氏)―
例会講演
2014・11・17 『総合商社の源流:鈴木商店と記念館オープンについて』(小林正幸氏)
2014・12・16 『思想から見た明治維新―吉田松陰を中心に』(小野博正)
2015・02・16 『西郷隆盛と福沢諭吉』(大久保啓次郎氏)
2015・03・16 『原田一道、吉川重吉、そして毛利家』(宍戸 旦氏)
2015・04・20 『思想家石橋湛山―「小日本」の思想的意味』(小松優香氏)
2015・05・18 『明治維新をめぐる豪商たち』(西井易穂氏)
2015・06・16 『岩倉使節団の齎した光と影を考える』(小野博正)
2015・07・21 『明治国家形成における井上毅の事跡』(大久保啓次郎氏)
2015・09・15 『西洋医学への道―長与専斎』(西井易穂氏)
2015・09・28 『広報外交を拓く―金子堅太郎』(吹田尚一氏)
2015・10・19 『大久保利通が考えたこの国のかたち』(大平忠氏)
2015・10・28 『薩摩藩英国・米国留学生』(吉原重和・村井智恵氏)
2015・11・16 『明治文部行政と田中不二磨』(大森東亜氏)
2015・12・14 『新島 襄』(多田直彦氏)
2016・02・15 『フルベッキ』(岩崎洋三氏)
2016・03・07 『木戸孝允―憲法制定への流れ』(芳野健二氏)
2016・03・22 『五人の女子留学生』(畠山朔男氏)
2016・04・18 『明治民法制定の特徴と経緯とその現代的意味』(根岸 謙氏)
2016・05・16 『西洋文明の受容について』(ウィリアム・スティール氏)
2016・06・20 『国家と音楽』(奥中康人氏)
2016・07・19 グランド・シンポのための準備会
2016・09・12 『地方自治のキーマン―安場保和』(芳野健二氏)
2016・09・20 『林董―函館戦争の捕虜から外交の主役に』(岩崎洋三氏)
2016・10・17 『明治のマルチプランナー―渡辺洪基』(赤間純一氏)
2016・10・17 『団琢磨―鉱山技師から三井財閥の総帥に』(桑名正行氏)
2016・11・07 『明治国家の黒幕的巨魁―田中光顕』(小野寺満憲氏)
2016・11・21 グランド・シンポのための最終調整会
2017・01・16 『宇宙・地球・人類文明5000年史』(芳野健二氏)
2017・02・20 『フランケンシュタインの誘惑-科学の闇』科学の未来を考える
2017・03・21 『近代日本にとっての条約改正問題の含意』(五百旗頭薫氏)
2017・04・17 『武器移転史』(横井勝彦氏)
2017・05・15 『西洋近代の普遍性を問う』(吹田尚一氏)
2017・06・19 『宗教思想から見た東西文化比較―試論』(小野博正)
2017・07.17 『エドナイゼイッション』(小野寺満憲氏)
2017・09・18 『巴里籠城日誌』(渡洋二郎氏)
2017・10・17 『明治の光と影―諭吉と漱石』(泉三郎氏)
2017・11・20 『政党政治を考える』(五百旗頭薫氏)
2017・12・18 『近代とは何か』(全員討議)
2018・01・15 『近代化学創設者達と薩長留学生―ウイリアムソン夫妻』
                   (西井易穂氏)
2018・03・19 『アーネスト・サトウ―~幕末維新に活躍した英国外交官』
                   (岩崎洋三氏)
2018・04・16 『明治の旺盛な企業家精神-大倉喜八郎』(村上敏彦氏)
2018・05・07 『西郷どんを奔らせた薩摩藩の名君・島津斉彬』(小野博正氏)
2018・07・16 『海舟と薩摩藩の情報収集』『ワシントンでの岩倉使節団続編』
(吉原和重氏)
2018・9・25 『憲法-三題噺』大日本帝国憲法・・泉三郎氏
  私擬憲法・・芳野健二氏、憲法九条は誰の発案か・・小野博正氏
2018・10・15『鍋島閑叟と佐賀七藩士』(大森東亜氏)
2018・11・19『幕末維新の日米交流人脈史』(村井智恵氏)
2019・2・26 『もう一つの明治維新はあり得たのか』(小野博正氏)
2019・3・31 『幕末明治期の中国人米国留学生と日本人留学生』(容應萸氏)
2019・5・20 『今、ジョン万次郎を語る-「漂巽紀畧」発刊を期に』
           (北代淳二氏、谷村鯛夢氏)
2019・6・18 『英語の師匠―岩倉使節団一等書記官・何禮之』(金子秀明氏)
2019・7・22 『タウンセンド・ハリスの日本にもたらしたもの』(岩崎洋三氏)
2019・9・30 『日本の国境はどう画定されてきたのか』(小野博正氏)
2019・10・23『幕末維新期米国日本人留学生研究の5W1Hと研究の最前線』
           (塩崎 智氏)
2019・12・13『岩倉使節団新人物論シリーズ1回目』富田保命(三須氏),
吉雄辰太郎(吉原氏) 若山儀一(栗明氏) 今村和郎(小野氏)
2020・1・27『新人物論シリーズ2回目』久米邦武(小野氏)安場保和(芳野氏)
           中山信彬(原氏)野村靖(栗明氏)内海忠勝(小野氏)
2020・2・25『シリーズ3回目』田中光顕(小野寺満憲氏)五辻安仲(小野氏)
           沖守固(栗明氏)阿部潜(小野氏)池田寛治(原氏)
2020・3(コロナ中止)
2020・4・20『シリーズ4回目』大蔵省総括(小野氏)
2020・4・27『5回目』東久世通禧(小野氏)原田一道(原氏)安藤太郎(福島正和氏)
2020・5・21『6回目』中島永元(原氏)山田顕義(小野氏)村田新八(村井智恵氏)
2020・5・28『7回目』近藤鎮三(鈴木、遠藤、近藤氏)内村良蔵(小野氏)
2020・6・25『8回目』田中不二麿(福島氏)新島襄(多田直彦氏)
2020・7・25『9回目』長与専斎(小野氏)森有礼(村井・吉原氏)
2020・8・28『10』文部省総括(小野氏)大島高任(芳野健二氏)
2020・9・18『11』瓜生震(小野氏)肥田為良(小野氏)長野桂次郎(原重和氏)
2020.9・28『12』川路寛堂(村井氏)山尾庸三(小野氏)工部省総括(小野氏)
2020・10・30『13』益田克徳(泉三郎氏)平賀義質(村井氏)岡内重俊(小野氏)
2020・11・27『14』岸良兼養(原氏)江藤新平(大森東亜氏)河野敏鎌(小野氏)
2020・12・28『15』井上毅(小野氏)沼間守一(泉三郎氏)中野健明(村井氏)
2021・1・29『16』鶴田晧(栗明純生氏)名村泰蔵(岩崎洋三氏)
2021・2・26『17』司法省総括・左院総括(小野氏)西岡逾明(村井智恵氏)
鈴木貫一(小野博正氏)
2021・3・26『18』小室信夫(小野氏)安川繁成(栗明純生氏)高崎正風(原氏)
2021・4・30『19』手嶋精一(大森氏)由利公正(村井氏)川路利良(小野博正氏)
2021・5・28『20』小松済治(原氏)塩田三郎(小野氏)畠山義成(村井智恵氏)
2021・6・25『21』福地源一郎(栗明氏)林董(岩崎洋三氏)渡辺洪基(小野氏)
2021・7・25『22』何礼之(福島正和氏)吉原重俊(原重和氏)山口尚芳(小野氏)
2021・8・13『23』ビスマルク(塚本弘氏)シュタイン(小野寺満憲氏)
ブロック(泉三郎氏)
2021・9・24『24』ハリー・パークス(岩崎洋三氏)フルベッキ(井上篤夫氏)
チャールズ・デロング(村井智恵氏)
2021・10・26『25』吉田清成(村井氏)鮫島尚信(小野氏)寺島宗則(泉三郎氏)
2021・11・23『26』尾崎三良(栗明氏)富田鉄之助(原氏)西園寺公望(泉氏)
以上 70名で一旦、新人物論シリーズは中断して
年間通底テーマ『岩倉使節団の意味を問う』セミナーシリーズ開始 2022年1月より
2022・1・29『
2022・2・26『明治6年の政変』
2022・3・26『明治14年の政変』
2022・4・23『条約改正への道のり』
2022・5・28『津田梅子と女子留学生』(畠山朔男氏)
2022・6・24『伊藤博文と木戸孝允』(小野博正氏、村井智恵氏)
2022・7・27『大日本帝国憲法への道』(小野博正氏)
2022・8・27『大久保利通を語る』参加会員全員にて
2022・10・1『大久保利通』(瀧井一博氏)
2022・10・22『使節団と教育・文化』
2022・11・26『岩倉具視』(泉三郎氏)

歴史部会:7月度セミナー開催報告「大日本帝国憲法への道」

日時:2022年7月23日(日) 10時~12時30分
場所:ZOOM
内容:大日本帝国憲法への道
講師:小野博正

「岩倉使節団の意味を問う」のシリーズの、最大の山場にさしかかった。
岩倉使節団が「この国のかたち」を求めて欧米を回覧したことを認める人も、その使節団の求めた日本のあるべき政体が「大日本帝国憲法」に帰結したと言っても、一般的には、にわかには信じがたいかもしれない。明治憲法、すなわち大日本帝国憲法が公布されたのは、明治22年のことで、使節団帰国の明治6年から遥かに時がたち、使節団三傑の木戸孝允(明治10年死去)、大久保利通(明治11年死去)、岩倉具視(明治16年死去)は、すでに夫々が、遥か昔に亡くなったあとに明治憲法は成立しているからである。

憲法だけが「国のかたち」ではないと言う立場の人もいるかもしれない。
学制(国民皆学)、税制(地租改正)、兵制(国民皆兵)、諸民法、廃藩置県、暦法、宗教・風俗の選択、その他諸々の国のかたちの要素がある。然し、憲法こそが、天皇制や議会や行政など根本的に国のかたちを規定するものであることには異存があるまい。
使節団の意味の帰結が明治憲法であったというには、使節団の帰国後の共通認識に、憲法は急進的ではなく、時間をかけて漸進的に検討する。しかも、外国の憲法の、そのままの模倣でなく、日本の国体・歴史を加味した独自の憲法を目指すべきである。急進性否定には、自由民権運動への警戒があった。国民の自由な発言の許容は、民意が成熟するまでは慎重に進めるベキであると言うのが、フランス革命以降の、人は生まれながらに自由と平等であるべきというルソー、グロチウス、ロック、モンテスキュー等由来の自然法論が、普仏戦争による後進国プロシアによるフランスの敗戦と、それに続くパリ・コンミューンによるパリの混乱から、ドイツの法学者を中心に、それぞれの国の歴史と発展段階に見合った民意の尊重と憲法体制とすべきという歴史法論が台頭しており、パリ・コンミューンの直後に西洋を回覧した使節団は、ブロック、グナイスト、シュタイン他の著名な法学者や、統一ドイツを主導したドイツの鉄血首相のビスマルクやモルトケ主導により躍進するドイツの姿に魅せられて帰国した。後発のドイツ・ビスマルクが皇帝を輔弼して、米仏を軍事や産業両面で急迫するドイツの存在は、王政復古で天皇を輔弼して明治国家を建設する己が姿に重ね、使節団首脳は挙って漸進的国家建設に一致点を見つけたのである。
それを完成したのが、岩倉使節団の最終ランナーとしての伊藤博文と下司法官僚の井上毅等であった。

