「米欧回覧実記輪読会」カテゴリーアーカイブ

実記輪読会:5月度部会報告 「第二十八巻漫識特府ノ記上(pp.151-169 )」

日時:2020.5.13(水)13.00-15.00、
ZOOMによるインターネット開催
範囲:第二十八巻漫識特府ノ記上(pp.151-169 )
ナヴィゲーター 岩崎洋三

インターネット開催は今回で2回目だが、従来よりも多くの会員に参加していただき、活発に議論され、終了後飲み物を持ち寄ってやる懇親会にも多くの方に残っていただきざっくばらんに意見交換出来たのは、嬉しい誤算だ。本日は使節団がリバプール訪問を終え、5泊6日でマンチェスターを視察する前半部分を、いつもの様に輪番で音読しながら、ナヴィゲータ―がパワーポイントで解説を加える形で進めた。

1)岩倉使節団英国に4カ月滞在、鉄道で全国を視察
使節団は最初の訪問国アメリカで、不用意に始めた条約改正交渉に手間取り、滞在がなんと約7カ月に伸び英国到着が大幅に遅れた。1872年8月17日リバプール経由ロンドンに到着した時には、ヴィクトリア女王が夏期休暇中で会えず、謁見は4カ月後の12月5日やっと実現した。

この間英国側は接待掛のアレキサンダー将軍、一時帰国中のパークス駐日公使、アストン書記官を付けて、産業革命(1760-1840)の花開いた英国各地を鉄道で丹念に案内し、使節団は鉄道を含む産業革命の成果をたっぷりと見学し、近代化の方向を見定めることになった。

2)マンチェスターは「Cottonpolis(綿業都市)で 産業革命の中心地」
 マンチェスターには、リバプールから、1830年に開通した世界初の実用鉄道Liverpool and Manchester Railway(全長30マイル半)に乗車した。岩倉使節団出発直前に新橋横浜鉄道が仮開業し、使節団は英国式鉄道を体験済だったで目新しさはなかった。マンチェスターはCottonpolisと呼ばれた綿業の中心地。綿業が栄えると1800年に9万人だった人口が1871年には48万人(含サラボール)に増加した。

周辺部を含めると2650社にも上る綿紡会社があり、婦女子を含む44万人労働者が従事していた。それらが産業革命に伴い、動力を水力から石炭を燃料とする蒸気機関に変更したから、地域は「煙霧濛濛」だった。使節団は棉紡会社の他、板硝子工場、製銕場、巡回裁判所、牢獄も見学した。

1842年から3年間同地に滞在したマルクスの盟友エンゲルスは、「1844年の英国労働階級の状況」を出版し、劣悪な労働条件を批判した。また、1966年に流行り、日本ではザ・ピーナッツ歌った「マンチェスターとリバプール」では「埃っぽくてロマンチックじゃないけど、煙と石炭片の後ろに偉大な都会の鼓動を見つけるわ」と歌われている。

 

なお、棉紡の原料綿花の多くを米国からの輸入に頼っていたイギリスは、南北戦争で輸入が途絶え時コットン・パニックないしコットン飢饉と呼ばれる。

3)大歓迎された使節団、背景に対日輸出拡大の目論見
市庁舎の壁面に1872年10月に日本の岩倉具視特命全権大使一行が、英国の成功した行政、産業、商業を学ぶマンチェスターと北西部を訪れたこと、岩倉大使が丁寧な謝辞を述べ、日本へ招待したことを公にしている。 

 もちろん日本との貿易拡大意欲は旺盛で、ビジネスマンとの会合も少なくなかった。因みに蒸気機関車の対日輸出が、1871年から1911年の間に1023両に上るが、その中心がマンチェスターとグラスゴーだった。 

4)文化度も高いマンチェスター
使節団は45日のマンチェスター滞在中二度も「芝居」に案内された。「Love Chaseというコメディーは近年も「Poetry of the Month」に輝いくほどの名作らしい。また、二度目はシェイクスピアの「Henry Ⅴ」だった。使節団が泊まったQueenHotelは、工場を持つ繊維商が自宅として建てたもので、有力貴族に混じってCharles DickensWilliam Thackeray等の作家を招く文化人だった由である。 

