岩倉使節団の意味を問う:5月度セミナー開催報告「5人の女子留学生」

日時:5月28日(土)10:00~12:30
場所:ZOOM
担当:畠山朔男
内容:津田梅子を主体とした5人の女子留学生

はじめに(女子留学生派遣決定の背景)
明治4年1月4日一人の男生が横浜からアメリカに向かった。その男の名は黒田清隆である。黒田は薩摩藩出身で戊辰戦争の最終戦とも云われる「箱館五稜郭戦争」で官軍の提督として八艘の艦隊を率いて戦闘を指揮し、旧幕府軍を降伏させた。その功により北方開拓のために明治2年(1869年)北海道開拓使が設置され、明治3年黒田清隆は北海道開拓使次官に抜擢される。同時に樺太専務を命じられ、樺太を視察した黒田はロシアからの圧力に「このままでは3年もたない」という深刻な報告を行い、国力をつけるためには寧ろ北海道の開拓に傾注すべきと建議し、明治4年(1871)8月10年間総額1,000万円という大規模予算「開拓使10カ年計画」として決裁される。明治政府は開拓事業の調査・研究を目的に黒田次官を西部開拓で実績のあるアメリカを中心に欧米を視察させるために明治4年1月4日アメリカに向かわせる。この時黒田を迎えたのは着任早々の薩摩藩出身の後輩、森有礼である。森は早速、黒田をグラント大統領に引き合わせ、日本の実情を説明し、北海道開拓のために技術顧問として農務局長であったケプロン他3名の技術者招聘の承諾を得る。黒田はケプロンを伴い欧米を視察して明治4年6月帰国する。黒田は欧米での滞在中に西洋での女性の存在が日本とは異なる事に強い印象を受ける。“北海道開拓に必要な優秀な若者育成には母親たる女性の教育が不可欠である”と深く感じる。森も“日本の新しい国家建設には女性の立場と役割を変革しなければならない、そのためには机上の教育ではなく将来を見据えて先ず女子を欧米の女性の様に教育することが肝要であり、すぐにでも多くの女子留学生をアメリカに寄越して下さい。”と黒田に説く。黒田は6月帰国するや、上述の如く10カ年計画を策定し、合わせて女子留学生の派遣と女子の学校設立の建議をこの予算内で処理する条件で誰の反対も無く正院で承認される。明治四年十月十日前後の事である。 

(1)五人の女子留学生とその親達の意思
右大臣岩倉具視を特命全権大使とする岩倉遣外使節団の出発日は十一月十二日(陰暦)に決まり黒田は女子留学生をこの使節団に同行させるべく即座に募集を始める。募集の条件は“期間は十年、往復の旅費・学費その他生活費一切官費で支払われ、その上年間八百弗の小遣い支給”という当時1$が約1円と考えると可成り法外な額と云える。この様な条件にも拘わらず一回目の募集の呼びかけには誰一人として応募者が無く、二度目の募集でようやく五人の女子に決まる。(明治の女子留学生―最初に海を渡った五人の少女の著者寺沢龍)によると

静岡県士族 永井久太郎養女 繁 文久元年(1861)3月20日生まれ 満10歳8か月
東京府貫族士族 津田仙弥女 梅 元治元年(1864)12月3日生まれ 満6歳11か月
青森県士族 山川与七郎妹 捨松 安政七年(1860)1月23日生まれ 満11歳10か月
東京府貫族士族外務中録 上田畯女 悌 安政二年(1855)生まれ 満16歳
東京府貫族士族同府出仕 吉益正雄女 亮 安政四年(1857)生まれ 満14歳
(上田悌と吉益亮については、その正確な生年月日は不明とある。)以上の五人に決まる。

(以後、捨松を除く四人の名前の後には“子”を付けた名前が通称となる)これ等の幼い女子が自分の意思で女子留学生に応募したわけではない事は明らかで、彼女たちの親や兄たちが決断したものであると容易に想像できる。
五人の親や兄には三つの共通点がある。一つはいずれも幕臣か佐幕藩家臣、即ち賊軍であった、二つ目は吉益正雄を除く四人には幕末に海外渡航歴があった、三つ目は女子の教育に熱心あった事等が挙げられる。ここでは彼らの渡航歴に触れておきたい。