使節団帰国直後の明治6年の政変は、留守政府の急進派からの政権奪取が目的であった。
政変議、下野組の「民選議院開設の建白書」に対し、すかさず「漸次立憲政体樹立の詔」で応じたのはこの漸進主義に基づく。
更に、明治14年の大隈重信の「早期国会開設と憲法制定」に対して「明治22年憲法制定・明治23年国会開設の詔」で応じ返した。時間をかけて憲法・国会を創ろうの謂である。
明治14年政変後、岩倉具視と井上毅に送られて、伊藤博文は一年半をかけて憲法取調の欧州への旅に立つ。ドイツでグナイストとモッセから憲法を学ぼうとするが、日本人にはまだ憲法は早いと真剣に取り合ってもらえない。傷心して訪れたオーストリアでシュタイン博士に会って、日本独自の憲法論と憲法にも増して国家には行政が大事であること、行政を担うエリート官僚の養成など国家学に目覚めて、立憲カリスマの伊藤博文が誕生する。
帰国後、伊藤は内閣制度を発足させ、自ら初代総理大臣となる。今までは大臣は公家の独占のしきたりを破り、平の臣民がトップに立ったのである。夏島で、伊東巳代治、金子堅太郎、井上毅、ロエスレル、ロッセを集めて憲法草案作成に入る。そして、憲法審議を目的とした枢密院を創設し、総理大臣を辞して初代枢密院議長となる。井上毅は事務局長である。
枢密院はその後、天皇の政治的諮問機関として、天皇の陪席審議で、天皇の政治決断をリードして、終戦後の昭和22年まで続いた。
大日本帝国憲法が、天皇大権(主権)や統帥権、国民は臣民として、その権利を定め、言論・集会の自由は限定的ながら認め、国会は貴族院、衆議院の二院制とし、議院内閣制は否定していた。

伊藤博文の評価は分かれる。それは次の会話が象徴している。
「どうしても伊藤博文がわからないのは、彼はいつも二つのはっきりした対立の間を動いていますから、明治史を書いていても、何時も伊藤博文の姿が出てこないんです」 (『日本近現代史』著者・坂野潤治)
「やはり。『大政治家』ですね。フレキシビリティそのもの。」(司馬遼太郎)
伊藤は攘夷派から開国派に、急進アラビア馬から漸進派へ、憲法半解から立憲カリスマへ、農民から初代総理大臣へ、議院内閣制を否定しながら政党政治を模索、天皇主権(大権)としながら天皇無答責、ドイツ憲法に親炙しながらイギリス式立憲君主制を模索するなどいつも矛盾の中を歩いた。薩長閥の中にいながら、薩長閥を超越した。盟友山県有朋とも、井上毅とも、更には大隈重信や板垣退助とも一線を画しながら同盟、融和した。それは、西洋帝国主義の最中で、一国を独立させるという明治日本の、置かれた立場を象徴するものであったかもしれない。
岩倉使節団の果たした意味は、伊藤の評価のように学会でも二分されよう。
それは、西洋文明をアジアに定着するという矛盾そのものと言えるかもしれない。

文責 吉原

歴史部会:6月度セミナー開催報告「伊藤博文と木戸孝允」

日時:2022年6月24日 10時~12時30分
場所:ZOOM
内容:伊藤博文と木戸孝允
講師:村井智恵(木戸孝允)
小野博正、泉三郎(伊藤博文)

木戸孝允 1833年8月11日(天保4年6月26日)- 1877年(明治10年)5月26日

世の中は桜の下の角力かな〜関係した人々から人物を探る

西郷隆盛や大久保利通に比べると、木戸孝允は暗い、嫉妬深いなどといわれ、いまひとつ知名度も人気も低いと思われているようだ。ところが木戸は維新から死までの10年の悲喜こもごもを克明に日記に残しているため、歌って踊れる元剣豪の偉人として、歴女ファンが多い。
薩長同盟、廃藩置県や大阪会議といった歴史上の大事件以外の事柄を中心に、周辺の人物との関係を交えて人物像を紹介したい。

家族
木戸は藩医の長男、和田小五郎として天保4年(1833)に長州藩萩で誕生。7歳で向かいに住んでいた大組士・桂家の末期養子となるが、桂家の父母がすぐに亡くなったため、桂家を継いだ後も実家に住んだまま育った。そのためか家族への愛が深く、岩倉使節中にも、父母の命日には花を飾っていた話を久米が残している。久米は亡くなって間もなくだったから花を飾ったりしていたと言っているが、両親は木戸が江戸に出てくる前に亡くなっている。20年あまりの時間が経っているのだが、日記の折々に父母を思慕する様子が窺われる。

伊藤博文を最初に取り立てたとされる来原良蔵(くるはらりょうぞう)は妹治子の夫であった。文久2年8月に自害して治子は未亡人となるが、木戸は来原と治子夫婦の息子である二人の息子を養子とした。日記には折々に上京する治子との仲睦まじい様子が見える。

夫人の松子はよく知られているように京都で幾松を名乗る売れっ子の芸妓であった。明治後、花街の女性を妻にする高官が増えたが、恐らく正妻としたのは木戸が嚆矢ではないだろうか。外国人の客にもひるむことなく客をもてなすことのできる松子夫人の才覚は、木戸の広い人脈を支える要素であった。現在の価値観では芸妓という言葉にややマイナスのイメージがあるかと思うが、言ってみれば、プロ野球の人気選手がアイドル歌手と結婚したような感じではないかと思う。

斎藤道場塾頭時代(江戸)
二十歳で江戸に出て、翌年には江戸三大道場のひとつといわれた斎藤弥九郎道場・練兵館の塾頭となった。弥九郎と長男新太郎とはその後も親しく交わった。同道場で木戸の後に塾頭を務めたという大村藩の渡辺昇とも生涯にわたって親しい。渡辺は薩長同盟の仲介を務めたともされるが、明治以降、断髪をためらっていた二人は一緒にザンギリ頭にしている。

江戸では江川太郎左衛門英龍(伊豆韮崎代官、江川塾主催。当時の江川塾塾頭が岩倉使節団員の肥田為良)、中島三郎助(浦賀与力、造船家。戊辰戦争で長男、次男とともに亡くなった後、木戸は未亡人と娘の面倒を見た)、神田孝平手塚律蔵等に師事。万延元年、処刑された吉田松陰(萩、江戸で交流を持つ。師弟関係とされる)を埋葬した。

京都時代
テロと暗殺が横行する文久から元治にかけての京都騒乱期には、暴走する長州藩の若き攘夷の志士を抑える役割として、また、勅使、他藩との交渉役として奔走するが、大勢の仲間が暴力と政変の中で亡くなっていった。
池田屋、禁門の変(1864)の頃の逸話として、捕吏から脱走した話を勝海舟が伝えている。これがおそらく司馬遼太郎の言う「逃げの小五郎」のもとになっている。その後、木戸は日本海側に近い但馬の出石に隠れ住んだ。
禁門の変以降、朝敵とされた長州藩は武器等の調達ができず、慶応3年(1867)には薩摩藩士を騙ってJoseph Heco(浜田彦蔵)の長崎の商社を訪れている。
また、幕末の小御所会議の時代に土佐藩主・山内容堂に気に入られ、宴会の席で舞を披露したりしている。

長三洲と文人サロン
戊辰戦争終結直後の明治2年、地元山口での脱退騒動の鎮圧を命じられ、当時長州藩の教育、兵制、行政の改革を担っていた長三洲(天領日田出身の学者だが、父・梅外から尊皇の士として知られる。奇兵隊幹部)と親しくなった。
長は東京に出てきた後、木戸と共に「新聞雑誌」という新聞の刊行に尽力し、「新封建論」「復古言論」などの寄稿により新政府の方針を支えた。また学制、文部省の発足を先導した。
書道家であり南画家でもある長や、奥原清湖西島青甫、さらに長と共に長州三筆と言われた杉孫七郎野村素介などを交えたのちの文人サロンのような集まりを自宅で頻繁に持ち、書画や詩作、骨董などを楽しんでいる。
欧米滞在中に長が木戸に画帳を送り、これに深く慰められた木戸は、なぜ長を洋行に誘わなかったかと悔やんだ。帰国後は数々の旅に同行し、死ぬまで身近にいて公私ともに木戸を支えた。

青木周蔵
養子先の青木研蔵家は木戸の生家の三件隣くらいであったので、もともとの知り合いは青木家の方と思われる。ドイツ人との結婚、青木家との離縁に関して周蔵は木戸に面倒な交渉を頼む。明治7年夏に萩に帰った木戸は、目的だった士族授産や反乱を危ぶまれていた前原一誠らとの会合にも先駆けて青木家を訪ね、また、終始青木家の姑に付きまとわれて愚痴を聞かされる。そうしている最中にも離縁はしないと言ってくる青木にも翻弄されたが、結果的に青木とエリザベートの結婚をまとめている。「木戸孝允関係文書」の第1巻には数多くの青木周蔵からの書簡が収められており、青木が木戸を慕う様子が窺える。10年以上前に萩の青木研蔵/周蔵邸を訪れた際、ちょうど軒下からかなりの隠し財産が発見されていた。どうも周蔵に相続させたくなかったものとみられる。

伊藤博文
一般に伊藤は、後年、木戸から離れ大久保についたように言われるが、間に讒言するものがあって誤解を生じたことが多いようだ。伊藤と大久保がアメリカから一時帰国した際に、大隈らが木戸や大久保を早く帰してほしいと言ったことが曲がって伝わり、若造が自分の旅程を短縮させようとしていると誤解して木戸の機嫌を損ねたらしい。こういった行き違いは何度もあったようだ。

帰国直後に馬車で頭をぶつけて以来、木戸は体に不調をきたしていることが多かったが、木戸が病気で動けない間、伊藤は逐一あらゆる動向を報告している。しかし、自分の立場が上がるにつれて報告が簡略化され、木戸を通さずに裁可を下すようになるのは当然と思われる。また、辞表を出すという方法で政府に抗議する木戸のご機嫌伺いが面倒になったこともあるだろう。壮健だった大久保を伊藤が信頼し、薩摩には少ない周旋力に優れた伊藤を頼みにしたことは容易に理解できるので、木戸と不仲になったということではないだろう。

方向性として、木戸は国体を整え、立法や最高裁の設置を急務と考え、帰国後は特に地方官議会に力を入れた。また、「建国の大法はデスポチック(独裁的)に之なくては相立ち申す間敷」と天皇を最高位に置く国体の確立を重視した。木戸から見ると、大久保や伊藤は殖産興業や軍備に傾いているように見えたのかもしれない。このデスポチックについては民主主義社会で敵視された独裁制と混同されているが、木戸のいうところは、国王不在の共和制の否定を意味するものと思われる。

