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歴史部会:10月部会報告「鍋島閑叟(直正)と佐賀7藩士」

日時:2018年10月15日 13時30分~16時30分
場所:国際文化会館 4階会議室
演題:「鍋島閑叟(直正)と佐賀7藩士」
講師:大森東亜(会員)

今回のテーマは、当会で今秋、幕末維新と関係の深い佐賀への歴史旅行が計画されているため取り上げられた。はじめに佐賀藩と佐賀県の地理的特性、歴史的変遷と鍋島氏登場、さらに廃藩置県から佐賀の乱を経て、佐賀県誕生(平成29年人口83万人)までを辿る。

鍋島閑叟は、1814年九代藩主斉直の子として江戸桜田屋敷で誕生し、十七歳で家督を継ぐまで江戸で過ごす。従兄の島津斉彬など縁戚関係は多面に亘る。家督相続時、藩財政は窮乏下にあり、諸役の倹約令、年貢徴収改革ほか磁器づくり、石炭採掘など産業振興に努める一方、借財整理にも取組み、閑叟は「算盤大名」の異名もとる。佐賀城二の丸が焼失するも正室の実家(将軍家)からの城再建費支援などもあり、藩財政を持直す。

佐賀藩は福岡藩とともに長﨑御番を交代で務める。1808年フェートン号事件がおきる。英船が蘭船を装って長崎港に不法侵入し薪水等を求めた事件である。佐賀藩と長崎奉行が対応不適切とされ、長崎奉行関係者が切腹したほか、閑叟の父藩主斉直は謹慎処分される。この出来事もあって閑叟は、長崎御番のため砲台整備、西洋砲術導入、海軍育成、軍艦製造に終生尽力する。閑叟自らオランダ艦やイギリス艦に乗船し、艦船購入のほか蒸気機関工場の設計図などもオランダに求めている。

砲台築造、反射炉建築のため伊豆江川太郎左衛門のもとへ本島藤太夫らを派遣し研究させる。3年がかりで国産初の反射炉をつくり、洋式大砲を鋳造し、幕府の注文も受ける。

事業完成を評価され幕府からの借入10万両は免除される。完成まで度重なる失敗もあったが、閑叟は「西欧人も人なり、佐賀人も人なり、薩摩人も人なり、挫けずますます研究せよ」と励ましたという。幕府の長崎海軍伝習所閉鎖後、閑叟は佐野常民の建言を受け、藩に三重津海軍所を開設し、航海、造船等のほか、国産初の蒸気船も完成させる。

幕末から維新にかけて閑叟は旗色を鮮明にせず、「肥前の妖怪」という小説を司馬遼太郎に書かせる。しかし、その背景に慶喜の大政奉還と引換えに朝廷を戴き、内戦を避け、外国から日本を守るという強い思いがあったと小説『かちがらす』(植松三十里)では記す。いずれにしろ閑叟を中心とする佐賀藩は幕末維新期、大砲と海軍により維新政府成立に寄与する。幕末維新期に活躍した佐賀藩士は閑叟を含め7賢人が挙げられているが、『米欧回覧実記』の久米邦武もこれら賢人に加えたい。佐賀藩士には現代に至る社会制度に地道に寄与した人物が少なくない。それぞれ特記事項を記すと、大隈重信は政党政治、議会政治に貢献し、早稲田大学を創設する。久米は「神道は祭天の古俗」とする論文を書き、帝国大学教授を追われるが、日本史学実証研究に従事する。佐野常民は火器研究後、パリ博覧会に赴くほか、日本赤十字を創設する。副島種臣はペルー船「マリア・ルーズ号」事件で、清国人奴隷を解放するなど日本外交のパイオニアとなる。大木喬任は江藤新平とともに東京遷都を建策するとともに、初期東京府知事となり東京の治安と活性化、さらに文部行政、民法編纂に貢献する。江藤は学制、刑法等司法制度整備にあたる。島義勇は箱館戦争に従事する一方、閑叟の助言をもとに札幌の条里制、北海道開発にあたっている。。

これら佐賀藩士たちの活躍には藩校弘道館の果たした役割が大きい。弘道館は1781年に創設され、92年にわたり独自の教育活動を展開し、時に約千人も学んだといわれる。弘道館の優秀な佐賀藩士は江戸期の最高の学問所昌平黌に学び、幕末25年間で昌平黌の学生505人のうち40人おり、仙台藩、薩摩藩の各21人に比較して抜きんでたとの調べもある。岩倉具視も佐賀藩の教育を評価して子弟を佐賀藩に委託している。
文責:大森東亜

