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実記輪読会:5月度部会報告 「第二十八巻漫識特府ノ記上(pp.151-169 )」

日時:2020.5.13(水)13.00-15.00、
ZOOMによるインターネット開催
範囲:第二十八巻漫識特府ノ記上(pp.151-169 )
ナヴィゲーター 岩崎洋三

インターネット開催は今回で2回目だが、従来よりも多くの会員に参加していただき、活発に議論され、終了後飲み物を持ち寄ってやる懇親会にも多くの方に残っていただきざっくばらんに意見交換出来たのは、嬉しい誤算だ。本日は使節団がリバプール訪問を終え、5泊6日でマンチェスターを視察する前半部分を、いつもの様に輪番で音読しながら、ナヴィゲータ―がパワーポイントで解説を加える形で進めた。

1)岩倉使節団英国に4カ月滞在、鉄道で全国を視察
使節団は最初の訪問国アメリカで、不用意に始めた条約改正交渉に手間取り、滞在がなんと約7カ月に伸び英国到着が大幅に遅れた。1872年8月17日リバプール経由ロンドンに到着した時には、ヴィクトリア女王が夏期休暇中で会えず、謁見は4カ月後の12月5日やっと実現した。

この間英国側は接待掛のアレキサンダー将軍、一時帰国中のパークス駐日公使、アストン書記官を付けて、産業革命(1760-1840)の花開いた英国各地を鉄道で丹念に案内し、使節団は鉄道を含む産業革命の成果をたっぷりと見学し、近代化の方向を見定めることになった。

2)マンチェスターは「Cottonpolis(綿業都市)で 産業革命の中心地」
 マンチェスターには、リバプールから、1830年に開通した世界初の実用鉄道Liverpool and Manchester Railway(全長30マイル半)に乗車した。岩倉使節団出発直前に新橋横浜鉄道が仮開業し、使節団は英国式鉄道を体験済だったで目新しさはなかった。マンチェスターはCottonpolisと呼ばれた綿業の中心地。綿業が栄えると1800年に9万人だった人口が1871年には48万人(含サラボール)に増加した。

周辺部を含めると2650社にも上る綿紡会社があり、婦女子を含む44万人労働者が従事していた。それらが産業革命に伴い、動力を水力から石炭を燃料とする蒸気機関に変更したから、地域は「煙霧濛濛」だった。使節団は棉紡会社の他、板硝子工場、製銕場、巡回裁判所、牢獄も見学した。

1842年から3年間同地に滞在したマルクスの盟友エンゲルスは、「1844年の英国労働階級の状況」を出版し、劣悪な労働条件を批判した。また、1966年に流行り、日本ではザ・ピーナッツ歌った「マンチェスターとリバプール」では「埃っぽくてロマンチックじゃないけど、煙と石炭片の後ろに偉大な都会の鼓動を見つけるわ」と歌われている。

 

なお、棉紡の原料綿花の多くを米国からの輸入に頼っていたイギリスは、南北戦争で輸入が途絶え時コットン・パニックないしコットン飢饉と呼ばれる。

3)大歓迎された使節団、背景に対日輸出拡大の目論見
市庁舎の壁面に1872年10月に日本の岩倉具視特命全権大使一行が、英国の成功した行政、産業、商業を学ぶマンチェスターと北西部を訪れたこと、岩倉大使が丁寧な謝辞を述べ、日本へ招待したことを公にしている。 

 もちろん日本との貿易拡大意欲は旺盛で、ビジネスマンとの会合も少なくなかった。因みに蒸気機関車の対日輸出が、1871年から1911年の間に1023両に上るが、その中心がマンチェスターとグラスゴーだった。 

4)文化度も高いマンチェスター
使節団は45日のマンチェスター滞在中二度も「芝居」に案内された。「Love Chaseというコメディーは近年も「Poetry of the Month」に輝いくほどの名作らしい。また、二度目はシェイクスピアの「Henry Ⅴ」だった。使節団が泊まったQueenHotelは、工場を持つ繊維商が自宅として建てたもので、有力貴族に混じってCharles DickensWilliam Thackeray等の作家を招く文化人だった由である。 

6)綿業都市の悲劇、1861-1865Cotton Famine(Cotton Panic)
綿花の大半の輸入をアメリカに依存していたイギリスは、南北戦争で綿花輸入が途絶えたことで、大量の工場閉鎖、失業(75%がレイオフされた)に見舞われ、政府は30万磅の救済資金を用意したが、十分ではなく海外移民を余儀なくされ労働者も少なくなかった。使節団が三日目に案内されたAlexandra Parkはその時の失業対策事業で作られていた。

