「歴史部会」カテゴリーアーカイブ

歴史部会:1月度部会報告「岩倉使節団の群像2」

日時:令和2年1月27日 13:30~17:00
場所:日比谷図書文化館 4Fセミナールーム

1.久米邦武(発表者:小野)
エンサイクロペディア的見聞録である「米欧回覧実記」100巻を書いた著作の人であり佐賀の大教養人であった、藩校弘道館に学び昌平黌で古賀謹一郎にも学んだ。閑叟の蘭癖と実証主義的科学精神が久米を鍛えた。 回覧中は、畠山と久米は、岩倉、大久保、木戸、山口の六人と何時も一緒だった。欧米回覧の体験が歴史家への意識を育み「神道は祭天の古俗」筆禍事件を起こしたとも言える。

2.安場保和(発表者:芳野)
米国から先に帰った人物として注目される。英語も判らずこれ以上長居して国費を乱費するに忍びないと、岩倉に「我が国拓殖の道」を志すと言い残し、帰国すると福島県令、愛知県令、福島県令、北海道庁長官と地方行政に力を入れる。彼は、人材登用にも才能を発揮、のちに娘婿となる後藤新平を始め、斎藤実(後の首相)や三大疎水の一つ安積疎水開発をのちに主導する中條政恒(福島県課長)などを育成して日本の近代国家の基礎整備に多大な功績を残した人物である。硬骨漢で豪快無私な人柄は、もう一人の地方行政官として評判の悪かった三島通庸と対極をなす。

3.中山信彬(発表者;吉原)
佐賀藩士の彼は蕃学稽古所で大隈重信達と学んだ。明治3年兵庫県知事に転任した後岩倉 大使随行として日本を出発し、米国、欧州を歴訪し帰国後、外務省五等出仕となる。
理事功程「中山信彬報告」を提出以後、外務権大丞、兼二等法制官を務めた。五代友厚が渋沢に依頼して第一銀行にいた中山を1878年7月19日に大阪株式取引所頭取として迎えた。中山は渋沢の子分だったので岩倉使節団に参加したのも大隈か渋沢の推薦によるものと考えられる。

4.野村靖(発表者:栗明)
1842年(天保13年)長州藩萩の下級武士(足軽)入江嘉伝次の三男として生まれる。吉田松陰の松下村塾に入門して尊王攘夷運動に傾倒、維新後は藩政に参画、後に政府に出仕し、宮内太丞を拝命、外務大書記の時、岩倉使節団に加わり欧米視察する。
政界引退後は『留魂録』など松陰の書物を通じて、松陰思想の普及に努めた。また、野村は明治天皇の娘、冨美宮・泰宮両親王の養育係を務め、鎌倉の御用邸にて66歳で没す。

5.内海忠勝(発表者:小野)
吉敷毛利家の家臣・吉田治助の四男で山口吉敷に生まれ、大村益次郎塾で、蘭学、兵学を学ぶ。その後、伊藤博文に認められて、岩倉使節団に参加し、西洋文明への目を開かれて、帰国後、七つの県知事を歴任して、内務大臣、男爵まで昇進を重ねる。長州閥にうまく乗っての人生だったが、時代の潮流を生かし、最後まで明治維新実現への初心を貫いて、彼なりに時代を切り開いた人物だったのではないだろうか。

(文責:吉原重和)

歴史部会:「岩倉使節団の群像」今後の予定

歴史部会では3年後の岩倉使節団派遣150周年記念企画として団員全て及び留学生、随員を含んだデータベースの構築を開始しました。毎回4~5名の団員、随員、留学生達を取り上げて「岩倉使節団の群像」として合計107名の人物論を数年かけて展開する予定で居ります。
既報の通り12月13日に最初の部会を開催いたしました。
1月の発表者は決定して居りますが2月以降は担当者が未だ決まって居りませんので、この人間を担当しても良いと思われる方は是非名乗りを上げて下さるようお願い申し上げます。

今後の年間予定は下記の通りです。()内は発表者
1月27日 (月)久米 邦武(小野)、安場保和(芳野)、中山 信彬
(吉原)、野村 靖(栗明)、内海 忠勝(小野)
2月25日 (火)大蔵省:田中 光顕(小野寺)、五辻安仲、
阿部 潜、沖 探三、池田 政懋、
3月30日(月)随行、大蔵省総括
4月 宮内庁:東久世 通禧、村田 新八、山田 顕義、原田 一道、
安藤太郎
5月 文部省:田中 不二麿、長与 専斎 、中島 永元、
内村公平
6月 文部省総括+森有礼、近藤慎三
7月 工部省:肥田 為良 、大島 高任  、瓜生 震 、川路 寛堂、
長野 桂次郎
8月 司法省:佐々木 高行: 岡内 重俊、中野 健明、平賀 義質  、
長野 文炳
9月 工部省、司法省総括
10月 後発参加:由利 公正、岩見 鑑造、長岡義之、河野 敏鎌、
鶴田 皓
11月 後発参加:岸良兼養、 井上 毅、益田 克徳、沼間 守一、
川路 利良
12月 高崎 豊麿、安川 繁成、西岡 逾明、小室 信夫、鈴木 貫一

