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歴史部会:7月部会報告『タウンセンド・ハリス~初代米国総領事が日本にもたらしたもの』

日時:令和元年7月22日 13:30~14:30
場所:国際文化会館4F
講師:岩崎洋三氏

2019.7.22(月)の歴史部会は、岩崎洋三氏が『タウンセンド・ハリス~初代米国総領事が日本にもたらしたもの』と題して、初代米国駐日総領事として1856年(安政3年)下田に来航し、2年後英仏露に先駆けて通商条約を締結し、日本の開国を果たしたハリスの数奇な生涯と功罪を論じた。

本論に入る前に、総領事ハリスを描いた映画『黒船』の、下田来航・江戸出府・将軍謁見の部分を見大筋を捉えた。上陸を拒否する下田奉行、大名行列並みの道中、江戸城での謁見と開国の利を説く有名なハリスの長口舌など、1958年にジョン・ヒューストンが監督作った映画は意外に良く出来ていた。因みに、ハリス役はジョン・ウェイン、下田奉行が山村聰で、共に様になっていた。

1)ニューヨーク時代~出生からニューヨーク市教育委員会委員長まで

ハリスは1804年にニューヨーク州北部のハドソン川に沿った小さな村で、帽子屋の5男として生まれた。先祖は、全米で最初に奴隷制を禁じたロードアイランド州を起こしたことで有名なピューリタンのロジャー・ウィリアムズと共に1630年にアメリカのニューイングランドに渡って来たウェールズ移民である。父母双方の祖父達は独立争で戦っている。自宅を火災で失った父方の祖母は、ハリスに『真実を語れ、神を畏れよ、イギリスを憎め』と教えた。タウンセンドの名はこの祖母の旧姓でからもらっている。読書家の母親は共和主義・連邦主義で、民主主義・地方分権のハリスとは意見を異にしていたが、ハリスはこの母親をこよなく慕った。

13歳の時ニューヨーク市に出て洋服商に就職した。そして、16歳の時には兄から陶器店の経営を委ねられ、子供商店主として評判になった。商売に精を出す一方、当時市政を牛耳っていた民主党に所属し、ウェトモア将軍等有力者の知己を得て42歳の時ニューヨーク市教育委員会委員長に就任恵まれなかったハリスは、当時急増していたアイルランド移民を含む貧者に高等教育機会を与えようとFree Academyを設立した。これはニューヨーク市立大学に発展する。

2)インド洋・太平洋貿易業時代~ニューヨーク市教育委員長を辞し、初代駐日総領事になるまで

1849年家業の経営悪化に加え、敬慕する母親の死に見舞われたハリスは、ニューヨーク市教育委員長を辞し、サンフランシスコで貨物船の権利を購入し、太平洋・インド洋で貿易業を開始する。年々のクリスマスを過ごした地は以下の通りで、広範に活動していたことが伺える。

1849年北太平洋上
1850年マニラ
1851年ペナン島
1852年シンガポール
1853年香港
1854年カルカッタ
1855年セイロン

3)初代駐日総領事時代~ピアス大統領に直訴の任命から日米修好通商条約締結まで

1854年ペリーの第二次日本遠征で締結された『日米和親条約』第11条で米国領事の下田駐在が可能となり、米政府が派遣方針を定めたのを知ったハリスは、1855年8月ペナンから急遽帰米し、ピアス大統領に初代駐日総領事任命を直訴した。幸い、1853年第1次日本遠征に向かう途中の上海来航時に、ハリスの日本同行を断ったペリー提督が賛成に回り、マーシー国務長官、ウェトモア将軍の推薦を得て、ハリスは首尾よく任命を勝ち取り、併せて通商条約締結の全権を得た。

1855年10月通訳にオランダ人ヒュースケンを雇い日本向け出港したハリスは、途中シャムで同国と通商条約を調印するが、ハリスは直前に同国と条約調印した英国特使パークス(厦門領事)から条約文を入手し参考にした。このパークスは、帰任後広東領事になり、直後アロー号事件を引き起こすが、結果的にアロー号事件が日米修好通商条約交渉を加速させ、英国に先んじて調印されたことは皮肉だ。ハリスは7月に寄港した香港でボウリング総督から、『アロー戦争終了次第大艦隊を率いて訪日予定』と聞かされていた。

下田には1856年8月着任し、玉泉寺に領事館を開設したものの、攘夷派との折り合いがつけられない幕府との交渉はかみ合わなかった。翌年5月に日米和親条約を補完する『下田協約』調印できたものの、通商条約交渉のための江戸出府が認められたのは着任1年3カ月後だった。条約交渉は番所調所で下田奉行井上清直と目付岩瀬忠震両全権との間で進められ、1858年1月14回目の条約談判で決着した。しかし、条約勅許が得られないため、大老に就任した井伊直弼の命で無勅許調印したのは6カ月後だった。

条約は不平等条約とされるが、病身のハリスがリンカーン大統領に辞任申請した時には、幕府は国務長官宛に留任要請をした。『幕府の当局者がハリスに出会ったことは、日本にとって幸せだった』(徳富猪一郎)と前向きに評価する向きも少なくない。清国とアヘン戦争・アロー戦争を戦い、領土拡張を含む不平等条約を勝ち取った英国が、大艦隊を率いて来日する前に、ハリスが平和的な交渉で結んだ日米修好通商条約が、英国を含む他の列強との通商条約の規範となったのは幸いと見るべきであろう。

それにしても、ハリスが江戸出府の途上で日記に記した以下の一文は、今に及ぶ基本的問題を衝いているように思われる。

『見物人の数が増してきた。彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない-これが恐らく人民の本当の幸福の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響をうけさせることが、果してこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるか、どうか、疑わしくなる。私は、質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国におけるよりも、より多く日本において見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる。』(日本滞在記下巻P.26)