7)久米が書かなかった、禁酒運動年次総会への招待
英国側の記録では、使節団は二日目に、6000人収容のFree Trade Hallで開催された禁酒運動団体*の年次総会に招待され3000人の参加者に大歓迎された。そしてその夜は市長宅のBuffet Dinnerに招待されたが、いずれも実記には書かれていない。
Lancashire and Cheshire Band of Hope and Temperance Union

以上

 

 

歴史部会:3月度部会報告「大蔵省総括」

日時:4月20日 10:00~12:30 オンライン開催

新型コロナウイルス対策の為日比谷図書文化館が閉鎖されたためにZOOMによるオンライン部会開催となった。

内容
明治維新初期の大蔵財政
明治政府の財政は政府紙幣と借入金で出発した(大内兵衛)

由利財政時代と評価 -由利財政の研究(辻岡正巳)
徴士第一号として、新政府の参与となった由利公正は、太政官札の発行を建言するが、参議たちの大反対にあって頓挫しそうになるが、岩倉具視の一存で、不換紙幣の太政官札が誕生する。
大隈財政時代(1873-1880) 大久保政権~佐野常民(1881)
松方財政時代(1881-1892) 緊縮(デフレ)財政、官営事業の払い下げ。

横浜製鉄所接収 新政府は同行から横須賀製鉄所の接収に必要な50万ドルを1868年9月に借り入れ旧幕府の仏ソシエテ・ジェネラルの債務を返済し接収を完了した。
鉄道建設公債 大隈重信・伊藤博文・井上馨達は殖産興業を図る為に鉄道建設を企画。
1870年 にパークスの紹介で英国人ホレーショ・ネルソン・レイと借款契約を結んだ。技師の雇用及び資材の購入までレイに委任した。

秩禄処分とは? その経緯 財政バランスの為、秩禄を漸減させた
明治5年時点で、華族・士族(人口6%)への秩禄費用は歳出の30% 、1873年12月 秩禄奉還を申し出た者に、秩禄公債とて半分を現金、残りを8%利付秩禄公債(満期、1884年4月)で支給。

第一国立銀行開業 伊藤博文は米国式ナショナル・カレンシー・アクトに倣った国立銀行(国営という意味ではなく全国という意味)を提唱、吉田清成はイングランド銀行に倣った中央銀行を提唱して対立した。 1873年(明治6年)に渋沢栄一により第一国立銀行が創設された。

松方財政 戦費増大の為に明治通宝の大増刷を行ったので明治10年の西南戦争直後からインフレが拡大した結果、明治13年2月に大隈は大蔵卿を辞した。佐野常民大蔵卿は1年たらずで終わった。 松方正義は明治11年にパリ万国博覧会副総裁として渡欧し仏の大蔵大臣の レオン・セイからベルギー国立銀行制度に倣った中央銀行の設立を勧められた。

日本銀行開業 明治15年6月27日 日本銀行条例公布
同10月10日に中央銀行である日本銀行は開業した。

明治時代財政の総括 疾風怒濤の時代、概ねうまくやったと言える。

参加者:小野、吉原、岩崎、植木、福島、近藤、畠山、村井、容、山本、久保(郵船)、加藤(郵船)

文責 吉原

実記輪読会:4月度部会報告 第二十七巻『里味陂府ノ記 下』(pp.135-150)

日時:令和2年4月8日(水) 13:10~15:00
場所:オンラインミーティング

1) ZOOMで「在宅勉強会」

 48日(水)の輪読会は、ZOOMを使ったネット上のビデオ会議に、参加者が自宅からパソコン、タブレット、あるいはスマホで参加するテレワーク形式で開催された。 初めての試みだったが、メンバーの吉原さんが前広に準備・テストを繰り返してくれたお陰で、定例開催場所の日比谷図書文化館のセミナールームがコロナ騒ぎで使えなくなる前に準備が整い、慌てることなく「在宅勉強会」に切り替えられたのは幸いだった。 

 午後1時に、シカゴの村井さんを含めて7人が画面上に揃い、ナヴィゲーター役の冨田さんが急用で欠席になった穴は岩崎氏が代行して初めての「在宅勉強会」がスタートした。冨田さん作成のレジメ(別添)を参照しつつ、いつものように部分部分を輪番で音読の上、解説・質疑応答する形で会を進めたが、初参加の方から「音読の良さを実感した」と言っていただけたのは嬉しかった。 

2) 本日の課題は「第27巻リヴァプールの記下(全17ページ)」

 830日に見学した造船所では巨大船(4000トンクラスと思われる)が2隻建造中だった。英国では、当時世界最大の船会社が太平洋と大西洋を繋ぐ新航路用にグラスゴーと合わせて12隻建造の計画を進めていたが、久米はその大掛かりな作業状況と重量物を移動用クレーンの仕掛けを詳細に描いた上、「製作場には図引が肝要」なのに、「性質機敏な日本の民は、思慮を厭い、進歩を失えり」と嘆いている。