以上

歴史部会:12月度部会報告「岩倉使節団の群像1」

日時:令和元年12月13日 13:30~17:00
場所:日比谷図書文化館 4Fセミナールーム
内容:3年後の岩倉使節団派遣150周年記念企画の初回として大蔵省関係者4名を取り上げた。
1.富田命保(発表者:三須)
1865年 横須賀製鉄所建設計画を進めるべく渡仏・英
1871年 岩倉使節団に参加渋沢栄一の推挙で田中光顕理事随行として参加。
1875年 紅茶の輸出を図るべく南保と渡英。
1928年 77歳で死去、墓地は染井霊園。
富田日記については富田兼任さんが発表し、ワシントンでの行動や、大久保、伊藤の帰国に吉原と小松が同行との記載あり。
2.吉雄辰太郎(発表者:吉原)
長崎のオランダ通詞の家柄に生まれ、田中光顕の随員として参加。給料の支給を行った。富田日記には吉雄辰太郎(永昌)氏は紙幣製造管理という役目を命ぜられニューヨークに滞在することとなり田中理事官随行の役を解かれたとある。紙幣印刷監督としてNYのアメリカン・バンクノート・カンパニーに駐在した。帰国後は大蔵省紙幣寮に出仕し1875年にフィラデルフィア博覧会視察のために渡米。1894年に死去。
3.若山儀一 (発表者:栗明)天保11(1840)年、江戸の旗本・医師・西川宗庵の子として生まれる。フルベッキに就いて経済学を学び田中光顕理事官の随行として渡米、翌5(1872)年5月国租事務取調方として、大蔵代理事官心得を以て欧米諸国における研究を命ぜられ、10月更に、米国ニューヨークにおける紙幣並びに国債刊楊事務監督を命ぜられた。結局、明治7年に帰国するまでの3年間、欧米で税務・財政の研究にあたる。彼は国際結婚をした。明治24年死去。52歳。
4.今村和郎 (発表者:小野)
土佐藩高岡村の豪商の長男として誕生。
田中不二磨理事官随行として使節団に参加、役職は理事官随行・文部省中教授。
条約改正交渉を始めた本隊から離れて、1872年2月パリに入り、ジュネーヴ、ベルリン、サンクトペテルスブルグを回覧し帰国後ボアソナードと民法制定に尽力。
明治24年死去
(文責:吉原重和)

歴史部会:10月度部会報告「幕末維新期米国日本人留学生研究の5W1Hと研究の最前線(?)」

日時:令和元年10月23日(水)13:30~17:00
場所:国際文化会館404
演題:「幕末維新期米国日本人留学生研究の5W1Hと研究の最前線(?)」
講師:塩崎 智先生
拓殖大学外国語学部教授(2006年~)学科長
武蔵大学人文学部非常勤講師(2004年~)
上智大学文学部史学科西洋古代史専攻卒業、国際基督教大学大学院比較文化研究科修士課程修了
主著
・『アメリカ知日派の起源―明治の留学生交流譚』
平凡社選 書、2001年
・『日露戦争もう一つの戦いーアメリカ世論を動かした5人の英語
名人』祥伝社新書、2006年
主要論文:「1870年に実施された米国国勢調査(Census)―日本人留学生情報の分析」『人文・自然・人間科学研究』41号、2019年3月

研究テーマ:幕末維新期米国日本人留学生史料収集と分析

大学時代はギリシャのテサロニケに遊学し大学院時代は地中海考古学専攻、キプロス島青銅器時代の研究。ICUキャンパス内の遺跡発掘作業に従事。読売新聞現地紙にパートタイムの記者として雇われボストン在住のアメリカ人から送られてきた100枚ほどの写真の調査を行った。日米の史料を活用してまとめた情報を、帰国後平凡社選書『アメリカ知日派の起源』として発表。
この写真の調査中、プリンストン大学のシンポジウムで泉三郎氏にお会いし、その後も研究上、もろもろ御世話になった。幕末から1876年までに欧米に派遣された文部省貸費留学生までが研究対象。
「誰が、いつ、どこで、何を学んでいたのか。」を検証する為にウイキペデイア情報を見ると誤りが散見される。岩倉具定と吉原重俊の例を挙げられたので吉原がYale大での状況を説明。
各学校のSchool Catalogueが入手できれば、その学校で使用していたテキストが分かるのでそのテキストを入手し、彼等の学びを追体験したい。
今後注目したい点は、留学生とキリスト教との関係である。留学先の市立アカデミー及びホームステイ先から受けたキリスト教の影響を調べたい。
彼らが帰国後、日本に与えた影響として、キリスト教が間接的に与えたものは何かを考えたい。また、その宗教的影響と彼らが与えた実学的影響も考えてみたいが、まずは、各留学生の留学中の事実の確認である。渡米日、帰国日(陽暦で統一)、留学先と5W1H、地元米国人との交流などについて史料を収集し、先学には及ばないが、「幕末維新期米国日本人留学生史料集成」をまとめることをライフワークにしている。

今後、回覧の会の協力も得たい。

文責:吉原重和

歴史部会:9月度部会報告『日本の国境はどう画定して来たのか』

日時:令和元年9月30日 13:30~17:00
場所:国際文化会館 404
演題:『日本の国境はどう画定して来たのか』
プレゼンター:小野博正
参加者:17名

日本の領土は世界60位の広さだが、排他的経済水域(EEZ)で見れば、世界第6位で熱帯から亜寒帯までの地域を包括する世界でも珍しい自然環境に恵まれた国である。

現在の日本は、北方領土、尖閣列島、竹島など近隣諸国との国境問題を抱えているが、一体日本の国境は、何時、いかようにして確定されたのか。江戸時代の初期には、蝦夷(北海道)も琉球(沖縄)も、更には小笠原諸島(無人島)も日本地図にはなかった。

日本の領土に対する目覚めは、1792年ロシアのエカテリーナ2世の書状を携えて、使節のラクスマンが根室に来航したのに始まる。1789年のフランス革命は、世界中に国民国家の意識を目覚めさせ、どの国家も国境画定の必要性が生じていた。一方で、日本近海は格好の捕鯨海域で、操業する欧米船から薪水食糧供与を求めて、幕末には開国交易を要求する使節の来航が頻発した。

蝦夷地は、アイヌ人の住む自由の土地で、1604年徳川家康は、松前慶広の求めに応じてアイヌとの独占交易権を与えたが、日本領土の意識は薄かった。しかし、度重なる欧米船来航に対処して、近藤重蔵、最上徳内の択捉島探査、伊能忠敬の測量、間宮林蔵の樺太調査、松浦武四郎の蝦夷地調査などの先人の努力があって、1875年に榎本武揚(全権公使)による樺太・千島交換条約に結実して、北海道(松浦命名)の日本領有と国境が画定する。(1945年の終戦直前の参戦で,四島がソ連により占拠・実効支配されて現在に至る)