6)綿業都市の悲劇、1861-1865Cotton Famine(Cotton Panic)
綿花の大半の輸入をアメリカに依存していたイギリスは、南北戦争で綿花輸入が途絶えたことで、大量の工場閉鎖、失業(75%がレイオフされた)に見舞われ、政府は30万磅の救済資金を用意したが、十分ではなく海外移民を余儀なくされ労働者も少なくなかった。使節団が三日目に案内されたAlexandra Parkはその時の失業対策事業で作られていた。

7)久米が書かなかった、禁酒運動年次総会への招待
英国側の記録では、使節団は二日目に、6000人収容のFree Trade Hallで開催された禁酒運動団体*の年次総会に招待され3000人の参加者に大歓迎された。そしてその夜は市長宅のBuffet Dinnerに招待されたが、いずれも実記には書かれていない。
Lancashire and Cheshire Band of Hope and Temperance Union

以上

 

 

実記輪読会:2月度部会報告「第26巻 里味陂府ノ記 上」

日時:令和2年2月12日 13:10~15:00
場所:日比谷図書文化館 4Fセミナールーム

明治5年8月27日
パークス、アレキサンダー、及びアストンの同伴で英蘇の各地を総勢9名で廻った。リバプール市はランカシャー州南部の要港で英国第二の都会。1871年の人口は50万3874人、米国との往来の港、毎日平均53隻が大西洋に出ていく。港口にドックを造った。煤煙がすざましく上層階級の人間でも平均寿命は35歳、下層の労働者は15歳。リバプールを囲むランカシャー、チェシヤーの両州に工場が多い。リバプールに到着したのは伊藤、大久保、木戸の3副使と書記官の何礼之、林董、畠山義成、理事官の吉田清成、田中光顕の9名だが久米は8月28日に一日遅れて山口、大鳥圭介と共に追いついた。

8月28日
午後1時半に馬車でタウンホール到着、市長が出迎え議場に案内された。その後市内の取引所を訪問。
午後3時にホテル前で消防夫の訓練を見た。
夜7時からタウンホールで市長招待の宴会が開かれた。

現在でもリバプールの観光名所であるAlbert Dock(アルバート・ドック)は1846年にオープンした世界初の不可燃性の倉庫システムで、鋳鉄、レンガと花コウ岩で建設されていた。ドックは船の修復や係船、荷役作業のために築造された施設で、1848年には世界初の水圧を利用した貨物用昇降機が取り付けられた。

久米達が見学したのは:
・水門の開閉を見た、ドックの両側にウインチがあり双方で回すと橋板が移動し橋の上を往来が出来る。同時にドックの両扉が中央で合わさって水門が閉まる。
・穀物倉庫を見学、この倉庫は煉瓦と石による6階建ての建物でドックの3方を囲むように出来ている。
・ドライドック 船の修理の為の乾ドックを見た。
・砲台を見た。
・キューナード・ライン所属の「Cuba」という船を見た。
・石炭の積み降ろし作業を見学。
・タバコ倉庫を見学した。

以上

(文責 吉原重和)

実記輪読会:夏休み特集「教育現場における岩倉使節団の採り上げ状況」続編

「杉原氏校区研究授業(令和元年10月7日)を参観した教師の感想(まとめ)」

本年8月、実記輪読会夏休み特集「教育現場における岩倉使節団の採り上げ状況」で報告した広島県福山市駅家(エキヤ)東小学校教務主任杉原進氏より、10月7日に同氏が行った校区研究授業「岩倉使節団」を参観された教師の方々の感想文が当会に届けられたので、ここに紹介する。

〇児童の思考・疑問を引き出す資料構成、発問の仕方等教師の役割を再認識させられた
〇「驚き」「ギモン」等児童を没頭させる授業の流れ、テンポが素晴らしい
〇教材の深さ、情報量の多さを効果的に使い巧みにタイムスリップさせていた
〇考え、予測、まとめ、意見交換と児童が主体的にPDCAを実践していた

8月に同氏が当会にお越しになり行った模擬授業で当方も感じた、児童を如何に授業に引き込むかと考えている熱意、豊富な情報量と視覚に訴えるスライド、熱血漢あふれる授業姿勢が、そのまま感想文に寄せられていた。
このような授業が日本国中の小学校で行われれば、若い世代への「岩倉使節団」の啓蒙に資すると強く感じた次第である。

(冨田兼任記)

実記輪読会:10月度部会報告「第二十二巻「ロンドン市」総説」

日時:令和元年10月8日(火)13:10~14:50
場所:日比谷図書文化館4Fセミナールーム

明治5年7月13日(1872年8月16日)アイルランド・クイーンズタウン港着、少時停泊後出発、翌14日リバプールにて上陸後汽車にてロンドンに向かい、夜11時過ぎユーストン駅着、馬車にて宿舎の「バッキンガムパレスホテル」に向かった。