 

 

 

歴史部会:9月部会報告「憲法・3大噺」

2018.9.25 13:30~17:00
国際文化会館 401号室

安倍政権が今年中にも憲法改訂案を国会に上程すると伝えられる機会をとらえて、一人ひとりが憲法問題を考えるに当って歴史的事実を押さえて置こうというのが今回の部会開催の狙いです。参加者21名。まず、明治の「大日本帝国憲法」の成立過程の歴史的背景を泉三郎氏から説明された。維新創業にあたっての「五箇条の御誓文」があり、岩倉使節団帰国直後の大久保利通、木戸孝允二人の夫々の憲法制定を急ぐべしとの建白書。
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歴史部会:7月部会報告「海舟と薩摩藩の情報収集」そして「ワシントンでの岩倉使節団続編」

平成30年7月16日 14:00~17:00
場所:国際文化会館404号室
プレゼンター:吉原重和(会員)

海舟と薩摩藩の情報収集」
薩英戦争後に江戸に派遣された薩摩藩遊学生達が海舟の塾生だった事が海舟日記に記載されていた事が新たに判明した。
加えて彼らが薩摩藩の情報収集の一端を担っていた事、そして彼らの密航直前の長崎における行動についての報告を行った。薩摩藩邸では 南部弥八郎、柴山良介、肥後七左衛門の3名が探索方として活動していた。南部は探索方報告書にまとめて薩摩飛脚で藩庁へ送っていた。

情報の収集は奉行所付属の通訳出穂屋(清水)卯三郎、文書翻訳方木村宗三、立石得十郎、通詞立石斧次郎、外国方翻訳福澤諭吉、北村元四郎、アレキサンダー・シーボルト、そして薩英戦争後に江戸に派遣された遊学生達を横浜に送り行っていた。

これまで薩英戦争後に大山巌、吉原重俊、木藤市助などの寺田屋騒動に加わった攘夷派の志士達が藩から遊学生として江戸に送られていた事は判っていたが、彼らが江戸で何を行っていたのかは不明だった。
今回、勝海舟が開いた氷解塾に薩摩藩士で後に米国へ密航留学する種子島啓輔、吉原重俊、湯地定基、桐野英之丞の4名が入塾していた事実が東北学院大学の高橋先生の論文から判った。
海舟が書き残した海舟日記が明治40年に日記抄として刊行された時は薩摩藩士達の記述は無かったが40年後に勁草書房版(昭和47年~48年)、講談社版(昭和51年)が出版された時に原本にあった薩摩藩塾生の件が追加された。
そこには4名の薩摩藩遊学生が元治2年2月13日に入塾し、慶応2年1月21日の薩長同盟成立に時をあわせて退塾し国元へ向かったと書かれていた。氷解塾遊学生に加えて大山弥助達10名の薩摩藩遊学生が居た江川塾からも木藤市助、谷元兵右衛門が米国留学生と成った。

氷解塾に居た吉原達4名の薩摩藩士が江戸から国元へ向かっていた頃、京都では維新史には必ず登場する事件が起きていた。
小松帯刀のお花茶屋の邸宅で1月21日の薩長同盟の成立直後に京都伏見の寺田屋で坂本龍馬と三好慎蔵が伏見奉行の捕りかたに襲撃された寺田屋事件が起きた。

そして、
3月4日   小松帯刀、西郷隆盛、桂久武、吉井孝輔、坂本龍馬、
お龍、三吉慎蔵達が藩船三邦丸に乗り翌5日大阪を出港3月7日   夜 馬関(下関)寄港 三吉は下船3月8日   長崎寄港
その後彼らは鹿児島に向かい、龍馬とお龍さんは塩浸
温泉に新婚旅行に行ったと言われています。

留学生のリーダー格だった仁礼景範が米国までの様子を記した仁礼景範航米日記に依ればグラバーが帰ったと同じ28日に薩摩藩第二次米国留学生は長崎よりポルトガル船にて出港しました。種子島、吉原、湯地の3名の氷解塾グループに加え谷元、木藤の江川塾グループそして仁礼、江夏の7名の薩摩藩士達は英国経由で米国に渡りマサチューセッツ州のモンソンアカデミーに留学しました。 

