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英書輪読会:7月度部会報告「英国外交官がみた幕末維新(英文書名Memories)」第2章:「将軍との会見(英文題名The Shōgun or Tycoon)」                             

日時:2021年7月21日 13:00~15:00
場所:ZOOMに依るオンライン開催
ナヴィゲーター:市川三世史
内容:「英国外交官がみた幕末維新(英文書名Memories)」

第2章:「将軍との会見(英文題名The Shōgun or Tycoon)」
江戸幕府第14代将軍徳川家茂(いえもち)は慶応2年7月20日(1866.8.29)に病のため満20歳にて夭折したが、継嗣なきため将軍家継承に争いを生じ、水戸家徳川斉昭(なりあき)の強い後ろ盾を得た徳川慶喜(よしのぶ)が第15代将軍に就任となった。

この就任披露の謁見を行うため慶喜は、諸外国の日本駐在公使に、大阪城への招待状を送付した。
招待状を受けた駐日英国大使パークスは、この機会を捉えて、すでに勅許を得た安政五か国条約(米・蘭・露・英・仏と締結した不平等条約/1858年)に付属規定されている兵庫の開港期日を朝勅により前倒し実現すべく、これを謁見受諾の前提交換条件として慶喜に要求した。この兵庫開港は、徹底的な外国人嫌いの孝明天皇が拒否し、差し止めていた。

パークスは兵庫開港と大阪開市が、日本の開国を大きく進展すると捉えている。間慶喜は再三朝廷に伺候し、要求期日の謁見日ぎりぎりに兵庫開港の勅許を得ている。すなわちパークスはこの取引に成功した。

  • 謁見準備の事前調査のため1867(慶応3)年2月に大阪を訪問。
  • 大阪訪問中に江戸公使館で、館員2名が日本人暴漢の刀による殺戮被害を恐れて、拳銃自殺。
  • 謁見日、4.29(慶応3年12月16日)、これは打ち解けた謁見となった:

予想外の晩さん会に招かれ、極上の歓待を受けた。パークスは慶喜の人格、容貌、見識、人間的な魅力に圧倒され、最大の賛辞を外相スタンレーの他に、宿敵の仏大使ロッシにまで伝えている。会食後慶喜は、壁を飾る三十六歌仙の絵の一つをパークスに贈ると述べ、一連の絵の一つが欠けるとしても “これが英国公使の所有になったと記憶に残ればよい”として、最上の好意を示した。しかしこの絵の贈呈という演出は、翌日以降の蘭国総領事、仏国公使、米国公使との謁見においても、再演された。

  • 大阪城の内観は、鳥羽・伏見の戦いの後、1.27(慶応4年1月3日)新政府軍の攻撃によってほとんどを焼失したが、当時は壮麗、絢爛豪華であった。
  • この後に臨席した伝統的であるが形式的な公式の宮廷行事を、ミットフォードは、「遥かに遠い東の国の物語」に例えている。
  • 来日当初は、江戸の風景をスコットランド農村の家畜小屋の連なりに例えて悲観したミットフォードであるが、市井の生活に馴染んでくると、帰国話が出たときは、これを拒否するまでになった。
  • ミットフォードの著作と関連出版:
  • 昔の日本の物語Tales of Old Japan (1871初版、チャールズ・E・タトル出版 1966,) :有名な著作

収録:―花咲爺、舌切雀、文福茶釜、かちかち山など勧善懲悪の寓話。

―神戸事件・切腹: 備前藩士滝善三郎の切腹を立会描写。

―講談もの、古い民話(佐賀怪描伝、赤穂浪士、白井権八と濃紫の恋、侠客・幡随院長兵衛、他)

―江戸繁盛記(幕末の儒学者 寺門静軒)、―諸礼筆記(作法・礼儀集からの抜粋)

  • The Bamboo Garden (1896)、竹の庭:竹や紅葉を好み、遺産相続したバッツフォード邸内に造園。
  • The Garden in Japan (1906)、日本の庭
  • The Garter Mission to Japan (1906) ガーター勲章贈呈使節
    • 『英国貴族の見た明治日本』 長岡洋三訳/ 新人物往来社、1986年
    • 『ミットフォード日本日記、英国貴族の見た明治』長岡洋三訳/ 講談社学術文庫、2001年
  • Memoirs 2 vols (1915)、「リーズディ―ル卿回顧録」
    • 日本関連部分『英国外交官の見た幕末維新』長岡洋三訳/ 新人物往来社、1985年

―『英国外交官の見た幕末維新 リーズディール卿回想録』長岡洋三訳/ 講談社学術文庫、1998年

  • ヒュー・コータッツィ編『ある英国外交官の明治維新 ミットフォードの回想』中須賀哲朗訳/ 中央公論社、1986年
  • Further Memories「続回想録」(Hutchinson & Co., London, 1917),
    • 日本関連部分『ミットフォードと釈尊 英国外交官の見た理想郷日本』大西俊男訳/春風社、2016年
  • 評伝:『AB・ミットフォード』大西俊男著/ 近代文芸社、1993
  • 「ミットフォードの回想(Memories by Lord Redesdale)」の再編集と再版:

同書(1915年刊行)はその後廃刊になったが、22代駐日英国大使サー・A・H・H・コータッツイ(Sir Arthur Henry Hugh Cortazzi)が1980年(昭和55年)に再編集し、1985年に再版(中須賀哲郎翻訳)、1986(昭和61)年に出版(中央公論社)された。

再版にあたりコータッツイは「回想録」の日本関連各章をほとんど再録し、これを、英国国立図書館保管の外交文書、ミットフォードの在任中の報告書、父親へ書信をもとに補足した。

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現代の文書複製は、スキャナー、コピー機を使って迅速簡単に処理可能であるが、ミットフォードの時代は全て手書きであり、非常に手間どった。

最初の手動式タイプライターの製造販売は、1870年のデンマークのR・M・ハンセンであるが、このマシンでは、オペレーターには印字文面が見えない。その後レミントン社が1925年頃に世界初の実用的電動式マシンを、その後1935年に、IBMが回転式のボール・ヘッド式マシンを発表した。

約150年前の外交公館では、書類の複写は全て手書きである。コータッツイは再版書の「まえがき」に、ミットフォード時代の書記官の日課を、「在外公館から届いた手書き急送文書を、薄暗い庁舎内でひたすらに筆写」であったしている。ミットフォードは「回想録」に、自嘲を込めた短い仏語の詩を残した:

俺はしがない筆耕人よ

なんて嫌ななりわいだ

愉快な時もかなしい時も

ペンの動きは止められぬ

これはアメリカ民謡としてテネシー・アーニー・フォードやプラターズが歌ったSixteen Tons (16トン)の歌を、思い起こさせる。その日本語の歌詞は、以下のとおりであった。

おいらの商売炭鉱夫

年がら年中地の底で

石炭掘って泥まみれ

まったくやりきれないよ

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コータッツイの「リーズディール卿回想録」再版書中の「まえがき」,および同書第1章末尾の「編者補記」、さらに「訳者、中須賀哲郎、のあとがき」は、ミットフォードについて初めて明かされた記述であり、彼の生きた時代の情景を垣間見せている。

  • ヒュー・コータッツイSir Arthur Hugh Cortazzi, 1924-2018: について

□経歴。

聖アンドリュー大卒、ロンドン大卒。1946年初来日。駐日英国大使、任期1980-1984年。日本アジア協会代表(1982–1983年)、ロンドン日本協会代表(1985–95年)。日本研究者として数多くの日英関係と日本の歴史関連書を執筆。ジャパンタイムズに度々投稿。

□ 駐日英国大使と任期:

  • 初代:サー・R・オールコックSir Rutherford Alcock、1859-1865、初代駐日総領事から昇格
  • 第2代:サー・ハリー・パークス Sir Harry Smith Parkes、1865-1883(18年間)
  • 第6代:サー・アーネスト・メイソン・サトウ  Sir Ernest Mason Satow、1865-1863
  • 第22代:サー・ヒュー・コータッツイ Sir Arthur Hugh Cortazzi、1980-84(昭和55-59年)
  • ミットフォードの、1873年、サンフランシスコ経由の短期間の日本再訪:

ミットフォードは多くの海外旅行を行い、1873年には米国横断後サンフランシスコから船で短期間の来日をした。歴史家荻原延寿氏は「遠い崖」の中で、この目的を、彼の日本駐在時に日本女性「とみ」との間に生まれた子供「於密(おみつ)」に会うため、と推測している。彼は署名に「密徳法」を使ったが、子供の名はその最初の文字「密」にちなんだという。英国グロスター文書館所蔵の二通の「とみ」の手紙では、早く帰ってきて、子供の成長を見てほしいとミットフォードに訴えているという。

市川三世史

英書輪読会:5月度開催報告「Verbeck of Japan 17章」

「フルベッキ」英書輪読会

日時:2021.5,19
ナヴィゲーター:井上篤夫

1. P348~P349 14行目 Dr.Verbeck~in Christ Jesus

病気悪化
一八九七年、フルベッキは春には名古屋、信州小諸、秋には青森に伝道に出かけたが、体調を崩し、医師から地方伝道を禁止される。東京で博士は説教を続け、最後の説教は二月二六日。

フルベッキ博士が行った最後の仕事の一つは、日本の天皇に述べる英語の式辞を準備すること。

亡くなる直前に身も心も打ち込んで行った仕事は、日本のキリスト教の現状についてロバート・E・スピア氏によって提示された十四の質問に対する回答。その抜粋が彼の一九〇四年の『Missions and Modern History』に載っている。フルベッキの名前は伏せられていた。