木戸孝允というひと
木戸は残された写真を見てもなかなかのハンサムで、背が高く、当時人気の高かった江戸三大道場で塾頭を務めた著名な剣士である。女性にもすこぶるモテただろうし、男性に憧れられた存在であったに違いない。人懐こく、面倒見が良く、親切だとあらゆる後輩に慕われ、また山内容堂や周布政之助、幕末長州藩で大阪藩邸の責任者だった北条瀬兵衛こと伊勢華が上京の際には木戸のそばから離れない様子から、年長者にも愛されていたことがよくわかる。ひねくれたり、ねじれたりしていない木戸は、むしろ感情の起伏を平気で周囲に見せて頓着しなかったので、たまたま居合わせた人には、怒りっぽい、感情的とも捉えらえたようだ。

晩年に精彩を欠いていくのは、妹治子が明治8年11月に結核で亡くなってしまったことに大きく起因している。ここから木戸も病状が悪化していき、10年5月に亡くなる。死因はウィキペディアによると大腸癌と肝臓がんであるという。剣士として江戸で名を馳せたアスリートが思うように体を動かせないことは恐怖であり、衰えを実感していったのに違いない。その頃の印象が木戸の人物像として語られているように思う。

死後、遺言に従って木戸は同志の眠る京都の護国神社の墓地に葬られたが、木戸が明治以降の短い山口訪問で訪れていた糸米の屋敷近くには、木戸神社として祀られている。地元の人が建て、いまでも細々と参拝されているという。日本の神様というものは、このように尊敬や感謝を素朴に表すものなのだろう。

「世の中は桜の下の角力かな」とは木戸が詠んだ句のひとつだが、さまざまな力士が、桜の下で脚光を浴びて全力で相撲を取る屈託のない真剣勝負に世の中を見ているのが木戸らしい。

 

伊藤博文(いとう ひろふみ)1841‐1909 長州 31歳 副使・工部大輔
  明治の今太閤 虚心に国家の為の政治を目指した初代総理大臣 

吉田松陰に「斡旋の才あり」と言われたが、生涯、その才を遺憾なく発揮した。

長州周防の百姓・林十蔵の長男に生まれた。幼名:利助、のち俊輔、博文。号:春畝。滄浪閣主人。父が蔵元付中間・水井武兵衛の養子となり、その武兵衛が足軽・伊藤弥右衛門の養子となったので、十蔵・博文父子も足軽の身となる。足軽は士族以下の卒族とされた。16歳で毛利藩が江戸湾警備役で、来島良蔵(桂小五郎の義兄)の配下で、相模に出張したことが縁で、来島の薫陶を得て、吉田松陰を紹介され、松下村塾に学ぶ。

松陰の配慮で、京都・長崎へ旅行。桂小五郎の従僕となり、江戸屋敷に住み、諸藩の有司と交友の場を与えられる。これが、交際に依る実学問と後に伊藤は回顧する。志道聞多(井上馨)と親交して、御楯組に参加を誘われる。安政の大獄で松陰が斬首されると遺骸を引き取る。桂、久坂玄瑞、高杉晋作、志道らと尊皇攘夷運動に関わり、公武合体派の長井雅楽の暗殺を画策(維新後に伊藤はこの長井雅樂を再評価している)。御殿山・英国大使館焼き討ちや塙次郎暗殺に加わる。文久3年、士分に取り立てられ、直後、志道ら長州五傑の英国留学に加わり、ロンドンで英語など学び、米英仏蘭四国連合艦隊の長州攻撃の報に接し、急遽志道聞多と帰国して、戦争回避を英公使オールコックや通訳サトーらと会見して模索するが結局下関戦争は勃発し、一転戦後処理などにあたる。第二次長州征伐では、高杉の功山寺挙兵に一番に駆けつけ、騎兵隊として内訌を戦う。
明治維新になると、外国事務総裁の東久世通禧に見出され、神戸事件・堺事件の解決に奔走し、出世の足掛かりを得る。

維新後に、高杉晋作に授けられた博文に改名。英語力を武器に、とんとん拍子に参与、外国事務局判事、初代兵庫県知事を歴任、この時に『国是綱目』(兵庫論=廃藩置県をして国家統一へ)を明治天皇へ捧呈する。東京で出て大蔵兼民部少輔となるや、明治3年から翌年にかけ、芳川顕正、福地源一郎らと渡米し、ナショナルバンクで学んで帰国、新貨条例を制定(金本位制で、一ドル=一円=一両)。岩倉使節団に副使として参加する。米国から書き送った「条約改正に備えて有司による欧米の条約比較研究の旅の勧め」が岩倉を刺激して使節団が計画され、伊藤を最初に副使に加え、大久保、木戸を副使に推薦したのは自分だと伊藤は晩年の直話で述べている。サンフランシスコで「日の丸演説」をして確固たる地位を占める。大久保利通と共に、条約改定交渉の委任状を取りに帰国し、以降大久保の信頼を得る。使節団帰国後は、明治6年の政変を機に。参議兼工部卿となる。明治8年には、台湾出兵後の大久保・木戸との不仲を取り持って大阪会議を実現した。地方官会議につなげ、国民参加政治の一歩を築く。

西郷、木戸、大久保の没後の明治14年の政変を主導して、自由民権派を抑え、漸進的に憲法制定・国会開設をすすめるため、明治15年西園寺公望、伊東巳代治らを伴い、憲法調査に渡欧して、グナイスト、モッセ、シュタインなどに学んで帰国する。憲法は、日本の歴史と国情に則り、他国の真似でなく、天皇主権で日本を表象し、国民の権限を規定すると定める。国家の基本に、行政を置き、国家学に目覚めた。明治18年初代総理大臣に就任し、その後、夏島に籠って、伊東巳代治、金子堅太郎、井上毅らと大日本帝国憲法の草案を練り、枢密院を創設して総裁となって審議し、明治22年、憲法発布に漕ぎつける。

その後も、日清、日露戦争を経て,対露宥和政策をとり、金子を米国へ派遣し、広報外交を演出。明治33年、立憲政友会を創設して、立憲政党政治への道を開く一方、初代韓国統監など務め、明治42年、ハルピン駅で暗殺されるまで、岩倉・大久保なきあとの明治日本の政治を先導して生涯を終える。最近は、瀧井一博の論考以降、知の政治家との評価が高い。 今太閤と言われるほど、毛利・長州藩の農民の身分から、初代総理大臣に登り詰めたのは、時代と交友に恵まれたのは事実だが、その時流を読み、生来の斡旋力を生かして敵を作らず、あらゆることから真摯に学び、国家の在り方を考え続けた生涯であったと言えよう。

長州五傑の英国留学、米国財政調査、岩倉使節団、欧州への憲法調査旅行の実地見聞で学んだことは、まさに文明の博物館であった。それが伊藤の人生の骨格となり、とりわけ、岩倉使節団の岩倉具視、大久保利通、木戸孝允ら有司からの厚い信頼と、回覧中に共有した憲法への漸進主義(漸を以て進む。之を名づけて進歩という。進歩とは、旧を捨て、新しきを図るの謂に非ず。日本の歴史に則った温故知新にあり)への確信が、その後の伊藤と、良くも悪くも日本自体の運命を決めたと言えないか。

攘夷から開国へ、急進から漸進へ、八方美人からオールマイティーに、フレキシビリティそのものようで、確たる信念もあった。若き日に、国学者・塙次郎を誤解と若さから暗殺した伊藤が、最後に、韓国の安重很に暗殺されるのは宿命的暗示か。

(2022・6・24 泉三郎、瀧井一博、羽生道英ら著作参考)

 

 

岩倉使節団の意味を問う:5月度セミナー開催報告「5人の女子留学生」

日時:5月28日(土)10:00~12:30
場所:ZOOM
担当:畠山朔男
内容:津田梅子を主体とした5人の女子留学生

はじめに(女子留学生派遣決定の背景)
明治4年1月4日一人の男生が横浜からアメリカに向かった。その男の名は黒田清隆である。黒田は薩摩藩出身で戊辰戦争の最終戦とも云われる「箱館五稜郭戦争」で官軍の提督として八艘の艦隊を率いて戦闘を指揮し、旧幕府軍を降伏させた。その功により北方開拓のために明治2年(1869年)北海道開拓使が設置され、明治3年黒田清隆は北海道開拓使次官に抜擢される。同時に樺太専務を命じられ、樺太を視察した黒田はロシアからの圧力に「このままでは3年もたない」という深刻な報告を行い、国力をつけるためには寧ろ北海道の開拓に傾注すべきと建議し、明治4年(1871)8月10年間総額1,000万円という大規模予算「開拓使10カ年計画」として決裁される。明治政府は開拓事業の調査・研究を目的に黒田次官を西部開拓で実績のあるアメリカを中心に欧米を視察させるために明治4年1月4日アメリカに向かわせる。この時黒田を迎えたのは着任早々の薩摩藩出身の後輩、森有礼である。森は早速、黒田をグラント大統領に引き合わせ、日本の実情を説明し、北海道開拓のために技術顧問として農務局長であったケプロン他3名の技術者招聘の承諾を得る。黒田はケプロンを伴い欧米を視察して明治4年6月帰国する。黒田は欧米での滞在中に西洋での女性の存在が日本とは異なる事に強い印象を受ける。“北海道開拓に必要な優秀な若者育成には母親たる女性の教育が不可欠である”と深く感じる。森も“日本の新しい国家建設には女性の立場と役割を変革しなければならない、そのためには机上の教育ではなく将来を見据えて先ず女子を欧米の女性の様に教育することが肝要であり、すぐにでも多くの女子留学生をアメリカに寄越して下さい。”と黒田に説く。黒田は6月帰国するや、上述の如く10カ年計画を策定し、合わせて女子留学生の派遣と女子の学校設立の建議をこの予算内で処理する条件で誰の反対も無く正院で承認される。明治四年十月十日前後の事である。 

(1)五人の女子留学生とその親達の意思
右大臣岩倉具視を特命全権大使とする岩倉遣外使節団の出発日は十一月十二日(陰暦)に決まり黒田は女子留学生をこの使節団に同行させるべく即座に募集を始める。募集の条件は“期間は十年、往復の旅費・学費その他生活費一切官費で支払われ、その上年間八百弗の小遣い支給”という当時1$が約1円と考えると可成り法外な額と云える。この様な条件にも拘わらず一回目の募集の呼びかけには誰一人として応募者が無く、二度目の募集でようやく五人の女子に決まる。(明治の女子留学生―最初に海を渡った五人の少女の著者寺沢龍)によると

静岡県士族 永井久太郎養女 繁 文久元年(1861)3月20日生まれ 満10歳8か月
東京府貫族士族 津田仙弥女 梅 元治元年(1864)12月3日生まれ 満6歳11か月
青森県士族 山川与七郎妹 捨松 安政七年(1860)1月23日生まれ 満11歳10か月
東京府貫族士族外務中録 上田畯女 悌 安政二年(1855)生まれ 満16歳
東京府貫族士族同府出仕 吉益正雄女 亮 安政四年(1857)生まれ 満14歳
(上田悌と吉益亮については、その正確な生年月日は不明とある。)以上の五人に決まる。

(以後、捨松を除く四人の名前の後には“子”を付けた名前が通称となる)これ等の幼い女子が自分の意思で女子留学生に応募したわけではない事は明らかで、彼女たちの親や兄たちが決断したものであると容易に想像できる。
五人の親や兄には三つの共通点がある。一つはいずれも幕臣か佐幕藩家臣、即ち賊軍であった、二つ目は吉益正雄を除く四人には幕末に海外渡航歴があった、三つ目は女子の教育に熱心あった事等が挙げられる。ここでは彼らの渡航歴に触れておきたい。