ロンドンは2000年前ローマ軍占領時代の「ロンデニウム(沼地、荒れた土地)」が発祥。今も金融の中心である「シティ・オブ・ロンドン」の辺りにその足跡を残す。西から東にテームズ川が流れ、最下流(東端)の「ロンドン橋」から「バッテラシ―橋」まで9つの橋が架かっていた。「ロンドン橋」の下流に当たる「タワーブリッジ」は1894年完成なので使節団訪問時はまだ無かった。ウエストミンスター寺院、セントポール寺院、バッキンガム宮殿、ハイドパーク、リージェントパーク等市内の名所を紹介、産業、人口、建物、交通(鉄道・乗合馬車)等を説明している。なお、当時地下鉄は既に運行していたが(1863年開業)、蒸気機関車牽引なので乗客は煤だらけになった、という。

(冨田兼任記)

 

実記輪読会:7月度部会報告「第二十巻「ボストン」市」

日時:令和元年7月10日 13:10~14:50
場所:日比谷図書文化館4F A
ナヴィゲーター:富田兼任氏
内容
6月28日朝5時半ロードアイランド州プロビデンス港に着き北送し8時ボストンに到着、市内巡覧。学校見学、消防馬車の馬がよく調教されているのに感嘆。夜180人集まり享宴を受ける。サンフランシスコ以来の大盛会と記す。

6月29日北70㎞にあるローレンスに行き、綿花紡績工場見学。

7月1日水道貯水池を見た後、ブルックス氏邸宅を訪問、帰途オーロラを見る。

7月2日木戸・伊藤組は西方50kmハドソンタウン、大久保・山口組はローレンスに行き、それぞれ工場視察、昼食接待を受ける。

7月3日ボストンから英国に向け出港、13日アイルランドに達する。

この巻にあるボストン・シカゴの大火について、ボストンは1872年11月に発生し半日間、シカゴは1871年10月に2日間燃えた。焼失面積はボストンが26ha、シカゴは800haに及び、シカゴの大火は19世紀アメリカ最大の災害と言われている。

ブルックス氏とは紳士衣料のブルックスブラザーズ経営者エドワード・ブルックス氏を指すと考えられる。キューナードは、英国の有名な船会社だが、設立は1839年で英国政府の郵船輸送契約を結んだことから「Royal Mail Ship」と冠した。現在は米国「カーニバル」社傘下となっている。

富田命保日記によれば、6月28日田中(光顕)、杉山(一成)氏とニューヨークより汽車にてボストンに着いたとあり本体とは別行動で陸路入った。なお、吉雄辰太郎(永昌?)氏は紙幣製造管理という役目を命ぜられニューヨークに滞在することとなり、6月29日田中(光顕)理事官随行の役を解かれたとある。岩波本p337校注に「団員名簿から吉雄永昌は欠落している」との記述は、このことと関係しているのかもしれない。

(冨田兼任記)

 

実記輪読会:6月度部会報告「第19巻 新約克府ノ記」

日時:令和元年6月12日 13:10~14:50
場所:日比谷図書文化館4F セミナールームA
内容:「第19巻 新約克府ノ記」
ナビゲーター:吉原重和

要約/特記事項
・明治5年(1872年)
526日 アスター図書館、聖書協会、YMCA、障害児の病院、シュワルト氏の商店、トリビューン新聞、NY私立大学を訪問
527日 フランクリン氏の商店、ハーパース・ウイークリー社訪問。午後フェリーにてロードアイランド州に向かう。牡蠣がもたらす利益について触れている。久米は聖書協会とYMCAの訪問のあとに彼の「宗教論」を述べているのは注目される。

訪問した場所の詳細
アスター図書館
アスター図書館およびレノックス図書館が統合され1895年にニューヨーク公共図書館と成った、正面玄関前に設置されている2つのライオン像は母体となった2つの図書館の名を受け継いで各々“Astor”および“Lenox”の名を有する。創立者の JohnJacobAstor1763-1848)ハイデルベルグ近郊で生まれ、NYで毛皮及び不動産で成功した。現在の建物にはアスター「忍耐」の名を持つライオンは正面階段向かって左の南側に、レノックス「不屈」の名を持つライオンは反対の北側、正面向かって右側にいる。