人にへつらわず真実の語り部であって、情愛豊かで思いやりある博士は、最後の発言をこの回答で述べている。

「よき日本人が『イエス・キリストのもとで新たに生まれ変わる』のを信じている」

→最晩年にフルベッキが寄せた文章

一八九七年(明治三〇年)一〇月二八日、(『福音新報』明治三〇年一一月三日号)「二五年回顧の教訓」と題して『福音新報』(明治三〇年一一月三日号)に回想録を寄稿している。

「二十五年の歳月は顧みるに短しとせず。人事の万端に於いて一世紀の四分の一という歳月は、多くの起伏盛衰を含めり。過去四分の一世紀に於ける日本基督教会の歴史もまたこの他に出でず。あるいは近々三年の短日月に会員の数を倍加せしとも再三に及べるあれば、之に反してその増加のほとんど見るべからざる時またこれありしなり。

これによって我等の直ちに接する疑問は、曰く過去二十五年の経験はそもそも何を教えるや、曰く是等は次の二十五年間を指導すべき如何なる艦(かん)戎(かい)をか与えると言ふにあり。ロングフェローの詩に曰く。

還らぬ過去を想を止めよ
そは全く徒(いたずら)なること無益(むえき)なることなればなり
若し之を想ふとならば少くとも其の頽廃せる
遺物の上に登りて、
更に高き或(あ)るものに達せよ

2. P349 15行目~P351 下から4行目 Probably one of ~Dr.Amerman.

最晩年に書かれたコッブ博士宛の手紙

一八九八年二月二四日 東京葵町

「私の健康が優れないことにご同情の言葉を頂き、本当に有難うございます。この国で暮らした三十五年の間、合わせて一週間も病気で寝込んだことはありませんでした。今。ひどく「不快」で少し憶病になりすぎているのかもしれません。いずれにしても、頻繁に病気をする人よりも、おそらくもっと不快感を感じています。私の病気の原因は前立腺肥大で、それで膀胱の炎症が起こりそうな具合なのです。(中略)

ここ数週間、少し暖かさが感じられ具合もよくなってきています。事実、近場の地方で伝道旅行の計画を立てられそうに思います。地方旅行での新鮮な空気と運動は、いつも私の健康によいのです。少ししたらもっと遠い地域、即ち高知と、我々の大きな伝道区である九州からの依頼に応えるほどの体力がつけばと願っております」。

「キリスト教会の歴史の中で重要な逸話(私の十四の回答の中で『証言』として言及しています)を一つ送れるように準備をして、タイプも終わっているのですが・・・その中で主要人物として登場しているので、原稿を送るのは彼(インブリー博士)に見せてからにすべきです。そうすれば、この件に関して彼がこの原稿を妥当と思えば、それを参考にして彼自身の微妙な立場を弁護できます。私は人の背後に隠れてそういうことができなかったのです」

→スペア氏に答えたとされるフルベッキの回答

Missions and Modern History

スペアの十四の質問は一八九七年中に受けていたと思われる。回答を二月二四日のコッブ宛の手紙といっしょに船便に載せたので残った。その中にあるキリスト教の歴史の逸話について言及しているが、この時点ではタイプ原稿の段階だった。一〇年前の下書きでは人物名が生で記載されていたのを仮名に直したものと思われる。第十六章「An Extraordinary Episode: in the History of the Church of Christ in Japan(After rough notes of the time_1888)参照。

3. P351 下から3行目~P354 9行目The machinery of~yet written”
最期
一八九八年の春が近づくにつれ、肉体の機能は衰えてきた。
三月三日、伊豆への伝道旅行の打ち合わせをバラ氏とするために横浜に出かける。
その日は前日より寒かった。

ジェームズ・バラ師がニューヨークのコッブに送ったフルベッキの死去と葬儀の模様を伝える手紙(所在確認中)。The Japan Evangelist一八九八年四月号に載った追悼文(RCA所蔵)とは異なる。
「ちょうど一週間前、念入りに作った小さな地図を携えて私の所に来ました。伊豆の伝道地でよさそうな場所を探して、更に広く伝道区を増やす試みをするために旅行をしたかったのです。私の書斎で彼はドクター・フェストに会いました。(中略)

山手を上って来るときに胸のあたりに鋭い痛みを覚えて、何度も立ち止まらなければならなかったと話していました。ブラウン博士は同じ病気で亡くなったのだとも言っていました。彼も私たちも、それがこの世での最後の打ち合わせになろうとは夢にも思いませんでした。一週間後、おおよそ同じ時間に、彼の遺体は献身的な人たちによって、青山の墓地に運ばれることになったのです」

「本当に突然でした。埋葬などもすべて終わり、現実というよりは夢のように思われます。定例会で彼がいない空白を感じるようになるでしょう。ミッション関連のあらゆる評議会で、すべてのミッションの総合的な相互関係において、彼は教導的役目を担う長老とみなされていました。この前の軽井沢会議の進行に際してもそれが表れています。彼は会議を終始見ているだけだったのですが、ミッションと日本キリスト教会との協同に関して、彼の助言は評議会の活動に多大な影響を与えています。また、彼の意見はスピア氏の報告書にそのまま反映されています。私が思うに、今まで書かれたどんなものよりも、フルベッキ博士はその報告書に満足していました」

→三月一〇日、その日は暖かかった前日に比べて三度と急に冷え込んだ。正午、自宅でいつものように自宅のテーブルで軽い昼食とティフィン(紅茶テイストのリキュール)を摂っていた。
「ガタン」という音に使用人が部屋に入った。フルベッキは椅子に座ったまま息を引き取った。心臓発作が襲った。享年六八。

4. P354 10行目~P356 9行目Much of~the services.

葬儀
バラ氏は博士死亡の悲しい知らせを電報で受け取るやいなや、ただちに東京に出かけた。葬儀の準備と芝教会での式はほとんどバラ氏が執り行った。

「フルベッキ嬢はとても冷静で、日本人などすべての弔問客を迎え入れていました。そして、役人や博士の友人たちに送る多くの招待状の準備をしていました。百人か二百人くらいに発送したでしょうか。断ることのできない外国人が多くいて、結局、学校関係者とその他『大勢の人々』に来ないように頼まなければなりませんでした。(中略)

教会は役人、外国人、日本人招待客であふれ、回廊は聖職者と労働者で、女性側は女性信者で一杯でした。牧師和田(秀豊)が詩篇十九篇の日本語を読み、続いてデーヴィッド・タムソン博士が英語で祈りを捧げました。それは威徳、畏敬、信仰、希望を感じさせる、大きな救いとなる祈りでした。日本語の賛美歌、チューン・ウォード、詩篇四十六篇が続き、井深(梶之介)総理による日本語の演説がありました。その後を私が英語で引き継ぎました」

バラの追悼文(Evangelist4月号掲載)これはRCAの北日本支部専用の便箋が使われている。By Rev. James H. Ballaghと赤で筆者名も。赤字が数箇所に入っている。葬儀の式辞用に用意したことを示していると思われる。Written March 11th 8-11p.m.およびMarch 12/98の日付がある。Copied March 19thp.m.とも。 

「宮内省式部長官から代表として派遣されたヤマダ氏はあの有名な勲章を持ち運ぶために参列しました。勲章は式の間、棺の上に飾られクッションに置かれていました」

5. P356 10行目~P357 12行目 “The procession~the word. 祈祷
「墓地でブース師が印象的な埋葬式の言葉を読み、最初の長老で牧師のY・小川師が日本語で祈祷した。日本語での『イエスのもとに眠る』の賛美歌の後、スコットランド一致長老会のヒュー・ワデル師による終わりの祈祷があった。夜が更けるとともに寒さが増し、悲しみのうちに家路につきましたが、悲しみの中にもフルベッキ博士の業績の成果と、神がこの日に与え給うたすばらしい慈悲を思うと、満足感が感じられました。私が家に着いたのは午後八時頃でした」
天皇陛下から五百円の御下賜金が下された。

6. P357 13行目~P360 16行目”The city~and respect”.
墓地
東京市はフルベッキ博士の遺族に、彼が埋葬された小さな一画を永久に貸与する旨通知した。 三つの自国を持ちながらも彼には国籍がなく、彼は疲れた体を休めるのに最後の安息の地として日本を見いだした。
天皇陛下に聖書の日本語訳を渡すことが現実の運びとなった。 天皇や日本国民からこれほど尊敬されたフルベッキが贈った聖書を天皇陛下が喜んだ。

式は日本語と英語を交えて、あるいは交互に話された、葬儀費用を払うために五百円がエマに下されるという通達があった。

これは日本の指導者たちと日本国民からこれほど愛され尊敬された人物に、心からの感謝と弔意の気持ちを有した出来事だった。

7. P360 17行目~P362 16行目As the fitting~his last.”
弔辞
『萬(よろず)朝報』
「彼は同国人でもなく母国人でもない日本の人々のために、四十年に及び途切れなく惜しみない奉仕をし続けた。読者にはこのことの意味を考えて頂きたい。我々の国民の一人でも、隣国人、たとえば朝鮮の人のために、このように尽くす人物がいるだろうか。

四十年に及び黙々と働き続け、金銭や賞賛を得るためにでなく、彼自身と神のみぞ知る志を持って尽くしたのである。日本に来て教義を広めるという仕事を別にしても、我々が持ちたいと羨望するようなに忍耐力が博士にはあった。おそらく母国オランダの不僥不屈の精神を博士は所持していたのであろう。しかし、彼の喜び、充足、柔和があり、物理学的に説明できないような力源を保持していたように思われる」

徳富蘇峰が創刊した日本で初の総合雑誌『国民之友』(明治三一年四月一〇日発売・三六八号)も追悼記事を載せた。。

「日本に住すること四〇年にして、最初に播きたる文明の種子が萌芽し、発育し、花を開き、果を結びたるを目撃したるは、彼の満足する所なるべし。彼が日本の恩人として教師として知己として最後に至るまで、日本の幸運を祈願したるは、日本国民の永く記憶すべき所也」この恩人を我々国民は決して忘れてはいけないと結んだ。