上田悌の父、友助(後の畯)は天保年間に新潟奉行支配並定役の幕臣、1861年(文久元年)竹内下野守保徳を正使として欧州使節団に普請役として同行。福沢諭吉や福地源一郎も通弁として同行。この使節団の目的は大阪の開市、兵庫と新潟の開港の五年間延期交渉並びにロシアとの樺太国境問題の折衝であった。翌年帰国し、その四年後慶応二年(1866)小出大和守秀實を正使とする遣露使節団に再び随員として同行。この使節団には後述する山川捨松の兄、弥七郎当時は大蔵(後の浩)が正使の従者として会津藩から教育を目的に派遣され、六か月余り上田畯と寝食を共にしている。

吉益亮の父、正雄については幕末の渡航歴は見当たらないが明治二年の外務職員録には上田畯と並んで中堅処に位置している。上田畯と吉益正雄の共通点は明治に入って、黒田清隆が外務権大丞の時に二人が直属の部下であった事である。

山川捨松(幼名は咲子)が生まれる十八日前に父、山川尚江重固が亡くなり、以後山川家の長男、浩が家督として捨松の後見役になる。浩は上述の様に慶応二年(1866)会津藩命により青年藩士の教育育成のため、外国奉行大和守秀實を正使とした遣露使節団に正使の従者として同行。浩の弟、健次郎は岩倉使節団より一足先に明治四年1月4日、黒田清隆が視察のためにアメリカに渡った同じ船で、北海道開拓使の男子留学生の一人として渡航している。

永井繁子の父、鷹之助(後の孝義、鳳)は佐渡奉行の地役人であったが書と算に才覚がありその後、箱館奉行支配調役に佐渡奉行の推挙により栄転、幕臣の列に加わる。長男、徳之進(後の孝、三井物産の創始者であり初代社長)は父親の箱館奉行時代から英語を習い始め、めきめき上達し、父親の江戸詰めの時、十四歳になった徳之進は年令を偽り外国奉行の試験を受けて合格し、幕府の支配通弁御用出役(通訳官)に任命される。文久三年(1863)外国奉行池田筑後守長発を正使とした遣欧使節団に親子で同行の機会を得る。当時親子での渡航は禁じられていたが徳之進は親戚の者と偽り、父親の従者として同行。この使節団の目的は攘夷派の武士による仏国横浜駐屯陸軍士官惨殺事件の謝罪・賠償交渉であった。

津田梅子の父、仙弥(後の仙)は佐倉藩の財政を預かる勘定頭元締、禄高百二十石、小島良親の四男として生まれる。黒船来航の折には十七歳にして藩命で江戸海岸防衛に任じられアメリカの威力を目の当たりにして、これからの時代オランダ語よりは英語が大事と江戸や横浜に出かけて行って英語の勉強に力を注ぐ。やがて外国奉行の通弁に採用され、慶応三年(1867)勘定吟味役小野友五郎を正使とした遣米使節団に通弁士として同行。この使節団には福沢諭吉や尺振八も随行している。この使節団の目的は幕府が発注した二隻の軍艦の引き渡し上トラブルが発生し、その解決に向けた交渉であった。

五人の女子達は親の指示、命令とはいえ突然のアメリカ留学の話しを充分理解も出来ないままに承諾した裏には、上述の様にいずれの親も、自分の眼で欧米の開かれた文明・文化に接し、また留学の条件を知ってこれから待ち受けているアメリカでの生活が彼女達にとり現状よりは如何に素晴らしいアメリカでの生活が待っているかと熱意と自信を以って娘や妹達を説得出来たに他ならない。

(2)アメリカでの生活始 (上田悌子と吉益亮子途中で帰国)
明治5年(1872)2月29日(陽暦)岩倉使節団一行と共にワシントンに到着。男子留学生達はそれぞれの目的地に向かうが、五人の女子は兼ねてから森有礼の打ち合わせ通り、在米日本弁務使館に書記官として勤務していたチャールズ・ランマン氏のワシントン郊外ジョージタウンの邸宅に落ち着く。ランマン家には妻のアデリン夫人とランマン氏の独身の妹が居り、五人の面倒を見てくれていた。しかし二人の負担も大きく、一週間後には五人を三か所に分散して住まわせることになる。一番年下の津田梅子と横浜を出発以来面倒見の良い、気立ての優しい吉益亮子はランマン家に残り上田悌子、山川捨松、永井繁子の三人の内の二人が当時ワシントン市の市長であったクック氏の邸宅に世話になり、残る一人がアデリン夫人の妹宅かローマ字の普及で有名なジョージ・ヘボン氏の兄宅に寄宿したという説もある。この様な生活も二か月で終止符が打たれ、森有礼は自分の英国留学時代の経験から一軒家を借りて、家庭教師と料理人を雇入れて五人一緒の共同生活を始める。このやり方も一日2~3時間程度の英語のレッスン以外は自由放任状態で殆ど彼女達の英語能力向上には役に立たなかった。五人の女子の受け入れ責任者として森は事態を深刻に受け止め、男子同様にニューイングランド地区のしかるべきアメリカ人宅に預けることを考え始める。
アメリカでの生活も半年が過ぎた1872年夏頃、吉益亮子が治療中の眼の病気が一向に良くならず、帰国を申し出る。時同じく上田悌子も体調を崩し、鬱病気味になって帰国を申し出、彼女達を送り出した「開拓使」より許諾され、十月末「開拓使」のお雇い外国人の化学者アンチセル氏の夫人に付き添われて帰国する。二人の帰国に関し、森有礼から開拓使に宛てた明治五年九月二十日付け書簡が(「開拓使文書」に残されているとの寺沢龍氏の記述がある)

二人の帰国後の事は歴史からも忘れられ、記録や資料が少ないが、二人とも帰国後横浜のアメリカ人宣教師が経営するミッション・ホームで学び、吉益亮子はその後津田梅子の父・津田仙がその創立に関わる「女子小学校」(青山学院大学の前身)の英語の教師を明治八年~十三年まで努めている。明治十八年、亮子の父吉益正雄が娘の為に「女子英学教授所」を創立したが明治十九年、日本を襲ったコレラに罹り、二十九歳の若さで亡くなる。上田悌子は父親の上田畯が矢張り、彼女の帰国後の娘の為に明治五年に創立したと思われる「上田女学校」(別名万年橋女学校)があるが、彼女が帰国後この学校で教えていたであろうと推察されるが、資料は見当たらない。その後彼女は九歳年上の医者、桂川甫純の後妻に入り、二男四女の母親として昭和十四年八十五歳で亡くなっている。上記により女子達の親の共通点、“女子教育に熱心であった”事の一端が窺える。

(3)津田梅子、永井繁子、山川捨松の学生生活
津田梅子はワシントンの共同生活、仮住宅からランマン夫妻宅に戻って来たのは一八七二年十一月一日の事である。最年少の梅子の教育について森有礼も他の二人と同じ扱いは出来ないと思い悩んでいた時に、ワシントンに到着以来、共同生活が始まる迄の数か月間、梅子を預かり生活を共にした、子供の居なかったランマン夫人は梅子を我が子の様に可愛がり又愛おしく思い、森有礼に養育費は自分たちが負担するから、一年だけでも自分達に預からせて欲しいと手紙で訴える。この時ランマン氏は日本弁務使館勤務の雇用契約更新が森との折り合いが悪く、打ち切られ気まずい関係になっていたが、ランマン夫人の愛情の籠った熱烈な申し出に対して、森は一年間という条件で梅子をランマン夫妻に託する事に決める。ランマンはその四年後、森の後任吉田清成公使の秘書として再び日本公使館(弁務館の後身)に六年間勤務する。当初の一年間の約束は梅子が日本に帰国する迄の十年間ランマン夫妻宅で過ごすことになる。チャールズ・ランマンは「ウエブスター伝」等数多くの著述を残して居り又自然を愛し、山野を駆け巡り、魚釣りや絵画を趣味に持つ教養ある文化人であり、「米国在留日本人留学生」等の著述あり、大変な親日家であった。アデリン夫人も実業家の裕福な家に生まれ、教養に富み他人の面倒見が良く愛情こまやかな人であった。

この様な二人の元で梅子は時には厳しく勉強の指導を受け、時にはテニスなどスポーツに精を出し、旅行にも連れていってもらい、仔羊の様に快活だったと夫妻は述べている。一八七三(明治六年)ジョージタウンの私立小学校、カレッジエイト・インステイチュートに入学とある。(寺沢龍の「明治の留学生」)一学級十名前後の百名ほどの規模だが町では評判の高い学校だった。
一八七八(明治十一年)アーチャー・インステイチュート(高校)に入学。この女学校はワシントン市内マサチューセツ街に建てられた私立学校で、生徒も百人程だが教師には優秀な人材を揃えていた。梅子はこの学校では普通学科の他に心理学、星学、英文学の他、語学としてフランス語、ラテン語を学び、音楽や絵画も習った。梅子は特に数学が得意で、語学なども米国の少女以上に優れていたと教師も認めている。梅子は更に読書欲が旺盛でランマン家の蔵書を片っ端から読み漁り、特にウオーズ・ウオース、バイロン、テニスン等の詩は暗唱し、シェークスピアの戯曲さえその頃読んでいたという。日曜日ごとにランマン夫妻と一緒にジョージタウンの聖公会堂に行き、教会の日曜学校にも通っていた。日本でキリスト教の禁制が解かれた明治六年四月頃、梅子は自ら夫妻に願い出てキリスト教の洗礼を受けている。クレヴァーで健康的に育ってゆく梅子をランマン夫妻は日出る国から来た“Sun Beam」と呼んで愛おしんでいた。

永井繁子と山川捨松の二人は一八七二年十一月、エール大学に留学中の捨松の兄、山川健次郎が住んでいるコネチカット州、ニューヘイヴンのレオナルド・ベーコン牧師宅に寄宿することになる。二人の寄宿先を決めるに当たり森有礼は旧知のコネチカット州教育委員長のバージイ・ノースロップ氏やエール大学在学中の山川健次郎に相談している。ベーコン牧師は既に七十一歳の高齢であったが四十年間ニューヘイヴンの組合派のセンターチャーチの牧師を勤め、その当時はエール大学の神学校で教壇に立っていた。奴隷解放の運動家でもあり、ベーコン牧師の書いた「奴隷制度の悪」をアブラハム・リンカーンが大統領選挙に出馬した時、参考にして選挙演説を行ったというエピソードが残されている。ベーコン家の家族は先妻との間に生まれた九人は長女で独身のレベッカを除き、皆独立し、二度目の妻との間の五人の子供達と同居していた大家族の家であった。末娘のアリス(14歳)とは捨松は直ぐ仲良しになり、生涯の友となり、二度に亘り来日し、その後の津田梅子の「女子英学塾」創立の最大の協力者となる。経済的には必ずしも裕福でなかったが信仰心の篤い厳格な家庭環境で、ベーコン夫人の熱心で愛情に満ちた厳しい教育指導により、捨松は米国人の少女に劣らない学力を身に着け知性と品性に富んだ娘に成長していく。。一八七五(明治八年)九月男女共学の公立高校のヒルハウス・ハイスクールに入学、同校を一八七八(明治十一年)卒業し、同年九月ニューヨーク州ポキプシーのヴァッサー・カレッジ四年課程の普通科に入学する。

