「旅行記」カテゴリーアーカイブ

旅行記:ストックホルムにて

浜地道雄様からの報告です。

12月10日はA.ノーベルの誕生日。ノーベル賞授賞式が行われます。その会場、ストックホルム(「平和賞」はオスロ)を7月に訪問しました。

岩倉具視使節団の一行(11人の小集団となった)がデンマーク・コペンハーゲンからスエーデン・ストックホルムに到着したのが1873年4月 (「堂々たる日本人」泉三郎)。

ノーベル博物館の主スポンサーであるEF Education First社(スエーデン発祥で世界最大の語学学校)の関係者である私は、本年7月、家内と同地を訪ねました。
実は,お目当ては同書(P116,117 )にある一行が宿泊したというHOTEL RYDBERG。

     

尋ね尋ねていくと、何と同建物は健在。
プレート(スエーデン語)によると1850年建造の同ホテルは1914年に銀行に改装したものの、建物自体は昔のまま。

  

隣のオペラハウスも現役とのこと。そこの広場にある通称「北のライオン」Gustav Adolf二世の銅像もそのまま。
また、実記にある「同府旅館前商店の景」もほぼ、岩倉らが見た
実景の面影を残しています。

岩倉の訪問時、アルフレッド・ノーベル(1833-1896)は40歳。すでにダイナマイト事業は成功して名士になってました。もしかすると、一行には会っていたのでしょうか。
145年後の今、快晴の空の下、文字通り「時空を超えて」の静かな興奮を味わいました。

文と写真 浜地道雄

旅行記:佐賀歴史と唐津くんち、そして食道楽の旅行

佐賀旅行が2018.11.1~3で実施されました。
参加者は、当初計画の20名を割りましたが、15名の参加を得て、和気藹々のうち、幸い天気にも恵まれ、大変に実りある旅となりました。これも、有田在住の会員・蒲地孝典さんという現地を知り尽くした方の周到で手作りならではの旅行行程と各所で案内された学芸員や蒲地氏自身の名解説なしには成り立ちえなかったことに感謝を表したい。恐らく、過去の当会の歴史紀行でも筆頭に入る充実感があった旅でした。

僅か三日間ですが、初日は、佐賀市八幡小路にある久米邦武生誕地訪問からは始まった。次いで「肥前さが幕末維新博覧会」(2018・3・17-2019・14開催)では、博覧会責任者に迎えられ、解説を受けながら、幕末の佐賀の工業力が、何故、如何にして日本一になり得たかを映像を使って、鍋島閑叟と七賢人を中心に説明された。
①体感シアター「佐賀藩が握った明治維新の行方」、
②技からくり劇場「日本の近代化を駆け巡る佐賀藩」そして、
③「人」賢人ラウンドシアター「未来に種をまく佐賀の七賢人の思い」である。「志」ことの結びは「あなたは今、何を見ていますか」感想を葉っぱに書き込こむと天に廻って映像化される。幕末の佐賀を知らない人にも絶妙なイントロであった。長崎街道沿いにある、瀟洒な旧古賀銀行では「リアル弘道館」が開催されていた。ここでは偶々、久米邦武特別展が開催されており、久米の生誕から、教育、出仕、その後の生涯が映像と音声ガイドで案内された。佐賀藩校・弘道館の素読の実体経験をして、ここで佐賀市職員と別れて昼食の佐賀レトロ館へ。館長は蒲地氏の親友で、実は昼食特別料理(一日10食限定)の和魂洋才御膳は、蒲地氏が企画・復元した美麗な伊万里焼(10客300万円)を実際に使ってのフレンチコースを、すべて佐賀の食材を使用して、ゆったりと供された。これで、一同すでに、一日が終わった気分。だが次がある。佐賀城本丸歴史館は、城壁と鯱の門以外は、焼失して復元された。320畳の大広間を持つ本丸御殿は圧巻。鍋島直正は、家臣と同じ段の畳に座った。佐野常民記念館は明治日本の産業革命遺産(世界遺産)となった「三重津海軍所跡」を望む早津江川沿いに位置し、長崎警備の役にあった佐賀藩の軍事力強化の基地であった。ここで、ドライドックが作られ、日本初の実用蒸気船「凌風丸」の建造や船の修理がなされた。長崎の海軍伝習所に最大家臣を送り込んだ佐賀藩の海軍稽古所となり、砲術訓練所もあった。