『反省雑誌』
「フルベッキ博士は明治維新前に来日した宣教師である。三十年以上にわたり、福音伝道と教育に多大なる貢献をした。博士は確かに日本の友人であることに満足していた人であった。外国での仏教伝道に著しい成功がない我々仏教徒は、この高徳の伝道師の例を見て恥ずべきであろう」

8. P362 17行目~P364 21行目 Even the Buddhists~the world”
ミス・リラ・ウィンのEvangelist六月号掲載の文章

「フルベッキ博士は自分のまわりの人たちに強い影響を与え心を捉えるのに、欠点を見だして批判するのではなく、温和さを持って接していました。博士がここに来たことで、私は自分自身もっと高潔でよりよい人間になりたいと思い、私の性格にある狭量さや批判的な部分を克服しようと思いました」

→ミス・リラ・ウィン

アメリカ改革派宣教師。一八八二年よりフェリスで英語、博物学、植物学、聖書を教えた。
一八九二年にフェリスを辞して、ミラー夫妻のいる盛岡に青森で伝道活動をする。

ニューヨークの『インディペンデント』紙は(一八九八年三月一七日付け)フルベッキの経歴を辿ったあと、こう記している。(Evangelist六月号掲載)

「強固な資質と精緻な教養を兼ね備えた人間が、勇気を振るって全精力を集中したとき、いったい何をなし得るのか、その実例がここにある。フルベッキ博士は、新生日本の未来に永久に残る銘を刻んだのだ。東アジア全体にとって衝撃ともなり、指針ともなるべきこの国は、今後何世紀にもわたって博士の影響を感じつつ、その名に敬意を払い続けるだろう。この素朴で、謙虚で、堅忍で、学識深く、献身的な宣教者は、イングランドでの聖オーガスティン、アイルランドでの聖パトリック、そしてゴート族に布教したウルフィラと同様に、記憶から失われることはない。これらの系統にある偉大なキリスト者たちは、失敗に終わることもなければ、世界に奉仕する機会を逃すこともない」

9. P364 22行目~P365 7行目 Let this final~of heaven.”

シェアラーの追悼文。(Evangelist六月号掲載)
「すなわち博士の人生を最も端的に表すのは、聖書の次の章句である。『私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外は、何も知るまいと決めていたのです』(「コリントの信徒への手紙一」2−2)。すべての行動を決定づけていたのは、主の御業へのひたむきな献身だった。なかでも第一の喜びとしていたのは、説教をすることだった。その才能に恵まれていたので、どの土地でも注目の的となった。フルベッキの主たる能力は、生き生きとした描写力にあったといえよう。身ぶり手ぶりを交えながら、天性の美声で情景を活写することができた。そして、論理的に反論の余地のない真理へと帰結させていった。日本の聴衆は、例え話が多い説教を喜んだ。どこに行っても、会って話を聴こうと群衆が押し寄せた。

“Without him, Japan will not seem like itself. Because of him Japan will grow less like itself, and more like the kingdom of heaven.”「フルベッキが日本にいなかったなら、今の日本にはなっていなかっただろう。日本という国が、本来の姿からより神の国へと近づいたのは、彼のおかげである」

Without him, Japan will not seem like itself. Because of him Japan will grow less like itself, and more like the kingdom of heaven.”

「彼なしでは、日本はそれ自体のようになることはないだろう。彼によって、日本はそれ自体のように成長するというより、より天の王国のように成長するだろう」
再帰代名詞の「itself」は、カントの観念論の物自体(Ding an sich, 英語ではthing in itself)を踏まえて使用しているのではないか。つまり、「本質」とか「実体」とか「本体」という意味で用いている。

これを考慮して一文目を深読みして解釈すると、『日本は、制度や産業などの外面においては近代化に成功(日清戦争の勝利など)して、世界から近代国家であると「見做される(seem)」ようになっているが、フルベッキなしでは日本が「実質的」に近代化することはなかっただろう』という意味に取れるように思われる。
そして、二文目は『日本は、文化などの内面は「本質的」には封建的な部分が多いが、フルベッキの宣教のおかげで、明治維新以前の古い価値観のまま国が成長するというのでなく、教化(クリスチャナイズ)によって、天の王国に向かって成長するであろう』ということではないかと思う。

一九一一年カリフォルニアで亡くなった妻のマリアの亡骸は日本に移された。そして現在、フルベッキ夫妻は青山霊園に眠っている。外人墓地の南一種イ六側、四六、四七号。オランダ式の細長い白い墓石がある。

一八九九年(明治三二年)一二月、フルベッキの教え子たちによる募金で、青山霊園に紀念碑が建立された。墓碑銘には略年譜が記されている。
In Memoriam Guido Fridorin Verbeek Born in the Netherlands  Jan.23,1830 Arrived in Japan Nov.7, 1859. Died in Japan March.10.1898
この紀念碑はフルベッキ先生によって学んだ知友たちにより一八九九年に建立された。

マリアの墓標には、姓名と生没年だけが記されている。( Maria Verbeek  1840-1911 マリア・フルベッキ 一八四〇~一九一一

終焉の地、赤坂葵町には米国大使館別館があり、今日、フルベッキが住んだ二番地には高層ビルが建ち、その跡は判然としない。

二〇一八年九月、残暑厳し日、私はフルベッキ夫妻のお墓参をした。小石が敷き詰められた墓前には洋ラン(赤紫のデンファレ)が供えられていた。胡蝶蘭のように瞬時に視線を惹きつける派手さはないが、人の心を深くとらえる魅惑的な花である。
一九〇九年(明治四二年)秋、渋沢栄一を団長とする五〇名余の実業家の一行が初めてアメリカ各地を訪問した。民間から日米貿易を促進させようとする画期的な経済使節団として知られる。

シアトルを出発した一行は鉄道で米大陸を横断、九月一九日にはミネソタ州ラファイエット倶楽部を訪れた。その時、就任したばかりのタフト大統領は遊説日程を変更して、一行を歓迎した。タフト大統領は当時すでに何度も訪日して明治天皇にも夫妻で芝離宮に招待されたほどだ。一行の訪問は大きく報じられた。

それから三週間後の一〇月九日、使節団一行はニューヨーク州シラキュース市の駅に着いた。出迎えたのは長身の青い目の男だ。
「渋沢男爵、長途の旅、ご苦労様です」と流暢な日本語で歓迎の挨拶をした。その人物こそフルベッキの長男ウィリアム・ヴァーベックであった。ヴァーベック校長は一行をマンリアス・ミリタリー・スクールに案内した。
校庭の一画に日本式庭園があり、茶室が設えてある。さらにウィリアム夫妻は一行を寿司と羊羹でもてなした。
さらに渋沢一行を驚かせたのは、グリフィスが「歓迎」の挨拶をしたことだった。グリフィスはアメリカに帰国後シラキュースの南にあるイサカ大学で講師をしていたのだが、渋沢を歓迎するために駆け付けた。

井上篤夫記

英書(フルベッキ)輪読会:3月度開催報告「Ch.XVI A Man Without A Coutryの前半」

日時:令和3年3月17日(水)
ZOOMによるオンライン開催
ナヴィゲーター:岩崎洋三

1)フルベッキの無国籍問題を救った日本政府の特許状(滞在許可)発行

無国籍になった経緯
フルベッキは、来日前アメリカに7年間滞在している間に生国オランダの国籍を失ない、アメリカの市民権獲得にも1年足りなかったため、1859年来日時、そしてその後も無国籍のままだった。

フルベッキが来日時携行してたシュワード上院議員のハリス駐日総領事宛書簡
フルベッキは上院議員シュワードが駐日米総領事ハリスに日本政府へ善処要請する様依頼し、フルベッキは来日時にその書簡写を持参していた。シュワードはニューヨークの弁護士・上院議員で、1860年にはリンカーン内閣の国務長官に就任した有力政治家で、本件はフルベッキを派遣した外国伝道本部が依頼したものと思われる。(「明治維新とあるお雇い外国人」) 

失敗に終わった米国籍取得工作
フルベッキは家族のいるアメリカ永住を希望し、1890年一時帰米した際国務省に改めて米国市民権の申請をした。しかし、ブレイン国務長官からは「希望に添えない。ただし、駐日スウィフト大使に日本当局へ善処依頼するよう指示しておく」との回答を得るに止まった。

青木周藏・榎本武揚両外相の好意的裁断
・スウィフトの要請を受けた青木周藏外相はフルベッキの新旧日本政府への貢献を評価し快諾した。しかし、当時来日中のロシア皇太子ニコライが暗殺未遂された「大津事件」の責任を取り辞任を余儀なくされたため、フルベッキ及び家族の永住を許可する」「特許状」発行はピンチヒッター役の榎本武揚新外相に託され、1891年7月無事交付された。

・特許状をフルベッキに送付する際榎本外相は下記内容の丁寧な書状を添えた。「オランダ国籍を失い、米国市民権も獲得できず無国籍となったため、我が帝国の保護下で居住したいとの貴殿のご要望を青木前外相宛から引継いだ。貴下は我が帝国に数十年居住し、我が帝国のために献身し、多くの官僚・国民に愛され、尊敬されてきました。ついては、喜んで特別のパスポートを別便にてお送りします。有効期限は1年になっていますが、1年ごとに更新することを許可しています。」

自分と家族を日本の法支配下に置いたフルベッキの行為は賛否交々
当時の有力英字紙The Japan Mailはフルベッキが日本滞在30年の内に日本人の本質を知る格別の機会を得たと前向きに報道したが、不平等条約の権益擁護旨としていた他紙が押しなべて懐疑的だった中で、同紙は日本政府よりの立場を維持していた。