永井繁子は一週間ばかりベーコン牧師宅に捨松と一緒にお世話になったが、日本人二人が一緒では英語の勉強に支障を来すと、ベーコン牧師は友人で隣町のフェアヘイヴンに住むジョン・アボット牧師宅に繁子を託する事にする。アボット牧師は当時67歳で著述家としても有名で「賢母論」や「ナポレオン一世伝」など出している。アボット家には夫妻の他に当時35~36歳の独身娘、エレンが同居して居り、繁子は彼女を実の姉の様に慕い、彼女も繁子を妹の様に可愛がった。繁子にとりアボット家に寄宿したことが実はその後の人生に幸運を齎したと云える。アボット家の同じ敷地内に私学の「アボットスクール」を経営していた事もその一つである。初等科(一年)、本科(二年)、高等科(四年)という

本格的な中高一貫校でエレンが校長を務め、アボット夫人も国語と自然科学を教えた。そしてこの学校で一台の洋琴(ピアノ)に巡り合う。器楽・声楽の専任教師が居て、繁子は熱心にレッスンを受けていた。このピアノとの出会いが実は繁子の後半の人生を決定づける事になる。更には築地海軍兵学寮出身でアメリカのアナポリス海軍兵学校に入学するためにニューヘイヴンのピットマン家に寄宿して受験勉強中の瓜生外吉とピットマン夫人の紹介で知り合い、お付き合いの中で二人の愛は育まれやがて二人は将来を誓い合う仲になる。アボットスクールでのバランスが取れた教育が功を奏し、一八七八(明治十一年)捨松(普通科・四年制)と同じ、1861年醸造家のマシュー・ヴァッサーによって創立された女子大学、ヴァッサー・カレッジの芸術学部音楽専攻(三年制)に見事合格する。二人は全寮制の中で部屋は隣同士となり、お互い励まし合いながら日本の事や将来のことなど語り合う。彼女達の人生において最も楽しい希望に満ちた学生生活であった。繁子の音楽専攻科はクラシック音楽の修業と最高の教養としての音楽を身につける事が理念として謳われているが、専門科目以外に一般科目として仏語、仏文学、数学、英作文など受講している。捨松は普通科の教養課程で仏語、ラテン語、英作文、歴史、哲学、植物学、数学、専門課程は物理学、生理学、動物学などを受講している。繁子は一八八一(明治14年)6月卒業式を迎える。音楽科在籍者27名中卒業出来たのは6名で内二人は繁子の入学の以前に入学した者で実質、4名の中の一人であった。
フィアンセの瓜生外吉もアナポリス海軍兵学校を71名中26番目の成績で卒業し一足早く、繁子の卒業証書を携えて、帰国し、繁子の兄、益田孝(三井物産・社長)に卒業証書を手渡し、二人の結婚許可を願い出ている繁子は一八八一(明治14年)10月帰国する。

この年、日本政府より約束の年が過ぎるので三人に帰国命令が出る。繁子は帰国予定で問題はなかったが、捨松と梅子はそれぞれもう一年で大学と高校が卒業出来るので、一年間の留学延長を嘆願して、許諾される。捨松はこの大学でも同時期に入学した38名中、成績は常にトップクラスで二年時はクラス委員長に選ばれるなど、人気者であった。一八八二(明治15年)6月大学の晴れの卒業式を迎え、38名中、10名が来賓の前でスピーチの栄誉に与かるが、捨松はその一人に選ばれる。捨松の演題は「イギリスの日本に対する外交政策」で“会場からの拍手と喝采の声場内に震動し余響暫く止まざりし”と一か月遅れて日本の朝日新聞もその時の様子を報じている。(「明治の女子留学生」寺沢龍)
津田梅子も同じ時期にアーチャー・インステイチュートを無事に卒業した。同校から受けた「学業成績証明書」には「ミス・ツダはラテン語、物理学、数学、天文学、仏語に極めて優れた成績を修めた。彼女の学んだ全てに明解な洞察力をあらわした」と記されている。(「明治の女子留学生」で寺沢龍)
一八八二(明治15年)山川捨松と津田梅子は十一年ぶりで日本への帰国の途につく。
日本までは京都に帰任する同志社英学校の教師デーヴィス夫妻に伴われ、また途中のシカゴまではランマン夫妻、デンヴァーまではアリス・ベーコンが同行、見送ってくれた。その道中も捨松、梅子、アリスの三人は将来の夢である、自分達がアメリカで受けた教育を日本の女子達にも分かちたいと、学校創りについて時間の経つのも忘れて夜通し話合った事であろう。彼女達を乗せたアラビック号が横浜に入港したのは十一月二十一日の朝である。

(4)帰国した三人はそれぞれ異なる人生の道を歩み始める

<永井繁子>

明治十二年、文部省の中に「音楽取調掛」が誕生し、お雇い外国人としてボストンの音楽アカデミーで学んだメーソンが明治十三年に来日、正に音楽教育が本格的にスタートした時期にあった。繁子は明治十五年三月文部省音楽取調掛の洋琴教師として採用され、年俸三百六十円という、当時日本の中で最高給取りになる。捨松と梅子の帰国を待って予てから婚約中の海軍中尉・瓜生外吉と永井繁子は明治十五年十二月一日質素な結婚式を挙げ、結婚披露宴は年が明けた明治十六年一月一月品川御殿山の兄・益田孝邸で行われた。二人の新婚生活は“国費による留学生そしてクリスチャン”であるという共通の絆で結ばれ、他人が羨むような温かい家庭で帰国子女達のオアシス的存在であった。その後二人の間には生涯四男三女の子供達に恵まれ、繁子は産休を挟みながらあの時代には珍しかった、主婦業との二足の草鞋掛けで明治三十五年に東京女子高等師範学校を退職するまでの二十年間、洋琴と英語の教師を続ける。その間、幸田延や市川道、小山作之助と云った明治後期の音楽界の指導者達を育てた。明治三十一年繁子は「従六位」に叙されている。瓜生外吉も海軍軍人として日清・日露戦争の功により、最終的に大正元年十月海軍大将に昇進、翌年に現役を退き予備役となる。以後は二度に亘り日米親善目的で、日本政府から指名受け夫婦で訪米を果たしている。繁子は昭和三年十一月三日大腸がんが原因で六十七歳の生涯を閉じる。夫の外吉は引退後持病の膠原病に悩まされ続けるが、周囲の温かい介護の元、昭和十二年八十歳で亡くなる。

<山川捨松>
捨松が帰国した当時の山川家の実情は、長男の浩は谷干城の勧めで陸軍に入隊し、佐賀の乱、西南の役での功労により、陸軍大佐に昇格して居る。次兄の健次郎も東京帝国大学理学部教授になっていたし、長姉の双葉は東京高等女子師範学校の舎監の仕事をし、ロシアから帰国した次姉の操もフランス人の通訳として活躍。それぞれ社会的に恵まれた仕事についていたとはいえ、会津戦後、斗南藩から山川家を頼りにする浪人が増え、経済的に面倒をみなければならず、苦しい台所事情であった。捨松は帰国早々、この様な家庭の実情を察知し、一日も早く、仕事を見つけなければと思い、梅子と共に文部省通いに明け暮れの日々を過ごす。彼女達をアメリカに送り出した北海道開拓使は既に廃止され、窓口は文部省に移っていた。送り出した当時の責任者、黒田清隆もある事件で政治の一線から身を引き、相談相手も無く、途方に暮れるばかりであった。そんな時、文部省から東京高等女子師範学校の生物学、生理学の教師で年俸六百円という破格の条件の話が舞い込むが、二週間後の着任という条件に未だ日本語で教壇に立つ自信が無く断る。この時期捨松は一人“何のために自分はアメリカで教育を受けたのであろう”と悩む。そして少し前から話があった縁談について真剣に考え始める。繁子の結婚披露宴があった明治十六年一月に繁子の兄、益田孝から招待受けて参加していたある男性から、山川家に結婚の申し込みがある。結婚申し込んだ男こそ、会津戦争で敵方の指揮をとった薩摩藩士、その当時は参議・陸軍卿大山巌、四十二歳で捨松より十八歳も年上であった。山川家として頑なに断り続けるが大山巌の従兄弟に当たる、西郷従道が間に入り、兄・浩を説得し、捨松が納得するという条件で受ける。捨松も三か月間の交際期間を経て、母親を亡くしたばかりの幼い三人の子供とこの男性の幸せの為に生涯を捧げる決意をする。大山巌夫人となって以降の捨松は公の人として鹿鳴館の貴婦人として、時にはニュウーヘイヴン時代のヒルズ・ソサエテイの経験を活かしたバザーの開催や篤志看護婦人会の理事として、又華族女学校の設立準備委員として活躍する。しかし彼女にとり自分が先頭に立って“女子の為の学校創り”をすると梅子やアリスとの約束を反故にして結婚に踏み切ってしまった負い目と屈折した思いを持ち続け、梅子が実現する「女子英学塾」への支援を亡くなる寸前まで惜しまなかった。大山との間に生まれた二男一女、合わせて六人の母親として又、最後は大山元帥、公爵夫人としての生涯は巌の死の三年後大正八年、当時流行したスペイン風邪が原因による突然死で閉じる。享年五十九歳であった。