 91日に訪問した大礼拝堂では巨大パイプオルガン(パイプ数7737で当時英国最大)で、2曲(リストのマーチとメンデルスゾーンの結婚行進曲)の演奏を聴き「殷々として大音律堂に充つ」と感激している。

 次いでリバプールから70キロ離れたクルー市の鉄道車両工場を見学した。1830年に世界最初の実用的鉄道をリバプールとマンチェスター間に開通させた英国では機関車・レールの生産が盛んで、国内はもとより、欧州各国、さらにはインド、オーストラリアにも輸出され、今は「支那にも架せんことを企てる・・・・鉄の利たる真に無量なるかな」と結んでいる。 

3) ZOOM勉強会の可能性 

 終わってから、各自が飲み物を持って再集合し、「バーチャル飲み会」を試みた。これも含めて、ZOOM輪読会が日比谷に集まってやるリアル輪読会と感覚的に大差なく思えたのは収穫だった。「日比谷は遠くて通えないが、この形式だったらぜひ出たい」、「広い場所では声が聴きにくかったが、ZOOMだとイヤフォンで良く聞こえる」という方々もいらっしゃることを考え合わせると、在宅輪読会をしばらく続けて良さそうに思えた。(岩崎洋三記) 

緑色の文字の部分をクリックすると表示される冨田さん作成レジメのP.3は水澤周さん作成「米欧回覧実記辞典」を、フルベッキ輪読会の市川三世史氏がデジタル化してくれたものです。

 

実記輪読会:1月度部会報告 第二十五巻「ロンドン市」ノ記 下

日時:令和2年1月8日 13:30~15:00
場所:日比谷図書文化館 4Fセミナールーム

明治5年8月11日(1872年9月13日)マーサーズホールにて夕食会。マーサ―ズホールはシティ地区にある当時の有力繊維業者マーサーズ商会の建物で、食事を饗する、いわば東京会館のような社交場。現在も営業しており、往時のままと思われる立派なシャンデリアも現存。15日小学校見学、岩倉使節団は必ず当地の学校を視察しており、新しい国を創るために教育重視の姿勢が伺える。16日ロンドン塔、電信局、郵便局視察。アジアやオーストラリアに至る海底電線網が1870年頃に整備されており、新しい世界の仕組みを実見するのに時宜を得た訪問であった。17日ロンドン南郊のサイデンハム(シデナム)の水晶宮(クリスタルパレス)を視察。1936年に焼失したので現存していない。18日ハリー・パークス宅に招かれる。21日大久保・山口副使造幣局視察。25日大英博物館視察。

番外編:前回議論になった二院制に至るイギリス議会制度の発展経緯を調べた。始まりは1215年のマグナカルタ(大憲章)に遡る。貴族・教会・都市に封建的特権が認められ、国王は徴税のためには議会を開き彼らの同意を得る、となった。1265年この原則を無視した国王に貴族側が反乱を起こし、議会(パーラメント)を開かせたのが始まり。その後戦費調達のために頻繁に議会開催の必要性が出て、議員として貴族・聖職者・騎士・市民が選ばれた。1330年代、貴族・聖職者の上院と騎士・市民代表の下院に分離されたが、絶対王政下で下院の力が強まり、1600年代の清教徒革命、名誉革命を経て立憲君主制が確立した。更に1721年首相となったウォルポールが1742年選挙で破れ多数党に政権を譲ったところから、多数党が与党となり内閣を組織するという責任内閣制が定着した。

(冨田兼任記)

第53回i-Café Music 開催報告『築地居留地と近代音楽―讃美歌との出会い―』 

日時:令和2年2月16日(日)14:00~15:00
場所:サロンガイヤール 四谷

第一部のお話築地居留地研究会の理事で元明治学院大学客員教授の中島耕二氏をお迎えして築地居留地と近代音楽―讃美歌との出会い―』 と題して、日本の近代音楽が同居留地から始まったこととを、具体例を多く交えながら語っていただいた。

1869(明治2)年に開設された築地居留地には、外国商社が横浜に留まったため、主にキリスト教宣教師による教会や青山学院、女子学院、立教学院、明治学院、女子聖学院、雙葉学園等の前身が設立され、讃美歌が響いていた。童謡の♪もしもしかめよ、かめさんよで始まる「うさぎとかめ」や文部省唱歌の「夏は来ぬ」、歌曲の「からたちの花」それに長野県民歌「信濃の国」など良く知られた曲を作った日本の代表的な近代音楽家たちは築地居留地と深い関係を持っており、その原点に讃美歌があったとのお話は説得力があった。
ソプラノお二人とi-Café Singers4人が「にわか聖歌隊」となり、お話のタイミングに合わせて讃美歌や、それを元歌にした唱歌等を逐次演奏した。