なお、日本政府寄りの英字新聞の必要性を説いたのは米国駐厦門領事のルジェンドルで、1871年台湾での宮古島民殺害事件に絡んで副島種臣外相、大隈重信蛮地事務局長官の顧問になった。ルジェンドルがビンガム新駐日公使に解任された後を継いだのがNew York Tribuneの日本駐在記者だったハウスだが、ハウスが大隈に台湾出兵随行を望まれたり、爾後大学南校教師、雅楽部洋楽指揮者としても重用されているのは興味深い。

人生の過半を日本で過ごしたフルベッキ
フルベッキは爾後娘エマと赤坂の自宅で過ごすが、1898年68歳で病没した。日本滞在は1859年来日以来39年間の長きに及んだ。

日本人の信頼を得たフルベッキ
著者のグリフィスが「フルベッキは外国人の評判は良くないが日本人の心からの尊敬と信頼を得た」と彼を良く知るある人物が1900年に書いていると、ある人物の氏名を伏せているのは不可解だ。

同じ米国オランダ改革派のMartin Nevious Wychoffと思われる。彼は、1872年に来日し、東京でフルベッキとグリフィスになった後福井の中学校に赴任、後開成学校教師、横浜先志学校校長、東京一致英和学校を経て明治学院教授になって、1911年東京で没しているが、1909年に”Guido Verbeck”を出版しており、その論調がグリフィスの引用と良く似ている。

2)フルベッキは明治学院の設立に関わり、10年間教授神学部教授を務めた

明治学院設立経緯
明治学院は、英語を学ぶヘボン塾と、キリスト教神学を学ぶブラウン塾の2つの流れがありました。米国長老派教会の医療伝道宣教師ヘボンの流れと、米国オランダ改革派教会のブラウンの流れです。 両派は、日本にキリスト教を根付かせたいとの思いで、教派を越えて協力し、1877年「東京一致神学校」が、今の中央区築地に作られ、1887年現在の白金の地に移転して「明治学院」となり、初代総理にヘボン、理事長にフルベッキが就任しました。(http://www.meigaku.ed.jp/info-school/history) 

フルベッキの役割
理事会議長に就任するとともに、神学部教授を10年間務め、新旧聖書入門、旧約聖書釈義等を講じた。

島崎藤村は第一期生として明治学院に入学した
島崎藤村は、一期生として1887年15歳で入学し4年後卒業したが、在学中に洗礼も受けている。藤村は小説「桜の実の熟するとき」に在学中の明治学院の様子を描き、明治23年同学で開催されたキリスト教青年会主催の夏季学校の部分で…『日本にある基督教界の最高の知識を殆ど網羅した夏期学校の講演も佳境に入って来た。…続いて旧約聖書の翻訳にたずさわったと云われる亜米利加人で日本語に精通した白髪の神学博士が通った。』とフルベッキらしい人物を描いているが、フルベッキは白髪ではないことからこの人物はタムソンとする説がある。

フルベッキが悩んだ、旧神学にとって代わる新しい神学と教会間の意見相違
詳しくはこの章の後半に出てくるが、三位一体を否定する新しい神学と教会合同交渉で明治学院を共同設立した長老派・改革派と同志社大学等の組合教会(会衆派)が教会政治の違いがネックになって、共同歩調をとれないことをフルベッキは悩んでいた。

明治学院明治24年度卒業写真、ヘボンを囲んで、最後列左から2番目が藤村、同じく右から4番目が戸川秋骨、中央列右から3番目が馬場孤蝶。(高谷道男著『ヘボンの手紙』有隣堂P.174)

(ナヴィゲーター岩崎洋三記)

 

英書輪読会:2月度部会報告「Verbeck of Japan  ― A Citizen of No Country ― By W.E.Griffis」

日時:令和3年2月17日
ZOOMに依るオンライン開催

15章 説教者と翻訳者(概要)

(1)聖書和訳の意義と伝道開始

フルベッキは1880年代(明治13~23年)聖書和訳に注力した。日本語版刊行はアメリカ、イギリス、スコットランドその他福音諸団体が協調して進められた。フルベッキは翻訳作業に週6日のうち5日をあてる。翻訳の仕事はフルベッキに伝道心を呼び起こし、日本各地に伝道旅行をさせる。翻訳と伝道は相乗効果をもたらす。秘められた宣教の能力について次のように語っている。「聖書の真実に光をあて、聖書の原作者の文言を用い、神が<われわれに告げていること>を示すことは素晴らしい技である。」
1882年(明治15)5月、信州小諸、上田に伝道、田村直臣を同伴。その後、九州各地8か所に24日間伝道旅行する。※田村直臣(1858~1934)は明治7年受洗、明治15年米オーバン神学校等で学び、同19年帰国。数寄屋橋教会牧師。

(2)当面の仕事と宣教のあり方
1881年9月の手紙に息子が誕生し、3人の息子と娘1人の親となる。当面の仕事を報告。①日曜の説教 週2回 ②一致神学校(明治学院の前身)での証詞学および説教学 ③自宅での聖書講義週1回 ④華族学校での講義(倫理学月3回) ⑤長老会(教会役員会)用翻訳 ⑥臨時および定例の会合出席 ⑦地方伝道旅行。さらに日本社会と政府のための活動を報告する。長崎時代、政治学を教えた大隈と副島が大臣や参議となっているほか、教え子で外務省や内務省で重要な地位にある者も少なくない。そのためフルベッキの講義を受けることにより、然るべき地位に就こうとする者もいる。日本の発展に寄与するには従来の宣教のやり方では効果が上がらないと思われ、宣教のあり方を時代と共に変えていかなければならないと考える。

(3)華族学校での式典演説
華族学校長からの仕事の負担増要請を辞退したが、同学校の記念式典に招待され演説も依頼される。「学生への勤勉の薦め」と題し天皇名代の皇子、岩倉卿、元大名華族、皇族方、一般の人びとの前でキリスト教の公然の代表者として演説できたことを神に感謝する。

(4)華族学校辞任と不興和音
フルベッキは華族学校を辞任する。これまで宣教から離れていたことを反省し、聖書の翻訳と伝道に取組む体制に入る。この当時、来日した外国人からフルベッキの伝道活動に注文を付ける者がかなりいる一方、活躍を嫉む者もおり、中傷も浴びせられた。これらに対しフルベッキは日本の諺にある「カエルの面に水をかける」といったかたちで受け流していた。

(5)外国人宣教師との関係
手紙に記す。「従来やってきたことと現在との相違点は、これまでは独りで身を処し自分の判断ですべて処理してきたが、今では様々の関係者がおり、相互の理解が難しい。この20年間、ロビンソン・クルーソーのような生活をしてきた結果だと思える。日本人との間にはそうした気持ちはない。それは宣教が日本人に恵みをもたらすとの確信があるからとも考えられる。アジア協会への加入も再三勧められている。いずれにしろ変化する時代と環境に適切に対応していける能力を身につけたいと願う。」

(6)「日本プロテスタント伝道史」作成と高崎独立教会
日本におけるプロテスタントの歴史を把握することが日本の宣教に必要なことと考えられ、宣教師たちの協議会が開催される。フルベッキは、満場一致の推薦によりその任務につく。1882年11月各教派への資料収集の依頼事項と依頼文書を準備し、主題概要と歴史的経緯、教育面、医学面、各種文書等の資料提供を要請する。
資料提供の依頼に対し大量の文書が提出される。フルベッキは数か月かけて資料を読み、伝道の全般的歴史、各教派の各年次資料をまとめた原稿を作成した。さらにプロテスタント全体のほか、カトリックおよびギリシャ正教の神父数、信徒数なども一覧提示した。
まとめられた伝道史資料文書は、1883年4月、大阪での宣教会議で全文朗読され、午後から夕刻まで長時間を要した。※この伝道史資料文書は、『日本プロテスタント伝道史 明治初期教派の歩み (上)・(下)』(G.F.フルベッキ著、日本基督教会歴史編纂委員会編訳 1984年 教文堂)として刊行されている。伝道史の調査資料作成中、フルベッキは高崎に伝道旅行し、高崎独立教会の創設に強い関心を寄せる。高崎に大勢の宣教師と新しい日本のキリスト教指導者が一堂に会し、組合派教会と長老派教会との「統一計画」が提案されたものの成就しなかったと30枚もの手紙に記す。

(7)福沢諭吉とキリスト教
1884年7月、フルベッキは米伝道局への手紙にジャパン・メール紙を同封し、その中でこれまで日本へのキリスト教導入に反対であった福沢諭吉が従来の考えを変えたようで、このことは日本のキリスト教に広範な影響を及ぼすと伝える。そして福沢の人物像と日本人への影響力のほか、福沢の著作活動と国からの顕彰と爵位返上のことなど伝えている。

(8)四国伝道旅行での伝道会場としての日本の劇場と欧米の劇場との違い、「壮士」の政治活動について

(9)九州伝道旅行とスタウト師のトラブル
九州伝道旅行には長崎に教会を創設したスタウト師を同伴したほか、フルベッキの最初の受洗者となった村田元佐賀藩家老の故郷、佐賀を訪れる。スタウト師は、当時を回想し、伝道集会後ホテルに向かう途中、少年から嘲笑しながら下駄で背中を撃たれ、心の傷が消えるまで長い時間がかかったという。

(10)愛息の死と聖書翻訳完成
1884年12月、フルベッキは愛息ギドーを16歳で亡くす深い悲しみに見舞われる。
1889年頃、フルベッキは伝道局の費用で一時帰米が予定される。愛息逝去から一時帰米までの間、旧約聖書完成など様々の宣教の仕事を処理した。聖書翻訳、讃美歌改定、神学校での教育、教会の組織化と維持、伝道旅行などである。中でも特別の仕事は旧約聖書詩篇の翻訳があり、愉しい作業であった。