上田悌の父、友助(後の畯)は天保年間に新潟奉行支配並定役の幕臣、1861年(文久元年)竹内下野守保徳を正使として欧州使節団に普請役として同行。福沢諭吉や福地源一郎も通弁として同行。この使節団の目的は大阪の開市、兵庫と新潟の開港の五年間延期交渉並びにロシアとの樺太国境問題の折衝であった。翌年帰国し、その四年後慶応二年(1866)小出大和守秀實を正使とする遣露使節団に再び随員として同行。この使節団には後述する山川捨松の兄、弥七郎当時は大蔵(後の浩)が正使の従者として会津藩から教育を目的に派遣され、六か月余り上田畯と寝食を共にしている。

吉益亮の父、正雄については幕末の渡航歴は見当たらないが明治二年の外務職員録には上田畯と並んで中堅処に位置している。上田畯と吉益正雄の共通点は明治に入って、黒田清隆が外務権大丞の時に二人が直属の部下であった事である。

山川捨松(幼名は咲子)が生まれる十八日前に父、山川尚江重固が亡くなり、以後山川家の長男、浩が家督として捨松の後見役になる。浩は上述の様に慶応二年(1866)会津藩命により青年藩士の教育育成のため、外国奉行大和守秀實を正使とした遣露使節団に正使の従者として同行。浩の弟、健次郎は岩倉使節団より一足先に明治四年1月4日、黒田清隆が視察のためにアメリカに渡った同じ船で、北海道開拓使の男子留学生の一人として渡航している。

永井繁子の父、鷹之助(後の孝義、鳳)は佐渡奉行の地役人であったが書と算に才覚がありその後、箱館奉行支配調役に佐渡奉行の推挙により栄転、幕臣の列に加わる。長男、徳之進(後の孝、三井物産の創始者であり初代社長)は父親の箱館奉行時代から英語を習い始め、めきめき上達し、父親の江戸詰めの時、十四歳になった徳之進は年令を偽り外国奉行の試験を受けて合格し、幕府の支配通弁御用出役(通訳官)に任命される。文久三年(1863)外国奉行池田筑後守長発を正使とした遣欧使節団に親子で同行の機会を得る。当時親子での渡航は禁じられていたが徳之進は親戚の者と偽り、父親の従者として同行。この使節団の目的は攘夷派の武士による仏国横浜駐屯陸軍士官惨殺事件の謝罪・賠償交渉であった。

津田梅子の父、仙弥(後の仙)は佐倉藩の財政を預かる勘定頭元締、禄高百二十石、小島良親の四男として生まれる。黒船来航の折には十七歳にして藩命で江戸海岸防衛に任じられアメリカの威力を目の当たりにして、これからの時代オランダ語よりは英語が大事と江戸や横浜に出かけて行って英語の勉強に力を注ぐ。やがて外国奉行の通弁に採用され、慶応三年(1867)勘定吟味役小野友五郎を正使とした遣米使節団に通弁士として同行。この使節団には福沢諭吉や尺振八も随行している。この使節団の目的は幕府が発注した二隻の軍艦の引き渡し上トラブルが発生し、その解決に向けた交渉であった。

五人の女子達は親の指示、命令とはいえ突然のアメリカ留学の話しを充分理解も出来ないままに承諾した裏には、上述の様にいずれの親も、自分の眼で欧米の開かれた文明・文化に接し、また留学の条件を知ってこれから待ち受けているアメリカでの生活が彼女達にとり現状よりは如何に素晴らしいアメリカでの生活が待っているかと熱意と自信を以って娘や妹達を説得出来たに他ならない。