おわりに(津田梅子、夢の実現)
五人の中で一番地味だが「日本初めての女子留学生」の象徴として誰にでも馴染みの津田梅子の「夢・女子英学塾創立」への道のりが独力で行われたわけでなく如何に多くの支援者が梅子の周りに居たかについて触れ、本稿の締めくくりとしたい。「女子英学塾」の創立は「高等女学校令」と「私立学校令」が公布された年の翌年、明治三十三年七月の事である。梅子が最初の留学から帰国して十八年経過していた。帰国した当初は日本語の読み書きは勿論話すことも出来ず、我が家でも父親・仙の通訳なしには何一つ通じない不便な生活を強いられ、右も左も分からない様な女子に適当な仕事など待っているはずは無かった。捨松と共に仕事探しの毎日であったが、帰国して一年過ぎた頃、明治十六年十一月三日井上馨・外務卿の官邸で行われる奉祝の夜会に父・仙と共に招かれる。そこで岩倉使節団に同行した際、梅子達がお世話になった、伊藤博文に再会し下田歌子の紹介を受ける。この再会こそ、梅子に英語教師の切っ掛けともなる、「華族女学校」(女子学習院の前身)に伊藤の推薦で教授補に採用される。自分の進路を決心する契機となる。この時、梅子は前途に明るくさしこむ光を感じたに違いない。やがて教職を続ける中で梅子は華族女学校の生徒の態度に飽き足らない思いが募り、女性も男子同様、経済的・社会的自立の為にしっかりとした収入を得なければならない。その為には教職の道が適しており、教育により女性教師を育成する為の学校創りこそ自分が目指すべき道であると強く思い始める。より良い学校創りには梅子自身が高度教育を修める必要性を感じ、二度目の留学、ブリンマー・カレッジへの道に繋げる。梅子には不思議な「力」というべきか、人との交流を大切にし、次から次へと交流の輪が広げて行く術を身に付けていたのではないだろうか。梅子が第一回目の留学時に父・仙の関係で知己を得たフィラデルフィアの富豪、メアリー・モーリス夫人がその後、二度目の留学の決め手になる、ブリンマー・カレッジ学長へ梅子の思いを伝えてくれ、学費と寮費の無償提供を受ける。「日本婦人米国奨学金」の基金を作ってくれ、後の「女子英学塾」創立時の資金集めにフィラデルフィアでネット・ワークを組織化してくれるなど、この人との出逢いが無ければ夢の実現など不可能であったと思う。更には捨松がニューヘイヴンで寄宿したベーコン家のアリス、並びにアリスと入れ替わりに来日したアナ・ハツホーン達の存在なしには梅子の夢・実現については語れない。帰国以来、日本語が不自由で自分の母親にも相談できない時、いつも手紙で心情を語り、時には怒りをぶつけてきたアデリン・ランマン夫人の存在も梅子の夢の実現に精神的に大きな支えであった事を忘れてはならない。また、学校の資金繰りや経理面から「女子英学塾」創立時梅子を支えた姉琴子の夫、上野榮三郎の存在も大きかったと云える。父・津田仙は青山学院大学の前身、「女子小学校」や「海岸女学校」等の創立に関わっているが、娘の梅子が苦労して「女子英学塾」創立に漕ぎつける過程で何故か仙が資金面、運営面で協力したという、記述が見当たらないのが不思議である。梅子の創立した「女子英学塾」は大山捨松を顧問に、法人化した折には理事に、そして新渡戸稲造を相談役に迎え、地道な拡大を図ってゆく。明治四十年頃から梅子は持病の喘息や糖尿病で入退院を繰り返し、授業も欠席しがちになる。学校運営はアナ・ハツホーンや教え子の辻マツや星野あい等が当たり、順調に発展していく。昭和十二年の関東大震災では壊滅的な被害を受けるが、アナ・ハツホーンを中心とした社員の努力で徐々に復興を遂げる。梅子の病気は回復することなく、新学校用地として買い求めた小平村の地への新校舎の完成を見ることなく、昭和四年八月、鎌倉にて六十四歳の生涯を静かに閉じた。枕もとの手帳には「金曜日十六日Storm last night」の一言が残されていた。(「津田梅子」大庭みな子著)

津田梅子は女子の高等教育を目指して頑固なまでに初心を貫き独身を通し、直向きな努力を続けたその最後の目標はやはり人間をつくることであった。(「津田梅子伝」吉川利一著)女子英学塾は戦後津田塾大学へと発展し、彼女の目指した精神は今でも受け継がれている。

参考文献

*津田梅子関連・「津田梅子伝」吉川利一著 津田塾同窓会出版
「津田梅子」大庭みな子著 朝日新聞社出版
*山川捨松関連・「鹿鳴館の貴婦人 大山捨松」久野明子著 中立文庫出版
*永井繁子関連・「舞踏への勧誘日本最初の女子留学生~永井繁子の生涯~」生田澄江著 文芸社出版
*その他・「明治留学生~最初に海を渡った五人の少女~」寺沢龍著 平凡社出版

以上

 

 

 

岩倉使節団の意味を問う:3月度セミナー開催報告「明治14年の政変」

日時:2022年3月29日 10:00 ~12:30
場所:ZOOM
講師:小野博正
内容:明治14年の政変

憲法制定への手法で漸進主義派と急進主義派が対立して自由民権派が政界から一掃され、結果、薩長政権が確立した政変。

1・憲法制定・国会開設をめぐる急進派と漸進派の争い 漸進派勝利
2・薩長派閥内での、勢力闘争と伊藤博文の台頭・薩摩優和政策 薩長閥確立
3・大隈積極財政と松方など緊縮財政派の抗争 積極財政派大隈の敗退
4・天皇親政派と自由民権運動阻止の動き 民権・親政より安定国家を優先
5・井上毅の台頭(岩倉、大久保、伊藤の憲法論に影響)国会開設の詔
6・岩倉使節団の意味で考えると、岩倉・木戸・大久保の憲法観を継ぐ伊藤博文の政権確立への道
漸進的な天皇国体の確立、ドイツ方式、大日本帝国憲法

・明治14年政変の概要
明治10年の西南戦争で西郷隆盛が自死し、その最中に木戸孝允が病死、明治11年には、有司専制で絶大なる政治力を振るった大久保利通が紀尾井坂の変で暗殺されると、伊藤博文が大久保の内務卿を継いで、参議大蔵卿の大隈重信と並走して大久保後の政権を担っていた。明治13年頃から、国会開設の請願運動が、自由民権運動家を中心に活発化、政府も放置できなくなり、政権内でも国会開設に関する各参議の意見書が求められて、山県、井上、黒田、伊藤等が意見書を寄せる中で、明治14年3月になって最後に出した大隈重信の意見書が天皇に直接見せて欲しとの密奏の形をとろうとした。それを有栖川宮が三条・岩倉に見せ、内容に驚いた岩倉が伊藤に見せて相談する。内容は、明治15年に憲法を作って、明治16年には国会開設を主張した急進的なものでかつイギリス議会制度を目指したものであった。岩倉と伊藤博文は、使節団に司法省から参加した井上毅意見書の影響もあり、漸進的に時間をかけて、日本の歴史風土に合う憲法を創るべきと考えており、それは亡くなった大久保や木戸の憲法論とも同一歩調であった。イギリス、フランス、ドイツ、その他の諸西洋諸国の現状を見てきた使節団は、ブロックやグナイストらの訪問先で逢った先哲の、自然法論の自由・平等思想は急いで導入すべきではないとの慎重論の影響もあり、自由民権運動には警戒感が強く、イギリスの議会も王権を抑えようとしていた時期でもあり、民選の国会で天皇の地位が脅かされる事態を恐れて慎重であった。
伊藤は積極財政で外債発行など主張の大隈にも付いていけないものを感じ、時あたかも黒田清隆の北海道開拓使官有物払い下げ問題(1400万円の官有物が38万円で、薩摩系、関西貿易商社=五代友厚所有へ30年賦無利子払下げ)が、新聞に暴露したのは、反対していた大隈ではないかと疑って、大隈と大木喬任が東北天皇巡幸の留守中に、閣議決定で大隈罷免を決め、それを、天皇帰京を千住駅で待ち構えて岩倉が天皇に上奏した。(払下げは、天皇行幸出発の7月30日裁可済みであった)
天皇は、さっきまで一緒だった大隈の罷免なので、それは本当か?確証がないが、本当です。さもないと内閣が崩壊しますとの問答の末、大隈が納得するならと了解する。
伊藤と西郷従道が早速、大隈説得に当たり辞任を求めるが、大隈は明日決めると二人を返し、翌日、天皇に会おうと有栖川宮を訪れるが門伝払いされ、万策尽きて、辞職を認めた。大隈の辞職で、自由民権派の官僚が大挙して下野したので、残ったのは必然的に薩長中心の政権となった。政変の翌日には、「国会開設の詔」が出され、漸進主義の確認と、明治23年までに憲法制定と国会開設を約束する。急進的民権議論へ脅しとも言える警告も添えていた。民権派にとっては、霹靂の一閃である。これが明治14年の政変の全貌である。

・政変後下野した人物の顔ぶれ (民権派の後退、福沢門下生の一斉下野)
大隈重信(参議)河野敏鎌(農商務卿)佐野常民(大蔵卿)前島密(駅逓総監)
矢野文雄(統計院・太政官大書記)犬養毅(統計院権書記官)小野梓、
牛場卓蔵、大隈英磨、尾崎行雄島田三郎、田中耕造、津田純一中野武営、
中上川彦次郎、牟田口元学、森下岩楠等々。

その結果、小野梓・高田早苗(鴎渡会系)、矢野文雄・尾崎行雄(三田系)沼間守一(嚶鳴社系)河野敏鎌・牟田口元学(修進社系)は共同して、地方自治の基礎を建つること、選挙権を浸潤すること、外国に対し,勉めて政略上の交渉を薄くし、通商の関係を厚くすることを主張し、自由党(板垣退助)と一線を画した。板垣は洋行費用問題で、明治15年自由党を辞任した。

・政変後の内閣の顔ぶれ(薩長政権の色彩が強まり、伊藤政権への道へ)
伊藤博文(参議兼参事院議長)井上馨(参議兼外務卿)山田顕義(参議兼内務卿)
山県有朋(参議兼参謀本部長)黒田清隆(参議兼開発長官)松方正義(参議兼大蔵卿)大山巌(参議兼陸軍卿)
川村純義(参議兼海軍卿)西郷従道(参議兼農商務卿)福岡孝弟(参議兼文部卿)佐々木高行(参議兼工部卿)大木喬任(参議兼司法卿)
寺島宗則(参議兼元老院議長)

翌明治15年、黒田清隆は参議・開拓長官を辞職、内閣顧問に退き、開拓使も2月に廃止。北海道は三県(箱館、札幌、根室県)分割。薩摩閥領袖・黒田の後退で、伊藤中心の長州閥の優勢が確立する。薩摩閥には、政権に拘る人物が他にいなかったこともある。黒田は後に復帰する。
伊藤博文は元老院改革(議官は華族中心、議官増員の見込示唆)と、更に参事院新設(法制、会計、軍事、内務、司法、外務を太政官制で廃し、法案の起草、審査、地方官と地方議会との調整、立法事務、行政事務を担い、元老院に対する優越的権限を盛った。ナポレオンの参事院に真似た、後の内閣法制局となる。憲法制定への前段)
伊藤博文は参事院議長となり、名実内閣のトップとなり、井上毅議官が補佐となった。

いずれにしても、明治14年の政変は伊藤博文体制の確立と、その後の憲法制定までの明治政府の道のりを約束したのである。大隈は、取りあえずは嘗ての盟友・伊藤博文に後を託して、一旦政界を離れたと言うべきだろうか。

レジメより抜粋

文責 吉原

 

岩倉使節団の意味を問う:2月度セミナー開催報告「明治6年の政変」

日時:2022年2月26日 10:00 ~12:30
場所:ZOOM
講師:小野博正
内容:明治6年の政変

  • 明治6年の政変は、通説ような「征韓論政変」でもなく、「内治派」と「外征派」の抗争でもありえない。
  • 西郷の朝鮮への平和的特使派遣を、否認されれば辞任するとの西郷の覚悟を聞いて、大久保を除く全閣僚が賛成に回り、一旦正式に閣議決定された。岩倉、大久保の圧力もあり、再閣議を考える三条に対し、早く上奏せよと迫る西郷と、そのまま上奏ならと辞表を突き付けた大久保、木戸、岩倉ら外遊組との間に立った太政大臣三条が突然人事不肖に陥る。
  • その事態を利用して、外遊組が、大久保日記にある「一の秘策」を発動させて、黒田清隆、吉井友実(宮内大丞)の人脈を使って朝廷工作を行う、明治天皇がわざわざ三条を見舞い、岩倉邸を訪れて、岩倉太政大臣執行を命じるという、前例のない事態の逆転があった。
  • その結果、岩倉は、西郷の特使派遣の内閣決定を上奏する一方で、自分は西郷が決死の覚悟でまさかの事もあり得るので反対であると意見を述べて、天皇の勅命は、西郷特使派遣の無期延期が決まり、それに対し西郷は参議、陸軍大将、近衛都督辞任と位階返上を申入れる。参議・近衛都督辞任は認められるが、陸軍大将と、階位はそのままとなり、西郷は去り、同時に全参議は、責任辞任することとなる。
  • その直後に、改めて大久保、木戸、大隈、大木の再任参議と、新参議に伊藤博文、寺島宗則、勝海舟が選ばれる。これが、明治6年政変の事実関係である。
  • 若し逆転劇がなければ、岩倉使節団の外遊中に得た知見による「この国のかたち」の実現は、遅れたか閉された可能性もありうる。従って、結果論から見ても、ある種の陰謀説も考えられる。果たしてどうだろうか。