(11) 説教ノートと宣教指針
フルベッキには「ヴァリア」(ラテン語で文芸作品雑集)という雑録集があり、宣教に関連する逸話、ノート、例話などが集められている。例えば「人数ではない」という見出しには、宣教にあたり大事なのは受洗や信仰告白した人数にこだわらないこと、大事なのは活力であり、近代科学と政治を理解し成長している者、有用かつ福祉的施設をつくれる有力な者、社会の改善向上に資する力のあること、神の御心とことばに近いこと等々がメモされている。

(12) 一時帰米と故郷訪問
1889年1月、一時帰米。アメリカ西部と東部の改革派教会で話しをする。7月ニューヨークからヨーロッパに渡る。オランダの主要都市を訪れ、教会で話をし祖国訪問を大いに愉しむ。8月、右半身に軽い麻痺を生じたがすぐに回復する。1891年1月、アメリカを経由してサンフランシスコから日本に戻る。日本へのオセアニア号には新渡戸博士夫妻も同乗していた。

(ナビゲーター 大森東亜)

英書輪読会:2020年12月度及び2021年1月度開催報告「第14章:天皇から勲章を授かる(1874年-1880年)」

日時:2020年12月16日 13:00~15:00
および2021年1月20日 13:00~15:00
場所:ZOOMによるオンライン開催
担当:市川三世史
内容:「第14章:天皇から勲章を授かる(1874年-1880年)」

概要: この章は、天皇からの勲章の授与までの、Verbeckの仕事の成果の回顧である。ここでは、長年にわたり懸念し、彼が全うすべき使命であると信じた “自分の本来の道である「布教」” に専念できる環境を得るまでの、長い道のりを振り返っている。

・1869(明治2)年~1871(明治4)年7月(廃藩置県後に正院・右院・左院の三院制発足まで)の官制:

・輔相(ほそう):三条実美(さねとみ)、岩倉具視(ともみ)、議定:徳大寺実則(さねつね)、鍋島直正、参与:

・東久世通禧(みちとみ)、木戸孝允(たかよし)、副島種臣(そえじまたねおみ)、板垣退助。

・明治中央官制の改革は、1885(明治18)年の内閣制度発足をもってようやく完成するが、当初は、行政、

・司法、立法の職は上位者が兼任するなどして、三権分立の原則はまだ守られていない。

・来日以来長きにわたり幕府の崩壊後、「開国直後の日本を列強のレベルに引き上げるべく尽力貢献したVerbeck」にとって、自分の門下生が政府の要職に就く時代となった。

・キリスト教禁制の解除と共に教会が組織され建設され、多数の信徒が登録された。これは本来の目的の布教活動による成果である。

・元老院(上院)において、顧問として国家憲法、帝国内閣形成の準備段階の促進に着手した。 グリフィスはこれをネーション誌に投稿している。

・1871年語学・学術においての功績が認められ、明治天皇から勅語を賜る。

・1873年大学南校を辞職、政府左院の翻訳顧問となる。同年6月文部省学監としてラトガース大学から文部行政の専門家モルレー(David Murray)の招聘を機に、アマチュアー時代の終わりを自覚し、引退を決意。

・1874(明治7)年ラトガース大学より、神学博士の学位を授与された。予期せぬ名誉であった。

・有用な人材育成のため創設された華族学校の指導者となり、1877年11月20日から一年間の契約をする。

・1877年7月天皇から勲三等旭日章を授与される。勲章の授与は人生初の経験である。しかし彼は、布教においても、この勲章授与の名誉を他用することはなかった。

・「ピリピ書」および「テモテへの手紙」等に示される聖パウロの布教行動を自らも範とし実行に努めてきたので,勲章の授与を自己の布教活動への賛辞であると受け止めている。

・1878年1月9日の手紙:政府の仕事(元老院における旧約聖書の翻訳委員)は今回を最後に取り止める。
伝道局の同意があれば、年末から年頭にかけて、宣教の仕事に取り組む意欲がある。

・1878(明治11)年5月14日、斬奸状をもとに士族六名により大久保利通が暗殺される(紀尾井坂の変)。

・1878年7月多忙により精神不安定と疲労の蓄積が表面化し家族と共に帰米するが、翌1978年宣教師として再来日。

・日本での高校、大学の設置計画は、福音の忠実な説教を重要視するのであれば、積極的な参加意欲がある。

・どの言語にも適用可能な文典研究の新方式を見出した。文章構成の根拠をより科学的に突き止めることが可能であり、新・旧聖書にこの適用を考えている。

・1880年5月12日の書簡内容:神学校で教え、説教の立案で多忙である。すなわち麹町教会の聖餐式と献堂式での説教、転居、開成所の1869・1870年度の卒業生への演説。京橋教会におけるキリスト教青年会(YMCA)の発会での説教など。

・Verbeckは性格寛大であり、無給を気に留めず、休息を取らなかった(デイビッド・タムソン博士談)。

・その後の行動:
帝国大学の設立援助のため来京。
東京に新設する教会のため寄付金を募り、外国人と大学教授から費用の全額を得ている。

文責: 市川三世史2021.2,3

英書輪読会:10月度及び11月度開催報告「W.E.Griffice『Verbeck of Japan, A Citizen of No Country』」

日時:10月度 令和2年 1021日(水) 13:00-15:00

範囲:Ch. XⅠII  The Great Embassy in Christendom (pp.255-276)

日時:11月度 令和2年 11月18日(水) 13:00-15:00
範囲:Ch. XⅠII The Great Embassy in Christendom (pp.261/3行目-276)

場所:ZOOMによるオンライン開催
ナヴィゲーター:岩崎洋三

4月に始まったインターネット開催は今やニューノーマルになって、和気藹々さもリアルの時劣らないように思える。10月に読み始めたCh.XⅢ The Great Embassy to Christendam(第13章キリスト教国への大使節団)は中身が濃く、二か月かかってしまった。

本章は1871年の岩倉使節団派遣が中心テーマで、派遣に関わるフルベッキの提言書Brief Sketchのいきさつが詳述されている。その原文全文を隈なく読んでみようと交代で音読したが、フールスキャップ11ページに書き留めた膨大な文書は、使節団の編成、調査事項、訪問先など驚くほど詳細・用意周到に出来ていて、感銘する向きが多かった。

また本章では触れていないが、関連文書に報告書の作成方法を指南した「一米人フルベッキの差出候書」(木戸文庫)があり、その概要を説明したが、こちらも調査事項、記載方法から、頒布範囲までを念入りに記述したもので、視察団がそれに沿って行動し、米欧回覧実記が克明に記録した秘密を見た思いがした。

岩倉使節団派遣の起案者
著者のグリフィスはフルベッキが米国オランダ改革派の外国伝道局長フェリスに宛てた書簡を引用して、1871年の最大の出来事岩倉使節団の派遣を企画したのはフルベッキであるとしている。

11月21日付書簡で「使節団を率いるのは龍と旭(密航留学中の岩倉具視子息の変名)の父親だ。私はこの使節団派遣に随分関係している。使節団派遣がキリスト教信仰自由化に効果があるよう祈っている。」と書いていることを紹介している。

2年前に大隈重信(外国事務局判事条約改正担当)に提案していた
フルベッキは1859年来日後10年間は長崎で活動したが、1869年2月政府顧問兼開成学校教師として東京に招聘された。同年6月フルベッキは条約改正交渉を念頭に、政府大型使節団を条約締盟欧米14か国へ派遣すべきことを、時の条約改正担当大隈重信に、Brief Sketchと題された文書をもって提言していた。

しかし、当時は攘夷思想たけなわで、改宗者と疑われていた大隈は動けなかったのであろう。大隈は条約改正交渉期限ぎりぎりの1871年8月に至って自らを長とする使節団派遣を朝議で発議し承認されたと主張する。(大隈伯昔日譚)

③Brief Sketchと一米人フルベッキの差出候書
条約締盟欧米14カ国へ政府大型使節団を派遣すべしとして、が中心テーマだったので、その全文を交代で音読したが、訪問目的、各国首脳への挨拶、調査事項、訪問先、調査班編成などの詳細、使節団の成果を国民の利益と啓発のため刊行すべきことをフールスキャップ11ページに美しい筆記体で書き留めた膨大なもの。末尾には「宗教的寛容についての覚書」が添えられ、信仰ゆえに迫害されることのないようアッピールしている。フルベッキが外国伝道本部のフェリスに送っていた原本がブランズウィック神学校の図書館で発見された。

なお、使節団派遣に関わるフルベッキのもう一つの文書「一米人フルベッキの差出候書」が木戸文庫に収められていた。内容は①大使一行ノ回歴シタル顛末ヲ著述スル法、②政務上或ハ交際上ノ談判二於テ用ユベキ口啓と、③先進国の最善美は教育の賜物として、教育について考究すべき事項を列挙している。「これらは「米欧回覧実記」の「例言」にみられる方針とほぼ一致しており、実記がなぜ視察のあらゆる分野、様々な諸事項にわたってまで広範かつ精細、丹念な叙述をしているかを解く鍵を提供している」(田中彰校注「開国」)

④岩倉具視へのBrief Sketch逐条説明
1871年10月、フルベッキは岩倉に乞われて、大隈に提出していたBrief Sketchを再生し、岩倉邸で複数回逐条説明した。岩倉使節団はその二カ月後に横浜を出港した。フルベッキが使節団は自分の構想に基づいて実施されたと主張する所以である。