(岩崎洋三記)

 

歴史部会:6月部会報告『英語の師匠-岩倉使節団一等書記官・何禮之』

日時:令和元年6月18日 13:30~14:30
場所:国際文化会館 403
演題:『英語の師匠-岩倉使節団一等書記官・何禮之』
講師:金子秀明氏
参加者:14名

何禮之(がれいし)は、長崎の唐通事の家系に生まれた。何一族は、明の滅亡に際し、江戸の初期に日本に亡命し、長崎で代々、唐通事を営んできた。唐通事は、単なる通訳の通詞にとどまらず、貿易実務にも関わっていた模様。講師の金子氏(テレソフト会社-点字ソフト、機器製造販売-代表取締役)は、何一族の天草分家のご出身。

何禮之は、7歳で家督を継ぎ15歳で、これからは英語の時代と見極めて、長崎の唐人より『華英・英華事典』を求めて独学を始め、長崎英語伝習所や居留地内の中国人や英米人(フルベッキなど)から発音を学ぶ。そして、英語稽古所学頭の幕臣に取り立てられ、長崎の私塾と大阪・江戸の私塾で英語を教える。門弟には、親友・前島密(前島の葬儀委員長を務める)、高橋新吉(日本勧業銀行総裁)、前田正名(農商務省次官、東京農林学校長)、芳川顕正(東京府知事、文部大臣、内務大臣)、高峰譲吉(工学・医学博士)、陸奥宗光(外務大臣)、星亨(逓信大臣)、中村六三郎(三菱商船学校初代校長)、浜尾新、豊川良平、吉村寅次郎など百数十名を育てる。岩倉使節団関連の弟子だけでも、山口尚芳(副使)、瓜生震(通詞から三菱支配人)、日下義雄(長崎・福島県知事、実業家)、中島永元(文部官僚)、岸良兼養(大審院長)、萩原三圭(ドイツ初留学生、宮内庁侍医)など多彩。勝海舟陸軍総裁時代の通訳や、小松帯刀随行で上京して通詞を務め、岩倉具視にも、訳書のモンテスキューの『法の精神』など進講している。大隈重信の民権思想にも影響を与えたという。回覧中は木戸孝允と同行し、また一緒に帰国しているので、木戸との接点も深い。青山霊園に眠り、墓名碑「徳種」(恩徳を他人に施す人)「音容如在、葬掃維勤」(お墓参りのたびに、声や姿が目に浮かぶ)に人柄が偲ばれる。林洞海の息子・武を養子とし、榎本武揚と赤松則良とは義兄弟。赤松の三男を養子として何盛三(エスペラント学会長、ベトナム商社・大南公司の支援)に。その長男・何初彦は東大教授。何禮之日記は東大図書館に寄贈されている。幕臣ながら貴族院議員まで務めたのは、中国出身、何一族の日本に溶け込む精神の発露かと。
(文責:小野)

 

歴史部会:5月部会報告『今、ジョン万次郎を語るー「漂巽紀畧」〈ひょうそんきりゃく〉出版を期に』

日時:令和元年5月20日 13:30~17:00
場所:国際文化会館401号室
演題『今、ジョン万次郎を語るー「漂巽紀畧」〈ひょうそんきりゃく〉出版を期に』

中浜万次郎を語るには最適のお二人、北代淳二氏(東京・国際ジョン万次郎協会会長)と谷村鯛夢氏(漂巽紀畧・現代語訳者・俳人)をお招きしての講演会。参加21名。

土佐の漂流漁民・ジョンマンことジョン万次郎は、鳥島に漂着して、捕鯨船ジョン・ハウランド号の船長・ホイット・フィールド船長に、仲間4名と共に救出された。

捕鯨に従事した後、仲間をハワイに残して一人米国東岸のフェアーヘブンで三年間教育を受けた。更に六年余の捕鯨船経験を積んで、カルフォルニアの金鉱で600ドルを稼ぐと、「二重に鍵をかけられた祖国」日本の門戸を開こうと思い立って、10年ぶりに沖縄に決死の上陸を試みる。

ペリーの黒船が、日本の鎖国大平の夢を覚ます二年前のことである。琉球での取調べの後、実効支配の薩摩藩に移送され藩主・島津斉彬に西洋事情と船の技術を伝える。長崎奉行所の聴取を経て、帰り着いた祖国土佐藩で絵師・河田小龍の聞き語りで完成したのが「漂巽紀畧」である。この情報は、即座に江戸幕府に伝えられて、オランダ特段風説書でペリー来航を知らされていて、米国情報を渇望していた老中・阿部正弘に召され、幕府直参に取り立てられ中浜万次郎を名乗り、江川英龍に預けられる。不幸にして、水戸の徳川斉昭が、米国育ちの万次郎を米国有利の通訳をしかねないと警戒したため、米国との交渉通弁には起用されることはなかったが、佐久間象山、吉田松陰、大槻盤渓(万次郎登用を建言)、ペリーの交渉役の先頭に立った林大学頭(復齋)や雄藩藩主・藩士らへ多大な影響を与えた。

