「英書輪読会」カテゴリーアーカイブ

英書輪読会:1月度部会報告「Verbeck of Japan」

日時:令和2年1月8日(水) 15:00~17:00
場所:日比谷図書文化館 4Fセミナールーム

①故赤間純一会員を偲ぶ
11月に赤間さんが他界されていたとの悲しい知らせが届いたので、生前の本人希望に沿って、バッハの「6声のリチェルカーレ」を流しながら、アーネスト・サトウのA Diplomat in Japan以来の英書輪読会の仲間で、20周年記念シンポジウムでは渡邊洪基を論じ、記念出版「岩倉使節団の群像」に寄稿するなど活躍された赤間さんを偲んだ。

Ch.ⅧThe Revolution of 1868 (1868年の革命)
この章15ページは、四国艦隊下関砲撃事件直後のパークス着任から戊辰戦争に至る「革命の時代」を描いているが、この段階では欧米列強との交渉も、国内諸勢力の統合も予見不可能だったとする一方、出来事を左右する二人の人物がいたとして、第二代英国公使ハリー・パークス(1865年6月着任)と、無国籍のフルベッキ(1859年11月着任、米国オランダ改革派宣教師)を挙げている。そして「二人とも同時期に中国のギョツラフのギュツラフの教え子だった」としているのは大変興味深い。

ギュツラフ(Karl Gutzlaff)の教え子
ギュツラフは1823年にオランダ海外伝道会からバタビアに派遣されたドイツ人宣教師。その後、中国伝道を志してロンドン伝道会に移籍し1832年に中国に着任した。聖書の中国語訳等の宗教活動に止まらず、香港政庁官吏としても活躍した。また、モリソン号で訪日を企てたり、日本人遭難者の協力を得てヨハネ伝福音書の日本語訳を出版したり等日本への関心も高かった。

このギュツラフが1849年に中国伝道キャンペーンで欧州出張した際に、19歳のフルベッキは生地オランダのザイストの教会でギュツラフの説教を聞き感動している。
また、ロンドンで13歳にして孤児になったパークスはギュツラフ夫人になっていた伯母を頼ってマカオのギュツラフ家に厄介になり、ギュツラフの手引きで初代駐日総領事になるオールコックの下で外交官の道を歩んだ。

教育重視
「五箇条御誓文」第5条で「知識を世界に求め大いに皇基を振起すべし」と謳い、キリスト教国の外国人教師に門戸開放したことは、新文明建設のためオランダに知と技術者を求めたピョートル大帝に勝ると日本の決断を評価している。

邪教禁制
御門の復権と攘夷で権力を得た新政府は、攘夷については妥協余儀なしとする一方、五榜の掲示により、改めて「切支丹邪教禁制」を強化し、浦上の信徒約4000人を諸藩に流配した。この措置は木戸孝允が決断し、大隈重信はパークスの非難を内政干渉と撥ねつけたが、日本で最も影響力をもつ人物になるフルベッキは、道理のみを用い迫害の力に勝利したと主張する。

⑥.日本人留学生の救済
革命によって留学生への送金が途絶えた際、フルベッキの派遣元米国オランダ改革派外国伝道局主事フェリスがアメリカに資金援助団体を組織して日本人留学生を支援した。多くの日本人留学生を受入れ支援してくれたことに対し、岩倉使節団がアメリカ滞在を終えて英国に向かう際に岩倉大使、大久保副使は連名でフェリス宛に感謝状を贈った。

(岩崎洋三記)

英書輪読会:11月/12月度部会報告「日本のフルベッキ 第7章」

日時:令和元年11月20日及び12月18日 15:00~17:00
場所:日比谷図書文化館 4Fセミナールーム

「日本のフルベッキ 第7章(門戸開放)」(大森東亜)