話題を変えて南部弥八郎報告書の内容の一例として1866年12月に横浜から約3年間に渡る欧米公演に旅立った高野広八が率いた帝国日本芸人一座と称する17名の曲芸師一座について述べると、彼らは幕府が発行した「御印章」パスポートを取得した民間人一号だった。彼らが北町奉行所に提出した旅券の申請書に記載された内容がほぼその通り、南部の報告書に記載されていた。

彼等はサンフランシスコ、ニューヨーク、フィラデルフィア、ボルチモアで公演を行い、ワシントンでは第17代アンドリュー・ジョンソン大統領からホワイトハウスに招かれて謁見をうけた。他にサツマ一座も欧米で公演を行い、ニューヨークの5番街で岩倉使節団と遭遇し、石畳に土下座したという逸話が残っているそうだ。 

2.ワシントンでの岩倉使節団続編
先ごろMartin Collcutt先生(プリンストン大学名誉教授)から、ワシントンのMasonic Templeで開催された米国国務省主催の岩倉使節団歓迎の公式晩餐会について、回覧実記に久米邦武は「晴」とだけ書いて何も触れていないのは何故だろうかという問題提起が成されましたのでその後の研究成果を発表致した。

使節団一行がワシントンのアーリントンホテルに到着したのは1872年2月29日でだった。
3月1日には早速造幣寮の視察を行った。
3月4日にはホワイトハウスでグラント大統領に謁見した。
3月5日の午後9時に市内のMasonic Templeに於いて国務省主催の公式晩餐会が開催され、1000名以上の参加者が集まった一大イベントだった。

晩餐会の開催についての新聞記事を読むと確かに多くの参加者を招いて国務省主催の晩さん会が開催されていた事が判る。
副大統領のColfax、国務長官のFish等が参加しましたが何故かグラント大統領は不参加だった。そもそも大日本外交文書付属書(略日記)に26日の記載自体がなく晩餐会などは無かった事に成っていた。こうして見ると久米が実記に晩餐会を書かなかった理由は単純で日本側は晩餐会の事実を公表していなかったからと言える。伊藤博文伝にも晩餐会の記述は無かった。

実は宗教問題が使節団の前に横たわっていてワシントン到着前から新聞紙面をにぎわしていたので岩倉は宗教問題には敏感だった。グラント大統領は謁見式の日に早速宗教問題に触れていた。この宗教問題が発端でグラントが晩餐会を欠席したというのが事実であれば、日米間の宗教問題の対立を表面化させたくなかったという推論も成り立つ。
今後の研究が望まれる。

以上(吉原記)

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歴史部会:5月部会報告「西郷どんを奔らせた薩摩藩の名君:島津斉彬」

平成30年5月7日(月)
時間:14時~17時
場所:国際文化会館
プレゼンター:小野博正(会員)
参加者:18名

鹿児島の照国神社に祀られている島津斉彬は、名君に恥じない。薩摩藩が明治維新の実現に最も貢献したことは異論の余地がないが、その薩摩藩の国父・島津久光や藩士・小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通らを幕政改革から、やがて倒幕へと走らせたのは“斉彬の御深意”(先君の遺志)である「御一新」「日本一致一体論」「殖産興業、富国強兵」「開国と貿易」「夷を以て夷を制する文明開化」を誠実に追求することにあった。 続きを読む 歴史部会:5月部会報告「西郷どんを奔らせた薩摩藩の名君:島津斉彬」

歴史部会:4月部会報告「大倉喜八郎の旺盛な企業家精神」

日時:4月16日
場所:国際文化会館404号室

4月歴史部会は、東京経済大学名誉教授、大倉文化財団理事長の村上敏彦氏をお招きして『大倉喜八郎の旺盛な企業家精神』のお話を伺った。参加者:22名。

城山三郎に「野生の人びと」と松永安左衛門と並び称された大倉喜八郎は、越後・新発田の商人の子に生まれ、丹羽伯弘に知行合一の陽明学を学び、18歳で単身江戸に出て、丁稚奉公から始め、幕末に鉄砲商として起業する。民間人初の欧米視察で岩倉使節団と現地で交流し帰国後、日本国内での「居貿易」から「出貿易」の時代と見て、いち早くロンドン支店を設置し、薩長土肥関係商人に対抗して自立する。