第二部 ♪ミニ・コンサートは、ソプラノの森美智子さん、武藤弘子さんをお迎えして、讃美歌から唱歌・日本歌曲へ~と題して、讃美歌や居留地と関係のあった滝廉太郎や山田耕作の歌曲などを、植木園子さんのピアノ、i-Café Singersの合唱を添えて披露した。この中で、2007年に「日本の名歌」にも選ばれた明治17年(1894)の日本唱歌「仰げば尊し」のメロディーが、実は1871年にアメリカで出版されたSong for the Close of School から借りたものだったと2011年に明らかになったのはドラマチックで、Singersは双方の歌を披露した。

第三部 交流会は、築地居留地研究会理事長水野雅生さんに乾杯の音頭をお願いして始まった。キッチンマスター役の沼崎有さんが、講演そしてコンサートと同時進行でオープンキッチンでプロの腕前を振ってくださり、交流会は大変盛り上がった。明治洋食の典型として選んだ「海軍カレー」には、長い行列ができた。(岩崎洋三記)

歴史部会:2月度部会報告「使節団の群像3」

日時:2月25日 13:30~16:30
場所:日比谷図書文化館4Fセミナールーム

大使随行及び大蔵省からの派遣メンバー 5名

1.田中光顕(たなか みつあき)1843‐1939 高知 29歳
  大蔵省理事官

小野博正

明治の黒幕的巨魁。長寿全うした官僚政治家
 土佐藩家老・深尾家家臣の浜田金治の長男として土佐に生れ、土佐勤皇党に参加、文久3年(1863)の土佐勤皇党の弾圧を契機に脱藩して高杉晋作の弟子になる。戊辰戦争で活躍し維新後は新政府に出仕し、岩倉使節団では大蔵理事官として参加し、会計を一手に引き受け、南貞介の銀行破産事件にも、田中の堅実さで公金の被害はなかった。

明治12年(1879)陸軍局会計部長
1885‐1889 元老院議官初代内閣書記官長
1885‐1888 会計検査院長
1887‐1888 警視総監、学習院院長などの要職を歴任
明治20年(1887)子爵となり華族に列する。
明治40年伯爵と成った。
明治42年、西本願寺別荘買い上げ収賄疑惑で辞職し政界から引退するが、97歳の天寿を全うする。従一位勲一等。

五辻安仲(いつつじ やすなか)1845 – 1906 公家 27
大使随行員 式部助

小野博正

明治天皇東京行幸の先発隊長 宮内庁式部寮理事功程編、子爵
 宇多源氏200石、源雅信の子、時方を始祖とする堂上公家半家の名門・五辻家に生まれる。慶応3年12月王政復古で三職書記御用掛となり、明治元年には西郷吉之助、大久保一蔵、桂小五郎、井上聞多、伊藤俊輔らと同列の参与となり、国内事務局権判事を拝命、明治2年、東京・招魂社の創建には、天皇勅使を務めている。旧官制の弾正大弼、少弁を歴任し、式部助として岩倉使節団の大使随行として加わる。

五辻は、回覧中は侍従長・東久世通禧理事官随行で、村田新八と通訳池田寛治らと行動を共にしている。明治5年帰朝、「宮内庁式部寮・理事功程」を理事官・東久世通禧と連名で提出している。式部助従四位の時、『神社祭式』を編纂している。三條実美文書に、五辻書簡があり「叙位進階内規両様・華族叙位進階内規」の清書提上(明治20年)したことが記録されており、三条の華族問題処理・人物評価の相談役になっていたことが窺える。
明治22年-26年は大膳太夫を務め、天皇の側近に努めている。

沖 守固(おき もりかた)1841‐1921 鳥取 31歳
大蔵七等出仕 大蔵随行
栗明純生

 鳥取藩士・江戸詰絵師沖一峨の長男として天保12年(1841)江戸藩邸内で生まれる。父から狩野派の画を学ぶ一方で、漢文を萩原緑野、大橋訥庵に学ぶ。明治4年大蔵省に出仕、その後岩倉使節団の田中光顕理事官随行を命ぜられる。一行とはアメリカで分れ、自費留学で英国に向かう。以降7年間英国留学する。

明治11年に帰国し内務省少書記官となり、明治14年に野村靖の後を受けて、神奈川県令となり8年間務めた。この期間に日本初の近代水道敷設など横浜の近代都市化を推進した。明治23年帝国議会開設に伴い貴族院勅選議員に任じられ、死去するまで在任した。