Verbeck of Japan、Ⅶ The Doors Opening , p.115~141

7章では1864年禁門の変と長州征討、四国艦隊下関戦争から、1868年明治維新までの日本の動乱期を幕府および佐賀藩の英語教師として長崎で体験したことを物語る。

来日6年目、禁門の変や4ヵ国(英・仏・蘭・亜)連合艦隊下関砲撃事件を通して日本の政治が天皇を戴いた勢力が政権を担い、敵対者は反逆者となる仕組みを幕府と長州との内戦により知る一方、日本の時代環境が中世の暗い制度下にあり、戦争は悲惨であるが戦いなしで難局を克服するのは困難だと見る。この動乱期にフルベッキが渦中の両サイドの人士から信頼できる人物であることが知られ全国から人々が情報と書籍を求めてやって来る。フルベッキは訪問者に喜んでもらうべく真摯な応接に努める。若き時代に修得した工学技術の知識を提供する一方、来訪者の様々の情報を選別し本国の本部に報告する。フルベッキは外国の文明を知りたいと思う若者に英語およびオランダ語のほか医学を除き、数学、測量、物理学、化学、兵学等を教え、当時、技術者で語学ができる者が大変役立つことを自覚する。時に肥後藩からの蒸気船購入の斡旋に応えるとともに各藩からの招きも受ける。長崎奉行の設置した長崎洋学所の英語教師委嘱を受け、フルベッキは自活する宣教師となる。横井小楠の甥2人の留学斡旋を手始めに多数の留学生を米改革派教会を通してアメリカに送り出す。また、佐賀藩士大隈重信や副島種臣らには新約聖書とアメリカ憲法を教える。

とりわけ漢訳聖書をもとに佐賀藩家老の真剣な聖書知識の求めに3年も応じた後、藩士2名とキリスト教受洗の申し出があり、フルベッキは改革派教会の方式に従って洗礼を行い本来の宣教師としての役割を初めて果す。この間フルベッキの派遣母体、オランダ改革派教会がアメリカ改革派教会に名称変更したことへの賛意と日本のカトリック活動への所感と併せ、長崎では宣教活動を表立って行えなかった実情が語られる。また門下生の僧侶が江戸でキリスト教誹謗のための小冊子を刊行したことに大変苦慮した。

長崎での活動を振り返り、身の危険と怖れがなかった訳ではなく、自身家族の安全のため上海への一時避難もあり、一般の暴動の恐れのある時は拳銃に弾丸を装填したが、自身は個人的暴力の危険はなかったと語る。こんご適切に仕事をしてゆくためには人々の信頼を得ることと日本語を習得することが肝要なほか、人々との交際ではキリスト信徒の義務をはたしていくことと親切と寛容を示すことが求められていると記す。

文責:大森東亜

 

英書輪読会:10月度部会報告「Verbeck of Japan」

日時:令和元年10月8日 15:00~17:00
場所:日比谷図書文化館 4Fセミナールーム
内容:
Ch.Ⅵ Political Appheaval (政治の激動)pp.100-114を読んだ。

フルベッキが長崎に着任したのは、ハリスとの日米修好通商条約調印1年後の185911月だったが、条約の無勅許調印に端を発して日本の政治は激動していた。調印4カ月後には井伊大老が桜田門外で暗殺され、その後もハリスの通訳ヒュースケンの暗殺、英国公使館襲撃(第二次東禅寺事件)、生麦事件、薩英戦争と混乱が続いた。

長崎には遅まきながら居留地が整備されていたが、フルベッキは居留地外に住み続けていたため、懇意にしていた長崎港警備担当の佐賀藩家老村田若狭守から避難を勧告され、まずは居留地へ、その後上海へと避難した。

同地に4カ月滞在の間、フルベッキは米国長老教会印刷所美華書館のガンブルから活版印刷を学んだ。これが後に長崎で本木昌造がガンブルから活字鋳造や組版の講習を受け、日本における西洋活版術の始まりとなった。フルベッキは美華書館の出版する漢訳西洋書物の輸入頒布の役も担っていた。

なお、村田若狭守は聖書に大変興味を持ち、義弟綾部幸熙と家来本木昌造にフルベッキに差し向け聖書を学ばせた。村田と綾部は18665月にフルベッキから洗礼を受けたが、前年に横浜でバラから洗礼を受け日本最初の受洗者になった矢野隆山に次ぐものだった。(岩崎洋三記)

 

 

英書輪読会:9月度部会報告「Verbeck of Japan Chapter V. In Nagasaki: First Impresion 」

日時:令和元年9月6日 15:00~17:00
場所:日比谷図書文化館4F セミナールーム
ナヴィゲーター: 栗明 純生
内容:Verbeck of Japan Chapter V. In Nagasaki: First Impresion Page 80~99

