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実記輪読会:25巻「ロンドン市」ノ記 下

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日時:令和2年1月8日 13:30~15:00
場所:日比谷図書文化館 4Fセミナールーム

明治5年8月11日(1872年9月13日)マーサーズホールにて夕食会。マーサ―ズホールはシティ地区にある当時の有力繊維業者マーサーズ商会の建物で、食事を饗する、いわば東京会館のような社交場。現在も営業しており、往時のままと思われる立派なシャンデリアも現存。15日小学校見学、岩倉使節団は必ず当地の学校を視察しており、新しい国を創るために教育重視の姿勢が伺える。16日ロンドン塔、電信局、郵便局視察。アジアやオーストラリアに至る海底電線網が1870年頃に整備されており、新しい世界の仕組みを実見するのに時宜を得た訪問であった。17日ロンドン南郊のサイデンハム(シデナム)の水晶宮(クリスタルパレス)を視察。1936年に焼失したので現存していない。18日ハリー・パークス宅に招かれる。21日大久保・山口副使造幣局視察。25日大英博物館視察。

番外編:前回議論になった二院制に至るイギリス議会制度の発展経緯を調べた。始まりは1215年のマグナカルタ(大憲章)に遡る。貴族・教会・都市に封建的特権が認められ、国王は徴税のためには議会を開き彼らの同意を得る、となった。1265年この原則を無視した国王に貴族側が反乱を起こし、議会(パーラメント)を開かせたのが始まり。その後戦費調達のために頻繁に議会開催の必要性が出て、議員として貴族・聖職者・騎士・市民が選ばれた。1330年代、貴族・聖職者の上院と騎士・市民代表の下院に分離されたが、絶対王政下で下院の力が強まり、1600年代の清教徒革命、名誉革命を経て立憲君主制が確立した。更に1721年首相となったウォルポールが1742年選挙で破れ多数党に政権を譲ったところから、多数党が与党となり内閣を組織するという責任内閣制が定着した。

(冨田兼任記)

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