咸臨丸の教授方通弁として、太平洋横断を助け、薩摩藩開成所や土佐藩教授、明治政府開成学校教授など歴任する。捕鯨船への夢は生涯持ち続けたが、日本では実業化できなかった。米国の国旗や通貨に表記されている、E Pluribus Unum(多くのものが集まって、一つ=ラテン語で多様性の中の共生)はグローバル・マインドの万次郎の信条そのもので、John Mung Japaneseと自署し、日本人を意識した最初の日本人であろう。身分制の厳しい幕府が、能力のある万次郎を起用し、外国情報を求めて言論の自由を開いたことは、結果的に日本を開国に導いた陰の主役であり、明治維新での下級武士の人材登用にもつながる画期を開いた人とも思われる。それにしても、万次郎の聞き語りで見せた細部までの記憶力の正確さと、たった三年の教育とは思えない端正な英語文章力や的確な文明把握は驚嘆に値する。因みに当時の捕鯨は、最先端のグローバル産業であり、船は技術の先端であり国際化(民族共生、能力主義)の場でもあった。(文責:小野博正)

歴史部会:3月部会報告「幕末・維新期の中国人米国留学生と日本人留学生」

日時:平成31年3月31日 13:30~16:30
場所:国際文化会館 401号室
講師:亜細亜大学  容應萸教授

当日が亜細亜大学教授としての最終日にあたり明日からは名誉教授に就任される本会会員の容先生に幕末・維新期における日中の米国留学生の交流及び比較についてレクチャーして頂いた。
先生にお願いして中国人留学生の郎琅さん(中国延辺出身)今年亜大で博士を取得 ,そして王雨芊さん(中国青海出身)去年亜大で修士号を取得し現在は東大大学院の研究生 のお二人に参加して頂いた。当日は容先生含め全部で20名の参加者で、内女性は6名だった。

容先生プロフィール:
先生は中国広東省広州市生まれで、香港の真光女子高校卒業後に留学生として国際基督教大学(ICU)を卒業後、コロンビア大学で修士号、東京大学で社会学博士号を取得された。National Univ of Singapore専任講師を経て亜細亜大学教授と成り副学長を務められた。ハーバード大(2000-2001), イエール大 (1974-1975; 2012-2013)で訪問研究を行われた。

内容:
清政府は1872年から4年連続、毎年30名(計120名)の官費留学生「留美幼童」を米国に派遣した。この派遣計画の立案者であり、初代「幼童出洋肄業局副委員」(留学生副監督)を務めた容閎は中国人としてはじめて米国の大学を卒業した中国人留学生である。

研究を始めた動機はサミュエル・W・ウイリアムズ、S.R.ブラウン、B.G.ノースロップと中国人の容閎、「留美幼童」そして吉田松陰、芦原周平、国友滝之介、山川捨松との関係に興味を持ったからである。
研究の目的としては;
1.米国人と日中両国の留学生が繋がりを持った背景や経緯を明らかにする。
2.日中留学生の間に交流・交友関係があったかどうか、その原因は何であるかを考察する。
3.同時代にイェール大学にいた日中留学生を比較し、両国が近代化において「同じ出発の時点」に立ったといえるかを検証する。

更には米国人と日中両国の留学生が繋がりを持った背景や経緯を明らかにし、日中留学生の間に交流・交友関係があったかどうか、その原因は何であるかを考察する。又、同時代にイェール大学にいた日中留学生を比較し、両国が近代化において「同じ出発の時点」に立ったといえるかを検証する。

清朝の西洋探求を目的とする使節団
1866年3月から11月、海関の総税務司ハートと斌椿(ビンチュン)らによる欧州のフランス、イギリス、オランダ、プロイセン、デンマーク、スウェーデン、フィンランド、ロシア、ベルギーの九か国訪問。

1868年2月から1870年10月、清朝最初の遣外使節団として、バーリンゲーム(蒲安臣)使節団(約30名)が派遣される。公式訪問国:米国、イギリス、フランス、ノルウェー、スウェーデン、デンマーク、オランダ、プロシア、ロシア、ベルギー、イタリア、スペイン(バーリンゲームは1870年2月にロシアのセント・ペテルブルグで客死した。)

天津条約の改訂をめぐって,アメリカ・イギリス・フランス・プロイセン・ロシアなどを訪問し、列強諸国に〈協力政策〉の必要性を改めて確認させる事が目的だった。

米国は『中米追加条約』(俗に『バーリンゲーム条約』といわれる)を調印した。清を対等な国家として認め、清の領土の割譲に反対、さらに「清とアメリカは、両国民の往来・留学・貿易・居住に関して、これを妨げず、相互の利益を図る」と規定したこの条約は、後に実現して学童120名のアメリカ留学への道を切り開いた。一方、米国は大陸横断鉄道の建設のための中国人労働者を得ることができた。

岩倉使節団と比較すると物質文明や風俗習慣に対して強烈な関心を持ったが社会制度や精神文明の面での関心は希薄だった。
綿密な計画がみられず岩倉使節団に見られる緊迫感や使命感は感じられない。

清政府による留美幼童の派遣:
1847年、容閎(1828-1912)はS.R.ブラウン牧師に随行して渡米1850年にイェール大学に入学し、1854年に卒業
1870年、留美幼童派遣計画を提案
1872年から4年連続、毎年30名(計120名)の少年がアメリカ留学に出発し、容閎は留学生副監督と駐米副公使に任命された
1881年、総理各国事務衙門は留学生に帰国を命じたため、留米計画は中断した。

アメリカ・ニューイングランドの「知東洋派」の名前を挙げると

サミュエル・R・ブラウン、(Samuel Robbins Brown)1810-1880
ノースロップ(Birdsey G. Northrop) 1817-1898
アディソン・ヴァンネイム(Addison Van Name)1835-1922
J.H.トゥウィッチェル(Joseph H.Twichell)1838-1918
S.ケプロン(Samuel Capron)1832-1874.1.4
レオナルド・ベーコン(Leonard Bacon)1802-1881
達が居る。 