V 章は、フルベッキの来日(1859.11.17)から当初の赴任地、長崎での生活の記録である。
-長崎への入港(1859.11.17)初日の夜の美しい光景の感動的な描写と、新天地での期待でこの章は始まる。

-すぐに2人の宣教師(ジョン・リギンスとMCウィリアムズ)が加わり、家捜しの苦労、新居の家づくり、大工・左官らの仕事ぶり、彼らが口にするブリキ、アンドン、ビードロなどの外来語を聞き留めて楽しんだことなどが語られる。

-12月29日には妻が来日して、新しい伝道の誕生を喜んでいる。

-日本人使用人へのかれの当初の低評価と当時の使用人の雇用事情とが記されているが、その後に、当時の日本人の道徳事情、特に自ら体験した、当時の女性を囲うことに対する寛容さへに対して強く憤慨、批判している。
-キリスト教の伝道によりこれらの弊害が除去され、日本での伝道が成功するであろうとの確信を述べている。
-日本の食糧事情―魚の種類の多さ、肉、野菜の豊富さやパン屋の焼くパンやケーキが美味しいことに触れている。
-長崎は大都市であり人の眼につきにいため伝道活動をしやすいだろうとの観測を記している。
-長崎に先住しているオランダ人の存在や影響力に関して、海外で思われているほど大きくなく、自分の伝道にたいして障害とはならないだろう。
-第1子(エマ・ジャポニカ)の誕生の歓喜と僅か2週間後の悲痛な死と、日本語習得の難しさ、日本語学習の様子の記述。
-長崎での当時のキリスト教の礼拝事情とフルベッキの知名度の向上。江戸におけるヒュースケン暗殺の報とそれによる外国使節の横浜移駐。
-日本の急速な西洋文明の吸収に対する賛辞と布教の難しさに関する悲鳴、丘の上の見晴らしのいい家への引越しと日本の治安(盗難)事情

-日本の投獄システムの急速な近代化-中国方式から西洋化(近代化)へ-かつての拷問に関するエピソード(個人的体験)とキリスト教徒の密告に関する高札の紹介。

-第2子(ウィリアム)の誕生と当時の日本の伝染病に関する歴史と当時の対策の悲惨な状況の説明と、西洋医学の漢方医に対して優勢となりつつある状況と、キリスト教の最終的優越への予想。

-彼が尊敬を集めた要因―「知識は力なり」と「真実は強く、勝利する」に関するーについての言及とー真実の探求者はフルベッキを発見し、彼の生徒となるのだーとの記述でこの章は終わる。
(栗明 純生)

英書輪読会:7月度部会報告「日本のフルベッキ 第IV章 A GLANCE AT OLD JAPAN」

日時:令和元年7月10日 15:00~17:00
場所:日比谷図書文化館4F セミナールーム
ナヴィゲーター: 市川三世史
内容:Verbeck of Japan Chapter IV. A GLANCE AT OLD JAPAN: 日本寸見Page 69~79

IV 章は、フルベッキの来日(1859.11.17)までの、赴任先である当時の日本の状態を述べている。

-マルコポーロの東方見聞録(1298年)を見るまで、ヨーロッパ人に日本の存在は未知であった。この見聞録は原本が失われ、内容に大差のある140種類の写本が出ている。だが「黄金の国ジパング」の見出しに、ヨーロッパ人は大きな興味を持った。

-1540-1620 年にある宗派のキリスト教が一時的に流行し、日本中部、南部、南西部、北の仙台まで約100万人の信者を獲得し、宣教師の組織、その後の災害と殉教者の詳細な歴史も素晴らしかったとされている。当時の日本の人口は約3000で一世紀にわたり変化していない。

-1604年に徳川家康はキリスト教の弾圧、外国人の追放、長崎へのオランダ人の囲い込み、すべての外国の理念と影響の排除を始めた。一方で当時の琉球、蝦夷への支配力は微々たるものであった。韓国は元寇の乱の後は、日本の属領とみなされていた。

-1637年には島原の乱において、多くの殉教者が出ている。

-権威の名目上の中心は京都に、武力と財政の中心は江戸にあった。江戸の権威は遠方に及ばず、地方の貴族と大名は世襲の領地を固守していた。この二頭政治あるいは権力の分割に政策的に反対し、大君に敵対する、数千名におよぶ人々もすでに存在した。