大久保の帰国後の国家構想も考えてみたい。

1・明治6年の政変を「征韓論政変」と、ほとんどすべての歴史家や識者は呼ぶけれどもそれはあり得ない。
 当時「韓国」という国は存在しなかった。「李氏朝鮮」(1392-1897)
 大韓帝国(1897-1910) 大韓民国(1948-)
 政変のきっかけとなったのは、西郷の平和的朝鮮派遣の是非問題であり、西郷に朝鮮征伐の意図はなかった。
 一次資料の全ては、朝鮮征伐か、朝鮮派遣、朝鮮派遣延期の言葉はあるが,征韓の言葉は、全く存在しない。にも拘らず、すべての歴史家・識者は「征韓論」という。 二次資料からは、すべて征韓論に統一されている。歴史家もすべて、これに従って疑わないことの不思議。歴史とはこんなものです。実態は魑魅魍魎。

レジメから抜粋

文責 吉原

 

 

歴史部会:11月度部会報告「使節団が外国で会った日本人」尾崎三良/富田鉄之助/西園寺公望

日時:2021.11.23 10:00~12:30
場所:ZOOMによるオンライン開催
内容:使節団が外国で会った日本人
1.尾崎三良(おざきさぶろう)1842-1918京都留学生
三条実美の家人龍馬の「新官制議定書」草案起草 国際結婚男爵
仁和寺宮諸太夫・尾崎陸奥介(盛之)の三男として京都に生まれる。若くして両親と死別し、学問への志を持ちつつも16歳で烏丸家、のちに冷泉家に仕えた後,三条実美に見込まれて、元家人の戸田氏の養子となり、実美の家人となる。文久2年(1862)、孝明天皇の勅使となった三条実美に随従して江戸に赴き、翌3年の八月十八日の政変で三条ら過激派公卿が京都を追放され七卿落ちとなると、随行して長州に落ちのびる。
慶応元年(1865)、三条と大宰府に移る。その間、撃剣・乗馬を習い、読書を積んだ。「戸田雅楽」の別名で、三条の名代で、西郷隆盛など尊皇攘夷派との連絡役を務め、公卿の臣下や諸藩の人士との交流で攘夷論から開国論へと目覚める。慶応3年(1867)、長崎で米国領事や坂本龍馬と深交を結び、大政奉還の策を協議して岩倉具視に建策する。龍馬や陸奥宗光らと土佐や京都へ奔走し、慶喜の大政奉還の報を龍馬と同席の場で聞いている。直後、西郷隆盛らと太宰府に戻り、事態を三条実美に報告した。龍馬の「新官制議定書」は尾崎三良の起草で、総裁、議定、参与三職制の先駆をなす。維新後、実家の尾崎氏を継ぎ、「尾崎三良」と称する。慶応4年(1868)、三条の嫡男・三条公恭の従者として、中御門寛丸、毛利元功とその従者一行8名で渡英する。

英国でオックスフォード大学聴講生として英法を習得する。ロンドンで、岩倉使節団が米国で条約交渉開始したと知り危機感を覚えて渡米、木戸孝允と岩倉に面談し、条約交渉時期尚早と献策して寺島宗則と共にロンドンに戻る。ロンドン留学中、三良は英語教師のウイリアム・ウイルソン家に同居し、その一人娘・バサイアと明治2年に結婚し、三女を儲けたが帰国時離婚した。明治6年(1873)、木戸の要請で帰国、太政官に出仕して法制整備の任に当たる。明治13年(1880)、ロシア駐在一等書記官として,公使・内務大丞を歴任。明治18年(1885)元老院議官として大日本帝国憲法の審議にあたる。明治23年(1890)の帝国議会発足と共に貴族院議員に勅選され、翌年成立の第一次松方内閣の法制局長官を務める。後に田口卯吉の帝国財政革新会の結成を支援する。明治29年男爵。明治40年には宮中顧問官。晩年には文部部省維新資料編纂委員を務める一方、泉炭鉱会社社長、房総鉄道監査役など実業界にも入り、朝鮮の京釜鉄道設立に参画し取締役も務めた。内閣制度発足時、三条の政治的復権を画策したが成らず。新聞紙条例(1875)や保安条例(1887)の起草に当ったことから酷吏の評価もある。英国で育って16歳で来日した娘・テオドラは尾崎行雄の後妻になり、その娘に相馬雪香がいる。
(2015・4・27『日本の近代16―日本の内と外』-伊藤隆、他)
担当:栗明純生

2.富田鉄之助(とみたてつのすけ)1835-1916
仙台留学生在米領事心得、外交官、日銀二代目総裁、政治家にして実業家と多彩な人生仙台藩の重臣富田実保の四男として仙台城下に生れる。安政3年(1856)、藩命により江戸に出て砲術を学ぶ。帰国して藩講武所の助手となるが、再び江戸に遊学して勝海舟の氷解塾に入る。慶応2年(1866)同門の高木一二郎を連れて、慶応義塾に遊学し、仙台藩士・大條清助の入塾を斡旋する。慶応3年(1867)勝の息子・小鹿のアメリカ留学に随行して渡米して、のちにお雇い外国人として日本に複式簿記を広め、商法講習所の教授にもなるW.C.ホイットニーのニューアーク商業学校で経済学を学ぶ。この間に戊辰戦争となり、仙台藩が朝敵となったので一時帰国するが、勝の薦めで再渡米し、新政府の正式留学生に認定される。岩倉使節団と米国で知遇を得て、ニューヨーク領事心得(のちに副領事)に任命され明治新政府の外交官となる。

2年後帰国して、福澤諭吉の媒酌で杉田玄白の曾孫・杉田縫(杉田玄瑞の娘)と日本で最初の契約書結婚をなす。その後、清国上海総領事に任じられるが、目賀田種太郎ら、米国留学経験者と「人力社」を創設し啓蒙運動にもあたる。後に駐英公使館書記官に任命され日本の近代化への努力を各方面に説いて回った。明治14年(1881)英国から戻ると世界経済に関する知識を買われて大蔵省に移る。翌年、日本銀行が創設されると、初代副総裁に任命されて、総裁の吉原重俊を助けるが、明治20年(1887)吉原総裁の急死で、明治21年、第二代日銀総裁となる。在任中は、公定歩合制度を確立して、その弾力的運用で、変動の激しかった経済の安定に努め、外国為替を整備し、日本銀行の中央銀行としての基礎作りに尽くした。ところが、横浜正金銀行に対する外国為替買い取り資金の供給をめぐって、大蔵大臣・松方正義と衝突し、松方の政治的圧力にも屈せず持論を改めなかったので、1年7か月後に罷免された。この経緯は『忘れられた元日銀総裁―富田鉄之助伝』(吉野俊彦)=この真に尊敬できる人物を知り得たことは、この上ない幸せ=に詳しい。富田は、帝国議会が始まると、貴族院勅撰議員に、東京府知事を経験、明治26年退官後は、実業家に転身、日本勧業銀行、富士紡績、横浜火災海上保険(社長)の設立に参加し、日本鉄道理事など歴任。自己の蓄財に関心なく、私財を投じ共立女子職業専門学校の設立への支援や大槻文彦らと仙台市立東華学校の創立や学資支援などを行った。享年82歳。
日清戦争や政・財・工の藩閥人事を生涯批判した。「情熱こそ学問」が信念の人。
(2015・4・18富田文書、『忘れられた元日銀総裁』―吉野俊彦、他)
担当:吉原重和

3.西園寺公望(さいおんじきんもち)1849‐1940公家留学生
最後の元老明治・大正・昭和の政界を駆け抜ける国際協調派
清華家の徳大寺公純の次男として京都に生まれる。嘉永五年(1852)西園寺師季の養子となる。徳大寺家も西園寺家も共に、藤原北家閑院流系の同属。
慶応3年(1868)官軍参与、明治元年の戊辰戦争では、山陰道鎮撫総督、東山道第二軍総得、北国鎮撫使などを務める。明治2年私塾立命館を創設するが、明治3年政府の干渉で閉鎖に追い込まれる。同年大村益次郎の推薦で官費フランス留学生(年間1400ドル)として渡仏、ソルボンヌ大学に学ぶ。岩倉使節団とは、このパリで会っている。パリ・コンミューンにも遭遇している。ソルボンヌ大では政治学のエミール・アコラスに学び、政治家への道を薦められる。後に、フランス首相となるクレマンソウや、中江兆民、松田正久、光妙寺三郎(長州藩費仏留学生)らと親交を結ぶ。明治13年(1880)帰国した翌年にフランスで知り合った中江、松田、光妙寺等と『東洋自由新聞』を創刊し社長・主筆となる。明治15年の伊藤博文の憲法調査に随行して渡欧し、以降伊藤の腹心として政界に重きをなす。第二次伊藤内閣にて文部大臣として初入閣し、外務大臣も兼任する。第三次伊藤内閣でも文部大臣を務め、第四次伊藤内閣では班列として入閣し、伊藤博文が病気療養中は内閣総理大臣臨時代理となり、のちに伊藤が単独辞任すると内閣総理大臣臨時兼任を務める。その後、伊藤の立憲政友会の総裁に就任して、明治39年(1906)内閣総理大臣に任じられ、第一次西園寺内閣、第二次西園寺内閣を組閣した。この時代、西園寺と桂太郎が交互に政権を担当したことから「桂園時代」と称された。その後は、首相選定に参画するようになり、大正5年(1916)に正式な元老となる。大正13年に松方正義が死去した後は「最後の元老」として大正天皇、昭和天皇を輔弼し、実質的な首相選定者として政界に大きな影響を与えた。

政治家として西園寺は聡明で国際的視野を持ち、学識が深く、文化的にも洗練された人物であるとの評価が大勢である。また民主主義の潮流は支持したが、大衆の熱狂には批判的であった。親欧米的で、軍部などからは国家主義に反する「世界主義者」と見做されていた。宮中・財界などの姻戚関係を背景に、元老として宮中と国務、軍部の調停役をつとめ日本の政治をリードし続けた。明白な国際協調派で「東洋の盟主たる日本」という狭い気持ちでなく「世界の日本」に着目した。又、天皇の親政には反対し続けた。
教育では、勅語の『忠孝』『愛国』のない、「第二次教育勅語」の改定に挑み、女子を含め日本臣民が列国国民と対等に対応できるのを目標にしたが、伊藤の反対で実現せず。
京都帝国大学(明治27年)、明治法律学校(明治大学の前身)、日本女子大学創設に協力した。生涯正式結婚せず、4人の内妻を持った。学芸を愛し、文化サロン『雨声会」では、鴎外、露伴、藤村、独歩らと交遊した。(2015・5・13)
担当:泉三郎

文責:吉原重和

 

