歴史部会:6月度セミナー開催報告「伊藤博文と木戸孝允」

日時:2022年6月24日 10時~12時30分
場所:ZOOM
内容:伊藤博文と木戸孝允
講師:村井智恵(木戸孝允)
小野博正、泉三郎(伊藤博文)

木戸孝允 1833年8月11日(天保4年6月26日)- 1877年(明治10年)5月26日

世の中は桜の下の角力かな〜関係した人々から人物を探る

西郷隆盛や大久保利通に比べると、木戸孝允は暗い、嫉妬深いなどといわれ、いまひとつ知名度も人気も低いと思われているようだ。ところが木戸は維新から死までの10年の悲喜こもごもを克明に日記に残しているため、歌って踊れる元剣豪の偉人として、歴女ファンが多い。
薩長同盟、廃藩置県や大阪会議といった歴史上の大事件以外の事柄を中心に、周辺の人物との関係を交えて人物像を紹介したい。

家族
木戸は藩医の長男、和田小五郎として天保4年(1833)に長州藩萩で誕生。7歳で向かいに住んでいた大組士・桂家の末期養子となるが、桂家の父母がすぐに亡くなったため、桂家を継いだ後も実家に住んだまま育った。そのためか家族への愛が深く、岩倉使節中にも、父母の命日には花を飾っていた話を久米が残している。久米は亡くなって間もなくだったから花を飾ったりしていたと言っているが、両親は木戸が江戸に出てくる前に亡くなっている。20年あまりの時間が経っているのだが、日記の折々に父母を思慕する様子が窺われる。

伊藤博文を最初に取り立てたとされる来原良蔵(くるはらりょうぞう)は妹治子の夫であった。文久2年8月に自害して治子は未亡人となるが、木戸は来原と治子夫婦の息子である二人の息子を養子とした。日記には折々に上京する治子との仲睦まじい様子が見える。

夫人の松子はよく知られているように京都で幾松を名乗る売れっ子の芸妓であった。明治後、花街の女性を妻にする高官が増えたが、恐らく正妻としたのは木戸が嚆矢ではないだろうか。外国人の客にもひるむことなく客をもてなすことのできる松子夫人の才覚は、木戸の広い人脈を支える要素であった。現在の価値観では芸妓という言葉にややマイナスのイメージがあるかと思うが、言ってみれば、プロ野球の人気選手がアイドル歌手と結婚したような感じではないかと思う。

斎藤道場塾頭時代(江戸)
二十歳で江戸に出て、翌年には江戸三大道場のひとつといわれた斎藤弥九郎道場・練兵館の塾頭となった。弥九郎と長男新太郎とはその後も親しく交わった。同道場で木戸の後に塾頭を務めたという大村藩の渡辺昇とも生涯にわたって親しい。渡辺は薩長同盟の仲介を務めたともされるが、明治以降、断髪をためらっていた二人は一緒にザンギリ頭にしている。

江戸では江川太郎左衛門英龍(伊豆韮崎代官、江川塾主催。当時の江川塾塾頭が岩倉使節団員の肥田為良)、中島三郎助(浦賀与力、造船家。戊辰戦争で長男、次男とともに亡くなった後、木戸は未亡人と娘の面倒を見た)、神田孝平手塚律蔵等に師事。万延元年、処刑された吉田松陰(萩、江戸で交流を持つ。師弟関係とされる)を埋葬した。

京都時代
テロと暗殺が横行する文久から元治にかけての京都騒乱期には、暴走する長州藩の若き攘夷の志士を抑える役割として、また、勅使、他藩との交渉役として奔走するが、大勢の仲間が暴力と政変の中で亡くなっていった。
池田屋、禁門の変(1864)の頃の逸話として、捕吏から脱走した話を勝海舟が伝えている。これがおそらく司馬遼太郎の言う「逃げの小五郎」のもとになっている。その後、木戸は日本海側に近い但馬の出石に隠れ住んだ。
禁門の変以降、朝敵とされた長州藩は武器等の調達ができず、慶応3年(1867)には薩摩藩士を騙ってJoseph Heco(浜田彦蔵)の長崎の商社を訪れている。
また、幕末の小御所会議の時代に土佐藩主・山内容堂に気に入られ、宴会の席で舞を披露したりしている。

