日時:2022年2月9日(水)13:00~15:00
場所:ZOOMによるオンライン開催
担当:富田
内容:第四十八巻「パリ その7」
明治6年(1873年)1月23日から明治6年2月16日パリに留まり市内外各所を見学した。
1月23日:クリストフル社工場
コンセルワトワル近くのクリストフル食器工場を見学。湿電法(ガルバン法、電気メッキ)で金銀メッキの食器を製作。銃剣も作っている。象嵌七宝は日本のものを手本に模造し、ウィーン万博では賞を獲得した。
同日:唖学校、25日:盲学校
啞学校は大裁判所(シテ島に在る)西南の5階建ての大きな校舎。500人在籍、学費1000フランを払えない者は免除される。盲学校はナポレオン一世の墓所の近く、こちらも大きな校舎。凸字を発明したアウイ氏が1784年に創立、こちらも学費の免除あり。男子200人、女子100人が寮に在籍。盲人は指耳の感覚が研ぎ澄まされ特に女性はきれいな歌声と称賛。
1月28日:プロテスタント教会関係者来訪
ロンドンで英国聖書協会を訪ねた際にベッテルハイム訳日本語版聖書のゲラを見せられた。その後ウイーンの印刷工場で完成した聖書をパリにいる英国聖書協会の代理人であるプロテスタント教会関係者がこれを届けに来たもの、と吉原氏から注釈があった。
31日:答礼宴
各省(外務・大蔵・工部・文部・海軍・陸軍および公使・市長)長官を招く。
2月2日:ブーローニュ公園散策
雪晴れの公園を馬車で散駆。動物園見学。
4日:経済学者ブロック教授宅訪問、招宴
使節団が道中唯一面会した学者。統計学、財政学専門でティエール大統領とも懇意であった、と言われる。
10日、13日:香水工場、薬莢工場
前者はパリ東南の郊外、後者はサンクレーにある。
16日:ティーエール大統領招宴
翌17日パリを発った。
使節団は郊外に出掛けるほかはほとんどパリに滞在した。当時のパリはナポレオン3世による大改造が終わった後でパリコンミューンによる破壊の爪痕も残っていたと想像されるが、今のパリに近い姿が既に出来ていたと思われる。そこで、文献(大都市政策研究機構「大都市政策の系譜;オスマンのパリ大改造」)を参照し、パリの景色について見てみる。
- 時代背景
1840年代パリは既に100万人を超えていた。当時のパリは中世以来の城塞都市の名残が残り、汚物も流れる狭い道路、密集する高いアパート等非衛生な環境にあった。一方で乗合馬車の登場で交通渋滞が発生し、道路網の整備は焦眉の急であったが、1830年に発足した七月政府は緊縮財政を掲げ公共投資には消極的であった。
- ナポレオン3世とオスマンの登場
1852年第二帝政を確立したナポレオン三世は、亡命生活を送っていたロンドンでその都市計画に感銘を受けパリの大改造を考え、オスマンをセーヌ県知事に任命し、直ちに着工するよう命じた。
3.パリ大改造の概要
- 道路事業
オスマンは、①古い道路の拡幅、②幹線道路の複線化、③重要拠点の斜交化の3原則を掲げ、まず東西南北の「パリ大交差路」を貫通させた。前者は凱旋門からバスティーユ広場に到るリヴォリ通り、後者は東駅からシテ島を通りリュクサンブブール東端に到る通りである。シテ島は民家を撤去し公共建築物(裁判所等)を集中的に集めた。エトワール凱旋門広場は放射状に12本の大通りを同心円状の道路で結んだ。
- 公園事業
過密状態のパリに新鮮な空気の補給源として西にブーローニュの森、東にバンセンヌの森を配置し、ビュットショーモン、モンスリー、モンソーの3つの都市公園、シャンゼリゼを始めとする24の広場を整備した。
- 上下水道事業
1832年のコレラ流行を期に上下水道、汚水処理が急務であった。上水道は150㎞離れた川から飲用水を導き、非飲料水は既存の水源であるセーブ川などから引いた。下水道は末端小管渠か幹線管渠に到るネットワークを計画、巨大な地下溝を整備した。
- 都市景観
デクレ(政令)手法を取り入れ収用した土地には、外観の統一制を考え、ファサード、階高、天窓、バルコニー等様々な規制を開発業者に課した。新ルーブル宮、新オペラ座、市庁舎、鉄道駅など記念碑のような視覚効果を演出した。
4.各国に与えた影響
パリの大改造は「オスマニザシオン(オスマン化)」と称され都市改造の手本とされウィーン、バルセロナ、ブリュッセル、ベルリンなどの都市改造に多大な影響を与えた。日本でも井上馨の「日比谷官庁集中計画」(1886年)等々に影響を与えた。
(冨田兼任記)