渋沢栄一を生涯の盟友として東京商法会議所設立に参画、商法の近代化に努める一方で、貿易協会や大倉商業学校を設立。中国・朝鮮・ペルシャ・トルコ・インド貿易の先駆者となる。東京電燈、東京電力、銀座にアーク灯点灯、サッポロビール、帝国ホテル、ホテル・オークラ、帝国劇場、土木建設(大成建設、鉄道、地下鉄、鹿鳴館、歌舞伎座)、製材(秋田木材)・製紙(特種東海製紙)、製靴(リーガル)、製革(ニッピ)、日清オイリオ、浅草パノラマ館や数々の国内外鉄道事業で大倉財閥の基礎を築く。特に中国では製鉄所など、日本初の対中投資に踏み切り、中国同盟会結成大会に大倉邸を提供、辛亥革命に関わり孫文らと交わる。

自助、努力、誠意がモットー。株、相場、銀行はやらぬ主義が災いして、財閥解体後の戦後の財閥復活がならなかった。90歳で山登り、14歳からの狂歌、一中節、本阿弥光悦流の書、大倉集古館など、仕事は西洋近代風、趣味は江戸情緒的、前近代・アジア風で陽気で洒脱な人柄。振る舞いは派手で陽徳。石門心学の商人道で資本の論理と倫理・道徳のバランスを保つ。責任と信用。「言葉の命を重んじる」「信用なきは首なき人と同様なり」は、今の政治家、企業家、役人に聞かせたい言葉。やはり、近代の巨人であった。(文責:小野博正)

歴史部会:3月部会報告「アーネスト・サトウ~幕末維新に活躍した英国外交官」

日時:2018.3.19(月)
場所:国際文化会館
講師:岩崎洋三(会員)

アーネスト・サトウ(Ernest Mason Satow)は、文久2年(1862)9月日本語通訳生として19歳で来日し、以後明治13年まで約20年間滞日し、流暢な日本語を武器に初代英国公使オールコック、二代目パークスを助け、明治維新に大きな影響を与えたイギリスの外交官である。サトウは13年後に駐日公使として再来日し、日本勤務は通算25年に及び、英国では日本学の権威としても評価されている。

サトウが日本に憧れるきっかけは、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン2年生で通訳生試験直前の18歳の時に読んだ『エルギン卿遣中・遣日使節録』が日本を美しく描いていたことだった。この本はアロー戦争と日英修好通商条約交渉の記録だが、アロー戦争指揮官エルギン卿の私設秘書として随行した著者ローレンス・オリファントが帰国と同時に1859年に出版したものだが、条約交渉のため2週間訪問した日本を丹念に、美しく描いていた。

オリファントは1861年に代理公使含みの駐日英国公使館一等書記官として来日するが、直後に第一次東禅寺事件に遭遇し負傷帰国を余儀なくされた。サトウは赴任前にこれを知り、着任5日後には更に生麦事件と、外国人が襲われる事件が頻発する中での日本赴任になったが、「外国人が襲われるのは当然」と肝が据わっていた。この胆力はその後幕府の目を盗んでの雄藩人士との交流や、頻繁な内陸調査旅行の実施にも見て取れる。

着任翌日には日本語のエキスパートである米人宣教師ブラウンとヘボンを訪ね、日本語学習を急ピッチでスタートし、オールコック公使をして「半年後には目を見張る進歩を成した。サトウは書かれた日本語の難しさもマスターできた唯一の人物。」と言わしめる長足の進歩を遂げる。

オランダ語通訳を介さずに、流暢な日本語で西郷隆盛・勝海舟を含む幕府・雄藩・新政府の要人と直接日本語で意思疎通出来たのは画期的なことで、結果情報収集の質量や影響力が格段に増した。

着任4年後には「天皇を元首とする諸大名の連合体が支配権力になるべし」とする内容の『British Policy』を横浜の英字紙に発表したが、翌年『英国策論』と題して日本語版が全国の書店に出回ると、西郷はじめ雄藩の重要人物がこぞって読み、大きな影響を与えた。

また、薩摩戦争、下関戦争、新将軍慶喜の外交使節謁見、大坂開市・神戸開港準備、明治天皇謁見、雄藩重要人物との会見等重要局面でサトウの日本語能力は不可欠で、オールコック、パークスを助け、英国がフランス等他国を制して対日交渉の主導権を握り、明治維新に大きな影響を与えることに貢献した。

なお、サトウは、英国では外交官として以上に日本学(Japanologist)の権威として高く評価される。また、言語学者、旅行家、旅行作家、辞書編纂者、登山家、植物学者、日本文献の収集家としても多くの実績を残す多才でエネルギッシュな傑物だった。

サトウの幅広い活躍を詳細に紹介するのは至難の業で、今回は自著「A Diplomat in Japan」(邦訳「一外交官の見た明治維新」)を中心に、最初の日本赴任をカバーするにとどまった。
(文責:岩崎洋三)