琉球(沖縄)は、長い日清両属(清国と冊封関係で、一方薩摩藩に支配される)を経て、やはり欧米の干渉と交易要求があったが、幕府時代に実効支配を継続し、明治になって新政府は、琉球漁民の台湾生蕃による殺害事件を奇貨として台湾出兵を強行し、台湾が清国所属なら責任を取って賠償せよと迫り、暗に琉球は日本の領土と民と交渉を進めて、1879年の琉球処分を経て、日本領土化を確定する。(1945年敗戦で米国信託統治となり、1972年沖縄返還が実現するが、現在の沖縄基地問題は、戦後の日米安保条約と日米地位協定・秘密協定により日本は基地の自由と制空権が実質奪われて現在に至る)

小笠原諸島は欧米人の先住者がいたが、徳川時代に、幕府役人の巧妙な外交交渉により、1862年日本の領土を欧米に認めさせ、先住欧米人は日本に帰化している。

ハワイのカラカウラ大王が1881年来日し、明治天皇に日本ハワイ連邦化の提案をしたが、日本はこれを熟慮の上に断わる幻のハワイ連邦構想もあった。(文責:小野博正)

歴史部会:7月度部会報告『タウンセンド・ハリス~初代米国総領事が日本にもたらしたもの』

日時:令和元年7月22日 13:30~14:30
場所:国際文化会館4F
講師:岩崎洋三氏

2019.7.22(月)の歴史部会は、岩崎洋三氏が『タウンセンド・ハリス~初代米国総領事が日本にもたらしたもの』と題して、初代米国駐日総領事として1856年(安政3年)下田に来航し、2年後英仏露に先駆けて通商条約を締結し、日本の開国を果たしたハリスの数奇な生涯と功罪を論じた。

本論に入る前に、総領事ハリスを描いた映画『黒船』の、下田来航・江戸出府・将軍謁見の部分を見大筋を捉えた。上陸を拒否する下田奉行、大名行列並みの道中、江戸城での謁見と開国の利を説く有名なハリスの長口舌など、1958年にジョン・ヒューストンが監督作った映画は意外に良く出来ていた。因みに、ハリス役はジョン・ウェイン、下田奉行が山村聰で、共に様になっていた。

1)ニューヨーク時代~出生からニューヨーク市教育委員会委員長まで

ハリスは1804年にニューヨーク州北部のハドソン川に沿った小さな村で、帽子屋の5男として生まれた。先祖は、全米で最初に奴隷制を禁じたロードアイランド州を起こしたことで有名なピューリタンのロジャー・ウィリアムズと共に1630年にアメリカのニューイングランドに渡って来たウェールズ移民である。父母双方の祖父達は独立争で戦っている。自宅を火災で失った父方の祖母は、ハリスに『真実を語れ、神を畏れよ、イギリスを憎め』と教えた。タウンセンドの名はこの祖母の旧姓でからもらっている。読書家の母親は共和主義・連邦主義で、民主主義・地方分権のハリスとは意見を異にしていたが、ハリスはこの母親をこよなく慕った。

13歳の時ニューヨーク市に出て洋服商に就職した。そして、16歳の時には兄から陶器店の経営を委ねられ、子供商店主として評判になった。商売に精を出す一方、当時市政を牛耳っていた民主党に所属し、ウェトモア将軍等有力者の知己を得て42歳の時ニューヨーク市教育委員会委員長に就任恵まれなかったハリスは、当時急増していたアイルランド移民を含む貧者に高等教育機会を与えようとFree Academyを設立した。これはニューヨーク市立大学に発展する。

2)インド洋・太平洋貿易業時代~ニューヨーク市教育委員長を辞し、初代駐日総領事になるまで

1849年家業の経営悪化に加え、敬慕する母親の死に見舞われたハリスは、ニューヨーク市教育委員長を辞し、サンフランシスコで貨物船の権利を購入し、太平洋・インド洋で貿易業を開始する。年々のクリスマスを過ごした地は以下の通りで、広範に活動していたことが伺える。

1849年北太平洋上
1850年マニラ
1851年ペナン島
1852年シンガポール
1853年香港
1854年カルカッタ
1855年セイロン

3)初代駐日総領事時代~ピアス大統領に直訴の任命から日米修好通商条約締結まで

1854年ペリーの第二次日本遠征で締結された『日米和親条約』第11条で米国領事の下田駐在が可能となり、米政府が派遣方針を定めたのを知ったハリスは、1855年8月ペナンから急遽帰米し、ピアス大統領に初代駐日総領事任命を直訴した。幸い、1853年第1次日本遠征に向かう途中の上海来航時に、ハリスの日本同行を断ったペリー提督が賛成に回り、マーシー国務長官、ウェトモア将軍の推薦を得て、ハリスは首尾よく任命を勝ち取り、併せて通商条約締結の全権を得た。

1855年10月通訳にオランダ人ヒュースケンを雇い日本向け出港したハリスは、途中シャムで同国と通商条約を調印するが、ハリスは直前に同国と条約調印した英国特使パークス(厦門領事)から条約文を入手し参考にした。このパークスは、帰任後広東領事になり、直後アロー号事件を引き起こすが、結果的にアロー号事件が日米修好通商条約交渉を加速させ、英国に先んじて調印されたことは皮肉だ。ハリスは7月に寄港した香港でボウリング総督から、『アロー戦争終了次第大艦隊を率いて訪日予定』と聞かされていた。

下田には1856年8月着任し、玉泉寺に領事館を開設したものの、攘夷派との折り合いがつけられない幕府との交渉はかみ合わなかった。翌年5月に日米和親条約を補完する『下田協約』調印できたものの、通商条約交渉のための江戸出府が認められたのは着任1年3カ月後だった。条約交渉は番所調所で下田奉行井上清直と目付岩瀬忠震両全権との間で進められ、1858年1月14回目の条約談判で決着した。しかし、条約勅許が得られないため、大老に就任した井伊直弼の命で無勅許調印したのは6カ月後だった。

条約は不平等条約とされるが、病身のハリスがリンカーン大統領に辞任申請した時には、幕府は国務長官宛に留任要請をした。『幕府の当局者がハリスに出会ったことは、日本にとって幸せだった』(徳富猪一郎)と前向きに評価する向きも少なくない。清国とアヘン戦争・アロー戦争を戦い、領土拡張を含む不平等条約を勝ち取った英国が、大艦隊を率いて来日する前に、ハリスが平和的な交渉で結んだ日米修好通商条約が、英国を含む他の列強との通商条約の規範となったのは幸いと見るべきであろう。