長三洲と文人サロン
戊辰戦争終結直後の明治2年、地元山口での脱退騒動の鎮圧を命じられ、当時長州藩の教育、兵制、行政の改革を担っていた長三洲(天領日田出身の学者だが、父・梅外から尊皇の士として知られる。奇兵隊幹部)と親しくなった。
長は東京に出てきた後、木戸と共に「新聞雑誌」という新聞の刊行に尽力し、「新封建論」「復古言論」などの寄稿により新政府の方針を支えた。また学制、文部省の発足を先導した。
書道家であり南画家でもある長や、奥原清湖西島青甫、さらに長と共に長州三筆と言われた杉孫七郎野村素介などを交えたのちの文人サロンのような集まりを自宅で頻繁に持ち、書画や詩作、骨董などを楽しんでいる。
欧米滞在中に長が木戸に画帳を送り、これに深く慰められた木戸は、なぜ長を洋行に誘わなかったかと悔やんだ。帰国後は数々の旅に同行し、死ぬまで身近にいて公私ともに木戸を支えた。

青木周蔵
養子先の青木研蔵家は木戸の生家の三件隣くらいであったので、もともとの知り合いは青木家の方と思われる。ドイツ人との結婚、青木家との離縁に関して周蔵は木戸に面倒な交渉を頼む。明治7年夏に萩に帰った木戸は、目的だった士族授産や反乱を危ぶまれていた前原一誠らとの会合にも先駆けて青木家を訪ね、また、終始青木家の姑に付きまとわれて愚痴を聞かされる。そうしている最中にも離縁はしないと言ってくる青木にも翻弄されたが、結果的に青木とエリザベートの結婚をまとめている。「木戸孝允関係文書」の第1巻には数多くの青木周蔵からの書簡が収められており、青木が木戸を慕う様子が窺える。10年以上前に萩の青木研蔵/周蔵邸を訪れた際、ちょうど軒下からかなりの隠し財産が発見されていた。どうも周蔵に相続させたくなかったものとみられる。

伊藤博文
一般に伊藤は、後年、木戸から離れ大久保についたように言われるが、間に讒言するものがあって誤解を生じたことが多いようだ。伊藤と大久保がアメリカから一時帰国した際に、大隈らが木戸や大久保を早く帰してほしいと言ったことが曲がって伝わり、若造が自分の旅程を短縮させようとしていると誤解して木戸の機嫌を損ねたらしい。こういった行き違いは何度もあったようだ。

帰国直後に馬車で頭をぶつけて以来、木戸は体に不調をきたしていることが多かったが、木戸が病気で動けない間、伊藤は逐一あらゆる動向を報告している。しかし、自分の立場が上がるにつれて報告が簡略化され、木戸を通さずに裁可を下すようになるのは当然と思われる。また、辞表を出すという方法で政府に抗議する木戸のご機嫌伺いが面倒になったこともあるだろう。壮健だった大久保を伊藤が信頼し、薩摩には少ない周旋力に優れた伊藤を頼みにしたことは容易に理解できるので、木戸と不仲になったということではないだろう。

方向性として、木戸は国体を整え、立法や最高裁の設置を急務と考え、帰国後は特に地方官議会に力を入れた。また、「建国の大法はデスポチック(独裁的)に之なくては相立ち申す間敷」と天皇を最高位に置く国体の確立を重視した。木戸から見ると、大久保や伊藤は殖産興業や軍備に傾いているように見えたのかもしれない。このデスポチックについては民主主義社会で敵視された独裁制と混同されているが、木戸のいうところは、国王不在の共和制の否定を意味するものと思われる。