歴史部会:10月度開催報告「使節団が外国で会った日本人」

日時:2021年10月26日(火)10:00~12:30
場所:ZOOMに依るオンライン開催

内容:1.吉田清成 薩摩藩(担当:村井智恵)
弘化2年2月14日(1845年3月21日)〜明治24(1891)年8月
岩倉使節には後発の大蔵理事官としてアメリカにやってくる。薩摩藩士吉田源左衛門の四男。吉田巳之次、通称は太郎。留学時の名前は永井五百介、洗礼名はジョン・ウェスリー(John Wesley)。新政府要人の多い薩摩藩の三方限(さんぽうぎり= 上之園、高麗、上荒田)の上之園町出身。妻は貞(貞子)といい、安政3年8月(1856年9月頃)東京生れで志村知常(明治5年の製鉄寮名簿で「製鉄大属、神奈川県人」とある)二女。

明治20年5月華族、子爵授与。
元治元年(1864)に開設された薩摩藩洋学校・開成所で蘭学英学を学び、同2年の留学生としてイギリスに密航留学する。ユニバーシティ・カレッジ・オブ・ロンドンで約2年就学したが、藩からの費用獲得が難しくなったことから、前年に鮫島尚信と訪問していたアメリカのトーマス・レイク・ハリスの教団に参加した。畠山義成、松村淳蔵、長澤鼎、森有礼、鮫島尚信が同行した。しかし、新興宗教リーダーだったハリスの教義への疑問等から同教団を離脱。畠山義成、松村淳蔵と共にNJ州ニューブランズウィックのラトガース大学で1868年秋から復学を果たした。

ラトガース大留学中の1868年11月、ニューブランズウィックのセント・ジェームス・メソディスト教会で受洗。その後も資金繰りに苦しんだこともあり、ラトガースを離れ、別の留学生グループがいたモンソン、またはウィルブラハム・アカデミー等に転出の意思があったらしく、エール大学への入学も考えていたとみられるがラトガース以外の在学の記録は未確認。

1870年8月、イギリスでの鉄道関連の交渉のために上野景範がアメリカに立ち寄る。上野は留学生たちに支給する学費を携え、その管理役として300ドルの手当てで吉田を雇おうとしていたことが公文書からわかるが、実際には吉田は上野に同行してアメリカを離れてしまう。同様の公文書ではその役を吉原重俊が担ったとあるが、吉原は上野を追うようにやって来た大山巌、品川弥二郎、中浜万次郎のグループに同行してこちらもアメリカを離れてしまうため、公文書の記録が後追いになって間に合っていない。実質的にこの役を務めたのはその後もアメリカに残った畠山だった。

イギリスに渡った吉田は「イギリスに留学した」と記録されていることがあるが、時期と期間的に留学はできない。むしろ、そこから帰国して明治4年2月に大蔵省に入り、5月に少丞、7月に租税権頭、10月に少輔と、格段の出世をしているところを見ても、大蔵省関係で活躍したものと考えられる。

大蔵省ではアメリカ人大蔵省顧問・ジョージ・ウィリアムスと共に主に租税関連を担当していたが、外債募集のため、二人はアメリカに渡った。アメリカでは特に森有礼から外債募集を猛反対され、また日本で実質的な大蔵省責任者であった井上馨が秘密の外債募集情報をもらすなどあり、アメリカでの募集は諦めたが、イギリスで募集を行った。このときにジェイコブ・シフにも関係した。

1874年11月、特命全権公使および1876年のフィラデルフィア万博の御用掛として再度渡米。1878年には吉田・エバーツ条約と呼ばれる条約改正を締結し、アメリカ議会で批准されるが、ほかの条約国の賛成を条件としており、英仏独は反対したため発効されなかった。1879年には元大統領のグラントが来日したため、一時日本に帰国してその接待を務め、日光や箱根に同行した。

明治15年、帰国し外務大輔となり、外務卿留守時には代理卿を務めた。その後、議定官、農商務大輔、元老院議官、枢密顧問官などを歴任、子爵となったが、明治24年、 46才で死去。長男清風は貴族院子爵議員、次男は井上良智男爵(アナポリス卒、海軍中将)の養子となって海軍軍人(大佐)、貴族院議員となり、男爵を継いだ。

多くの書類が残っており、そのうちの多くが「吉田清成関係文書」として出版されている。

参考資料
吉田清成履歴(国立公文書館アーカイブ)
「薩摩藩留学生イギリス派遣に関する石河確太郎上申書の解析
機械紡績・会社制度導入との関連において」長谷川洋史
上野景範日記、仁礼景範日記、杉浦弘蔵ノート、杉浦弘蔵メモ(犬塚孝明)
日本外交文書第11巻 条約改正に関する件(外務省外交資料館アーカイブ)
フェリス書簡(ジュリー米岡氏の記録より)
「七分利付外債における井上馨の方針」半田英俊

写真:ラトガース大学グリフィスコレクション蔵

2.鮫島尚信(さめじま ひさのぶ)1845‐1880 鹿児島 駐欧弁務使
(担当:小野博正)

 日本外交官第一号 欧州での日本外交の確立に尽くして客死
鹿児島城下の薩摩藩医・鮫島淳愿の子として生まれる。15歳で蘭学を学び、文久元年(1861)に藩命で蘭医研究生として長崎に学び、医学の他、瓜生寅が主宰の英学塾培社で英語を学ぶ。元治元年(1864)に設立された藩立洋学校「開成所」で訓導を務める。この時長崎培社の実質的な運営者の前島密を英語教師に招いている。慶応元年(1865)薩摩藩の留学生として、五代友厚や森有礼ら15名の留学生として渡英して、ロンドン大学法文学部で約一年間学ぶ。慶応3年(1867)森有礼、長沢鼎、吉田清成、畠山義成、松村淳蔵ら6名で渡米し、トマス・レイク・ハリスの結社に入りブドウ園などで働くが、王政復古を聞き、ハリスに日本で働くことを薦められ森と共に帰国する。明治元年10月徴士・外国官権判事に任官し、その後東京府判事、東京府権大参事、東京府大参事を経て、明治3年外務大丞、欧州差遣、小弁務使を経て明治4年ロンドンに着任する。明治5年,中弁務使となりパリに着任して、弁理公使、特命全権公使に昇進し、英独も兼務した。然し、当初は特に英国で青二才扱いされたようで日本政府から、英独仏に対し、第四等外交官と遇するよう要請している。パリで、後に共著で『外国交法案内」(Diplomatic Guide)を出すことになる英国人秘書フレデリック・マーシャルを雇い、情報収集、人間関係の構築、外交実務の研究などで外交を国際水準に引き上げる努力をした。岩倉使節団が欧州各国を順調に回覧できたのも、鮫島の予めの便宜供与や調査協力への外交努力と各国の外交慣習や儀礼の研究に負うところが大きい。その他にも、留学生の調査監督指導、在留日本人、渡航者たちへの世話や、お雇い外国人との契約などでも活躍した。20年間日本で近代諸法典の指導に当たったボアソナードや4年間日本で法律顧問・法学教師を務め、日本への近代法移植に貢献したジョルジュ・イレール・ブスケを契約・招致したのも鮫島である。明治6年、国際東洋学者会議を主宰して挨拶「今日は欧州に於いて、西洋諸国に日本が同じ共同体として初めて認められた日です。政治、経済の絆に加え、教育・知的絆を築く嚆矢です」の趣旨を述べた。

 明治7年(1874)帰国して、外務省次官の外務大輔に昇進するが、寺島宗則外務卿に請われて、明治11年妻サダを帯同して再び駐仏特命全権公使として赴任し、パリ万博の監督や万国郵便連合条約に調印して国際郵便の日本での主権を回復した。その頃から肺病をやみ、ドイツ・バーデンでの療養などを繰り返していたが、スペイン・ポルトガルの公使も兼任となった明治13年(1880)に当時駐英公使だった盟友の森有礼に看取られながら35歳で亡くなった。モンパルナス墓地に眠る。(2021・10・22 小野 『ニッポン青春外交官』犬塚孝明―NHK Books、Wikipedia  他)

肖像画:山本芳翠作 東大蔵

3.寺島宗則(てらしま むねのり)1832‐1893 鹿児島 駐英大弁務使
(担当:泉三郎)

幕末・維新を駆けめぐった優れた外交官 電信の父 薩摩の郷士・長野成宗の次男として生まれる。幼名:徳太郎、後、藤太郎。5歳の時、 伯父で蘭方医の松木宗保の養嗣子となり、松木弘安(弘庵)を名乗る。長崎で蘭学を学 ぶ。弘化2年(1845)、江戸に出て川本幸民より蘭学を学び、伊東玄朴の象先堂で塾頭 となる。蘭方医・戸塚静海に蘭方を、古賀勤堂に儒学を学ぶ。安政2年(1855)より 中津藩江戸藩邸の蘭学塾(慶応義塾の前身)に出講する。安政3年(1866)蕃書調所 教授手伝となるが、薩摩藩主島津斉彬の要請で帰郷し、侍医兼御船奉行となり、藩近代 化の集成館事業の一員として参画し造船、電信、ガス、写真、製鉄事業に関わる。再び、 江戸に出て蕃書調所で蘭学を教えながら、英語を独学し始め、やがて本格的に学ぶ。 文久2年(1862)には、英語力を買われて幕府の竹内遣欧使節団に通訳兼医師として 抜擢され、福澤諭吉、箕作秋坪らと共に渡欧。翌年帰国して薩摩に戻ると、文久3年の 薩英戦争に遭遇し、五代友厚と共に外国研究の為と自ら捕虜となり、イギリス政府との 工作をなし以降の薩英協力関係に道をつける。

慶応元年(1865)、五代友厚と薩摩藩英 国留学生19名を率いて密航渡英して(変名:出水泉蔵)、英国外相クラレンドンに貿 易を独占する幕府でなく各藩と直接貿易を説き、薩英友好、倒幕促進に貢献する一方で、 翌年帰国すると、雄藩中心とする連合政権による国家統一国家構想を説く。 明治維新後は、寺島陶蔵(宗則)と改名する。明治元年、参与外国事務掛、神奈川府 判事、神奈川県知事となり、東京・横浜間電信事業の国営化を建議している。その後、 外国官判事として明治元年(1868)にはスペインとの日西修好通商条約締結に関わり、 明治2年には外務大輔に。同4年のハワイ王国との日布通商条約を締結する。さらに、 長崎・上海/ウラジオストック間の電信海底ケーブル敷設交渉をして、日本電信の父と 言われる。明治5年、樺太千島交換条約を締結後、初代駐英日本大使として赴任する。

明治6年の征韓論の政変後、参議兼外務卿となって帰国し、政府の財政難から関税自主 権回復をめざして諸外国との条約交渉に臨み、アメリカとの交渉で一旦は妥結するが、 イギリス・ドイツの反対に遭って挫折する。明治12年には外務卿を辞職。その後は、 文部卿、元老院議長、在米日本公使、枢密顧問官、枢密院副議長など歴任する。 明治17年(1884)には伯爵に叙せられ、翌年、東京学士会院会員となる。 明治20年、62歳で、肺病の為死去。人となりは、沈着寡黙にして、外交のみならず、 経済にも一見識を持つ政論家として知られる。 (2015・4・19『寺島宗則』-犬塚孝明、「岩倉使節団と寺島宗則」-山崎渾子

肖像画:黒田清輝作 東京国立博物館蔵

文責:吉原