それにしても、ハリスが江戸出府の途上で日記に記した以下の一文は、今に及ぶ基本的問題を衝いているように思われる。

『見物人の数が増してきた。彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない-これが恐らく人民の本当の幸福の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響をうけさせることが、果してこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるか、どうか、疑わしくなる。私は、質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国におけるよりも、より多く日本において見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる。』(日本滞在記下巻P.26)

(岩崎洋三記)

 

歴史部会:6月度部会報告『英語の師匠-岩倉使節団一等書記官・何禮之』

日時:令和元年6月18日 13:30~14:30
場所:国際文化会館 403
演題:『英語の師匠-岩倉使節団一等書記官・何禮之』
講師:金子秀明氏
参加者:14名

何禮之(がれいし)は、長崎の唐通事の家系に生まれた。何一族は、明の滅亡に際し、江戸の初期に日本に亡命し、長崎で代々、唐通事を営んできた。唐通事は、単なる通訳の通詞にとどまらず、貿易実務にも関わっていた模様。講師の金子氏(テレソフト会社-点字ソフト、機器製造販売-代表取締役)は、何一族の天草分家のご出身。

何禮之は、7歳で家督を継ぎ15歳で、これからは英語の時代と見極めて、長崎の唐人より『華英・英華事典』を求めて独学を始め、長崎英語伝習所や居留地内の中国人や英米人(フルベッキなど)から発音を学ぶ。そして、英語稽古所学頭の幕臣に取り立てられ、長崎の私塾と大阪・江戸の私塾で英語を教える。門弟には、親友・前島密(前島の葬儀委員長を務める)、高橋新吉(日本勧業銀行総裁)、前田正名(農商務省次官、東京農林学校長)、芳川顕正(東京府知事、文部大臣、内務大臣)、高峰譲吉(工学・医学博士)、陸奥宗光(外務大臣)、星亨(逓信大臣)、中村六三郎(三菱商船学校初代校長)、浜尾新、豊川良平、吉村寅次郎など百数十名を育てる。岩倉使節団関連の弟子だけでも、山口尚芳(副使)、瓜生震(通詞から三菱支配人)、日下義雄(長崎・福島県知事、実業家)、中島永元(文部官僚)、岸良兼養(大審院長)、萩原三圭(ドイツ初留学生、宮内庁侍医)など多彩。勝海舟陸軍総裁時代の通訳や、小松帯刀随行で上京して通詞を務め、岩倉具視にも、訳書のモンテスキューの『法の精神』など進講している。大隈重信の民権思想にも影響を与えたという。回覧中は木戸孝允と同行し、また一緒に帰国しているので、木戸との接点も深い。青山霊園に眠り、墓名碑「徳種」(恩徳を他人に施す人)「音容如在、葬掃維勤」(お墓参りのたびに、声や姿が目に浮かぶ)に人柄が偲ばれる。林洞海の息子・武を養子とし、榎本武揚と赤松則良とは義兄弟。赤松の三男を養子として何盛三(エスペラント学会長、ベトナム商社・大南公司の支援)に。その長男・何初彦は東大教授。何禮之日記は東大図書館に寄贈されている。幕臣ながら貴族院議員まで務めたのは、中国出身、何一族の日本に溶け込む精神の発露かと。
(文責:小野)

 

歴史部会:5月度部会報告『今、ジョン万次郎を語るー「漂巽紀畧」〈ひょうそんきりゃく〉出版を期に』

日時:令和元年5月20日 13:30~17:00
場所:国際文化会館401号室
演題『今、ジョン万次郎を語るー「漂巽紀畧」〈ひょうそんきりゃく〉出版を期に』

中浜万次郎を語るには最適のお二人、北代淳二氏(東京・国際ジョン万次郎協会会長)と谷村鯛夢氏(漂巽紀畧・現代語訳者・俳人)をお招きしての講演会。参加21名。

土佐の漂流漁民・ジョンマンことジョン万次郎は、鳥島に漂着して、捕鯨船ジョン・ハウランド号の船長・ホイット・フィールド船長に、仲間4名と共に救出された。

捕鯨に従事した後、仲間をハワイに残して一人米国東岸のフェアーヘブンで三年間教育を受けた。更に六年余の捕鯨船経験を積んで、カルフォルニアの金鉱で600ドルを稼ぐと、「二重に鍵をかけられた祖国」日本の門戸を開こうと思い立って、10年ぶりに沖縄に決死の上陸を試みる。

ペリーの黒船が、日本の鎖国大平の夢を覚ます二年前のことである。琉球での取調べの後、実効支配の薩摩藩に移送され藩主・島津斉彬に西洋事情と船の技術を伝える。長崎奉行所の聴取を経て、帰り着いた祖国土佐藩で絵師・河田小龍の聞き語りで完成したのが「漂巽紀畧」である。この情報は、即座に江戸幕府に伝えられて、オランダ特段風説書でペリー来航を知らされていて、米国情報を渇望していた老中・阿部正弘に召され、幕府直参に取り立てられ中浜万次郎を名乗り、江川英龍に預けられる。不幸にして、水戸の徳川斉昭が、米国育ちの万次郎を米国有利の通訳をしかねないと警戒したため、米国との交渉通弁には起用されることはなかったが、佐久間象山、吉田松陰、大槻盤渓(万次郎登用を建言)、ペリーの交渉役の先頭に立った林大学頭(復齋)や雄藩藩主・藩士らへ多大な影響を与えた。