次いで明治24年から滋賀県知事、和歌山県知事、大阪府知事、愛知県知事を歴任し、明治33年には男爵に叙せられた。

彼は日本と西洋、封建と近代、文化(絵画)と政治、中央と地方の二つの対立項を渡り歩いた人物と言えそうで大正元年(1912)に亡くなっている。

池田寛治 (政懋)(いけだ まさよし)1846 – 1881 佐賀
四等書記官

吉原重和

佐賀藩士の彼は長崎の済美館に学びフランス語を習得。
四等書記官で岩倉使節団に参加、米国からヨーロッパには岩倉使節団とは先行している。1872年11月2日に、パリのホテルドロールビロンに投宿した成島柳北の『航西日乗』には、11月4日に「阿部氏帰国。池田寛治氏に誘われて、市内の浴場に赴く。」8日「昨日岩倉使節団に先行して着いた安藤太郎、池田氏とボアドブロン公園に遊ぶ」11日「長田、池田、安藤三氏とワランチノの歌舞場を見る」とある。

彼はパリ滞在中は公使館付け要員になっていた模様であるが大久保に随行して帰国した。大久保は明治7年に清国へ全権弁理大臣として乗り込んだ時に、法律顧問として随行した仏人ボアソナードの通訳として池田寛治を随行させた。池田にとっては、4年後の大久保の暗殺と、明治6年と明治14年の変による佐賀藩出身者や田辺太一の政府離れが、その後の出世に響いたかもしれない。天津領事、大蔵省少書記官、長崎税関長を務めたが、35歳で早世した。

阿部 潜 (あべ せん)1839 – 没年不明 幕臣33
大蔵省七等出仕
小野博正

沼津兵学校創立の立役者 尾去沢鉱山にも関係
 幕臣・阿部遠江守正蔵の三男として江戸に生まれ蕃書調所に勤める。江戸城開城の直前に、江戸城の金蔵より11万両を盗み出して、沼津兵学校の創設の資金とする。沼津兵学校は、江原素六と企画して、西周を兵学校頭取に招いて、田邊太一、原田一道ら20名を教授陣に招聘して開設した。
明治2年 沼津奉行、静岡藩少参事兼軍事掛となる。
明治3年 薩摩藩の市来四郎に招かれて、鹿児島兵学校創設に
向け、鹿児島赴任のため軍事掛少参事を逸職
明治4年 大蔵省七等出仕・大蔵省勧農寮(1871―72)所属と
なって、岩倉使節団に随行する。使節団では耕牧事務
取調出役とされて、若山儀一、沖 守固、岩山敬義,
由良守慶、野口富蔵らと同役である。アメリカのフィ
ラデルフィア以降、肥田理事官の別働隊として、視察
にあたった。

明治5年11月4日日本に帰国後明治9年から20年にかけて尾去沢鉱山の経営に深くかかわる。多くの幕臣出身の使節団員は、次第に新政府の方針と合わずに官業から疎遠になっていくようで阿部もその例に漏れない。

以上

英書輪読会:1月度部会報告「Verbeck of Japan」

日時:令和2年1月8日(水) 15:00~17:00
場所:日比谷図書文化館 4Fセミナールーム

①故赤間純一会員を偲ぶ
11月に赤間さんが他界されていたとの悲しい知らせが届いたので、生前の本人希望に沿って、バッハの「6声のリチェルカーレ」を流しながら、アーネスト・サトウのA Diplomat in Japan以来の英書輪読会の仲間で、20周年記念シンポジウムでは渡邊洪基を論じ、記念出版「岩倉使節団の群像」に寄稿するなど活躍された赤間さんを偲んだ。

Ch.ⅧThe Revolution of 1868 (1868年の革命)
この章15ページは、四国艦隊下関砲撃事件直後のパークス着任から戊辰戦争に至る「革命の時代」を描いているが、この段階では欧米列強との交渉も、国内諸勢力の統合も予見不可能だったとする一方、出来事を左右する二人の人物がいたとして、第二代英国公使ハリー・パークス(1865年6月着任)と、無国籍のフルベッキ(1859年11月着任、米国オランダ改革派宣教師)を挙げている。そして「二人とも同時期に中国のギョツラフのギュツラフの教え子だった」としているのは大変興味深い。

ギュツラフ(Karl Gutzlaff)の教え子
ギュツラフは1823年にオランダ海外伝道会からバタビアに派遣されたドイツ人宣教師。その後、中国伝道を志してロンドン伝道会に移籍し1832年に中国に着任した。聖書の中国語訳等の宗教活動に止まらず、香港政庁官吏としても活躍した。また、モリソン号で訪日を企てたり、日本人遭難者の協力を得てヨハネ伝福音書の日本語訳を出版したり等日本への関心も高かった。