アメリカ聖書協会
1816
年に設立、聖書の翻訳・出版・配布を行う団体である。アメリカンボードの宣教師として中国に派遣されたブリッジマン博士の漢訳聖書事業を支援した。岩倉使節団が訪問した時 当時の世界中で 30 の国語に訳された聖書があった。漢訳の聖書を各人にプレゼント。米欧の人々の多数が聖書を読んで心を養っていることを知らされたことが記録されている。その後5回に渡り移転し、来年はフィラデルフィアに移転。

YMCA

Alexander Turney Stewart
アイルランド出身の実業家
1846年にMarble PalaceをBroadwayに造った。その後1862年に鉄製のIron Palaceを建築した。1860年代で最も裕福な実業家だった。

The New York Tribune
ホレス・グリーリーHorace Greeley1811-1872)は自由共和党の創設者、社会改革者、政治家である。ニューヨーク・トリビューン紙は1840年代から1870年代にアメリカで最も影響力のある新聞であり、当時の最も偉大な編集者としてのグリーリーの評判を確立した。

Western Union
Hiram W. Sibley Western  Unionの共同創立者で初代社長
Samuel Finley Breese Morse 画家でありモールスコードの発明者Ezra Cornell       1851年にロチェスターでWestern Union を創立した、Cornell大学の共同創立者でもある。

City University of New York
タウンゼント・ハリスが学長だった。
Haper’s Weekly
共和党寄りの政治週刊誌
Blackwell Hospital
イーストリバーの島に設けられた精神病院

以上の諸施設を訪問した。

 

実記輪読会:5月部会報告 第十八巻『費拉特費府ノ記』

日時:5月8日(水)13:10~14:50
場所:日比谷図書文化館4FセミナールームA
内容:第18巻『費拉特費府ノ記』
ナヴィゲーター:岩崎洋三

第18巻『費拉特費府ノ記』を、輪番で音読し、ナヴィゲーター役岩崎が、多くの写真や地図を盛り込んだ22コマのパワ―ポイントを使って、使節団訪問時の風景を再現しながら解説した。

使節団は、長引いた米国での条約改正交渉に見切りをつけて、フィラデルフィア、ニューヨーク、ボストン経由、次の訪問国英国を目指すことを決断し、ワシントンを去るが、本章は、その途上2泊3日でフィラデルフィアに立ち寄った記録。

ワシントンから使節団に同行したワシントンDC知事Henry Cookeが、フィラデルフィア近郊の同氏の実兄で金融家のJay Cookeの豪邸”Ogontz”に案内し、使節団はそこに2泊した。

フィラデルフィアは、独立宣言が調印され、当初アメリカの首都だったことから、使節団は議事堂や造幣寮等を見学して多くを学んでいるが、金融家で独立戦争の北軍軍資金調達を一手に引き受けて勝利に貢献したJay Cookeの『大小ノ画額各房ニ充ツ』50室を超える広壮な邸宅で、同氏から西海岸とミネソタ州を繋ぐ4000マイルに及ぶ鉄道開発や、スペリオル湖の港町ドゥルースを第二のシカゴにして、セントローレンス川経由大西洋に至る3700マイルにも及ぶ水運を繋げて両大洋を結ぼうとの巨大構想を聞いて感銘している。

後日談だが、欧州における普仏戦争終結後のインフレと、アメリカの鉄道等の過剰投資から1873年恐慌が勃発し、Jay Cookeの銀行は倒産、Ogontzは100人規模の女学校になった。(岩崎記)

実記輪読会:3月度部会報告「第16巻 北部巡覧の記 下」

日時:2019.3.13 13:10 ~ 14:50
場所:日比谷図書文化館 4F セミナールームA
ナビゲーター:吉原重和

行程
明治5年(1872年6月15日)
・5月10日 ナイアガラのホテルを出発、オンタリオ湖に沿って来た線路を戻る。10時にロチェスターを通過、シラキュースを経てサラトガの「グランドユニオンハウス」着

・5月11日 サラトガ湖を廻り山上で休憩、その後車で薬泉に行く。

・5月12日 サラトガを出発、ボストンに向かい夜8時にボストン着

・5月13日 ボストン市内回覧、2時から太平楽会に赴く。

・5月14日 ボストン港を船で回覧、2時から再度太平楽会に赴く。

・5月15日 ボストンを9時に発ち昼にスプリングフィールド着、小銃製造場に至る。夜12時にNYCへ帰着。

・5月16日 セントラルパーク回覧、夜9時過ぎの汽車でワシントンへ戻る。

画像資料はこちらをクリックして下さい。

吉原記

 