咸臨丸の教授方通弁として、太平洋横断を助け、薩摩藩開成所や土佐藩教授、明治政府開成学校教授など歴任する。捕鯨船への夢は生涯持ち続けたが、日本では実業化できなかった。米国の国旗や通貨に表記されている、E Pluribus Unum(多くのものが集まって、一つ=ラテン語で多様性の中の共生)はグローバル・マインドの万次郎の信条そのもので、John Mung Japaneseと自署し、日本人を意識した最初の日本人であろう。身分制の厳しい幕府が、能力のある万次郎を起用し、外国情報を求めて言論の自由を開いたことは、結果的に日本を開国に導いた陰の主役であり、明治維新での下級武士の人材登用にもつながる画期を開いた人とも思われる。それにしても、万次郎の聞き語りで見せた細部までの記憶力の正確さと、たった三年の教育とは思えない端正な英語文章力や的確な文明把握は驚嘆に値する。因みに当時の捕鯨は、最先端のグローバル産業であり、船は技術の先端であり国際化(民族共生、能力主義)の場でもあった。(文責:小野博正)

歴史部会:3月部会報告「幕末・維新期の中国人米国留学生と日本人留学生」

日時:平成31年3月31日 13:30~16:30
場所:国際文化会館 401号室
講師:亜細亜大学  容應萸教授

当日が亜細亜大学教授としての最終日にあたり明日からは名誉教授に就任される本会会員の容先生に幕末・維新期における日中の米国留学生の交流及び比較についてレクチャーして頂いた。
先生にお願いして中国人留学生の郎琅さん(中国延辺出身)今年亜大で博士を取得 ,そして王雨芊さん(中国青海出身)去年亜大で修士号を取得し現在は東大大学院の研究生 のお二人に参加して頂いた。当日は容先生含め全部で20名の参加者で、内女性は6名だった。

容先生プロフィール:
先生は中国広東省広州市生まれで、香港の真光女子高校卒業後に留学生として国際基督教大学(ICU)を卒業後、コロンビア大学で修士号、東京大学で社会学博士号を取得された。National Univ of Singapore専任講師を経て亜細亜大学教授と成り副学長を務められた。ハーバード大(2000-2001), イエール大 (1974-1975; 2012-2013)で訪問研究を行われた。

内容:
清政府は1872年から4年連続、毎年30名(計120名)の官費留学生「留美幼童」を米国に派遣した。この派遣計画の立案者であり、初代「幼童出洋肄業局副委員」(留学生副監督)を務めた容閎は中国人としてはじめて米国の大学を卒業した中国人留学生である。

研究を始めた動機はサミュエル・W・ウイリアムズ、S.R.ブラウン、B.G.ノースロップと中国人の容閎、「留美幼童」そして吉田松陰、芦原周平、国友滝之介、山川捨松との関係に興味を持ったからである。
研究の目的としては;
1.米国人と日中両国の留学生が繋がりを持った背景や経緯を明らかにする。
2.日中留学生の間に交流・交友関係があったかどうか、その原因は何であるかを考察する。
3.同時代にイェール大学にいた日中留学生を比較し、両国が近代化において「同じ出発の時点」に立ったといえるかを検証する。

更には米国人と日中両国の留学生が繋がりを持った背景や経緯を明らかにし、日中留学生の間に交流・交友関係があったかどうか、その原因は何であるかを考察する。又、同時代にイェール大学にいた日中留学生を比較し、両国が近代化において「同じ出発の時点」に立ったといえるかを検証する。

清朝の西洋探求を目的とする使節団
1866年3月から11月、海関の総税務司ハートと斌椿(ビンチュン)らによる欧州のフランス、イギリス、オランダ、プロイセン、デンマーク、スウェーデン、フィンランド、ロシア、ベルギーの九か国訪問。

1868年2月から1870年10月、清朝最初の遣外使節団として、バーリンゲーム(蒲安臣)使節団(約30名)が派遣される。公式訪問国:米国、イギリス、フランス、ノルウェー、スウェーデン、デンマーク、オランダ、プロシア、ロシア、ベルギー、イタリア、スペイン(バーリンゲームは1870年2月にロシアのセント・ペテルブルグで客死した。)

天津条約の改訂をめぐって,アメリカ・イギリス・フランス・プロイセン・ロシアなどを訪問し、列強諸国に〈協力政策〉の必要性を改めて確認させる事が目的だった。

米国は『中米追加条約』(俗に『バーリンゲーム条約』といわれる)を調印した。清を対等な国家として認め、清の領土の割譲に反対、さらに「清とアメリカは、両国民の往来・留学・貿易・居住に関して、これを妨げず、相互の利益を図る」と規定したこの条約は、後に実現して学童120名のアメリカ留学への道を切り開いた。一方、米国は大陸横断鉄道の建設のための中国人労働者を得ることができた。

岩倉使節団と比較すると物質文明や風俗習慣に対して強烈な関心を持ったが社会制度や精神文明の面での関心は希薄だった。
綿密な計画がみられず岩倉使節団に見られる緊迫感や使命感は感じられない。

清政府による留美幼童の派遣:
1847年、容閎(1828-1912)はS.R.ブラウン牧師に随行して渡米1850年にイェール大学に入学し、1854年に卒業
1870年、留美幼童派遣計画を提案
1872年から4年連続、毎年30名(計120名)の少年がアメリカ留学に出発し、容閎は留学生副監督と駐米副公使に任命された
1881年、総理各国事務衙門は留学生に帰国を命じたため、留米計画は中断した。

アメリカ・ニューイングランドの「知東洋派」の名前を挙げると

サミュエル・R・ブラウン、(Samuel Robbins Brown)1810-1880
ノースロップ(Birdsey G. Northrop) 1817-1898
アディソン・ヴァンネイム(Addison Van Name)1835-1922
J.H.トゥウィッチェル(Joseph H.Twichell)1838-1918
S.ケプロン(Samuel Capron)1832-1874.1.4
レオナルド・ベーコン(Leonard Bacon)1802-1881
達が居る。 

山川捨松と留美幼童
譚耀勲 (1872第一回留美幼童)
1880 ベーコン牧師は中国へ強制送還の処分から脱走した譚耀勲に部屋を提供し生活を支援した。
蔡廷幹(1873第二回留美幼童、清末・民初の海軍軍人、政治家)1895年、ノースロップ訪日。蔡廷幹は日清戦争で捕虜となる。ノースロップは捨松を通して大山巌にも援助を求め、しばらくして、蔡は牢獄から「脱走させられた」