このギュツラフが1849年に中国伝道キャンペーンで欧州出張した際に、19歳のフルベッキは生地オランダのザイストの教会でギュツラフの説教を聞き感動している。
また、ロンドンで13歳にして孤児になったパークスはギュツラフ夫人になっていた伯母を頼ってマカオのギュツラフ家に厄介になり、ギュツラフの手引きで初代駐日総領事になるオールコックの下で外交官の道を歩んだ。

教育重視
「五箇条御誓文」第5条で「知識を世界に求め大いに皇基を振起すべし」と謳い、キリスト教国の外国人教師に門戸開放したことは、新文明建設のためオランダに知と技術者を求めたピョートル大帝に勝ると日本の決断を評価している。

邪教禁制
御門の復権と攘夷で権力を得た新政府は、攘夷については妥協余儀なしとする一方、五榜の掲示により、改めて「切支丹邪教禁制」を強化し、浦上の信徒約4000人を諸藩に流配した。この措置は木戸孝允が決断し、大隈重信はパークスの非難を内政干渉と撥ねつけたが、日本で最も影響力をもつ人物になるフルベッキは、道理のみを用い迫害の力に勝利したと主張する。

⑥.日本人留学生の救済
革命によって留学生への送金が途絶えた際、フルベッキの派遣元米国オランダ改革派外国伝道局主事フェリスがアメリカに資金援助団体を組織して日本人留学生を支援した。多くの日本人留学生を受入れ支援してくれたことに対し、岩倉使節団がアメリカ滞在を終えて英国に向かう際に岩倉大使、大久保副使は連名でフェリス宛に感謝状を贈った。

(岩崎洋三記)

英書輪読会:11月/12月度部会報告「日本のフルベッキ 第7章」

日時:令和元年11月20日及び12月18日 15:00~17:00
場所:日比谷図書文化館 4Fセミナールーム

「日本のフルベッキ 第7章(門戸開放)」(大森東亜)

Verbeck of Japan、Ⅶ The Doors Opening , p.115~141

7章では1864年禁門の変と長州征討、四国艦隊下関戦争から、1868年明治維新までの日本の動乱期を幕府および佐賀藩の英語教師として長崎で体験したことを物語る。

来日6年目、禁門の変や4ヵ国(英・仏・蘭・亜)連合艦隊下関砲撃事件を通して日本の政治が天皇を戴いた勢力が政権を担い、敵対者は反逆者となる仕組みを幕府と長州との内戦により知る一方、日本の時代環境が中世の暗い制度下にあり、戦争は悲惨であるが戦いなしで難局を克服するのは困難だと見る。この動乱期にフルベッキが渦中の両サイドの人士から信頼できる人物であることが知られ全国から人々が情報と書籍を求めてやって来る。フルベッキは訪問者に喜んでもらうべく真摯な応接に努める。若き時代に修得した工学技術の知識を提供する一方、来訪者の様々の情報を選別し本国の本部に報告する。フルベッキは外国の文明を知りたいと思う若者に英語およびオランダ語のほか医学を除き、数学、測量、物理学、化学、兵学等を教え、当時、技術者で語学ができる者が大変役立つことを自覚する。時に肥後藩からの蒸気船購入の斡旋に応えるとともに各藩からの招きも受ける。長崎奉行の設置した長崎洋学所の英語教師委嘱を受け、フルベッキは自活する宣教師となる。横井小楠の甥2人の留学斡旋を手始めに多数の留学生を米改革派教会を通してアメリカに送り出す。また、佐賀藩士大隈重信や副島種臣らには新約聖書とアメリカ憲法を教える。

とりわけ漢訳聖書をもとに佐賀藩家老の真剣な聖書知識の求めに3年も応じた後、藩士2名とキリスト教受洗の申し出があり、フルベッキは改革派教会の方式に従って洗礼を行い本来の宣教師としての役割を初めて果す。この間フルベッキの派遣母体、オランダ改革派教会がアメリカ改革派教会に名称変更したことへの賛意と日本のカトリック活動への所感と併せ、長崎では宣教活動を表立って行えなかった実情が語られる。また門下生の僧侶が江戸でキリスト教誹謗のための小冊子を刊行したことに大変苦慮した。

長崎での活動を振り返り、身の危険と怖れがなかった訳ではなく、自身家族の安全のため上海への一時避難もあり、一般の暴動の恐れのある時は拳銃に弾丸を装填したが、自身は個人的暴力の危険はなかったと語る。こんご適切に仕事をしてゆくためには人々の信頼を得ることと日本語を習得することが肝要なほか、人々との交際ではキリスト信徒の義務をはたしていくことと親切と寛容を示すことが求められていると記す。

文責:大森東亜

 