(2)アメリカでの生活始 (上田悌子と吉益亮子途中で帰国)
明治5年(1872)2月29日(陽暦)岩倉使節団一行と共にワシントンに到着。男子留学生達はそれぞれの目的地に向かうが、五人の女子は兼ねてから森有礼の打ち合わせ通り、在米日本弁務使館に書記官として勤務していたチャールズ・ランマン氏のワシントン郊外ジョージタウンの邸宅に落ち着く。ランマン家には妻のアデリン夫人とランマン氏の独身の妹が居り、五人の面倒を見てくれていた。しかし二人の負担も大きく、一週間後には五人を三か所に分散して住まわせることになる。一番年下の津田梅子と横浜を出発以来面倒見の良い、気立ての優しい吉益亮子はランマン家に残り上田悌子、山川捨松、永井繁子の三人の内の二人が当時ワシントン市の市長であったクック氏の邸宅に世話になり、残る一人がアデリン夫人の妹宅かローマ字の普及で有名なジョージ・ヘボン氏の兄宅に寄宿したという説もある。この様な生活も二か月で終止符が打たれ、森有礼は自分の英国留学時代の経験から一軒家を借りて、家庭教師と料理人を雇入れて五人一緒の共同生活を始める。このやり方も一日2~3時間程度の英語のレッスン以外は自由放任状態で殆ど彼女達の英語能力向上には役に立たなかった。五人の女子の受け入れ責任者として森は事態を深刻に受け止め、男子同様にニューイングランド地区のしかるべきアメリカ人宅に預けることを考え始める。
アメリカでの生活も半年が過ぎた1872年夏頃、吉益亮子が治療中の眼の病気が一向に良くならず、帰国を申し出る。時同じく上田悌子も体調を崩し、鬱病気味になって帰国を申し出、彼女達を送り出した「開拓使」より許諾され、十月末「開拓使」のお雇い外国人の化学者アンチセル氏の夫人に付き添われて帰国する。二人の帰国に関し、森有礼から開拓使に宛てた明治五年九月二十日付け書簡が(「開拓使文書」に残されているとの寺沢龍氏の記述がある)

二人の帰国後の事は歴史からも忘れられ、記録や資料が少ないが、二人とも帰国後横浜のアメリカ人宣教師が経営するミッション・ホームで学び、吉益亮子はその後津田梅子の父・津田仙がその創立に関わる「女子小学校」(青山学院大学の前身)の英語の教師を明治八年~十三年まで努めている。明治十八年、亮子の父吉益正雄が娘の為に「女子英学教授所」を創立したが明治十九年、日本を襲ったコレラに罹り、二十九歳の若さで亡くなる。上田悌子は父親の上田畯が矢張り、彼女の帰国後の娘の為に明治五年に創立したと思われる「上田女学校」(別名万年橋女学校)があるが、彼女が帰国後この学校で教えていたであろうと推察されるが、資料は見当たらない。その後彼女は九歳年上の医者、桂川甫純の後妻に入り、二男四女の母親として昭和十四年八十五歳で亡くなっている。上記により女子達の親の共通点、“女子教育に熱心であった”事の一端が窺える。

(3)津田梅子、永井繁子、山川捨松の学生生活
津田梅子はワシントンの共同生活、仮住宅からランマン夫妻宅に戻って来たのは一八七二年十一月一日の事である。最年少の梅子の教育について森有礼も他の二人と同じ扱いは出来ないと思い悩んでいた時に、ワシントンに到着以来、共同生活が始まる迄の数か月間、梅子を預かり生活を共にした、子供の居なかったランマン夫人は梅子を我が子の様に可愛がり又愛おしく思い、森有礼に養育費は自分たちが負担するから、一年だけでも自分達に預からせて欲しいと手紙で訴える。この時ランマン氏は日本弁務使館勤務の雇用契約更新が森との折り合いが悪く、打ち切られ気まずい関係になっていたが、ランマン夫人の愛情の籠った熱烈な申し出に対して、森は一年間という条件で梅子をランマン夫妻に託する事に決める。ランマンはその四年後、森の後任吉田清成公使の秘書として再び日本公使館(弁務館の後身)に六年間勤務する。当初の一年間の約束は梅子が日本に帰国する迄の十年間ランマン夫妻宅で過ごすことになる。チャールズ・ランマンは「ウエブスター伝」等数多くの著述を残して居り又自然を愛し、山野を駆け巡り、魚釣りや絵画を趣味に持つ教養ある文化人であり、「米国在留日本人留学生」等の著述あり、大変な親日家であった。アデリン夫人も実業家の裕福な家に生まれ、教養に富み他人の面倒見が良く愛情こまやかな人であった。