-宣教師は仏教を悪魔の宗教とみなし、キリスト教のみが人を救う道であると説いた。仏教の聖職者はこれに団結して対抗し、江戸幕府も極刑をもってクリスチャンを裁いた。

-武家は全人口の十分の一から構成され、知的な文化と精神的な規律を持っていたが、キリスト教にとり最大の、友人となる信者でありかつ敵となる暗殺者であった。

-オランダ船はニュース、科学、装置類、ヨーロッパの原産物、土壌的および精神的な病原菌をもたらした。オ

ランダ語と書物を通じて知識の獲得に努め、医業を営み、さらに新約聖書の中国語版、または中国の船員が持ち込む中国の宣教師の出版物を通じて、キリスト教を求める数百人もの日本人も存在した。そして長崎は外国に対して開かれた唯一の地であった。

-フルベッキと武装した外交官の護衛は、仏教信者と残虐なスパイと、国家の命ずる剣の存在を感じ取ったため、これに対抗する手段を見出す必要があった。

-日本には1000年におよぶ文学で明らかにされた知性があったが、いまだに、国家の思考の種類と品質の総合力

は、古代の大国、または主要ヨーロッパ諸国の仕事と比肩できるランクではないとみられた。
( 市川 三世史)

英書輪読会:6月度部会報告「日本のフルベッキ」

日時:令和元年6月12日 15:00~17:00
場所:日比谷図書文化館4F セミナールーム
内容:Ch.ⅢIn the Land of Opportunity(希望の国で)
ナヴィゲーター:大森東亜

この章は、1852年9月オランダをからアメリカに移住し、7年後米国オランダ改革派の日本派遣宣教師に選ばれ、1859年5月、ニューヨークを出航し、同年11月上海を経由して長崎に着くまでの物語である。

フルベッキをアメリカに向かわせたのは、ニューヨーク在住のモラビア派*牧師の義弟ヴァン・デュ-ルの勧めだった。実は義弟自身も、先んじてアメリカのウィスコンシン州グリーンベイにモデルタウンを開発していた同派宣教師タンク師に招かれて渡米していたこともあり、フルベッキはとりあえずその鋳物工場で約1年働くことになった。この時フルベッキは「立派なアメリカ人になる」決意をし、名前をフェルビークから、アメリカ人が呼びやすいヴァ―ベックに改めた。

*モラビア派は、15世紀のチェコの宗教改革者でプラハ大学学長だったヤン・フスに端を発するモラビア兄弟団というプロテスタント教団で、フルベッキの生地オランダのザイストに拠点が移されており、フルベッキも少年期に系統の学校に、教会に通っていた。

その後、アメリカをもっと知りたいと思ったフルベッキは、アーカンソー州ヘレナに移り、土木技師として働くが、奴隷たちが同地の綿花畑で過酷な労働を強いられているのを目にして失望し、奴隷解放論者の説教を聞くために遠路を通っていた。そして、瀕死の大病(コレラと推定)を患ったときに、回復後は聖職者になることを決意する。回復後、義弟の薦めもあって、一端グリーンベイに戻った後、ニューヨーク州オーバーンの神学校で3年間学ぶことにした。

1858年に日米修好通商条約が締結され、翌年には米国宣教師の日本駐在が可能となった時、米国オランダ改革派は最も積極的に、3人の宣教師を日本に派遣することにした。まず選ばれたのは、中国伝道経験の長いブラウン、次いで医師のシモンズが選ばれ、3人目に「アメリカ人化したオランダ人」として神学校を卒業したばかりのフルベッキが選ばれた。フルベッキは米国滞在中にオランダ国籍を失っていたため、日本赴任に際してアメリカの市民権を申請したが叶わず、無国籍での来日になった。なお、フルベッキは神学校時代に、ブラウン牧師の教会でドイツ人向け礼拝を手伝ったいた時に知り合ったマリア・マ二ヨンと赴任直前に結婚して、日本に帯同した。(大森東亜記)

英書輪読会:5月度部会報告「日本のフルベッキ第II章 Koppel (コッペル) 」

日時:令和元年5月8日 15:00~17:00
場所:日比谷図書文化館 セミナールーム
ナヴィゲーター: 市川三世史
内容:Verbeck of Japan Chapter II. The Koppel: Page 29~47