日本人留学生と中国人留学生の相対比較
家庭的背景
日本人留学生はほぼ全員士族の出だが中国人留学生は伝統的士紳階級ではなかったが、「赤貧洗うが如き」ものもいなかった、農家か商家の出で殆ど広東省の出身

渡米時の年齢と動機
日本人学生の平均年齢:20.2歳で留学動機は日本の近代化
中国人学生の平均年齢:12.9歳で留学動機は本人の見識よりは親・保護者の考え、西学習得による社会地位の上昇だった。

イェール大学入学までの教育背景
日本人留学生
早期の留学生は現地で中等教育を受けてから、後期は大学南校からは直接大学に編入
中国人留学生はホームステイ → 公立学校 → 大学

帰国後の職業
日本人学生:教育者・学者(8)、官僚(3)、実業家(3)、政治家(2)、弁護士、銀行家、貴族院議員(1)、政治家・教育者・銀行家

中国人学生:外交や通訳関係官僚(11)、アメリカ領事館通訳(2)、ジャーナリスト・著述業(2)、技師(2)、海軍、教育者、商人(1)商業・鉱業・鉄道・文筆業・外交・大学長

挙国一致で近代化を急ぐ日本では帰国留学生がすぐ要職につくことができたのに対し、中国では一部の洋務担当高官の配下となって働いたのであった。留美幼童が権力の中枢に近づくことができたのは20世紀に入り、清政府が新政の実行に踏み切ってからである

今後の課題

1.新しいコミュニケーションの土壌があったにもかかわらず、日中両国の留学生により深い交流や連帯がみられなかったことが、その後の日中関係の発展とどのようなかかわりがあったかを知る。

2.同じ出発点に立っていた留学生を有しながらも、中国の近代化事業は日本に遅れを取っていた。このことが、日本と中国の近代化の比較に、どのような意味を有したかを探りたい。

質疑応答
日本人留学生と中国人留学生の差は何故生じたかという疑問に対しては中国の場合は中華思想の影響で海外から学ぶものは少ないという認識だったのでは、あるいは科挙が実施されて居たので留学の重要性が少なかったという意見が出た。

他方日本は近代化が急務だったので多くの海外留学生が新政府に登用された。

留学生から見た日本人観として、本音と建て前が違うのではないかという耳の痛い指摘があった。

まとめ
今まであまり知られて居なかった幕末・維新期の日本と中国の留学生の交流について知る機会を得た事は貴重だった。
先生が実際に歩かれたニューヘヴンの山川捨松のステイ先から永井繁子のステイ先までの地図や当時の家、ブラウン牧師の墓など多くの写真を見せて頂き当時の留学生達の思いに心を馳せる事が出来たひと時でした。

佐藤かおり(卯月かいな)さんから従来の青山霊園での甲東祭は行われなくなったので代わりに5月14日にボランティアで大久保利通のお墓の掃除を行うイベントの宣伝をして頂いた。

会の終了後に有志で麻布十番にある鍋島家の菩提寺である賢崇寺にある久米邦武のお墓まいりを行った。川島なお美の墓は直ぐ見つかったが久米家の墓所は奥の方にあり皆で探し回りやっと見つける事が出来た。

以上 文責 吉原重和

歴史部会:2月度部会報告『もう一つの明治維新はあり得たのか―徳川慶喜を素材として』

日時:2019.2.26 13:30~14:30
場所:国際文化会館 404号室
参加者:16名
プレゼンター:小野博正(歴史部会幹事)

昨年のNHK大河ドラマ『西郷どん』の徳川慶喜の悪役ぶりに義憤を覚え、慶喜の名誉挽回にと、雄藩による明治維新でなかったら、どんな明治の道があったかを考えてみた。保阪正康氏によれば、4つの可能性があった。①帝国主義的国家(これが大日本帝国憲法となった現実の歴史)②帝国主義的道義国家③自由民権国家④連邦制国家である。

明治新政府が天皇大権の帝国主義国家を選んだのには必然性があった。王政復古で幕府を朝敵にした時から、国民国家の実現には、天皇を中心に置くしか道はなかった。岩倉使節団はアメリカで共和制国家をみたが、これは幕藩体制を思わせる形態と思えたろう。イギリスの立憲君主制は理想的にみえたが、時あたかもヴィクトリア女王の権勢が議会に削がれかけていて、これでは天皇の地位がいつ弱められるかわからない不安があった。

フランスの王政と共和制の揺れ動きは不安定だ。一方普仏戦争でフランスを破ったドイツは、ビスマルクとモルトケを従えて、ヴィルヘルム一世皇帝の遅れてきた帝国主義国家は産業革命にも成功して盤石であった。明治6年と明治14年の二つの政変を経て、ドイツ模倣国家への道は確定した。士族の反乱などを恐れて、讒謗律、集会条例、保安条例などで自由民権運動の広がりを徹底的につぶしたので、自由民権国家はあり得ない。

帝国主義的道義国家は、明治天皇がイギリスの立憲君主制に一時期共感していたので可能性はあったがこれも日の目を見ることはなかった。残る、連邦制共和国国家は、江戸幕府がそのまま近代化に進んだとき、その可能性が高かった。大政奉還のとき、慶喜は選挙による雄藩とその家臣による二院制議会と、大統領制を頭において西周や津田真道らに検討させていた。これが実現していたら、緩やかな近代化もあり得た。

最後に、慶喜である。味方になるべき四侯会議で、四侯を大バカ者呼ばわりして敵に回し、思想的倒幕派であった勝海舟を、幕府最後の終幕に起用したのはなぜか。慶喜自身が、倒幕(終幕)を当初から考えていたとすれば、すべてが腑に落ちる。彼は側近に、300年の幕府もあと一年も持つまいと語っており、旗本が戦うことを忘れて居ることを嘆いていた。将軍職辞退も恐らく本気だったのではないか。何せ、水戸家家訓は、将軍家に弓を引いても、朝廷には弓を引くなである。彼の血には、武士と公卿の血が流れている。徹底恭順して、明治になってからも、全く政治を語らず、己を語らず。只ひたすらに趣味の世界に没頭したのは、無言のうちに、そのことを語ってはいまいか。これは歴史専門家が決して語らぬ見方である。(文責:小野博正)