 

 

実記輪読会:2月度部会報告「第15章 北部巡覧の記 中」

日時:2019.2.13 13:10 ~ 14:50
場所:日比谷図書文化館 4F セミナールームA
ナビゲーター:吉原重和

行程
・明治558日(1872613日)
ウエストポイントを発ちコロンビヤ号に乗車してハドソン河沿いに北上。

NY州の州府オルバニー着、シラキュースを経て午後11時にナイアガラ村のインターナショナルホテルに着いた。 

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ナイアガラ回覧。アメリカ滝からゴード島に至る。
カナダ滝近くの博物館見学。エジプトのミイラ(ラムセス一世)見学
夕方フィルモア元大統領をホテルに招き夕食会を催した。

画像資料はこちらをクリックして下さい。

吉原記

 

 

実記輪読会:1月部会報告「第14章 北部巡覧の記 上」

日時:2019.1.9 13:10 ~ 14:50
場所:日比谷図書文化館 4F セミナールームA
ナビゲーター:吉原重和

行程
・明治5年5月4日(1872年6月9日)
議事堂北の駅(Union station)から寝台車2両で出発した。
米国政府の招待旅行だったので案内役のマイヤース夫妻と娘、
上院議員のバンクス夫妻と娘が同行。森弁務使と書記生も途中まで随行。

・5月5日 薄晴 ニューブランズイックで夜が明けた。
エリザベス駅で朝食 その後ニューアーク市を通過し6時45分にジャージーシティー駅着。
ハドソン河口のフェリーで対岸のマンハッタンに渡りウエストワシントンの第16番桟橋に着く。(世界貿易センタービルの近く)

その後7時にブロードウェイのセントニコラスホテルに入った。(1000室もある大ホテル)
バッテリー地区からブロードウエーの喧騒に驚きながら市場の様子を見た。
午後3時からセントラルパークを回覧し、夜8時にブロードウェイの劇場に行った。

・5月6日 イーストリバー河口から蒸気船でウエストポイントへ
向かった。
午後4時に学校に到着した。ガトリング砲を見た。

・5月7日 学校見学で生徒の教練、軽砲隊の試験を見た。その後
花火を見てその壮観に驚いた。10時に宿に戻った。
彼等はウェストポイントの墓地も見た。

配布資料はここをクリックして下さい。

以上

 

 

実記輪読会:12月部会報告「第十三巻「ワシントン」市ノ記 下」

日時:2018.12.19  13:10~14:50
場所:日比谷図書文化館4F セミナールームA
内容:第十三巻「ワシントン」市ノ記 下

3月23日中央郵便局、農事試験場、27日アナポリス海軍兵学校、4月24日アーリントン国立墓地で慰霊祭(メモリアルデー)に参加、観衆4万人、5月1日精神病院視察。5月3日フィッシュ国務長官と8回目の条約改正予備交渉会談、米側より改正案文を手交される。この時期、ワシントンは猛暑だったようで5月4日(旧暦、実際は6月上旬)は気温32度との記述。

農事試験場はスミソニアン協会の北に位置し元々はパテントオフィスの付属機関、の記述からすると、(11月例会報告で記した)ザ・モール【国会議事堂前の、大統領宣誓式の際群集が集まる広大な広場】に中にあったと推察される。実記は、5月4日の記載が「当府ヲ・・」と中途半端で終わっているが、この日夜9時にワシントンを出発し翌日5日朝6時にニューヨーク対岸の「ジャージーシティ」に到着している。

アーリントン国立墓地はケネディ大統領を始めとする著名人や無名戦士等の墓がある。故ケネディ大統領の墓は正面を上がった丘の中腹にあり、東の方角を見るとケネディ大統領の棺を乗せた馬車が静々と進んで来たアーリントン・メモリアル橋が見える。大統領の隣にはジャクリーン夫人が眠っている。

なお、富田命保日記によれば、4月6日は杉山・福井・吉雄氏と共に宿舎のホテルを離れ宿の主人ベネット氏宅に移った。4月28日には福地氏とニューヨークに向かい、当地で国債発行のためロンドンに向かう吉田太郎(清成)、大鳥圭介と会っている。5月2日にワシントンに帰ったとあり事前に下見に訪れたということか?(冨田兼任記)

 

 