II 章の内容は、フルベッキの出自の紹介と、青少年時代に長く暮らしたザイスト(オランダ、ユトレヒトの西)の描写が主体である。フルベッキの名は、小川または細流を意味し、オランダおよびドイツに見出せる。ヤコブ・ファン・ラエル所有下のザイストは居住者6000名の美しく、ラインの支流が中心を流れる小さな町であり、モラビア人のコミュニティがあった。父カール・フルベッキは母アン・ケルマンと1818年に結婚し、1830年にグイド・フルベッキが八人の子供の第六子として生まれた。家族は居住地をライゼンベルグからザイストに移し、コッペルと呼ぶ家に住んだ。コッペルはカップルと同義語で、二つの水路または小道をつなぐことに由来する。ここは庭園、果樹園、牧草地に富む美しい土地であった。

グイドは内気で引っ込みがちな紳士であったが、バイオリン、ギターの演奏に長けていた。彼はこのコッペルで約22年を過ごしている。オランダの裕福な家庭の男子との交友で、グイドはオランダ、イギリス、フランス、ドイツの四か国語を流暢に話すことができた。

グイドには生まれつきの、人を引き付ける力があった。また動物に対する残酷性を厳しく非難していた。二歳の時グイドは水路に落ちて、危うく生命を失う危機を経験している。宗教的に父親はルター派であったが、グイドはザイストに残ってモラビア人の教会で堅信式を挙げている。この教会で宣教師たちの行動と精神を吸収している。

グイドはその後、ユトレヒトの工科学校でグロッテ教授のもとで学び、ここで語学に急速な進歩を遂げている。彼はドイツ人ではないが、ザイストではモラビア人の殆どと流ちょうなドイツ語の会話をして、ドイツ語を心の言語であると述べている。各国語に堪能なグイドはナポレオン法典、ドイツ国法、聖書の翻訳者でもあった。その後の、彼の進路を定める家族会議において、“工学”がとるべき職業であると、満場一致で意見がまとまった。
(市川 三世史)

 

 

英書輪読会:4月度部会報告『フルベッキ輪読会』

『フルベッキ輪読会』が4月スタートしました
日時:令和元年4月17日 15:00~17:00
場所:日比谷図書文化館4階セミナールーム

フルベッキの伝記Verbeck of Japan; A Citizen of No Country”(全376ページ)の輪読会が 、4月17日(水)日比谷図書文化館4階セミナールームに10人が集まってスタートしました。

この日は,ナヴィゲーター役の岩崎が,2013年にある会の紀要に投稿した『フルベッキ~明治新政府の顧問に招聘され、日本近代化に貢献した宣教師』(全20ページ)の抜刷を回覧し、1859年に米国オランダ改革派の宣教師として長崎に着任し、幕府や佐賀藩の英学校で全国から集まった英才を教えた後、政府顧問・大学南校教頭として東京に招聘され、1898年青山外人墓地に葬られるまで、博学な知識、流暢な日本語、幅広い人脈を駆使して、教師として、政府顧問として、日本の近代化に貢献したフルベッキを概説した後、伝記の「前書」と第一章A Glance in Perspective計17ページを輪番で音読しながら内容検討する形で『フルベッキ輪読会』は無事スタートしました。 

2003年1月に立ち上がった『英書輪読会』は、当時出版されたばかりの『米欧回覧実記』の英訳版“The Iwakura Embassy1871-73”(全52200ページ)を11年かけて読了後、2014年4月から2冊目のアーネスト・サトウの” A Diplomat in Japan”(全472ページ)を、そして、2017年2月から3冊目The Complete Journal of Townsend Harris “(全616を毎月輪番で音読しながら読んで来ました。

2年後の2021年が岩倉使節団派遣150周年に当たるので、4冊目には“Brief Sketch”によって、条約締盟14か国に大型政府使節団の派遣を提言して岩倉使節団の実現に貢献したフルベッキの伝記を読もうということになった次第です。本著はWilliam Elliot Griffisが1900年に出版したものですが、同氏は米国オランダ改革派のラトガース大学で福井藩日下部太郎を教えた縁で、卒業後1871年に福井藩校教師として来日、廃藩置県後は、大学南校教頭フルベッキの斡旋で、同行教師に就任、1874年帰国まで約4年間滞日しました。本著を書くに当たってはフルベッキの生地オランダのザイストを3回訪問取材するなどフルベッキの伝記を書く最適の人物と目されます、なお、Griffisには、『皇国』(第一部ミカド、第二部明治日本体験記)、『維新概論』、『日本近世変革論』、『日本のヘボン』等日本関係著書も多数あります。

