歴史部会:7月度セミナー開催報告「大日本帝国憲法への道」

日時:2022年7月23日(日) 10時~12時30分
場所:ZOOM
内容:大日本帝国憲法への道
講師:小野博正

「岩倉使節団の意味を問う」のシリーズの、最大の山場にさしかかった。
岩倉使節団が「この国のかたち」を求めて欧米を回覧したことを認める人も、その使節団の求めた日本のあるべき政体が「大日本帝国憲法」に帰結したと言っても、一般的には、にわかには信じがたいかもしれない。明治憲法、すなわち大日本帝国憲法が公布されたのは、明治22年のことで、使節団帰国の明治6年から遥かに時がたち、使節団三傑の木戸孝允(明治10年死去)、大久保利通(明治11年死去)、岩倉具視(明治16年死去)は、すでに夫々が、遥か昔に亡くなったあとに明治憲法は成立しているからである。

憲法だけが「国のかたち」ではないと言う立場の人もいるかもしれない。
学制(国民皆学)、税制(地租改正)、兵制(国民皆兵)、諸民法、廃藩置県、暦法、宗教・風俗の選択、その他諸々の国のかたちの要素がある。然し、憲法こそが、天皇制や議会や行政など根本的に国のかたちを規定するものであることには異存があるまい。
使節団の意味の帰結が明治憲法であったというには、使節団の帰国後の共通認識に、憲法は急進的ではなく、時間をかけて漸進的に検討する。しかも、外国の憲法の、そのままの模倣でなく、日本の国体・歴史を加味した独自の憲法を目指すべきである。急進性否定には、自由民権運動への警戒があった。国民の自由な発言の許容は、民意が成熟するまでは慎重に進めるベキであると言うのが、フランス革命以降の、人は生まれながらに自由と平等であるべきというルソー、グロチウス、ロック、モンテスキュー等由来の自然法論が、普仏戦争による後進国プロシアによるフランスの敗戦と、それに続くパリ・コンミューンによるパリの混乱から、ドイツの法学者を中心に、それぞれの国の歴史と発展段階に見合った民意の尊重と憲法体制とすべきという歴史法論が台頭しており、パリ・コンミューンの直後に西洋を回覧した使節団は、ブロック、グナイスト、シュタイン他の著名な法学者や、統一ドイツを主導したドイツの鉄血首相のビスマルクやモルトケ主導により躍進するドイツの姿に魅せられて帰国した。後発のドイツ・ビスマルクが皇帝を輔弼して、米仏を軍事や産業両面で急迫するドイツの存在は、王政復古で天皇を輔弼して明治国家を建設する己が姿に重ね、使節団首脳は挙って漸進的国家建設に一致点を見つけたのである。
それを完成したのが、岩倉使節団の最終ランナーとしての伊藤博文と下司法官僚の井上毅等であった。

使節団帰国直後の明治6年の政変は、留守政府の急進派からの政権奪取が目的であった。
政変議、下野組の「民選議院開設の建白書」に対し、すかさず「漸次立憲政体樹立の詔」で応じたのはこの漸進主義に基づく。
更に、明治14年の大隈重信の「早期国会開設と憲法制定」に対して「明治22年憲法制定・明治23年国会開設の詔」で応じ返した。時間をかけて憲法・国会を創ろうの謂である。
明治14年政変後、岩倉具視と井上毅に送られて、伊藤博文は一年半をかけて憲法取調の欧州への旅に立つ。ドイツでグナイストとモッセから憲法を学ぼうとするが、日本人にはまだ憲法は早いと真剣に取り合ってもらえない。傷心して訪れたオーストリアでシュタイン博士に会って、日本独自の憲法論と憲法にも増して国家には行政が大事であること、行政を担うエリート官僚の養成など国家学に目覚めて、立憲カリスマの伊藤博文が誕生する。
帰国後、伊藤は内閣制度を発足させ、自ら初代総理大臣となる。今までは大臣は公家の独占のしきたりを破り、平の臣民がトップに立ったのである。夏島で、伊東巳代治、金子堅太郎、井上毅、ロエスレル、ロッセを集めて憲法草案作成に入る。そして、憲法審議を目的とした枢密院を創設し、総理大臣を辞して初代枢密院議長となる。井上毅は事務局長である。
枢密院はその後、天皇の政治的諮問機関として、天皇の陪席審議で、天皇の政治決断をリードして、終戦後の昭和22年まで続いた。
大日本帝国憲法が、天皇大権(主権)や統帥権、国民は臣民として、その権利を定め、言論・集会の自由は限定的ながら認め、国会は貴族院、衆議院の二院制とし、議院内閣制は否定していた。

伊藤博文の評価は分かれる。それは次の会話が象徴している。
「どうしても伊藤博文がわからないのは、彼はいつも二つのはっきりした対立の間を動いていますから、明治史を書いていても、何時も伊藤博文の姿が出てこないんです」 (『日本近現代史』著者・坂野潤治)
「やはり。『大政治家』ですね。フレキシビリティそのもの。」(司馬遼太郎)
伊藤は攘夷派から開国派に、急進アラビア馬から漸進派へ、憲法半解から立憲カリスマへ、農民から初代総理大臣へ、議院内閣制を否定しながら政党政治を模索、天皇主権(大権)としながら天皇無答責、ドイツ憲法に親炙しながらイギリス式立憲君主制を模索するなどいつも矛盾の中を歩いた。薩長閥の中にいながら、薩長閥を超越した。盟友山県有朋とも、井上毅とも、更には大隈重信や板垣退助とも一線を画しながら同盟、融和した。それは、西洋帝国主義の最中で、一国を独立させるという明治日本の、置かれた立場を象徴するものであったかもしれない。
岩倉使節団の果たした意味は、伊藤の評価のように学会でも二分されよう。
それは、西洋文明をアジアに定着するという矛盾そのものと言えるかもしれない。

文責 吉原

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