山川捨松と留美幼童
譚耀勲 (1872第一回留美幼童)
1880 ベーコン牧師は中国へ強制送還の処分から脱走した譚耀勲に部屋を提供し生活を支援した。
蔡廷幹(1873第二回留美幼童、清末・民初の海軍軍人、政治家)1895年、ノースロップ訪日。蔡廷幹は日清戦争で捕虜となる。ノースロップは捨松を通して大山巌にも援助を求め、しばらくして、蔡は牢獄から「脱走させられた」

日本人留学生と中国人留学生の相対比較
家庭的背景
日本人留学生はほぼ全員士族の出だが中国人留学生は伝統的士紳階級ではなかったが、「赤貧洗うが如き」ものもいなかった、農家か商家の出で殆ど広東省の出身

渡米時の年齢と動機
日本人学生の平均年齢:20.2歳で留学動機は日本の近代化
中国人学生の平均年齢:12.9歳で留学動機は本人の見識よりは親・保護者の考え、西学習得による社会地位の上昇だった。

イェール大学入学までの教育背景
日本人留学生
早期の留学生は現地で中等教育を受けてから、後期は大学南校からは直接大学に編入
中国人留学生はホームステイ → 公立学校 → 大学

帰国後の職業
日本人学生:教育者・学者(8)、官僚(3)、実業家(3)、政治家(2)、弁護士、銀行家、貴族院議員(1)、政治家・教育者・銀行家

中国人学生:外交や通訳関係官僚(11)、アメリカ領事館通訳(2)、ジャーナリスト・著述業(2)、技師(2)、海軍、教育者、商人(1)商業・鉱業・鉄道・文筆業・外交・大学長

挙国一致で近代化を急ぐ日本では帰国留学生がすぐ要職につくことができたのに対し、中国では一部の洋務担当高官の配下となって働いたのであった。留美幼童が権力の中枢に近づくことができたのは20世紀に入り、清政府が新政の実行に踏み切ってからである

今後の課題

1.新しいコミュニケーションの土壌があったにもかかわらず、日中両国の留学生により深い交流や連帯がみられなかったことが、その後の日中関係の発展とどのようなかかわりがあったかを知る。

2.同じ出発点に立っていた留学生を有しながらも、中国の近代化事業は日本に遅れを取っていた。このことが、日本と中国の近代化の比較に、どのような意味を有したかを探りたい。

質疑応答
日本人留学生と中国人留学生の差は何故生じたかという疑問に対しては中国の場合は中華思想の影響で海外から学ぶものは少ないという認識だったのでは、あるいは科挙が実施されて居たので留学の重要性が少なかったという意見が出た。

他方日本は近代化が急務だったので多くの海外留学生が新政府に登用された。

留学生から見た日本人観として、本音と建て前が違うのではないかという耳の痛い指摘があった。

まとめ
今まであまり知られて居なかった幕末・維新期の日本と中国の留学生の交流について知る機会を得た事は貴重だった。
先生が実際に歩かれたニューヘヴンの山川捨松のステイ先から永井繁子のステイ先までの地図や当時の家、ブラウン牧師の墓など多くの写真を見せて頂き当時の留学生達の思いに心を馳せる事が出来たひと時でした。

佐藤かおり(卯月かいな)さんから従来の青山霊園での甲東祭は行われなくなったので代わりに5月14日にボランティアで大久保利通のお墓の掃除を行うイベントの宣伝をして頂いた。

会の終了後に有志で麻布十番にある鍋島家の菩提寺である賢崇寺にある久米邦武のお墓まいりを行った。川島なお美の墓は直ぐ見つかったが久米家の墓所は奥の方にあり皆で探し回りやっと見つける事が出来た。

以上 文責 吉原重和

歴史部会:2月度部会報告『もう一つの明治維新はあり得たのか―徳川慶喜を素材として』

日時:2019.2.26 13:30~14:30
場所:国際文化会館 404号室
参加者:16名
プレゼンター:小野博正(歴史部会幹事)

昨年のNHK大河ドラマ『西郷どん』の徳川慶喜の悪役ぶりに義憤を覚え、慶喜の名誉挽回にと、雄藩による明治維新でなかったら、どんな明治の道があったかを考えてみた。保阪正康氏によれば、4つの可能性があった。①帝国主義的国家(これが大日本帝国憲法となった現実の歴史)②帝国主義的道義国家③自由民権国家④連邦制国家である。

明治新政府が天皇大権の帝国主義国家を選んだのには必然性があった。王政復古で幕府を朝敵にした時から、国民国家の実現には、天皇を中心に置くしか道はなかった。岩倉使節団はアメリカで共和制国家をみたが、これは幕藩体制を思わせる形態と思えたろう。イギリスの立憲君主制は理想的にみえたが、時あたかもヴィクトリア女王の権勢が議会に削がれかけていて、これでは天皇の地位がいつ弱められるかわからない不安があった。

フランスの王政と共和制の揺れ動きは不安定だ。一方普仏戦争でフランスを破ったドイツは、ビスマルクとモルトケを従えて、ヴィルヘルム一世皇帝の遅れてきた帝国主義国家は産業革命にも成功して盤石であった。明治6年と明治14年の二つの政変を経て、ドイツ模倣国家への道は確定した。士族の反乱などを恐れて、讒謗律、集会条例、保安条例などで自由民権運動の広がりを徹底的につぶしたので、自由民権国家はあり得ない。

帝国主義的道義国家は、明治天皇がイギリスの立憲君主制に一時期共感していたので可能性はあったがこれも日の目を見ることはなかった。残る、連邦制共和国国家は、江戸幕府がそのまま近代化に進んだとき、その可能性が高かった。大政奉還のとき、慶喜は選挙による雄藩とその家臣による二院制議会と、大統領制を頭において西周や津田真道らに検討させていた。これが実現していたら、緩やかな近代化もあり得た。