歴史部会:10月部会報告「鍋島閑叟(直正)と佐賀7藩士」

日時:2018年10月15日 13時30分~16時30分
場所:国際文化会館 4階会議室
演題:「鍋島閑叟(直正)と佐賀7藩士」
講師:大森東亜(会員)

今回のテーマは、当会で今秋、幕末維新と関係の深い佐賀への歴史旅行が計画されているため取り上げられた。はじめに佐賀藩と佐賀県の地理的特性、歴史的変遷と鍋島氏登場、さらに廃藩置県から佐賀の乱を経て、佐賀県誕生(平成29年人口83万人)までを辿る。

鍋島閑叟は、1814年九代藩主斉直の子として江戸桜田屋敷で誕生し、十七歳で家督を継ぐまで江戸で過ごす。従兄の島津斉彬など縁戚関係は多面に亘る。家督相続時、藩財政は窮乏下にあり、諸役の倹約令、年貢徴収改革ほか磁器づくり、石炭採掘など産業振興に努める一方、借財整理にも取組み、閑叟は「算盤大名」の異名もとる。佐賀城二の丸が焼失するも正室の実家(将軍家)からの城再建費支援などもあり、藩財政を持直す。

佐賀藩は福岡藩とともに長﨑御番を交代で務める。1808年フェートン号事件がおきる。英船が蘭船を装って長崎港に不法侵入し薪水等を求めた事件である。佐賀藩と長崎奉行が対応不適切とされ、長崎奉行関係者が切腹したほか、閑叟の父藩主斉直は謹慎処分される。この出来事もあって閑叟は、長崎御番のため砲台整備、西洋砲術導入、海軍育成、軍艦製造に終生尽力する。閑叟自らオランダ艦やイギリス艦に乗船し、艦船購入のほか蒸気機関工場の設計図などもオランダに求めている。

砲台築造、反射炉建築のため伊豆江川太郎左衛門のもとへ本島藤太夫らを派遣し研究させる。3年がかりで国産初の反射炉をつくり、洋式大砲を鋳造し、幕府の注文も受ける。

事業完成を評価され幕府からの借入10万両は免除される。完成まで度重なる失敗もあったが、閑叟は「西欧人も人なり、佐賀人も人なり、薩摩人も人なり、挫けずますます研究せよ」と励ましたという。幕府の長崎海軍伝習所閉鎖後、閑叟は佐野常民の建言を受け、藩に三重津海軍所を開設し、航海、造船等のほか、国産初の蒸気船も完成させる。

幕末から維新にかけて閑叟は旗色を鮮明にせず、「肥前の妖怪」という小説を司馬遼太郎に書かせる。しかし、その背景に慶喜の大政奉還と引換えに朝廷を戴き、内戦を避け、外国から日本を守るという強い思いがあったと小説『かちがらす』(植松三十里)では記す。いずれにしろ閑叟を中心とする佐賀藩は幕末維新期、大砲と海軍により維新政府成立に寄与する。幕末維新期に活躍した佐賀藩士は閑叟を含め7賢人が挙げられているが、『米欧回覧実記』の久米邦武もこれら賢人に加えたい。佐賀藩士には現代に至る社会制度に地道に寄与した人物が少なくない。それぞれ特記事項を記すと、大隈重信は政党政治、議会政治に貢献し、早稲田大学を創設する。久米は「神道は祭天の古俗」とする論文を書き、帝国大学教授を追われるが、日本史学実証研究に従事する。佐野常民は火器研究後、パリ博覧会に赴くほか、日本赤十字を創設する。副島種臣はペルー船「マリア・ルーズ号」事件で、清国人奴隷を解放するなど日本外交のパイオニアとなる。大木喬任は江藤新平とともに東京遷都を建策するとともに、初期東京府知事となり東京の治安と活性化、さらに文部行政、民法編纂に貢献する。江藤は学制、刑法等司法制度整備にあたる。島義勇は箱館戦争に従事する一方、閑叟の助言をもとに札幌の条里制、北海道開発にあたっている。。

これら佐賀藩士たちの活躍には藩校弘道館の果たした役割が大きい。弘道館は1781年に創設され、92年にわたり独自の教育活動を展開し、時に約千人も学んだといわれる。弘道館の優秀な佐賀藩士は江戸期の最高の学問所昌平黌に学び、幕末25年間で昌平黌の学生505人のうち40人おり、仙台藩、薩摩藩の各21人に比較して抜きんでたとの調べもある。岩倉具視も佐賀藩の教育を評価して子弟を佐賀藩に委託している。
文責:大森東亜

 

 

 

歴史部会:9月部会報告「憲法・3大噺」

2018.9.25 13:30~17:00
国際文化会館 401号室

安倍政権が今年中にも憲法改訂案を国会に上程すると伝えられる機会をとらえて、一人ひとりが憲法問題を考えるに当って歴史的事実を押さえて置こうというのが今回の部会開催の狙いです。参加者21名。まず、明治の「大日本帝国憲法」の成立過程の歴史的背景を泉三郎氏から説明された。維新創業にあたっての「五箇条の御誓文」があり、岩倉使節団帰国直後の大久保利通、木戸孝允二人の夫々の憲法制定を急ぐべしとの建白書。
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歴史部会:7月部会報告「海舟と薩摩藩の情報収集」そして「ワシントンでの岩倉使節団続編」

平成30年7月16日 14:00~17:00
場所:国際文化会館404号室
プレゼンター:吉原重和(会員)

海舟と薩摩藩の情報収集」
薩英戦争後に江戸に派遣された薩摩藩遊学生達が海舟の塾生だった事が海舟日記に記載されていた事が新たに判明した。
加えて彼らが薩摩藩の情報収集の一端を担っていた事、そして彼らの密航直前の長崎における行動についての報告を行った。薩摩藩邸では 南部弥八郎、柴山良介、肥後七左衛門の3名が探索方として活動していた。南部は探索方報告書にまとめて薩摩飛脚で藩庁へ送っていた。