木戸孝允というひと
木戸は残された写真を見てもなかなかのハンサムで、背が高く、当時人気の高かった江戸三大道場で塾頭を務めた著名な剣士である。女性にもすこぶるモテただろうし、男性に憧れられた存在であったに違いない。人懐こく、面倒見が良く、親切だとあらゆる後輩に慕われ、また山内容堂や周布政之助、幕末長州藩で大阪藩邸の責任者だった北条瀬兵衛こと伊勢華が上京の際には木戸のそばから離れない様子から、年長者にも愛されていたことがよくわかる。ひねくれたり、ねじれたりしていない木戸は、むしろ感情の起伏を平気で周囲に見せて頓着しなかったので、たまたま居合わせた人には、怒りっぽい、感情的とも捉えらえたようだ。

晩年に精彩を欠いていくのは、妹治子が明治8年11月に結核で亡くなってしまったことに大きく起因している。ここから木戸も病状が悪化していき、10年5月に亡くなる。死因はウィキペディアによると大腸癌と肝臓がんであるという。剣士として江戸で名を馳せたアスリートが思うように体を動かせないことは恐怖であり、衰えを実感していったのに違いない。その頃の印象が木戸の人物像として語られているように思う。

死後、遺言に従って木戸は同志の眠る京都の護国神社の墓地に葬られたが、木戸が明治以降の短い山口訪問で訪れていた糸米の屋敷近くには、木戸神社として祀られている。地元の人が建て、いまでも細々と参拝されているという。日本の神様というものは、このように尊敬や感謝を素朴に表すものなのだろう。

「世の中は桜の下の角力かな」とは木戸が詠んだ句のひとつだが、さまざまな力士が、桜の下で脚光を浴びて全力で相撲を取る屈託のない真剣勝負に世の中を見ているのが木戸らしい。

 

伊藤博文(いとう ひろふみ)1841‐1909 長州 31歳 副使・工部大輔
  明治の今太閤 虚心に国家の為の政治を目指した初代総理大臣 

吉田松陰に「斡旋の才あり」と言われたが、生涯、その才を遺憾なく発揮した。

長州周防の百姓・林十蔵の長男に生まれた。幼名:利助、のち俊輔、博文。号:春畝。滄浪閣主人。父が蔵元付中間・水井武兵衛の養子となり、その武兵衛が足軽・伊藤弥右衛門の養子となったので、十蔵・博文父子も足軽の身となる。足軽は士族以下の卒族とされた。16歳で毛利藩が江戸湾警備役で、来島良蔵(桂小五郎の義兄)の配下で、相模に出張したことが縁で、来島の薫陶を得て、吉田松陰を紹介され、松下村塾に学ぶ。

松陰の配慮で、京都・長崎へ旅行。桂小五郎の従僕となり、江戸屋敷に住み、諸藩の有司と交友の場を与えられる。これが、交際に依る実学問と後に伊藤は回顧する。志道聞多(井上馨)と親交して、御楯組に参加を誘われる。安政の大獄で松陰が斬首されると遺骸を引き取る。桂、久坂玄瑞、高杉晋作、志道らと尊皇攘夷運動に関わり、公武合体派の長井雅楽の暗殺を画策(維新後に伊藤はこの長井雅樂を再評価している)。御殿山・英国大使館焼き討ちや塙次郎暗殺に加わる。文久3年、士分に取り立てられ、直後、志道ら長州五傑の英国留学に加わり、ロンドンで英語など学び、米英仏蘭四国連合艦隊の長州攻撃の報に接し、急遽志道聞多と帰国して、戦争回避を英公使オールコックや通訳サトーらと会見して模索するが結局下関戦争は勃発し、一転戦後処理などにあたる。第二次長州征伐では、高杉の功山寺挙兵に一番に駆けつけ、騎兵隊として内訌を戦う。
明治維新になると、外国事務総裁の東久世通禧に見出され、神戸事件・堺事件の解決に奔走し、出世の足掛かりを得る。

