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2025年10月第5回英書(ブラウン)輪読会開催報告

日時:2025年10月18日(土) 10:00~12:30 (ZOOMによるオンライン開催)

テキスト:A Maker of New Orient SAMUEL ROBBINS BROWN by William Elliot Griffis

(新しいアジアを作ったサミュエル・ロビンス・ブラウン)

範囲:Ch.VⅢ Proffesor Brown at Rome Academy     pp.108-113

Ch.Ⅸ  The Dutch Domine at Owasco Lake     pp.117-124

Ch.Ⅹ  A Pioneer in Woman’s Higher Education pp.127-133

参加者:11名(内訳:報告者9名、その他1名、ゲスト1名)

ゲスト: 元亜細亜大学副学長容應萸先生

(ブラウンが校長のモリソン記念学校の生徒で、ブラウン帰国時に同行渡米し、イェール大学に入学、優秀な卒業した 容閎(ようこう/Yung Wing)のご子孫)

進行:添付「読み区分」に従い、報告者各自が担当区分を音読の後、予め用意したパワーポイントを使って報告、

後全員参加のディスカッション。

内容:

1.ブラウン帰国

1839年マカオにモリソン記念学校を設立し、初代校長として重任を果たしたブラウンは、婦人が健康を外したことや、学校運営の継続が困難になったこともあって、1947年容閎(ようこう)など3人の中国人生徒を伴って母国アメリカのニューヨーク州モンソンに帰国した。

2.教え子の米国留学を斡旋

ブラウンは3人の中国人生徒を、まずは自身も学んだ地元のモンソン・アカデミーに入学させ、その後ニューヨーク州ローマに新設されたローマ・アカデミー(ブラウンが初代校長)に学ばせた後、名門イェール大学などに進学させた。生徒たちは中国のその後の教育制度改革などに成果をあげるなど活躍した。

3. サンドビーチの改革派オランダ教会の牧師として活躍

人望のあるブラウンは教会の運営を託され、Domineの愛称で信者拡大や寄付金活動で成果を挙げた。

教会の下記女性信者3人は、後に来日して活躍する。

4.ブラウンと来日した3人女性信者

① キャロライン・エイドリアン

1859年自費でブラウン師と共に「ミカド(天皇)の国」渡り、現地女性へ布教を始めようとした。

しかし時期尚早で、目立った活動はできず失望し、後中国に渡り厦門の改革派教会で短期間活動したが1863年に亡くなった。

②メアリー・F・キダー

ブラウンの推薦で最初の女性宣教師として1869年8月来日、ヘボン塾の女学生を引き継ぎ、日本における女子教育の先駆けとなるフェリス女学院を設立した。その後新潟県英語塾の教師を引き受けたブラウンともに新潟へ向かった。後にエドワード・ロセス・ミラー師と結婚し、横浜や東京で数年間熱心に活動した後、盛岡に定住し、1901年にはS.R.ブラウン博士の伝記的回想録を執筆した。

③マリア・マニオン

グイード・F・ヴァーベック博士はブラウンの下で、サンドビーチ教会のドイツ人信徒への説教をしていたが、日本派遣宣教師に選ばれたときにマニオンと結婚し、1859年一緒に来日した。

5.オーバーンの神学校の教授や政界の著名人などとの交流

アマースト大学、エール大学、ユニオン神学校など複数の有力大学で学んだブラウンは多分野の有力者との交流に恵まれた。後に合衆国上院議員、国務長官になるウィリアム・H・スワードもその一人だった。スワードは引退後世界旅行するが、1870年に来日し天皇に拝謁した。これが外国賓客天皇拝謁の先例になった。

(岩崎洋三記)

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