17年目に入った『英書輪読会』 ですが、この日の出席者の中に当初からの会員が2人もいた一方、新入会員も2人加わって下さり、活発な論議が出来て、楽しみが倍加しました。輪読会はテキストを漏らさず音読することを原則にしていますが、音読は間違いなく快感です。新規参入大歓迎です。一度ぜひ覗いてみてください。(英書輪読会世話人岩崎洋三)

英書(ハリス)輪読会:3月開催報告

日時:2019.3.13(水)13.10-14.50
場所:日比谷図書文化館4階セミナールーム
範囲:終了総括と特別講演

  1. The Complete Journal of Townsend Harris 読了。
    2017年2月以来毎月30ページ弱を交代で音読しながら読んできたが、24回を要した。
  2. 英書輪読会の3冊目のテキストThe Complete Journal of Townsend Harris を読み始めたのは2017年2月、初回ナヴィゲーターは今は亡き小坂田國雄氏だった。

途中息抜きに「The Barbarian and the Geisha」(日本名:黒船)という映画を見た。ハリス役がジョン・ウェイン、下田奉行役が山村聰という、1959年ジョン・ヒューストン監督作品だ。病弱のハリスを演じるにはウェインはどうもという意見もあったが、下田の玉泉寺で通訳のヒュースケンと苦労する光景など、大いに楽しめた。

  • 斎藤純生氏特別講演
     日本文研出版社主で、2001年に『米欧回覧実記』の英訳『Iwakura Embassy 1871-73』を世に出した斎藤純生氏をお招きし、英訳版出版のご苦労や、本にもなっている『洋書流通と翻訳出版の世界』をお話いただいた。当会は英訳実記全5巻約2500ページを、2003年1月から11年2カ月かけて読んだのは懐かしい思い出だ。同氏は岩倉使節団の事績を数多くの低開発諸国に知ってもらい参考にしてもらおうと『Iwakura Embassy 1871-73』を数多く寄贈されて来た由で、心強い限りだ。

3)今後の英書輪読会
4月から4冊目のテキストとして、William Elliot Griffis,”Verbeck of Japan; A Citizen of No Country”全376ページを読みます。第一回は4月17日(水)です。詳しくは、ホームページの『フルベッキ輪読会』が4月スタートします』をご覧ください。
(岩崎洋三記)

英書(ハリス)輪読会:2月開催報告

日時:2019.2.13日(水)13.10-14.50
場所:日比谷図書文化館4階セミナールーム
範囲:Journal 5,pp.541-558(Feb.17,~Feb.27,1858)  Fragments,May15~June9,1858

1月25日に始まった日米条約談判は2月27日の14回をもって議了し、ハリスは条約浄書を日本側に渡す。本書がカバーするのはここまで。ハリスは直後体調を崩し静養のため下田に戻った。

幕府は60日以内の調印を約したが、条約勅許申請が認められず遅延するが、無勅許調印を決意した幕府は、7月29日神奈川沖に来航したポーハタン号上で調印に応じることになる。

直前に下田に入港した軍艦ミシシッピー号からハリスが入手した、「英国がインド反乱(セポイ(ジハーヒー)を鎮圧した」、あるいは、「英仏連合軍が清国を屈服させた(第二次アヘン戦争)」等の情報を知らされ、幕府は列強との条約締結を急ぐことになった。

ハリスは第7条の開港区域に日本側が大幅譲歩したことに驚いている。(岩崎洋三記)

英書(ハリス)輪読会:1月部会報告

時:2019.1.9(水)13.10-14.50
所:日比谷図書文化館4階セミナールーム
範囲:pp.513-541(Jan.26-Feb.17,1858)

初代米国総領事ハリスは、着任後1年半近くたってから江戸出府を許され、課題の通商条約締結交渉をやっと始めることが出来た。ハリスは安政4年(1857年)11月江戸に着くと、日本側全権代表井上信濃守(下田奉行)と岩瀬肥後守(御目付)を相手に、通訳のヒュースケンを従えて、翌年1月から2月にかけて14回の談判を重ねて首尾よく成約し、7月神奈川沖のポーハタン号上で調印に漕ぎつける。 