維新後に、高杉晋作に授けられた博文に改名。英語力を武器に、とんとん拍子に参与、外国事務局判事、初代兵庫県知事を歴任、この時に『国是綱目』(兵庫論=廃藩置県をして国家統一へ)を明治天皇へ捧呈する。東京で出て大蔵兼民部少輔となるや、明治3年から翌年にかけ、芳川顕正、福地源一郎らと渡米し、ナショナルバンクで学んで帰国、新貨条例を制定(金本位制で、一ドル=一円=一両)。岩倉使節団に副使として参加する。米国から書き送った「条約改正に備えて有司による欧米の条約比較研究の旅の勧め」が岩倉を刺激して使節団が計画され、伊藤を最初に副使に加え、大久保、木戸を副使に推薦したのは自分だと伊藤は晩年の直話で述べている。サンフランシスコで「日の丸演説」をして確固たる地位を占める。大久保利通と共に、条約改定交渉の委任状を取りに帰国し、以降大久保の信頼を得る。使節団帰国後は、明治6年の政変を機に。参議兼工部卿となる。明治8年には、台湾出兵後の大久保・木戸との不仲を取り持って大阪会議を実現した。地方官会議につなげ、国民参加政治の一歩を築く。

西郷、木戸、大久保の没後の明治14年の政変を主導して、自由民権派を抑え、漸進的に憲法制定・国会開設をすすめるため、明治15年西園寺公望、伊東巳代治らを伴い、憲法調査に渡欧して、グナイスト、モッセ、シュタインなどに学んで帰国する。憲法は、日本の歴史と国情に則り、他国の真似でなく、天皇主権で日本を表象し、国民の権限を規定すると定める。国家の基本に、行政を置き、国家学に目覚めた。明治18年初代総理大臣に就任し、その後、夏島に籠って、伊東巳代治、金子堅太郎、井上毅らと大日本帝国憲法の草案を練り、枢密院を創設して総裁となって審議し、明治22年、憲法発布に漕ぎつける。

その後も、日清、日露戦争を経て,対露宥和政策をとり、金子を米国へ派遣し、広報外交を演出。明治33年、立憲政友会を創設して、立憲政党政治への道を開く一方、初代韓国統監など務め、明治42年、ハルピン駅で暗殺されるまで、岩倉・大久保なきあとの明治日本の政治を先導して生涯を終える。最近は、瀧井一博の論考以降、知の政治家との評価が高い。 今太閤と言われるほど、毛利・長州藩の農民の身分から、初代総理大臣に登り詰めたのは、時代と交友に恵まれたのは事実だが、その時流を読み、生来の斡旋力を生かして敵を作らず、あらゆることから真摯に学び、国家の在り方を考え続けた生涯であったと言えよう。

長州五傑の英国留学、米国財政調査、岩倉使節団、欧州への憲法調査旅行の実地見聞で学んだことは、まさに文明の博物館であった。それが伊藤の人生の骨格となり、とりわけ、岩倉使節団の岩倉具視、大久保利通、木戸孝允ら有司からの厚い信頼と、回覧中に共有した憲法への漸進主義(漸を以て進む。之を名づけて進歩という。進歩とは、旧を捨て、新しきを図るの謂に非ず。日本の歴史に則った温故知新にあり)への確信が、その後の伊藤と、良くも悪くも日本自体の運命を決めたと言えないか。

攘夷から開国へ、急進から漸進へ、八方美人からオールマイティーに、フレキシビリティそのものようで、確たる信念もあった。若き日に、国学者・塙次郎を誤解と若さから暗殺した伊藤が、最後に、韓国の安重很に暗殺されるのは宿命的暗示か。

(2022・6・24 泉三郎、瀧井一博、羽生道英ら著作参考)

 

 

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