⑤キリスト教禁制の高札撤去(使節団最初の成果)
 1873年 2月の書簡フルベッキは「一週間前に外国宗教を禁ずる高札が撤去され、実質的に信教の自由が認められた」と喜びを露わにしたが、その数日前に教会問題を管理する教部省に「管理のための法律と規則の素描18項目81か条」を送っていたというから周到だ。なお、関連1873.2.24太政官布告第68号では「一般熟知の事につき撤去」と切支丹の語句が無いことから禁制は有効?」との説がある。(同志社大学土肥昭夫)

⑥フルベッキの生地オランダのザイスト
フルベッキは1873年4月から6カ月の賜暇を取り欧州旅行し、6月スイスで岩倉具視に会った後故郷ザイストを訪問している。数年前同地を訪問した井上さんに写真付きでご報告をいただいたが、フルベッキが19歳の時中国伝道師ギュツラフの説教を聞いて外国伝道に興味を抱いたモラビア教会の写真を拝見して感動した。同教派には宗教改革の先駆者でプラハ大学の総長も務めたヤン・フスがチェコ語で説教したのを咎められ1411年破門・焚刑に処されたことに端を発する長い歴史がある。

⑦その他エピソード

(1)グリフィスと岩倉の交流
「岩倉氏の娘二人が我が家を訪れた。 岩倉氏公邸での会食に姉と招待された。マレー夫人が岩倉氏に海外視察 の最大の印象を問うた。」(グリフィスは1870年岩倉の次三男がラトガースに留学した際同校に在学中で二人の面倒をみていた)

(2)フルベッキに学んだ前田正名・前田献吉・高橋新吉による「薩摩辞書」編纂
Webster辞書を典拠にフルベッキに学んだ3人が編纂した薩摩辞書(「改正増補和訳英辞書」)が、フルベッキの斡旋で上海にある米国長老教会の印刷所美華書院で1868年に印刷刊行された。(ナヴィゲータ―岩崎洋三)

英書輪読会:9月度部会報告「Ch.13 Among All Sorts and Conditions of Men (pp.240-254)」

日時:令和2年9月16日(木)13.00-15.00
場所:ZOOMによるオンライン開催
課題:Ch.13 Among All Sorts and Conditions of Men (pp.240-254)ナヴィゲーター:岩崎洋三

本日は13章15ページをナヴィゲーターのパワーポイントを駆使したリードの下、交代で音読しながら読み進めた。

この章は筆者グリフィスが日本の到着以来福井赴任まで大学南校教頭フルベッキ邸に7週間滞在中に目にしたことや、フルベッキが米国オランダ改革派外国伝道局長フェリスに宛てた手紙等が紹介されている。

なお、本には書かれてはいないが、この時期フルベッキ邸には、高橋是清(16才)が同居し、英語力を認められて、大学南校の教師の手伝いをしていて、下記殺傷事件に自伝について極めて詳細に書き残しているのは興味深い。

高橋は仙台藩の命で1867年勝小鹿の米国留学に随行したが、途中サンフランシスコで奴隷として売られてしまった事件は有名だが、一年後に解放されたタイミングで留学を切り上げて帰国途中の森有礼と同地で出会い、帰国後はその書生として東京の森邸で学んでいた。

1)新知識を求めフルベッキ邸に集まる人々
 フルベッキは開成学校教師・政府顧問として上京する前に、長崎に10年居て、同地に全国から集まっていた俊才を教えていたが、それら人材が中央および地方で枢要のポストを占めるようになり、日本語も達者な「フルベッキ先生」に教えを乞う人々が大勢押しかけていた。

グリフィスが書いている「弟が米国で学ぶ紳士、弟はその後各地の万博で活躍した」を調べたが、弟は手島精一(1870フィラデルフィア留学、1876フィラデルフィア万博、1878パリ万博随行、1881東京教育博物館長、日本で唯一の「博発会男」)、兄は田辺貞吉(留学後立法局を経て文部省、1879東京師範学校校長、後住友銀行本店支配人)の兄弟に違いない。

2)大学南校の隆盛ぶり
 フルベッキは本部宛書簡で、「学生数は996名、施設の制約で入学できなかった者200名以上、学部は英仏独の3学部、外人教師12名」と大学南校の隆盛ぶりを誇っている。同行誕生経緯は以下の通り、1869年8月昌平学校・開成学校・医学所を束ね「大学校」が誕生した。翌年1月「大学」と改称され、本校(昌平学校)の南(現在の学士会館)にある開成学校は「大学南校」と改称された。政府は259各藩に入学生を推薦させ(貢進生)300余名が推薦入学していた。
なお、大学南校発足に合わせて官費留学生制度(国費留学生制度)をスタートし、初回には目賀田種太郎が選ばれハーバードに留学している。

3)玉石混淆の外国人と外人教師採用の困難さ
 需要旺盛な外国人教師の採用にフルベッキは苦労していた。過去のキャリアは立派でも、世界を巡って横浜に流れ着く過程で身を持ち崩した輩も少なくなく、現地採用の困難なことをフルベッキは嘆いている。「いずれグリフィスを福井から呼び戻す予定」と本部に書き送った。

4)大学南校英人教師2名殺傷事件
 グリフィスがフルベッキと王子観光に行く予定の朝、大学南校の英人教師二人が襲われ瀕死の刀傷を負う事件が発生して、王子行きを取りやめて現場に急行する事態になった。この事件をグリフィスは主著The Mikado’Empire(皇国)に書き残しているが、当時フルベッキ邸に同居していた高橋是清は「自伝」の「第3章帰朝と青年教師時代」に「ダラース、リング事件の当時」の一説を設け6ページに亘って事件を詳述している。被害者の二人がこの日築地の遊郭で遊ぶため護衛を返してしまったため被害に会ったのが、一時は英人救出のため横浜から英国公使パークスが騎馬隊を引き連れて駆けつける一幕もあった。幸い日本政府の事後処理に納得して国際問題には発展しなかったようだ。

5)福井藩江戸屋敷でのグリフィス歓迎会
 グリフィスは自著「皇国」で、現在の常磐町にあった福井藩の江戸屋敷で開催された歓迎会の状況を詳細に記している。前藩主主催の歓迎会には宇和島藩他の大名・家老や多くの有名人が参会した。小弁務士として米国赴任が決まった森有礼が着物・二刀差し姿で出席してたことにグリフィスは驚いている。森が廃刀令の主張者だったからだ。グリフィスはこの森と鮫島尚信(パリ領事から外務次官)の二人が岩倉具視の信頼厚く、首都では「the legs of Iwakura」と呼ばれているとしているのは興味深い。また、静岡に居た勝海舟出席できなかったが、丁寧な歓迎の手紙をくれたとしている。

6)理想的な父親だったフルベッキ
 長崎で長男として生まれ、18歳で渡米したWilliamは、士官学校で学び、New York Natinal Guard の司令官(准将)にまで出世した。
Williamは友人に宛てた手紙で、「父であり、兄弟であり、親友」だったとして父親を絶賛している。そして自分の子の名に父親と同じGuido Fridorinと名付け、そしてその名は代々受け継がれている理由である。                    以上

文責:岩崎洋三

 

英書輪読会:7月度部会報告「日本のフルベッキ 10章 東京へ招聘される(後半として):P200-P215」

日時:令和2年7月15日 13:00~15:00
場所:ZOOMに依るオンライン開催
担当:市川 三世史
内容:

もし筆者グリフィスがこの時期に日本にいて、日本の変革を目で見て、肌で感じ取ったならば、まさに進行中の新生日本の希少な外国の立会人として、後世に名を遺したかもしれない。

——————————————————————————–1870年4月21日付けフルベッキ書簡内容:以下書簡は全てニューヨーク在住 神学博士 フェリス博士宛である。

□3月にラトガース大学に送り出した岩倉氏の二人の息子(具定および具経)への気遣い。

□開国後の10年間の状態を、1690年来日のE・ケンペルが記した「日本誌」の内容と比較し、「ペリーが門戸を開き、世界の文化と商品が日本に流入」として、その進展を列記:

■主要貿易国から数多の商品が新市場日本に到来。開港場や江戸・横浜にあふれ、人気となる。
■貿易上の古い習慣「役人の干渉」は排除された。
■陸海軍の組織、武器、制服が欧米式となる。
■乗合馬車、船舶航路と電信機能の開設、鉄道敷設契約の促進、外国機械の導入による鉄工場・造船所の建設、牛肉・パンなどの新食品の消費、服装・ミシンの導入などがあった。
■精神面における欧米知識の学習意欲が高揚し、外国語(英、独、仏)では大学・私立学校、西洋医学では病院と医学校の設立が増加。
■数紙の新聞の発行と「海外ニュース」「外電」の取り込み。輸入外国語書籍の驚異的急伸。
■法律・政治経済学・学術的研究・論理学を学ぶ留学生の海外渡航の急増。
■フルベッキ在駐の大学では、「ナポレオン法典(仏)」、「A・ペリーの政治経済学(米)」、「フンボルトのコスモス(蘭)」の翻訳出版の動き。
■「バックルの文明史(英)」、「ウエーランドの道徳科学(米)」の読者の普遍化など。
■新知識を求める多くの人が連日来訪する。10年前には想像すらできなかった。
■政局面では、新政府樹立の利害関係にからむ大規模な紛争と進展があるとみているが、詳述する時間がない。

³1870年5月21日付けフルベッキ書簡内容:
□可成りの地震の揺れを体感した。
□改革に追従できぬ多くの人々は「古き良き時代」に固執し、現状を理解していないが、時代は若い世代に移りつつあって、大きな変革が期待されている。

³1870年6月21日付けフルベッキ書簡内容:
□大学で授業6時間、家で生徒数名を教育、多勢の訪問客等で手紙を書く時間がない。
□今秋ニュープランズウイック留学の青年数名の、参加予定をサポート。
□外国の衣服、品々、知識が歓迎されている。
□キリスト教は禁止のままであるが、自分の努力が無に帰しはしないと信じている。