情報の収集は奉行所付属の通訳出穂屋(清水)卯三郎、文書翻訳方木村宗三、立石得十郎、通詞立石斧次郎、外国方翻訳福澤諭吉、北村元四郎、アレキサンダー・シーボルト、そして薩英戦争後に江戸に派遣された遊学生達を横浜に送り行っていた。

これまで薩英戦争後に大山巌、吉原重俊、木藤市助などの寺田屋騒動に加わった攘夷派の志士達が藩から遊学生として江戸に送られていた事は判っていたが、彼らが江戸で何を行っていたのかは不明だった。
今回、勝海舟が開いた氷解塾に薩摩藩士で後に米国へ密航留学する種子島啓輔、吉原重俊、湯地定基、桐野英之丞の4名が入塾していた事実が東北学院大学の高橋先生の論文から判った。
海舟が書き残した海舟日記が明治40年に日記抄として刊行された時は薩摩藩士達の記述は無かったが40年後に勁草書房版(昭和47年~48年)、講談社版(昭和51年)が出版された時に原本にあった薩摩藩塾生の件が追加された。
そこには4名の薩摩藩遊学生が元治2年2月13日に入塾し、慶応2年1月21日の薩長同盟成立に時をあわせて退塾し国元へ向かったと書かれていた。氷解塾遊学生に加えて大山弥助達10名の薩摩藩遊学生が居た江川塾からも木藤市助、谷元兵右衛門が米国留学生と成った。

氷解塾に居た吉原達4名の薩摩藩士が江戸から国元へ向かっていた頃、京都では維新史には必ず登場する事件が起きていた。
小松帯刀のお花茶屋の邸宅で1月21日の薩長同盟の成立直後に京都伏見の寺田屋で坂本龍馬と三好慎蔵が伏見奉行の捕りかたに襲撃された寺田屋事件が起きた。

そして、
3月4日   小松帯刀、西郷隆盛、桂久武、吉井孝輔、坂本龍馬、
お龍、三吉慎蔵達が藩船三邦丸に乗り翌5日大阪を出港3月7日   夜 馬関(下関)寄港 三吉は下船3月8日   長崎寄港
その後彼らは鹿児島に向かい、龍馬とお龍さんは塩浸
温泉に新婚旅行に行ったと言われています。

留学生のリーダー格だった仁礼景範が米国までの様子を記した仁礼景範航米日記に依ればグラバーが帰ったと同じ28日に薩摩藩第二次米国留学生は長崎よりポルトガル船にて出港しました。種子島、吉原、湯地の3名の氷解塾グループに加え谷元、木藤の江川塾グループそして仁礼、江夏の7名の薩摩藩士達は英国経由で米国に渡りマサチューセッツ州のモンソンアカデミーに留学しました。 

話題を変えて南部弥八郎報告書の内容の一例として1866年12月に横浜から約3年間に渡る欧米公演に旅立った高野広八が率いた帝国日本芸人一座と称する17名の曲芸師一座について述べると、彼らは幕府が発行した「御印章」パスポートを取得した民間人一号だった。彼らが北町奉行所に提出した旅券の申請書に記載された内容がほぼその通り、南部の報告書に記載されていた。

彼等はサンフランシスコ、ニューヨーク、フィラデルフィア、ボルチモアで公演を行い、ワシントンでは第17代アンドリュー・ジョンソン大統領からホワイトハウスに招かれて謁見をうけた。他にサツマ一座も欧米で公演を行い、ニューヨークの5番街で岩倉使節団と遭遇し、石畳に土下座したという逸話が残っているそうだ。 

2.ワシントンでの岩倉使節団続編
先ごろMartin Collcutt先生(プリンストン大学名誉教授)から、ワシントンのMasonic Templeで開催された米国国務省主催の岩倉使節団歓迎の公式晩餐会について、回覧実記に久米邦武は「晴」とだけ書いて何も触れていないのは何故だろうかという問題提起が成されましたのでその後の研究成果を発表致した。

使節団一行がワシントンのアーリントンホテルに到着したのは1872年2月29日でだった。
3月1日には早速造幣寮の視察を行った。
3月4日にはホワイトハウスでグラント大統領に謁見した。
3月5日の午後9時に市内のMasonic Templeに於いて国務省主催の公式晩餐会が開催され、1000名以上の参加者が集まった一大イベントだった。

晩餐会の開催についての新聞記事を読むと確かに多くの参加者を招いて国務省主催の晩さん会が開催されていた事が判る。
副大統領のColfax、国務長官のFish等が参加しましたが何故かグラント大統領は不参加だった。そもそも大日本外交文書付属書(略日記)に26日の記載自体がなく晩餐会などは無かった事に成っていた。こうして見ると久米が実記に晩餐会を書かなかった理由は単純で日本側は晩餐会の事実を公表していなかったからと言える。伊藤博文伝にも晩餐会の記述は無かった。

実は宗教問題が使節団の前に横たわっていてワシントン到着前から新聞紙面をにぎわしていたので岩倉は宗教問題には敏感だった。グラント大統領は謁見式の日に早速宗教問題に触れていた。この宗教問題が発端でグラントが晩餐会を欠席したというのが事実であれば、日米間の宗教問題の対立を表面化させたくなかったという推論も成り立つ。
今後の研究が望まれる。

以上(吉原記)

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歴史部会:5月部会報告「西郷どんを奔らせた薩摩藩の名君:島津斉彬」

平成30年5月7日(月)
時間:14時~17時
場所:国際文化会館
プレゼンター:小野博正(会員)
参加者:18名

鹿児島の照国神社に祀られている島津斉彬は、名君に恥じない。薩摩藩が明治維新の実現に最も貢献したことは異論の余地がないが、その薩摩藩の国父・島津久光や藩士・小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通らを幕政改革から、やがて倒幕へと走らせたのは“斉彬の御深意”(先君の遺志)である「御一新」「日本一致一体論」「殖産興業、富国強兵」「開国と貿易」「夷を以て夷を制する文明開化」を誠実に追求することにあった。 続きを読む 歴史部会:5月部会報告「西郷どんを奔らせた薩摩藩の名君:島津斉彬」