最後に、慶喜である。味方になるべき四侯会議で、四侯を大バカ者呼ばわりして敵に回し、思想的倒幕派であった勝海舟を、幕府最後の終幕に起用したのはなぜか。慶喜自身が、倒幕(終幕)を当初から考えていたとすれば、すべてが腑に落ちる。彼は側近に、300年の幕府もあと一年も持つまいと語っており、旗本が戦うことを忘れて居ることを嘆いていた。将軍職辞退も恐らく本気だったのではないか。何せ、水戸家家訓は、将軍家に弓を引いても、朝廷には弓を引くなである。彼の血には、武士と公卿の血が流れている。徹底恭順して、明治になってからも、全く政治を語らず、己を語らず。只ひたすらに趣味の世界に没頭したのは、無言のうちに、そのことを語ってはいまいか。これは歴史専門家が決して語らぬ見方である。(文責:小野博正)

歴史部会:10月部会報告「鍋島閑叟(直正)と佐賀7藩士」

日時:2018年10月15日 13時30分~16時30分
場所:国際文化会館 4階会議室
演題:「鍋島閑叟(直正)と佐賀7藩士」
講師:大森東亜(会員)

今回のテーマは、当会で今秋、幕末維新と関係の深い佐賀への歴史旅行が計画されているため取り上げられた。はじめに佐賀藩と佐賀県の地理的特性、歴史的変遷と鍋島氏登場、さらに廃藩置県から佐賀の乱を経て、佐賀県誕生(平成29年人口83万人)までを辿る。

鍋島閑叟は、1814年九代藩主斉直の子として江戸桜田屋敷で誕生し、十七歳で家督を継ぐまで江戸で過ごす。従兄の島津斉彬など縁戚関係は多面に亘る。家督相続時、藩財政は窮乏下にあり、諸役の倹約令、年貢徴収改革ほか磁器づくり、石炭採掘など産業振興に努める一方、借財整理にも取組み、閑叟は「算盤大名」の異名もとる。佐賀城二の丸が焼失するも正室の実家(将軍家)からの城再建費支援などもあり、藩財政を持直す。

佐賀藩は福岡藩とともに長﨑御番を交代で務める。1808年フェートン号事件がおきる。英船が蘭船を装って長崎港に不法侵入し薪水等を求めた事件である。佐賀藩と長崎奉行が対応不適切とされ、長崎奉行関係者が切腹したほか、閑叟の父藩主斉直は謹慎処分される。この出来事もあって閑叟は、長崎御番のため砲台整備、西洋砲術導入、海軍育成、軍艦製造に終生尽力する。閑叟自らオランダ艦やイギリス艦に乗船し、艦船購入のほか蒸気機関工場の設計図などもオランダに求めている。

砲台築造、反射炉建築のため伊豆江川太郎左衛門のもとへ本島藤太夫らを派遣し研究させる。3年がかりで国産初の反射炉をつくり、洋式大砲を鋳造し、幕府の注文も受ける。

事業完成を評価され幕府からの借入10万両は免除される。完成まで度重なる失敗もあったが、閑叟は「西欧人も人なり、佐賀人も人なり、薩摩人も人なり、挫けずますます研究せよ」と励ましたという。幕府の長崎海軍伝習所閉鎖後、閑叟は佐野常民の建言を受け、藩に三重津海軍所を開設し、航海、造船等のほか、国産初の蒸気船も完成させる。

幕末から維新にかけて閑叟は旗色を鮮明にせず、「肥前の妖怪」という小説を司馬遼太郎に書かせる。しかし、その背景に慶喜の大政奉還と引換えに朝廷を戴き、内戦を避け、外国から日本を守るという強い思いがあったと小説『かちがらす』(植松三十里)では記す。いずれにしろ閑叟を中心とする佐賀藩は幕末維新期、大砲と海軍により維新政府成立に寄与する。幕末維新期に活躍した佐賀藩士は閑叟を含め7賢人が挙げられているが、『米欧回覧実記』の久米邦武もこれら賢人に加えたい。佐賀藩士には現代に至る社会制度に地道に寄与した人物が少なくない。それぞれ特記事項を記すと、大隈重信は政党政治、議会政治に貢献し、早稲田大学を創設する。久米は「神道は祭天の古俗」とする論文を書き、帝国大学教授を追われるが、日本史学実証研究に従事する。佐野常民は火器研究後、パリ博覧会に赴くほか、日本赤十字を創設する。副島種臣はペルー船「マリア・ルーズ号」事件で、清国人奴隷を解放するなど日本外交のパイオニアとなる。大木喬任は江藤新平とともに東京遷都を建策するとともに、初期東京府知事となり東京の治安と活性化、さらに文部行政、民法編纂に貢献する。江藤は学制、刑法等司法制度整備にあたる。島義勇は箱館戦争に従事する一方、閑叟の助言をもとに札幌の条里制、北海道開発にあたっている。。

これら佐賀藩士たちの活躍には藩校弘道館の果たした役割が大きい。弘道館は1781年に創設され、92年にわたり独自の教育活動を展開し、時に約千人も学んだといわれる。弘道館の優秀な佐賀藩士は江戸期の最高の学問所昌平黌に学び、幕末25年間で昌平黌の学生505人のうち40人おり、仙台藩、薩摩藩の各21人に比較して抜きんでたとの調べもある。岩倉具視も佐賀藩の教育を評価して子弟を佐賀藩に委託している。
文責:大森東亜

 

 

 