³1870年7月21日付けフルベッキ書簡内容:
□伝道局より、アメリカから青年教師数名派遣の通知が到着。現在求めるのは、化学、自然科学の教師、外科医。任地は越前の福井。先行者一名を今月同地へ派遣した。
■後続者に、頭脳明晰、思いやり、一般的知識と専門分野、特に化学に長じ、固い信念、堅実と敬虔さを期待。聖職者でなくとも可としている。

■医師ならばオランダ語の習熟者を希望。
□医学分野に導入すべき言語と制度につき、フルベッキは諮問を受けた。
□これにつき軍医総監石黒忠恵は、英米方式ではなく現在主流のオランダ医学の本流ドイツ医学をフルベッキに推奨し、その導入がさらに政府に建言された。その功績は大なりと、石黒はフルベッキの葬儀の際に新聞「天地人」に述べている。
ドイツ皇帝への要請により、著名な医師Dr.ミュレル、Dr.ホフマンが来日し、ドイツ医学は尊敬を受け、皇太子の婚儀において勲二等瑞宝章を授与された。

³1870年8月20日付けフルベッキ書簡内容:
横井小楠の甥、横井太平の要請により、米国人教師の肥後政府への派遣をフェリス博士に懇請。退役将校、夫人同伴の既婚者を希望。

³1870年9月21日付けフルベッキ書簡内容:
華頂宮殿下、柳本氏、白峯氏、高戸氏の紹介状をフェリス師に送り、助言と世話を乞う。

³1870年9月23日付けフルベッキ書簡内容:
華頂宮殿下についての追記。フェリス師は政府高官に既知の存在としている。
□米国プランズウイックへの留学生の増加に応じて設立の医学校と学問所に、越前藩主松平慶永(よしなが)から英語、教育全般、自然科学、鉱山技術、軍事指導の五名の教師の獲得を依頼された。同大学の校長職を受諾(1870年7月21日付け)。仕事はさらに増加し、彼の布教活動への想いはまた満たされなくなった。

³1870年10月22日付けフルベッキ書簡内容:
フェリス師の手紙への返事である。受領書簡の内容が判然とせぬため、フルベッキの真意が今一つ掴めない。布教活動に注力を願う思いは満たされていない。新政府が政治・外交・経済面で現在迷路中にあるのを見て、外国の影響を可能な限り遠ざけておきたい状況を理解している。
自身は誠実な人間として何の見返りも求めず、永く忍耐と辛抱に耐え、主の定めに従い尽してきた。我々宣教師は真の性質を主張し、伝承と迷信から生じたような恐ろしい生き物ではないと、日本に充分に証明しなければならぬとしている。
7~8名の外国人教師の管理で多忙を極めるが、それに苦情はない。必要がなければ、愛する子供たちと離れることに決して同意をしなかった。

我々の仕事のために祈ってほしい。キリストと共にあらんことを! と結んでいる。これは多忙で仕事に追い回されて、周囲を見ることもできなかったフルベッキの、寂しさの表現なのか?

追記:

明治維新の光と影:

明治維新は旧弊の打破、「正しい」新秩序の確立、「四民平等」の実現には至らなかった。

即ち、徳川二百年の政治形態は簡単に改革できなかった。日本はこれまで列強との間で関税自主権など多くの不平等条約を締結させられたが、この関係はそのまま幕府と平民との間に姿を変えて長期にわたり存在し、最底辺からの収奪が繰り返された。かような不条理が源となって、民心は政府を離れることが多くなった。

■維新の戦いにて新政府軍が百姓に公約として掲げ、この約束に反して一揆の一因となった年貢の半減令(赤報隊):

赤報隊は西郷隆盛や岩倉具視の支援のもと、慶応4年1月8日(1868年2月1日)に長州、薩摩の両藩を中心に結成し「年貢半減」を宣伝し、旧幕府に反発する民衆の支持を得たが、後日新政府は財政的に年貢半減を勝手な触れ回りで実現は困難としてこれを取消し、赤報隊に偽官軍の烙印(明治?年2月10日付け「回章」)を押した。

■徴兵制(山形陸軍卿:明治6(1873)年1月10日、旧暦5年12月6日、1973年に上奏)の内幕:

これは軍事権益を独占した武士(士族)の特権を奪うと認識され、士族反乱の原因となった。

兵役は官吏ないし支配階級・有産階級を全て免除し、被支配階級・無産階級のみの義務とした。

さらに、(1)戸主、(2)家督を受け継いだ者の孫、(3)独子独孫、(4)父兄に代わって家を治める者、(5)養子、(6)徴兵在役中の者の兄弟を免除した。これは戸ごとに壮丁一人を徴する封建的な賦役の徴集を示している。(中央公論社 日本の歴史第20巻 明治維新 井上清)

兵役は近代化システムや生活を地方に伝える面もあったが、不況下の零細農民には(暴力があっても)農作業よりも楽であり、毎日白米6合を食し、毎晩風呂にも入り、布団に寝ることができ(当時の農民はまだ藁で寝た)休日もあり、給料の支払いも安定して、明治時代には逆に「軍隊に行くと怠け者になる」という評判が立った。

徴兵制はその後大改正され1889年(明治22年)に、男性に国民皆兵が義務づけられている。太平洋戦争の敗戦後、昭和20(1945)年11月17日に廃止された(Wikipedia)。現在は憲法第18条の「苦役」に相当するとして認められていない。

■中央政府高官の高給:維新の中央政府の高官連は別格の高給をはみ、広大な邸宅を得て、大名のごとき生活を営んだ。さらに財政経済担当官僚は、維新戦費の消耗を補うべく、三井組・小野組他の大商業資本と結託して贅を極めた。その反面、士族、特に下級士族の窮迫を、政府は一顧にさえしなかった。

明治元年・2年の高官吏俸給表

官等 相当官職名 明治元年6月月給 明治2年8月年俸
一等官 輔相・議定・行政官知事 700両 1200石
二等官 参与・行政官副知事・府知事 600両 1000石
三等官 議政官議長・行政官弁事・行政官・判事・一等県知事など 500両 700石
四等官 権弁事・権判事・二等県知事など 300両 600石
五等官 史官・三等県知事など 150両 500石
六等官 二等県判事・一等訳官 50両 420石
七等官 書記・三等県判事 30両 340石

■常に収奪の対象となった階層、農民:
維新は農民の年貢納入先を幕府から政府に代えたのみであり、これが軽減されることはなかった。身分も固定され、職業の選択も許されず、他の職業人との結婚、養子縁組などを除き、耕作地を離れることも許されなかった。

税収の増加を見込める別の職種や産業振興による商業の多様化などの育成もなく、農民はその地方支配者のために米を生む動物でしかなかった。
中国の儒家の始祖であって且つ哲学者であった孔子ですら、その教えの中で、農民はその土地から離すべからずと説いている。かような不平不満は満ち溢れて農民の民心は政府を離れ、職人・商人と組む一揆の勃発は絶えなかった。

■大商業資本の政府支持:
官制度の整備、領地の拡大と共に新政府を強化したのは、この時期の三井・鴻池や大商人の新政府支持の恒久化である。彼らにとり戦乱が早期に収まれば、幕府・朝廷のどちらが勝利しても構わなかった。明治元年12月下旬、三井・島田・小野と京都の巨商は各千両を政府に献金し、明治2年2月21日に新政府の強制による5万両の一時借り入れにも応じた。

新政府の全面的勝利後は、京都・大阪・江戸・横浜を含む日本のすべての貿易港、すなわち商業と貿易の中心地域を完全に支配するに至った。全国および海外との取引を行う巨大商業資本は、否応なしに新政府に頼り、これを支持せざるを得なくなった。

新政府側にも軍資金と政治費用の調達先は、彼ら以外になかった。明治元年中の政府の彼らからの借入金の総額は約384万両であり、同年の政府の年貢・関税収入などである通常歳入額366万両を上回った。また政府は不換紙幣(太政官扎)を発行したが、その額は翌年5月までに4800万両に達した。

彼ら財閥はその財力を政府につぎ込んだが、これに引き合う以上の利潤を手に入れた。政府内の「贈賄」などは、し放題と言われている。ここでは彼ら財閥が日本の大蔵省、中央銀行の役目を果たしていたのである。

■解放令(または身分解放令:明治4年8月28日=1871年10月12日、日本太政官布告第449号)
「穢多(エタ)、非人ノ称ヲ廃シ、身分職業トモ平民同様トス」
この賤民制の廃止は自国制度の影の部分を外国に対して体裁を繕うことと、非課税であった賤民およびその土地を租税対象にに繰り入れる事を目的とした。賤民とは被差別部落民、穢多(えた:皮革加工業者および非人の管理者)、非人(墓守り、放免者、河原者、猿飼等の生業等の総称)、等を言う。この解放令はその後、壬申(じんしん)戸籍(明治5年、1872年)に形を変えて、華族、士族、平民の別なく、国民を居住地単位で登録する最初の全国的な戸籍となった。これで国家が全国民を直接把握し、徴兵、徴税などの行政管理の資料が作成された。

しかし明治政府は部落開放政策を一切取らなかった。部落差別、賤民の呼称は、関西地方を中心として、いまも根強く残っている。解放後は彼らの生活水準は逆に下落した。江戸時代にあった所有地の無税化や、死牛馬取得等の独占権は失われた。

一方で、皇族華族取扱規則が定められ、華族が四民の上に立つことが決まり、爵位制度と新貴族階級が登場した。
大久保利通らは身分制度の撤廃に消極的であった。板垣退助、江藤新平らは「全て人間は生まれながらに自由かつ平等である」と主張し建白書を提出したが、政府はこれを却下した。