この様な二人の元で梅子は時には厳しく勉強の指導を受け、時にはテニスなどスポーツに精を出し、旅行にも連れていってもらい、仔羊の様に快活だったと夫妻は述べている。一八七三(明治六年)ジョージタウンの私立小学校、カレッジエイト・インステイチュートに入学とある。(寺沢龍の「明治の留学生」)一学級十名前後の百名ほどの規模だが町では評判の高い学校だった。
一八七八(明治十一年)アーチャー・インステイチュート(高校)に入学。この女学校はワシントン市内マサチューセツ街に建てられた私立学校で、生徒も百人程だが教師には優秀な人材を揃えていた。梅子はこの学校では普通学科の他に心理学、星学、英文学の他、語学としてフランス語、ラテン語を学び、音楽や絵画も習った。梅子は特に数学が得意で、語学なども米国の少女以上に優れていたと教師も認めている。梅子は更に読書欲が旺盛でランマン家の蔵書を片っ端から読み漁り、特にウオーズ・ウオース、バイロン、テニスン等の詩は暗唱し、シェークスピアの戯曲さえその頃読んでいたという。日曜日ごとにランマン夫妻と一緒にジョージタウンの聖公会堂に行き、教会の日曜学校にも通っていた。日本でキリスト教の禁制が解かれた明治六年四月頃、梅子は自ら夫妻に願い出てキリスト教の洗礼を受けている。クレヴァーで健康的に育ってゆく梅子をランマン夫妻は日出る国から来た“Sun Beam」と呼んで愛おしんでいた。

永井繁子と山川捨松の二人は一八七二年十一月、エール大学に留学中の捨松の兄、山川健次郎が住んでいるコネチカット州、ニューヘイヴンのレオナルド・ベーコン牧師宅に寄宿することになる。二人の寄宿先を決めるに当たり森有礼は旧知のコネチカット州教育委員長のバージイ・ノースロップ氏やエール大学在学中の山川健次郎に相談している。ベーコン牧師は既に七十一歳の高齢であったが四十年間ニューヘイヴンの組合派のセンターチャーチの牧師を勤め、その当時はエール大学の神学校で教壇に立っていた。奴隷解放の運動家でもあり、ベーコン牧師の書いた「奴隷制度の悪」をアブラハム・リンカーンが大統領選挙に出馬した時、参考にして選挙演説を行ったというエピソードが残されている。ベーコン家の家族は先妻との間に生まれた九人は長女で独身のレベッカを除き、皆独立し、二度目の妻との間の五人の子供達と同居していた大家族の家であった。末娘のアリス(14歳)とは捨松は直ぐ仲良しになり、生涯の友となり、二度に亘り来日し、その後の津田梅子の「女子英学塾」創立の最大の協力者となる。経済的には必ずしも裕福でなかったが信仰心の篤い厳格な家庭環境で、ベーコン夫人の熱心で愛情に満ちた厳しい教育指導により、捨松は米国人の少女に劣らない学力を身に着け知性と品性に富んだ娘に成長していく。。一八七五(明治八年)九月男女共学の公立高校のヒルハウス・ハイスクールに入学、同校を一八七八(明治十一年)卒業し、同年九月ニューヨーク州ポキプシーのヴァッサー・カレッジ四年課程の普通科に入学する。

永井繁子は一週間ばかりベーコン牧師宅に捨松と一緒にお世話になったが、日本人二人が一緒では英語の勉強に支障を来すと、ベーコン牧師は友人で隣町のフェアヘイヴンに住むジョン・アボット牧師宅に繁子を託する事にする。アボット牧師は当時67歳で著述家としても有名で「賢母論」や「ナポレオン一世伝」など出している。アボット家には夫妻の他に当時35~36歳の独身娘、エレンが同居して居り、繁子は彼女を実の姉の様に慕い、彼女も繁子を妹の様に可愛がった。繁子にとりアボット家に寄宿したことが実はその後の人生に幸運を齎したと云える。アボット家の同じ敷地内に私学の「アボットスクール」を経営していた事もその一つである。初等科(一年)、本科(二年)、高等科(四年)という