歴史部会:9月部会報告「憲法・3大噺」

2018.9.25 13:30~17:00
国際文化会館 401号室

安倍政権が今年中にも憲法改訂案を国会に上程すると伝えられる機会をとらえて、一人ひとりが憲法問題を考えるに当って歴史的事実を押さえて置こうというのが今回の部会開催の狙いです。参加者21名。まず、明治の「大日本帝国憲法」の成立過程の歴史的背景を泉三郎氏から説明された。維新創業にあたっての「五箇条の御誓文」があり、岩倉使節団帰国直後の大久保利通、木戸孝允二人の夫々の憲法制定を急ぐべしとの建白書。
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歴史部会:7月部会報告「海舟と薩摩藩の情報収集」そして「ワシントンでの岩倉使節団続編」

平成30年7月16日 14:00~17:00
場所:国際文化会館404号室
プレゼンター:吉原重和(会員)

海舟と薩摩藩の情報収集」
薩英戦争後に江戸に派遣された薩摩藩遊学生達が海舟の塾生だった事が海舟日記に記載されていた事が新たに判明した。
加えて彼らが薩摩藩の情報収集の一端を担っていた事、そして彼らの密航直前の長崎における行動についての報告を行った。薩摩藩邸では 南部弥八郎、柴山良介、肥後七左衛門の3名が探索方として活動していた。南部は探索方報告書にまとめて薩摩飛脚で藩庁へ送っていた。

情報の収集は奉行所付属の通訳出穂屋(清水)卯三郎、文書翻訳方木村宗三、立石得十郎、通詞立石斧次郎、外国方翻訳福澤諭吉、北村元四郎、アレキサンダー・シーボルト、そして薩英戦争後に江戸に派遣された遊学生達を横浜に送り行っていた。

これまで薩英戦争後に大山巌、吉原重俊、木藤市助などの寺田屋騒動に加わった攘夷派の志士達が藩から遊学生として江戸に送られていた事は判っていたが、彼らが江戸で何を行っていたのかは不明だった。
今回、勝海舟が開いた氷解塾に薩摩藩士で後に米国へ密航留学する種子島啓輔、吉原重俊、湯地定基、桐野英之丞の4名が入塾していた事実が東北学院大学の高橋先生の論文から判った。
海舟が書き残した海舟日記が明治40年に日記抄として刊行された時は薩摩藩士達の記述は無かったが40年後に勁草書房版(昭和47年~48年)、講談社版(昭和51年)が出版された時に原本にあった薩摩藩塾生の件が追加された。
そこには4名の薩摩藩遊学生が元治2年2月13日に入塾し、慶応2年1月21日の薩長同盟成立に時をあわせて退塾し国元へ向かったと書かれていた。氷解塾遊学生に加えて大山弥助達10名の薩摩藩遊学生が居た江川塾からも木藤市助、谷元兵右衛門が米国留学生と成った。

氷解塾に居た吉原達4名の薩摩藩士が江戸から国元へ向かっていた頃、京都では維新史には必ず登場する事件が起きていた。
小松帯刀のお花茶屋の邸宅で1月21日の薩長同盟の成立直後に京都伏見の寺田屋で坂本龍馬と三好慎蔵が伏見奉行の捕りかたに襲撃された寺田屋事件が起きた。

そして、
3月4日   小松帯刀、西郷隆盛、桂久武、吉井孝輔、坂本龍馬、
お龍、三吉慎蔵達が藩船三邦丸に乗り翌5日大阪を出港3月7日   夜 馬関(下関)寄港 三吉は下船3月8日   長崎寄港
その後彼らは鹿児島に向かい、龍馬とお龍さんは塩浸
温泉に新婚旅行に行ったと言われています。

留学生のリーダー格だった仁礼景範が米国までの様子を記した仁礼景範航米日記に依ればグラバーが帰ったと同じ28日に薩摩藩第二次米国留学生は長崎よりポルトガル船にて出港しました。種子島、吉原、湯地の3名の氷解塾グループに加え谷元、木藤の江川塾グループそして仁礼、江夏の7名の薩摩藩士達は英国経由で米国に渡りマサチューセッツ州のモンソンアカデミーに留学しました。 

話題を変えて南部弥八郎報告書の内容の一例として1866年12月に横浜から約3年間に渡る欧米公演に旅立った高野広八が率いた帝国日本芸人一座と称する17名の曲芸師一座について述べると、彼らは幕府が発行した「御印章」パスポートを取得した民間人一号だった。彼らが北町奉行所に提出した旅券の申請書に記載された内容がほぼその通り、南部の報告書に記載されていた。

彼等はサンフランシスコ、ニューヨーク、フィラデルフィア、ボルチモアで公演を行い、ワシントンでは第17代アンドリュー・ジョンソン大統領からホワイトハウスに招かれて謁見をうけた。他にサツマ一座も欧米で公演を行い、ニューヨークの5番街で岩倉使節団と遭遇し、石畳に土下座したという逸話が残っているそうだ。 

2.ワシントンでの岩倉使節団続編
先ごろMartin Collcutt先生(プリンストン大学名誉教授)から、ワシントンのMasonic Templeで開催された米国国務省主催の岩倉使節団歓迎の公式晩餐会について、回覧実記に久米邦武は「晴」とだけ書いて何も触れていないのは何故だろうかという問題提起が成されましたのでその後の研究成果を発表致した。

使節団一行がワシントンのアーリントンホテルに到着したのは1872年2月29日でだった。
3月1日には早速造幣寮の視察を行った。
3月4日にはホワイトハウスでグラント大統領に謁見した。
3月5日の午後9時に市内のMasonic Templeに於いて国務省主催の公式晩餐会が開催され、1000名以上の参加者が集まった一大イベントだった。