米欧回覧実記輪読会11月部会報告:第十二巻「ワシントン」市ノ記 中

日時:2018年11月14日(水)13.10-15.00
場所:日比谷図書文化館セミナールーム
第十二巻「ワシントン」市ノ記 中

2月25日パテントオフィス(特許庁)、26日印刷局、3月10日スミソニアン協会視察。スミソニアン協会は1846年英国人科学者ジェームズ・スミソニアンが資金を寄贈し設立された、現在では19ある博物館・美術館・国立博物館からなる世界最大の博物館群で1億3650万点の文化遺産や標本を所蔵する。キャピタル(国会議事堂)とワシントンモニュメントを東西に結ぶ広大な広場(モール)の両側に博物館・美術館が立ち並ぶ。現在では、特に航空宇宙博物館の人気が高く、ライト兄弟が最初に空を飛んだ飛行機、リンドバーグの大西洋横断飛行機、月面に最初に降りたアポロ11号宇宙船(カプセル)の実物等が展示されている。

3月13日市の招待でポトマック川を下りマウントバーノンに赴いた。船中では奏楽、饗応を受け、気候も良く船上から川の両側に咲く花梅桃桜李を愛で楽しい時を過ごした。マウントバーノンは初代大統領ワシントンが異母兄の未亡人より譲り受けた広大な敷地(プランテーション)に旧宅の他、農場、納屋、鍛冶屋等があり、ワシントン大統領とマーサ夫人の墓廟もある。旧宅・墓廟は銅版画を見る限り現在の姿とほぼ同じである。3月16日ジョージタウン(ワシントン市西部にある住環境の良い地区、因みにジョージタウン大学は河野外務大臣の母校)の天文台、17日財務省(ホワイトハウス東隣)、20日海軍造船所を視察。

富田命保日記によれば、2月25日は杉山・福井・吉雄氏と共にアーリントン墓地に行ったとある。本体(実記ではではパテントオフィス視察)とは離れ別行動をしていたようだ。片や3月13日は海軍所よりポトマック川を下りマウントバーノンに行き夕刻6時に帰館とあり同一行動であったことが分かる。一行は様々な行動形態を取っていたようで興味深い。(冨田兼任記)

米欧回覧実記輪読会:10月部会報告

日時:2018年10月10日 13:10~14:50
場所:日比谷図書文化館 4Fセミナールーム

「第十一巻「ワシントン」市ノ記 上」

使節団は1月21日ワシントンに到着、アーリントンホテルに投宿。大統領夫人から歓迎の花束が届いていて感激する。ホテルはホワイトハウスの北側ラファイエットパークから北北東に伸びるヴァーモントアベニューにあった。【実記の、ホワイトハウスは公園一つ隔てた(ホテルの)西隣、の記載は正確ではない。方角的にはホワイトハウスはホテルから見ると南側になる】また、通りを隔てたジョンソンハウスを事務所として使ってよいと米国側が便宜を図ってくれる。

1月25日ホワイトハウスでグラント大統領に謁見。大使・副使は衣冠、5人の書記官は直垂、皆帯剣し、大使が天皇の国書を大統領に手交した。27日キャピタル(国会議事堂)訪問。下院において議長と大使がスピーチ交換の後、中央ドーム下部(ロトンダ)を見学、コロンブス上陸・ワシントン大統領選出・独立宣言起草等十枚の絵画を見る。2月3日国務省で第1回条約改正交渉会議開催、しかし、国家元首の委任状なしでは交渉できない、と指摘を受ける。このため、2月12、13日と大久保副使、伊藤副使が相次いで委任状を取りに帰国の途に就く。2月17日廃兵院を訪問、2月24日米側が正副大統領、各省長官臨席の下招宴を開く。

なお、輪読会では現地で撮影したキャピタル内部(ロトンダ等)、(上述の“西隣”を頼ったため)誤認したホテルの最上階から財務省越しに見たホワイトハウス等現地の様子を写真で紹介した。

吉原氏より米欧回覧実記に加え当時の新聞記事、大使信報そして木戸日記の記載も含めて、日付を縦軸、各日記の記述を横軸とした比較表が提示された。今後これら史料に富田命保日記も含めてこの比較表に記載してゆくことで、多面的に使節団の行動の記録を把握できることが期待される。なお、この時期富田命保日記によれば、1月28日、29日は旅費の精算、とりわけ官費で賄っていた同行學生の私費分の精算を含め手数を費やして旅費精算に従事したとある。

富田記