今日の輪読会では、126日の第二回談判から217日の第11回談判までの部分を輪読した。条約談判はハリスが作成した条約草案を、オランダ語を介して日本語訳を作成した上で逐条的に議論される。日本側全権は保守的な諸大名の説得に苦慮していたことから議論が難航した様子が生々しく描かれている。 

開港場数ついては、ハリスが米捕鯨船の便宜も考慮し8港を要求する一方、日本側は3港以上不要と突っぱねたものの、『ここは条約のセバストポール』と踏ん張ったハリスが6港を獲得して決着した。セバストポールはクリミヤ半島の港で、ハリスが日本の港を戦略的に重視していたことがわかる。 

キリスト教礼拝問題では、18561月の日蘭条約で、日本側が出島の建物内での礼拝を認めていたことを事前に調べ、ハリスは外人居留地内での礼拝自由を条約に盛り込むことに成功している。(岩崎洋三記)

 

 

英書輪読会(ハリス):11月部会報告

日時:2018年11月14日(水)15:00~17:00
場所:日比谷図書文化館4階セミナールーム

テキストの1857年12月7日(月)から12月16日(火)まで、旧暦では安政4年10月21日から10月30日までを読む。

ハリスが下田奉行を通じ幕府の要路者と折衝した結果、来日の主要目的である将軍(家定)と謁見し、アメリカ大統領(ピアス)の信任状(親書)を呈する運びとなる。
米大統領親書により日本に外国との通商と門戸開放を要請する。

謁見は、300有余の大名、高官が居並ぶ前で行われる。大君の右手に堀田備中守と閣老5人、左手には大君の兄弟3人がひれ伏す。ハリスは立って挨拶の口上を述べると、大君はしっかりした口調で「遠境の処、使節を以て書簡差越し、口上の趣、満足せしめ候、猶幾久しく申し通ずべし、此段大統領に宜しく申し述べし」と応答する。

大君の応答のあった後、ハリスは大統領親書を掘田外務相に渡す。親書には「日米の絆を強化し、両国の通商が相互の利益となる条約を結ぶこと、そのため大統領はハリスに全幅の信頼を寄せている」とあり、大統領の自署と国務長官の副署が記されている。

謁見を終えた後、ハリスは堀田外務相に通商問題に関し書簡を出すとともに、堀田備中守を訪ね、ハリスの接待役人同席のもと、幕府の今後の課題について説明する。ハリスは、折しも諸列強は日本を開国させようとしているが、中国とのアヘン戦争など戦争によることなく使節との平和裡での交渉が望ましいとして次の3点を指摘する。即ち、
1)江戸に外国公使を受入れること、
2)幕府の干渉なしに日本人に自由貿易をさせること、
3)開港地を増やすこと。
堀田外務相はハリスの説明を真剣に聞くとともに課題解決には相当日時がかかると応接していたと、ハリスは日誌に記す。                             (大森東亜記)

 

英書輪読会(ハリス):9月部会報告

9月5日(水)
15.00-17.00
日比谷図書文化館4階セミナールーム

・テキスト:The Complete Journal of Townsend Harris

・範囲:pp.423-447(Friday,November27,1857~Monday,November30,1857)

・ナヴィゲーター:水谷剛氏

《概要》:

ハリス一行は大名行列並みに下田を出発して待ちに待った江戸への旅を続ける。
伊豆から東海道に出て小田原~大磯~馬入川~藤沢へと進んだ。
小田原から藤沢までは家の軒波が続き連続した一つの家並みである。 途中の馬入川渡る時に左小指を「水蛭」に吸いつかれて出血したので治療を「随行医師」にさせた。
藤沢から更に海岸沿いに行き神奈川~川崎に到着し、有名な「萬年屋」旅館に宿泊した。ここはペリー提督に随行したビッチンガー牧師が単独で勝手に抜けだし、多摩川から品川に行く寸前に停止させられて帰営した場所である。

品川から高輪経由で宿所の九段下「蕃書調所」に到着した。井上下田奉行から江戸城で将軍謁見するときの諸注意事項や江戸城入場は「威厳」を以て駕籠で向かうことなどを諸注意された。

(水谷剛記)