本格的な中高一貫校でエレンが校長を務め、アボット夫人も国語と自然科学を教えた。そしてこの学校で一台の洋琴(ピアノ)に巡り合う。器楽・声楽の専任教師が居て、繁子は熱心にレッスンを受けていた。このピアノとの出会いが実は繁子の後半の人生を決定づける事になる。更には築地海軍兵学寮出身でアメリカのアナポリス海軍兵学校に入学するためにニューヘイヴンのピットマン家に寄宿して受験勉強中の瓜生外吉とピットマン夫人の紹介で知り合い、お付き合いの中で二人の愛は育まれやがて二人は将来を誓い合う仲になる。アボットスクールでのバランスが取れた教育が功を奏し、一八七八(明治十一年)捨松(普通科・四年制)と同じ、1861年醸造家のマシュー・ヴァッサーによって創立された女子大学、ヴァッサー・カレッジの芸術学部音楽専攻(三年制)に見事合格する。二人は全寮制の中で部屋は隣同士となり、お互い励まし合いながら日本の事や将来のことなど語り合う。彼女達の人生において最も楽しい希望に満ちた学生生活であった。繁子の音楽専攻科はクラシック音楽の修業と最高の教養としての音楽を身につける事が理念として謳われているが、専門科目以外に一般科目として仏語、仏文学、数学、英作文など受講している。捨松は普通科の教養課程で仏語、ラテン語、英作文、歴史、哲学、植物学、数学、専門課程は物理学、生理学、動物学などを受講している。繁子は一八八一(明治14年)6月卒業式を迎える。音楽科在籍者27名中卒業出来たのは6名で内二人は繁子の入学の以前に入学した者で実質、4名の中の一人であった。
フィアンセの瓜生外吉もアナポリス海軍兵学校を71名中26番目の成績で卒業し一足早く、繁子の卒業証書を携えて、帰国し、繁子の兄、益田孝(三井物産・社長)に卒業証書を手渡し、二人の結婚許可を願い出ている繁子は一八八一(明治14年)10月帰国する。

この年、日本政府より約束の年が過ぎるので三人に帰国命令が出る。繁子は帰国予定で問題はなかったが、捨松と梅子はそれぞれもう一年で大学と高校が卒業出来るので、一年間の留学延長を嘆願して、許諾される。捨松はこの大学でも同時期に入学した38名中、成績は常にトップクラスで二年時はクラス委員長に選ばれるなど、人気者であった。一八八二(明治15年)6月大学の晴れの卒業式を迎え、38名中、10名が来賓の前でスピーチの栄誉に与かるが、捨松はその一人に選ばれる。捨松の演題は「イギリスの日本に対する外交政策」で“会場からの拍手と喝采の声場内に震動し余響暫く止まざりし”と一か月遅れて日本の朝日新聞もその時の様子を報じている。(「明治の女子留学生」寺沢龍)
津田梅子も同じ時期にアーチャー・インステイチュートを無事に卒業した。同校から受けた「学業成績証明書」には「ミス・ツダはラテン語、物理学、数学、天文学、仏語に極めて優れた成績を修めた。彼女の学んだ全てに明解な洞察力をあらわした」と記されている。(「明治の女子留学生」で寺沢龍)
一八八二(明治15年)山川捨松と津田梅子は十一年ぶりで日本への帰国の途につく。
日本までは京都に帰任する同志社英学校の教師デーヴィス夫妻に伴われ、また途中のシカゴまではランマン夫妻、デンヴァーまではアリス・ベーコンが同行、見送ってくれた。その道中も捨松、梅子、アリスの三人は将来の夢である、自分達がアメリカで受けた教育を日本の女子達にも分かちたいと、学校創りについて時間の経つのも忘れて夜通し話合った事であろう。彼女達を乗せたアラビック号が横浜に入港したのは十一月二十一日の朝である。

(4)帰国した三人はそれぞれ異なる人生の道を歩み始める

<永井繁子>

明治十二年、文部省の中に「音楽取調掛」が誕生し、お雇い外国人としてボストンの音楽アカデミーで学んだメーソンが明治十三年に来日、正に音楽教育が本格的にスタートした時期にあった。繁子は明治十五年三月文部省音楽取調掛の洋琴教師として採用され、年俸三百六十円という、当時日本の中で最高給取りになる。捨松と梅子の帰国を待って予てから婚約中の海軍中尉・瓜生外吉と永井繁子は明治十五年十二月一日質素な結婚式を挙げ、結婚披露宴は年が明けた明治十六年一月一月品川御殿山の兄・益田孝邸で行われた。二人の新婚生活は“国費による留学生そしてクリスチャン”であるという共通の絆で結ばれ、他人が羨むような温かい家庭で帰国子女達のオアシス的存在であった。その後二人の間には生涯四男三女の子供達に恵まれ、繁子は産休を挟みながらあの時代には珍しかった、主婦業との二足の草鞋掛けで明治三十五年に東京女子高等師範学校を退職するまでの二十年間、洋琴と英語の教師を続ける。その間、幸田延や市川道、小山作之助と云った明治後期の音楽界の指導者達を育てた。明治三十一年繁子は「従六位」に叙されている。瓜生外吉も海軍軍人として日清・日露戦争の功により、最終的に大正元年十月海軍大将に昇進、翌年に現役を退き予備役となる。以後は二度に亘り日米親善目的で、日本政府から指名受け夫婦で訪米を果たしている。繁子は昭和三年十一月三日大腸がんが原因で六十七歳の生涯を閉じる。夫の外吉は引退後持病の膠原病に悩まされ続けるが、周囲の温かい介護の元、昭和十二年八十歳で亡くなる。