実記輪読会:2月度部会報告「第26巻 里味陂府ノ記 上」

日時:令和2年2月12日 13:10~15:00
場所:日比谷図書文化館 4Fセミナールーム

明治5年8月27日
パークス、アレキサンダー、及びアストンの同伴で英蘇の各地を総勢9名で廻った。リバプール市はランカシャー州南部の要港で英国第二の都会。1871年の人口は50万3874人、米国との往来の港、毎日平均53隻が大西洋に出ていく。港口にドックを造った。煤煙がすざましく上層階級の人間でも平均寿命は35歳、下層の労働者は15歳。リバプールを囲むランカシャー、チェシヤーの両州に工場が多い。リバプールに到着したのは伊藤、大久保、木戸の3副使と書記官の何礼之、林董、畠山義成、理事官の吉田清成、田中光顕の9名だが久米は8月28日に一日遅れて山口、大鳥圭介と共に追いついた。

8月28日
午後1時半に馬車でタウンホール到着、市長が出迎え議場に案内された。その後市内の取引所を訪問。
午後3時にホテル前で消防夫の訓練を見た。
夜7時からタウンホールで市長招待の宴会が開かれた。

現在でもリバプールの観光名所であるAlbert Dock(アルバート・ドック)は1846年にオープンした世界初の不可燃性の倉庫システムで、鋳鉄、レンガと花コウ岩で建設されていた。ドックは船の修復や係船、荷役作業のために築造された施設で、1848年には世界初の水圧を利用した貨物用昇降機が取り付けられた。

久米達が見学したのは:
・水門の開閉を見た、ドックの両側にウインチがあり双方で回すと橋板が移動し橋の上を往来が出来る。同時にドックの両扉が中央で合わさって水門が閉まる。
・穀物倉庫を見学、この倉庫は煉瓦と石による6階建ての建物でドックの3方を囲むように出来ている。
・ドライドック 船の修理の為の乾ドックを見た。
・砲台を見た。
・キューナード・ライン所属の「Cuba」という船を見た。
・石炭の積み降ろし作業を見学。
・タバコ倉庫を見学した。

以上

(文責 吉原重和)

歴史部会:1月度部会報告「岩倉使節団の群像2」

日時:令和2年1月27日 13:30~17:00
場所:日比谷図書文化館 4Fセミナールーム

1.久米邦武(発表者:小野)
エンサイクロペディア的見聞録である「米欧回覧実記」100巻を書いた著作の人であり佐賀の大教養人であった、藩校弘道館に学び昌平黌で古賀謹一郎にも学んだ。閑叟の蘭癖と実証主義的科学精神が久米を鍛えた。 回覧中は、畠山と久米は、岩倉、大久保、木戸、山口の六人と何時も一緒だった。欧米回覧の体験が歴史家への意識を育み「神道は祭天の古俗」筆禍事件を起こしたとも言える。

2.安場保和(発表者:芳野)
米国から先に帰った人物として注目される。英語も判らずこれ以上長居して国費を乱費するに忍びないと、岩倉に「我が国拓殖の道」を志すと言い残し、帰国すると福島県令、愛知県令、福島県令、北海道庁長官と地方行政に力を入れる。彼は、人材登用にも才能を発揮、のちに娘婿となる後藤新平を始め、斎藤実(後の首相)や三大疎水の一つ安積疎水開発をのちに主導する中條政恒(福島県課長)などを育成して日本の近代国家の基礎整備に多大な功績を残した人物である。硬骨漢で豪快無私な人柄は、もう一人の地方行政官として評判の悪かった三島通庸と対極をなす。

3.中山信彬(発表者;吉原)
佐賀藩士の彼は蕃学稽古所で大隈重信達と学んだ。明治3年兵庫県知事に転任した後岩倉 大使随行として日本を出発し、米国、欧州を歴訪し帰国後、外務省五等出仕となる。
理事功程「中山信彬報告」を提出以後、外務権大丞、兼二等法制官を務めた。五代友厚が渋沢に依頼して第一銀行にいた中山を1878年7月19日に大阪株式取引所頭取として迎えた。中山は渋沢の子分だったので岩倉使節団に参加したのも大隈か渋沢の推薦によるものと考えられる。

4.野村靖(発表者:栗明)
1842年(天保13年)長州藩萩の下級武士(足軽)入江嘉伝次の三男として生まれる。吉田松陰の松下村塾に入門して尊王攘夷運動に傾倒、維新後は藩政に参画、後に政府に出仕し、宮内太丞を拝命、外務大書記の時、岩倉使節団に加わり欧米視察する。
政界引退後は『留魂録』など松陰の書物を通じて、松陰思想の普及に努めた。また、野村は明治天皇の娘、冨美宮・泰宮両親王の養育係を務め、鎌倉の御用邸にて66歳で没す。