歴史部会:1月部会報告『近代化学創設者たちと薩長留学生』

日時:2018年1月15日
副題―英国化学者アレキサンダー・ウイリアム・ウイリアムソン夫妻と薩長留学生並びに明治維新立役者の絆―
(講師:西井易穂氏―会員)
1863年は、攘夷藩の長州が英仏蘭艦船を砲撃し、生麦事件を受けて英国が薩摩を砲撃した年(薩英戦争)である。その長州が英国に五人の密航留学生を送り、薩摩は英国との講和の際、留学生派遣条件を入れて、1865年19名の留学生を派遣した。その薩長の留学生を英国で引き受けたのが、ロンドン大学の化学教授のウイリアムソン夫妻であった。 続きを読む 歴史部会:1月部会報告『近代化学創設者たちと薩長留学生』

歴史部会:12月部会報告『西洋近代とは何か』

日時:2017年12月18日

今年1年間の通底テーマである『西洋近代とは何か』を、参加の皆様と語り合った。西洋近代思想の民主主義、資本主義、国民国家、グローバル化などは普遍性があるがゆえに自由主義国家以外にも世界的に拡散されつつある。その西洋で、英国のEU離脱、TRUMP現象(自国優先主義)、欲望資本主義の蔓延によるTAX HAVENや格差問題
が露呈してきて、果たして西洋近代に未来が託せるのかという疑問がある。 続きを読む 歴史部会:12月部会報告『西洋近代とは何か』

歴史部会:11月部会報告『政党政治を考える』

日時:2017年11月20日
参加者:20名
内容:『政党政治を考える』
講師:五百籏頭薫氏―東京大学大学院法学部教授

欧米や日本の現状を見渡せば、民主主義とその象徴ともいえる政党政治の在り方に疑問を覚える昨今である。今回の衆議院選挙にも、首相の解散権に正統性があるかの疑いも晴れない。又全選挙人の内、17・9%しか得票していない自民党が61%の
議席を確保するという現行選挙制度(小選挙区・比例代表併立制)が果たして、民意を正しく反映していると言えるか。今回は政党政治の歴史に詳しい五百旗頭氏にお話を聞いた。

日本は、明治の議会開設(1890年)9年も前の明治14年政変から、政府が分裂して自由党と立憲改進党の2大政党が成立・発展してきた稀有な国である。明治憲法は政党を排除していたが、政治集団を必要とする逆説構造があり、二大政党が変遷を重ねながら戦前の軍部台頭まで続いてきたという。その代表が桂園時代で組織力ある政友会と政策通が多い憲政会が交互に交代して政権を担った。憲政会には選挙の神様と言われる安達謙蔵がいて、中選挙区制による地方の名望家を基礎に、勝てる選挙を目指した。

明治以降、常に負け馬に乗る形で野党が成立するというジンクスがあった。今回の民進党の前原代表の行動もその意味では、まさしく伝統的であり、結果は、立憲民主党を含めると、改選前を上回り105議席を確保している。

今後の選挙制度は、再び中選挙区制への見直しが必要だという。立憲主義への対応も、日本は絶えずフィクションを作っての統治を重ねてきた。そのフィクションとは、戦前は天皇主権を謳い、実態は元老院政治と政党政治、それを天皇機関説でかわす。戦後は憲法に戦争放棄を謳い、日米安保による核の傘に安住する。金本位制が政党の多様性を進めたという見方も面白い。緊縮財政と放漫財政、インフレとデフレのサイクルが政権交代を促進した。

保守とは?リベラルとは? 世論調査が選挙へ与える影響。マニフェスト選挙。ポピュリズムなど考えるべきことは多い。

部会の前日にアメリカから帰国したばかりの五百旗頭氏への米国人の質問はトランプのアジア遊説の評判と北朝鮮のミサイルがアメリカに届くかどうかだったそうだ。直後、北朝鮮が行動した。

(文責:小野博正)

歴史部会:10月部会報告『福沢諭吉と夏目漱石―文明開化の光と影』

歴史部会『福沢諭吉と夏目漱石―文明開化の光と影』

(講師:泉三郎氏)

2017年10月17日

狭い会場に、講師と講話の魅力もあり26名の参加を得て熱気に満たされた。明治維新で活躍した人々には天保生まれが多い。その一人、福沢諭吉は、常に「坂の上の雲」を見つめて、文明開化の旗手として、光り輝く明治時代をリードし、その成果でもある日露戦争の直前に亡くなる。 続きを読む 歴史部会:10月部会報告『福沢諭吉と夏目漱石―文明開化の光と影』