<山川捨松>
捨松が帰国した当時の山川家の実情は、長男の浩は谷干城の勧めで陸軍に入隊し、佐賀の乱、西南の役での功労により、陸軍大佐に昇格して居る。次兄の健次郎も東京帝国大学理学部教授になっていたし、長姉の双葉は東京高等女子師範学校の舎監の仕事をし、ロシアから帰国した次姉の操もフランス人の通訳として活躍。それぞれ社会的に恵まれた仕事についていたとはいえ、会津戦後、斗南藩から山川家を頼りにする浪人が増え、経済的に面倒をみなければならず、苦しい台所事情であった。捨松は帰国早々、この様な家庭の実情を察知し、一日も早く、仕事を見つけなければと思い、梅子と共に文部省通いに明け暮れの日々を過ごす。彼女達をアメリカに送り出した北海道開拓使は既に廃止され、窓口は文部省に移っていた。送り出した当時の責任者、黒田清隆もある事件で政治の一線から身を引き、相談相手も無く、途方に暮れるばかりであった。そんな時、文部省から東京高等女子師範学校の生物学、生理学の教師で年俸六百円という破格の条件の話が舞い込むが、二週間後の着任という条件に未だ日本語で教壇に立つ自信が無く断る。この時期捨松は一人“何のために自分はアメリカで教育を受けたのであろう”と悩む。そして少し前から話があった縁談について真剣に考え始める。繁子の結婚披露宴があった明治十六年一月に繁子の兄、益田孝から招待受けて参加していたある男性から、山川家に結婚の申し込みがある。結婚申し込んだ男こそ、会津戦争で敵方の指揮をとった薩摩藩士、その当時は参議・陸軍卿大山巌、四十二歳で捨松より十八歳も年上であった。山川家として頑なに断り続けるが大山巌の従兄弟に当たる、西郷従道が間に入り、兄・浩を説得し、捨松が納得するという条件で受ける。捨松も三か月間の交際期間を経て、母親を亡くしたばかりの幼い三人の子供とこの男性の幸せの為に生涯を捧げる決意をする。大山巌夫人となって以降の捨松は公の人として鹿鳴館の貴婦人として、時にはニュウーヘイヴン時代のヒルズ・ソサエテイの経験を活かしたバザーの開催や篤志看護婦人会の理事として、又華族女学校の設立準備委員として活躍する。しかし彼女にとり自分が先頭に立って“女子の為の学校創り”をすると梅子やアリスとの約束を反故にして結婚に踏み切ってしまった負い目と屈折した思いを持ち続け、梅子が実現する「女子英学塾」への支援を亡くなる寸前まで惜しまなかった。大山との間に生まれた二男一女、合わせて六人の母親として又、最後は大山元帥、公爵夫人としての生涯は巌の死の三年後大正八年、当時流行したスペイン風邪が原因による突然死で閉じる。享年五十九歳であった。