5.内海忠勝(発表者:小野)
吉敷毛利家の家臣・吉田治助の四男で山口吉敷に生まれ、大村益次郎塾で、蘭学、兵学を学ぶ。その後、伊藤博文に認められて、岩倉使節団に参加し、西洋文明への目を開かれて、帰国後、七つの県知事を歴任して、内務大臣、男爵まで昇進を重ねる。長州閥にうまく乗っての人生だったが、時代の潮流を生かし、最後まで明治維新実現への初心を貫いて、彼なりに時代を切り開いた人物だったのではないだろうか。

(文責:吉原重和)

実記輪読会:11月度部会報告「第23巻 倫敦府の記 上」

日時:令和元年11月20日 13:10~14:50
場所:日比谷図書文化館 4Fセミナールーム
内容:第23巻倫敦府の記 上 p64-p79 7月15日~7月30日 

7月16日 晴 午後1時 外務宰相ロートグランウェル宅訪問。ヴィクトリア女王はスコットランドの離宮に滞在中のため使節団は待つことに決定宰相宅のディナー待ちの間、ケンシントンの博物館を見学。

7月17日晴 駐日公使ハリー・パークスの誘いでブライトン(サセックス州の避暑地)へ。

7月17日晴 ロンドン市長が来訪。

7月23日晴 パークス、アレクサンダーの接待で汽車でグランドフォードへ。北白川宮、伏見宮が同行

7月24日晴 ブランドフォードで大演習見学後、ポーツマス市(英国海軍本拠地)へ

7月25日晴 マウンディ提督の官邸を訪問。昼食の接待を受ける。その後、デュークオブウェリントン号(海軍練習船)に乗船し人造石材製作現場(奴隷が従事)や造船所のドック建設を見学。ドッグ内で新発明の甲鉄艦(回転砲台を備えた砲艦)が砲撃実験で全くの無傷であったことからイギリスの海軍力に感服。その後ホテルへ。

7月26日晴 午後 ①港内係留の「記念艦ヴィクトリー号」(トラファルガー海戦の旗艦船)見学。提督ネルソンの遺品を見物しネルソンの鋭気を感じる。②ランチで「ミノトール号」(1868年完成の装甲船)見物 ③「ハーキュリーズ号」(1870年完成の甲装艦)見物 ④ノートン(港口の砲台)見物。その後宿舎へ。

7月27日晴 朝、陸軍の調練があった。司令官宅で昼食。その後兵営を一巡。夕方ロンドンへ。

7月28日 午後2時からリーゼントパークの西北にある動物園へ。園内の設備、飼育環境、飼育されている生き物の生態、生育地を細かく記述。野獣の購入費用の準備や飼育技術の必要性、動物の生育環境の整備を記載。この園の人気は欧州一で、その飼育技術の優秀さや種類の多さはオランダの動物園と並ぶが、猿類の豊富さと園内の森や泉の完備の点で勝るという。

(文責:遠藤藍子)

歴史部会:「岩倉使節団の群像」今後の予定

歴史部会では3年後の岩倉使節団派遣150周年記念企画として団員全て及び留学生、随員を含んだデータベースの構築を開始しました。毎回4~5名の団員、随員、留学生達を取り上げて「岩倉使節団の群像」として合計107名の人物論を数年かけて展開する予定で居ります。
既報の通り12月13日に最初の部会を開催いたしました。
1月の発表者は決定して居りますが2月以降は担当者が未だ決まって居りませんので、この人間を担当しても良いと思われる方は是非名乗りを上げて下さるようお願い申し上げます。

今後の年間予定は下記の通りです。()内は発表者
1月27日 (月)久米 邦武(小野)、安場保和(芳野)、中山 信彬
(吉原)、野村 靖(栗明)、内海 忠勝(小野)
2月25日 (火)大蔵省:田中 光顕(小野寺)、五辻安仲、
阿部 潜、沖 探三、池田 政懋、
3月30日(月)随行、大蔵省総括
4月 宮内庁:東久世 通禧、村田 新八、山田 顕義、原田 一道、
安藤太郎
5月 文部省:田中 不二麿、長与 専斎 、中島 永元、
内村公平
6月 文部省総括+森有礼、近藤慎三
7月 工部省:肥田 為良 、大島 高任  、瓜生 震 、川路 寛堂、
長野 桂次郎
8月 司法省:佐々木 高行: 岡内 重俊、中野 健明、平賀 義質  、
長野 文炳
9月 工部省、司法省総括
10月 後発参加:由利 公正、岩見 鑑造、長岡義之、河野 敏鎌、
鶴田 皓
11月 後発参加:岸良兼養、 井上 毅、益田 克徳、沼間 守一、
川路 利良
12月 高崎 豊麿、安川 繁成、西岡 逾明、小室 信夫、鈴木 貫一

以上