晩餐会の開催についての新聞記事を読むと確かに多くの参加者を招いて国務省主催の晩さん会が開催されていた事が判る。
副大統領のColfax、国務長官のFish等が参加しましたが何故かグラント大統領は不参加だった。そもそも大日本外交文書付属書(略日記)に26日の記載自体がなく晩餐会などは無かった事に成っていた。こうして見ると久米が実記に晩餐会を書かなかった理由は単純で日本側は晩餐会の事実を公表していなかったからと言える。伊藤博文伝にも晩餐会の記述は無かった。

実は宗教問題が使節団の前に横たわっていてワシントン到着前から新聞紙面をにぎわしていたので岩倉は宗教問題には敏感だった。グラント大統領は謁見式の日に早速宗教問題に触れていた。この宗教問題が発端でグラントが晩餐会を欠席したというのが事実であれば、日米間の宗教問題の対立を表面化させたくなかったという推論も成り立つ。
今後の研究が望まれる。

以上(吉原記)

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歴史部会:5月部会報告「西郷どんを奔らせた薩摩藩の名君:島津斉彬」

平成30年5月7日(月)
時間:14時~17時
場所:国際文化会館
プレゼンター:小野博正(会員)
参加者:18名

鹿児島の照国神社に祀られている島津斉彬は、名君に恥じない。薩摩藩が明治維新の実現に最も貢献したことは異論の余地がないが、その薩摩藩の国父・島津久光や藩士・小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通らを幕政改革から、やがて倒幕へと走らせたのは“斉彬の御深意”(先君の遺志)である「御一新」「日本一致一体論」「殖産興業、富国強兵」「開国と貿易」「夷を以て夷を制する文明開化」を誠実に追求することにあった。 続きを読む 歴史部会:5月部会報告「西郷どんを奔らせた薩摩藩の名君:島津斉彬」

歴史部会:4月部会報告「大倉喜八郎の旺盛な企業家精神」

日時:4月16日
場所:国際文化会館404号室

4月歴史部会は、東京経済大学名誉教授、大倉文化財団理事長の村上敏彦氏をお招きして『大倉喜八郎の旺盛な企業家精神』のお話を伺った。参加者:22名。

城山三郎に「野生の人びと」と松永安左衛門と並び称された大倉喜八郎は、越後・新発田の商人の子に生まれ、丹羽伯弘に知行合一の陽明学を学び、18歳で単身江戸に出て、丁稚奉公から始め、幕末に鉄砲商として起業する。民間人初の欧米視察で岩倉使節団と現地で交流し帰国後、日本国内での「居貿易」から「出貿易」の時代と見て、いち早くロンドン支店を設置し、薩長土肥関係商人に対抗して自立する。

渋沢栄一を生涯の盟友として東京商法会議所設立に参画、商法の近代化に努める一方で、貿易協会や大倉商業学校を設立。中国・朝鮮・ペルシャ・トルコ・インド貿易の先駆者となる。東京電燈、東京電力、銀座にアーク灯点灯、サッポロビール、帝国ホテル、ホテル・オークラ、帝国劇場、土木建設(大成建設、鉄道、地下鉄、鹿鳴館、歌舞伎座)、製材(秋田木材)・製紙(特種東海製紙)、製靴(リーガル)、製革(ニッピ)、日清オイリオ、浅草パノラマ館や数々の国内外鉄道事業で大倉財閥の基礎を築く。特に中国では製鉄所など、日本初の対中投資に踏み切り、中国同盟会結成大会に大倉邸を提供、辛亥革命に関わり孫文らと交わる。

自助、努力、誠意がモットー。株、相場、銀行はやらぬ主義が災いして、財閥解体後の戦後の財閥復活がならなかった。90歳で山登り、14歳からの狂歌、一中節、本阿弥光悦流の書、大倉集古館など、仕事は西洋近代風、趣味は江戸情緒的、前近代・アジア風で陽気で洒脱な人柄。振る舞いは派手で陽徳。石門心学の商人道で資本の論理と倫理・道徳のバランスを保つ。責任と信用。「言葉の命を重んじる」「信用なきは首なき人と同様なり」は、今の政治家、企業家、役人に聞かせたい言葉。やはり、近代の巨人であった。(文責:小野博正)

歴史部会:3月部会報告「アーネスト・サトウ~幕末維新に活躍した英国外交官」

日時:2018.3.19(月)
場所:国際文化会館
講師:岩崎洋三(会員)

アーネスト・サトウ(Ernest Mason Satow)は、文久2年(1862)9月日本語通訳生として19歳で来日し、以後明治13年まで約20年間滞日し、流暢な日本語を武器に初代英国公使オールコック、二代目パークスを助け、明治維新に大きな影響を与えたイギリスの外交官である。サトウは13年後に駐日公使として再来日し、日本勤務は通算25年に及び、英国では日本学の権威としても評価されている。

サトウが日本に憧れるきっかけは、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン2年生で通訳生試験直前の18歳の時に読んだ『エルギン卿遣中・遣日使節録』が日本を美しく描いていたことだった。この本はアロー戦争と日英修好通商条約交渉の記録だが、アロー戦争指揮官エルギン卿の私設秘書として随行した著者ローレンス・オリファントが帰国と同時に1859年に出版したものだが、条約交渉のため2週間訪問した日本を丹念に、美しく描いていた。

オリファントは1861年に代理公使含みの駐日英国公使館一等書記官として来日するが、直後に第一次東禅寺事件に遭遇し負傷帰国を余儀なくされた。サトウは赴任前にこれを知り、着任5日後には更に生麦事件と、外国人が襲われる事件が頻発する中での日本赴任になったが、「外国人が襲われるのは当然」と肝が据わっていた。この胆力はその後幕府の目を盗んでの雄藩人士との交流や、頻繁な内陸調査旅行の実施にも見て取れる。