おわりに(津田梅子、夢の実現)
五人の中で一番地味だが「日本初めての女子留学生」の象徴として誰にでも馴染みの津田梅子の「夢・女子英学塾創立」への道のりが独力で行われたわけでなく如何に多くの支援者が梅子の周りに居たかについて触れ、本稿の締めくくりとしたい。「女子英学塾」の創立は「高等女学校令」と「私立学校令」が公布された年の翌年、明治三十三年七月の事である。梅子が最初の留学から帰国して十八年経過していた。帰国した当初は日本語の読み書きは勿論話すことも出来ず、我が家でも父親・仙の通訳なしには何一つ通じない不便な生活を強いられ、右も左も分からない様な女子に適当な仕事など待っているはずは無かった。捨松と共に仕事探しの毎日であったが、帰国して一年過ぎた頃、明治十六年十一月三日井上馨・外務卿の官邸で行われる奉祝の夜会に父・仙と共に招かれる。そこで岩倉使節団に同行した際、梅子達がお世話になった、伊藤博文に再会し下田歌子の紹介を受ける。この再会こそ、梅子に英語教師の切っ掛けともなる、「華族女学校」(女子学習院の前身)に伊藤の推薦で教授補に採用される。自分の進路を決心する契機となる。この時、梅子は前途に明るくさしこむ光を感じたに違いない。やがて教職を続ける中で梅子は華族女学校の生徒の態度に飽き足らない思いが募り、女性も男子同様、経済的・社会的自立の為にしっかりとした収入を得なければならない。その為には教職の道が適しており、教育により女性教師を育成する為の学校創りこそ自分が目指すべき道であると強く思い始める。より良い学校創りには梅子自身が高度教育を修める必要性を感じ、二度目の留学、ブリンマー・カレッジへの道に繋げる。梅子には不思議な「力」というべきか、人との交流を大切にし、次から次へと交流の輪が広げて行く術を身に付けていたのではないだろうか。梅子が第一回目の留学時に父・仙の関係で知己を得たフィラデルフィアの富豪、メアリー・モーリス夫人がその後、二度目の留学の決め手になる、ブリンマー・カレッジ学長へ梅子の思いを伝えてくれ、学費と寮費の無償提供を受ける。「日本婦人米国奨学金」の基金を作ってくれ、後の「女子英学塾」創立時の資金集めにフィラデルフィアでネット・ワークを組織化してくれるなど、この人との出逢いが無ければ夢の実現など不可能であったと思う。更には捨松がニューヘイヴンで寄宿したベーコン家のアリス、並びにアリスと入れ替わりに来日したアナ・ハツホーン達の存在なしには梅子の夢・実現については語れない。帰国以来、日本語が不自由で自分の母親にも相談できない時、いつも手紙で心情を語り、時には怒りをぶつけてきたアデリン・ランマン夫人の存在も梅子の夢の実現に精神的に大きな支えであった事を忘れてはならない。また、学校の資金繰りや経理面から「女子英学塾」創立時梅子を支えた姉琴子の夫、上野榮三郎の存在も大きかったと云える。父・津田仙は青山学院大学の前身、「女子小学校」や「海岸女学校」等の創立に関わっているが、娘の梅子が苦労して「女子英学塾」創立に漕ぎつける過程で何故か仙が資金面、運営面で協力したという、記述が見当たらないのが不思議である。梅子の創立した「女子英学塾」は大山捨松を顧問に、法人化した折には理事に、そして新渡戸稲造を相談役に迎え、地道な拡大を図ってゆく。明治四十年頃から梅子は持病の喘息や糖尿病で入退院を繰り返し、授業も欠席しがちになる。学校運営はアナ・ハツホーンや教え子の辻マツや星野あい等が当たり、順調に発展していく。昭和十二年の関東大震災では壊滅的な被害を受けるが、アナ・ハツホーンを中心とした社員の努力で徐々に復興を遂げる。梅子の病気は回復することなく、新学校用地として買い求めた小平村の地への新校舎の完成を見ることなく、昭和四年八月、鎌倉にて六十四歳の生涯を静かに閉じた。枕もとの手帳には「金曜日十六日Storm last night」の一言が残されていた。(「津田梅子」大庭みな子著)

津田梅子は女子の高等教育を目指して頑固なまでに初心を貫き独身を通し、直向きな努力を続けたその最後の目標はやはり人間をつくることであった。(「津田梅子伝」吉川利一著)女子英学塾は戦後津田塾大学へと発展し、彼女の目指した精神は今でも受け継がれている。

参考文献

*津田梅子関連・「津田梅子伝」吉川利一著 津田塾同窓会出版
「津田梅子」大庭みな子著 朝日新聞社出版
*山川捨松関連・「鹿鳴館の貴婦人 大山捨松」久野明子著 中立文庫出版
*永井繁子関連・「舞踏への勧誘日本最初の女子留学生~永井繁子の生涯~」生田澄江著 文芸社出版
*その他・「明治留学生~最初に海を渡った五人の少女~」寺沢龍著 平凡社出版

以上

 

 

 

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