註) 壬申戸籍の作成 (明治5年、1872年) によって、日本の当時の総人口が3311万人であることが判明している。

■階級制度のおよぼす刑罰の軽重:
改定律例(かいていりつれい:明治6年太政官布告206号、1873年6月13日付けの刑法典)が7月10日より施行された。律例とは一時的な法令であり、以降に補足・部分的改定が行われる性格を持っている。

この法令においても平民に課せられる刑罰は華士族と異なり、軽い罪を金子の支払いで逃れることは許されていない。また平民であれば懲役刑にされたても、華士族にはより軽い禁固刑があてられた。つまり四民平等は名のみであって、華士族と官吏は特権身分であった。すなわち当時、「人はすべて平等であるという理念」は存在しなかった。

■派閥による政府主導権の独占:
中央政府の指導的地位は長州:木戸孝允、薩摩:大久保利通、土佐:板垣退助、肥前:大隈重信、の派閥官僚により独占された。人は三名集まれば派閥を作ると言われるが、後年、土佐の板垣退助、肥前の大隈重信は、長州の木戸孝允、薩摩の大久保利通らによって追い落とされている。

■選挙権:
明治時代の参政権は一定以上の租税納入者のみに与えられた。日本女性の参政権は、明治時代はもとより太平洋戦争が終結するまで、与えられることはなかった。

要するに、明治維新には光の部分も多かったが、それに重なるように影の部分も多かったのである。

参考文献:

-日本の歴史 第20 明治維新 (井上清:中央公論社)-Wikipedia:アレキサンダー・フンボルト「著書コスモス」、ブラックストン、ウエーランド「道徳科学」、エンゲルベルト・ケンペル 「The History of Japan」、ナポレオン法典、A・レイサム・ペリー「政治経済学」、石黒忠悳(ただのり)、身分制度(平民、新平民、卒族、士族、華族、貴族、非人、賤民、穢多[えた])、大儀見元一郎、解放令、士農工商、社会階級、四大、職業選択の自由、自由民権運動、壬申(じんしん)戸籍、赤報隊、日本の選挙、普通選挙法、女性参政権、民法、

-フルベッキ書簡集(高谷道男褊訳:真教出版社)

-ブリタニカ国際大百科事典

-別冊正論 30 明治維新150年、産経新聞社

文責:市川 三世史

 

 

英書輪読会:6月度部会報告「第10章 東京へ招聘される(前半として:P180-P199)」

日時:令和2年6月17日 13:00~15:00
場所:ZOOMに依るオンライン開催
ナビゲーター:市川三世史

概要:この章の大半はフルベッキ書簡の紹介である。ここで著者グリフィスは、フルベッキ自身が最も重要と信じる「宣教活動」に、彼が極めて多忙なゆえ時間を割けぬという悩みを主に取り上げている。しかし一方、グリフィスの日本不在のこの時期に新政府は戊辰戦争のさなかにあって、その政権の樹立と確立のため最大の艱難辛苦を経験している。またこの時期に生じたもろもろの出来事は、新政府が「日本を統治する合法政府として国際的に認められる」ためにも、且つ日本の歴史的な転換点としても特に記録されるべき事項であるにも拘らず、著者の言及はわずかである。従って、これらを重要な政治的関連過程として取り上げ紹介した。
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-「五か条のご誓文」を境に、国内の統一・近代化政策の優先、外国交易による富国強兵を図り、欧米に比肩する力を備えるべきである、とする新政府の思想が明確にされた。

-日本の生い立ちや、オリジナリティを明確にし、国家統一の意識を国民に周知すべく、また天皇家の神的権威への畏敬を高めるため、「大日本史(水戸学者)」「日本外史(頼山陽)」の著述・編集があった。

-若い日本政府が列強に伍するためには、基本の法制、国家構成、金融、流通、産業、経済、文化、外交、宗教などすべてに経験が不足した。これらの分野についての助言と助力を求めて、門下生の輩出などですでに影響力を及ぼしていたフルベッキ氏を、教育機関の設立のため東京へ招聘することとなった。

-東京での彼の当初の仕事は、帝国憲法の改善、外国との条約の改正、外国への使節派遣の可能性の検討のための顧問とされた。

-明治2年6月11日、国家の近代化のため政府高官からなる使節団の派遣計画を、ブリーフ・スケッチとして大隈重信に提出。これは翌年11月の岩倉使節団の派遣として実現される。

-ブラックストーン(著書:英国法釈義)、ホイートン(著書:万国公法)等の近代法、政治経済学、西欧諸国の憲法などの翻訳に従事。

-翻訳作業に忙殺され、本来の崇高な「伝道」の仕事ができぬとして、悩みを手紙の中で述べている。この思いは切実であり、費用の大半を自己負担してでも、若い新人の派遣を望むと伝道局に訴えている。

-この間、旧幕府および奥羽越列藩同盟との間で、内戦「戊辰戦争」が1868-1869(慶応4年/明治元年-明治2年)年にわたり続いた。これは、榎本武揚5月22日(1869年6月27日)の投降をもって終結した。

注)戊辰戦争とは、船橋、宇都宮城、上野、梁田、箱根、東北(白河口、会津、平潟、北越、秋田、函館)等の各地での戦闘を言う。

内戦の平定をもって、列強は条約による局外中立宣言を解除し、新政府を日本統治の合法政府として国際的に認めている。

-明治天皇の即位(1868年10月23日/明治元年9月8日)により元号は明治となった。

-江戸を東京と、江戸城を皇居と改称した(1868年9月3日/明治元年7月17日)。

-東京の開市・新潟の開港(1869年1月1日/明治元年11月19日)

-新政府は新統治機構として、次の変革を行った:

■版籍奉還(1869/明治2年7月25日):諸藩主からの、土地と人民に対する支配権の朝廷への奉還。

■廃藩置県(1871年7月):廃藩と府県の行政単位への統一。各藩の発行した藩札などを、政府は全て肩代

わりして支払っている。このため、この移行は流血もなく受け入れられた。

-戊辰戦争は農民・商人をも経済的に大きく疲労させた。新政府の年貢半減令の取り消し、不換紙幣の乱発、

米価の高騰等は農民・商人の不満を高め、各地で一揆が勃発した。政府は有能者の中央政府への引き抜き、大地主の政府への結び付け(財閥の台頭)、征韓論への誘導などでこれを切り抜けている。

-徴兵令:武器の近代化により個人技に頼らぬ戦争形態への変化の対応と、列強との比肩、統一国軍設立の必要性から、1873年に陸軍省が国民の義務として発布。戸籍制度を前提としている。

文責:市川

英書輪読会:1月度部会報告「Verbeck of Japan」

日時:令和2年1月8日(水) 15:00~17:00
場所:日比谷図書文化館 4Fセミナールーム

①故赤間純一会員を偲ぶ
11月に赤間さんが他界されていたとの悲しい知らせが届いたので、生前の本人希望に沿って、バッハの「6声のリチェルカーレ」を流しながら、アーネスト・サトウのA Diplomat in Japan以来の英書輪読会の仲間で、20周年記念シンポジウムでは渡邊洪基を論じ、記念出版「岩倉使節団の群像」に寄稿するなど活躍された赤間さんを偲んだ。

Ch.ⅧThe Revolution of 1868 (1868年の革命)
この章15ページは、四国艦隊下関砲撃事件直後のパークス着任から戊辰戦争に至る「革命の時代」を描いているが、この段階では欧米列強との交渉も、国内諸勢力の統合も予見不可能だったとする一方、出来事を左右する二人の人物がいたとして、第二代英国公使ハリー・パークス(1865年6月着任)と、無国籍のフルベッキ(1859年11月着任、米国オランダ改革派宣教師)を挙げている。そして「二人とも同時期に中国のギョツラフのギュツラフの教え子だった」としているのは大変興味深い。

ギュツラフ(Karl Gutzlaff)の教え子
ギュツラフは1823年にオランダ海外伝道会からバタビアに派遣されたドイツ人宣教師。その後、中国伝道を志してロンドン伝道会に移籍し1832年に中国に着任した。聖書の中国語訳等の宗教活動に止まらず、香港政庁官吏としても活躍した。また、モリソン号で訪日を企てたり、日本人遭難者の協力を得てヨハネ伝福音書の日本語訳を出版したり等日本への関心も高かった。

このギュツラフが1849年に中国伝道キャンペーンで欧州出張した際に、19歳のフルベッキは生地オランダのザイストの教会でギュツラフの説教を聞き感動している。
また、ロンドンで13歳にして孤児になったパークスはギュツラフ夫人になっていた伯母を頼ってマカオのギュツラフ家に厄介になり、ギュツラフの手引きで初代駐日総領事になるオールコックの下で外交官の道を歩んだ。

教育重視
「五箇条御誓文」第5条で「知識を世界に求め大いに皇基を振起すべし」と謳い、キリスト教国の外国人教師に門戸開放したことは、新文明建設のためオランダに知と技術者を求めたピョートル大帝に勝ると日本の決断を評価している。

邪教禁制
御門の復権と攘夷で権力を得た新政府は、攘夷については妥協余儀なしとする一方、五榜の掲示により、改めて「切支丹邪教禁制」を強化し、浦上の信徒約4000人を諸藩に流配した。この措置は木戸孝允が決断し、大隈重信はパークスの非難を内政干渉と撥ねつけたが、日本で最も影響力をもつ人物になるフルベッキは、道理のみを用い迫害の力に勝利したと主張する。

⑥.日本人留学生の救済
革命によって留学生への送金が途絶えた際、フルベッキの派遣元米国オランダ改革派外国伝道局主事フェリスがアメリカに資金援助団体を組織して日本人留学生を支援した。多くの日本人留学生を受入れ支援してくれたことに対し、岩倉使節団がアメリカ滞在を終えて英国に向かう際に岩倉大使、大久保副使は連名でフェリス宛に感謝状を贈った。

(岩崎洋三記)