着任翌日には日本語のエキスパートである米人宣教師ブラウンとヘボンを訪ね、日本語学習を急ピッチでスタートし、オールコック公使をして「半年後には目を見張る進歩を成した。サトウは書かれた日本語の難しさもマスターできた唯一の人物。」と言わしめる長足の進歩を遂げる。

オランダ語通訳を介さずに、流暢な日本語で西郷隆盛・勝海舟を含む幕府・雄藩・新政府の要人と直接日本語で意思疎通出来たのは画期的なことで、結果情報収集の質量や影響力が格段に増した。

着任4年後には「天皇を元首とする諸大名の連合体が支配権力になるべし」とする内容の『British Policy』を横浜の英字紙に発表したが、翌年『英国策論』と題して日本語版が全国の書店に出回ると、西郷はじめ雄藩の重要人物がこぞって読み、大きな影響を与えた。

また、薩摩戦争、下関戦争、新将軍慶喜の外交使節謁見、大坂開市・神戸開港準備、明治天皇謁見、雄藩重要人物との会見等重要局面でサトウの日本語能力は不可欠で、オールコック、パークスを助け、英国がフランス等他国を制して対日交渉の主導権を握り、明治維新に大きな影響を与えることに貢献した。

なお、サトウは、英国では外交官として以上に日本学(Japanologist)の権威として高く評価される。また、言語学者、旅行家、旅行作家、辞書編纂者、登山家、植物学者、日本文献の収集家としても多くの実績を残す多才でエネルギッシュな傑物だった。

サトウの幅広い活躍を詳細に紹介するのは至難の業で、今回は自著「A Diplomat in Japan」(邦訳「一外交官の見た明治維新」)を中心に、最初の日本赴任をカバーするにとどまった。
(文責:岩崎洋三)

歴史部会:1月部会報告『近代化学創設者たちと薩長留学生』

日時:2018年1月15日
副題―英国化学者アレキサンダー・ウイリアム・ウイリアムソン夫妻と薩長留学生並びに明治維新立役者の絆―
(講師:西井易穂氏―会員)
1863年は、攘夷藩の長州が英仏蘭艦船を砲撃し、生麦事件を受けて英国が薩摩を砲撃した年(薩英戦争)である。その長州が英国に五人の密航留学生を送り、薩摩は英国との講和の際、留学生派遣条件を入れて、1865年19名の留学生を派遣した。その薩長の留学生を英国で引き受けたのが、ロンドン大学の化学教授のウイリアムソン夫妻であった。 続きを読む 歴史部会:1月部会報告『近代化学創設者たちと薩長留学生』

歴史部会:12月部会報告『西洋近代とは何か』

日時:2017年12月18日

今年1年間の通底テーマである『西洋近代とは何か』を、参加の皆様と語り合った。西洋近代思想の民主主義、資本主義、国民国家、グローバル化などは普遍性があるがゆえに自由主義国家以外にも世界的に拡散されつつある。その西洋で、英国のEU離脱、TRUMP現象(自国優先主義)、欲望資本主義の蔓延によるTAX HAVENや格差問題
が露呈してきて、果たして西洋近代に未来が託せるのかという疑問がある。 続きを読む 歴史部会:12月部会報告『西洋近代とは何か』

歴史部会:11月部会報告『政党政治を考える』

日時:2017年11月20日
参加者:20名
内容:『政党政治を考える』
講師:五百籏頭薫氏―東京大学大学院法学部教授

欧米や日本の現状を見渡せば、民主主義とその象徴ともいえる政党政治の在り方に疑問を覚える昨今である。今回の衆議院選挙にも、首相の解散権に正統性があるかの疑いも晴れない。又全選挙人の内、17・9%しか得票していない自民党が61%の
議席を確保するという現行選挙制度(小選挙区・比例代表併立制)が果たして、民意を正しく反映していると言えるか。今回は政党政治の歴史に詳しい五百旗頭氏にお話を聞いた。

日本は、明治の議会開設(1890年)9年も前の明治14年政変から、政府が分裂して自由党と立憲改進党の2大政党が成立・発展してきた稀有な国である。明治憲法は政党を排除していたが、政治集団を必要とする逆説構造があり、二大政党が変遷を重ねながら戦前の軍部台頭まで続いてきたという。その代表が桂園時代で組織力ある政友会と政策通が多い憲政会が交互に交代して政権を担った。憲政会には選挙の神様と言われる安達謙蔵がいて、中選挙区制による地方の名望家を基礎に、勝てる選挙を目指した。

明治以降、常に負け馬に乗る形で野党が成立するというジンクスがあった。今回の民進党の前原代表の行動もその意味では、まさしく伝統的であり、結果は、立憲民主党を含めると、改選前を上回り105議席を確保している。

今後の選挙制度は、再び中選挙区制への見直しが必要だという。立憲主義への対応も、日本は絶えずフィクションを作っての統治を重ねてきた。そのフィクションとは、戦前は天皇主権を謳い、実態は元老院政治と政党政治、それを天皇機関説でかわす。戦後は憲法に戦争放棄を謳い、日米安保による核の傘に安住する。金本位制が政党の多様性を進めたという見方も面白い。緊縮財政と放漫財政、インフレとデフレのサイクルが政権交代を促進した。

保守とは?リベラルとは? 世論調査が選挙へ与える影響。マニフェスト選挙。ポピュリズムなど考えるべきことは多い。

部会の前日にアメリカから帰国したばかりの五百旗頭氏への米国人の質問はトランプのアジア遊説の評判と北朝鮮のミサイルがアメリカに届くかどうかだったそうだ。直後、北朝鮮が行動した。

(文責:小野博正)