歴史部会:9月部会報告『巴里籠城日誌』

9月18日 参加者20名で、『巴里籠城日誌』を、原作者・渡正元氏の、曾孫である渡洋二郎氏に、現在語訳に携わった真野文子氏と石川優美子氏(二人とも、やはり曾孫)のご参加を得て講演をいただいた。

渡正元は広島藩士の子で、脱藩して蘭学や仏語を学び、千両を豪商から借金して岩倉使節団に先立ち、単身軍事研究のため自費留学して、パリ滞在中に普仏戦争に遭遇。パリ市内に籠城して戦争中のパリ市民の姿や戦争の全容を活写した稀有な記録を残した。 続きを読む 歴史部会:9月部会報告『巴里籠城日誌』

歴史部会:7月部会報告「江戸ナイゼ―ション」

「江戸ナイゼ―ション」~「孫達に伝えたい日本・日本人の素晴らしさ」

小野寺 満憲

2008年の「江戸ナイゼーション」の講演時、今更江戸返りができるのかとの疑念が出たとか、9年後の今、メンバーの顔ぶれも変わって再紹介の意義もあるのではとのお薦めがあった。「江戸ナイゼ―ション」の主唱者は、著書「あと3年で、世界は江戸になる」(2007)の日下公人氏で、1970年頃「メイド・イン・ジャパン」が世界中に進出し、新興工業国及び大衆文化国として日本がデビューしたので、文明史論的には、30~40年のタイムラグで栄える文化産業を創って世界の先端の文化国になるだろうとの託宣であった。前提は、日本が江戸の素晴らしい文化・文明、ライフスタイルを生活に浸透させ、世界がその日本に憧れ、それを目指そうとするから世界も江戸に、と。流石先読みの達人!それを最近のテレビ番組・出版物から実感する。それらを江戸ブームを決定的にした渡辺京二著「逝きし世の面影」(1998)以来の内外の江戸化の実例として紹介しようとも考えたが、その中の外国人の言葉から講演内容を考え直した。文明の危機を迎えた今、世界の識者達は日本の世界的使命への覚醒を求めており、それを託すのは孫達の世代と考えたからである。 続きを読む 歴史部会:7月部会報告「江戸ナイゼ―ション」

歴史部会:6月部会報告「宗教思想からみた東西文化比較」

『宗教思想からみた東西文化比較』

2017年6月19日 歴史部会
参加者:19名、プレゼンター:小野博正

タイトルと若干はずれたかもしれないが、今回のプレゼンの真の目的は、現在も世界中で絶えることのない戦争は、なぜ起こるのか? 一神教支配地域での宗教起源の戦争が、その大半を占めるのはなぜか? 宗教家同士による世界平和への模索は不可能か? 続きを読む 歴史部会:6月部会報告「宗教思想からみた東西文化比較」

歴史部会:5月部会報告「西洋近代の普遍性を問う」

『西洋近代の普遍性を問う』

5/15/2017 講師は吹田尚一氏。
20名参加。

今年の歴史部会の通底テーマが、「西洋の近代を疑ってみる」ことにあるので、今回はいきなり本丸に踏み込んだ感じである。西洋近代が達成したものには普遍性・合理性があるので、すべてが正しく、非西洋的社会は西洋により啓蒙すべきとの思想に予てから違和感をもっておられた吹田氏は、既存哲学思想を掘り起こしてこれを検証する。 続きを読む 歴史部会:5月部会報告「西洋近代の普遍性を問う」

歴史部会:4月部会報告「武器移転の世界展開と日本の位置」

武器移転の世界展開と日本の位置
横井勝彦氏

四月十七日開催、参加十八名。

近代とは何であったかを問うシリーズ4回目は、『大英帝国の<死の商人>』の著者・横井勝彦氏(明治大学教授)をお招きし講演いただいた。これまでと違った切り口から現代世界の焦眉の問題を歴史部会として見つめ直す機会となった。

武器移転とは、武器の貿易、取引ばかりでなく兵器の運用、それに伴う技術移転、武器生産、それらに関わる国や軍の政策、企業経営等の面も広く視野に入れた概念であるとの前置きがあった後、講演に入る。 続きを読む 歴史部会:4月部会報告「武器移転の世界展開と日本の位置」