第一日目の最後は、武雄市図書館であった。なぜか。実は、日本で有名な民間の英知を取り入れた斬新図書館で、我が会の「岩倉使節団の映像」(DVD)を、教育的に使用してくれるということで特別寄贈したことに対する市の教育委員長からの御礼の儀式と、教育利用の決意表明があった。当会副理事長が答礼した。そして、やっと佐賀県名湯の一つである武雄温泉の東洋館に投宿した。夕食時間が迫っていたこともあり、早速に夕食の宴会となり、二時間半近くの9時まで、一日目の充実した体験を肴に懇親を深めて、それぞれ、名湯を楽しみながら一日目を終えた。

二日目は、宿を7時半に発って、ブラタモリの番組で登場してお馴染みの、有田の泉山磁石場の見学に始まり、陶山神社と有田陶磁器仲通りの有田焼・窯元の深川製磁店で磁器の名品を見学して、九州陶磁文化館で有田の陶磁器の歴史と名品を学ぶ。次いで、蒲地氏の経営する自宅でもある「ギャラリー花伝」で、家族に迎えられて、陳列された有田陶磁器の名品を眺めながら、茶菓の接待を受ける。実は、蒲地氏は、自称、他称の有田では知らぬ者のない、幕末明治期に海外に輸出された、有田・伊万里焼の名品の里帰り発掘屋である。相当な名品を欧米から里帰りさせた当本人である。有田焼は、伊万里港より輸出された。港には、昔は蔵が林立していたそうだが、今は何軒かが残こされている。一軒を覗くと、旅人宿も兼ねていて、古の生活が垣間見える。この日の昼食はそば処わらび野で、棚田百選の一つ、蕨野にて夫婦家族で営む、素朴な蕎麦屋だが、絶品のそば定食であった。そばの揚げ物をかじりつつ待つと、とろみで包んだそばがき、そして、香り立つそばを塩,つゆで頂く、てんぷらも絶妙で、供された日本酒に合う。仕上げは、棚田米で軽く握ったおにぎりは、香り味共に経験のない味に全員が絶賛。

最後に、庭先の柿とみかんの土産付き。忘れがたい思い出。午後は、唐津に入り、唐津焼の中里太郎衛門の陶房を案内される。唐津焼は茶人にも愛された陶器である。有田磁器も唐津焼も、秀吉の朝鮮遠征で、連れ帰ったとされる陶工たちが発祥である。

この日、唐津城は下から眺めつつ、虹の松原を散策し、潮騒の音を久し振りに楽しみながら最後の唐津くんちの宵曳山見物を兼ねたくんち料理屋に向かう。(あら)は、関西ではくえと呼ばれる高級魚で、の丸焼きを中心とした、数々の料理に飲み放題の酒やビール。当然、宴は高まり、曳山を待つ間には、歌合戦も始まり大盛会。酔いしれるままに、通りを過ぎる曳山の鯛や鉾を眺めつつ、エイサーの掛け声をかけながら、群衆の中をやっと抜けて、伊万里のホテルに向かいこの日を終わる。

最終日は、秀吉が朝鮮征伐の夢があと、名護屋城址跡の見学である。思ったより、豪壮な城で、大阪城より大きく、築城的にも進んだ城であった。何しろ、慶長、文禄の役の朝鮮遠征で、全国から20万人の兵が集まり、各大名が陣地を張り競い、俄か都市が出現、当時世界でも、パリ、ロンドンに並ぶ巨大城下都市が出現して、秀吉の死と共に、七年であっという間に消えたのである。ここでの体験は、首から下げた電子機器のバーチャル・リアリティで、城の細部が見事に復元されて眼前に見ることである。この日天気晴朗で、130キロ先にある対馬も遠望でき、千艘の船が休める浦が下に臨め、絶好の遠征地であったことが分かる。昼食の呼子の名物料理・烏賊尽くしで乾杯して、旅を終えた。最後は,唐津と佐賀駅解散組に分かれて旅を終えた。唐津組は、くんちの昼の曳山を見て帰った。(文責:小野)