歴史部会:7月部会報告「海舟と薩摩藩の情報収集」そして「ワシントンでの岩倉使節団続編」

平成30年7月16日 14:00~17:00
場所:国際文化会館404号室
プレゼンター:吉原重和(会員)

海舟と薩摩藩の情報収集」
薩英戦争後に江戸に派遣された薩摩藩遊学生達が海舟の塾生だった事が海舟日記に記載されていた事が新たに判明した。
加えて彼らが薩摩藩の情報収集の一端を担っていた事、そして彼らの密航直前の長崎における行動についての報告を行った。薩摩藩邸では 南部弥八郎、柴山良介、肥後七左衛門の3名が探索方として活動していた。南部は探索方報告書にまとめて薩摩飛脚で藩庁へ送っていた。

情報の収集は奉行所付属の通訳出穂屋(清水)卯三郎、文書翻訳方木村宗三、立石得十郎、通詞立石斧次郎、外国方翻訳福澤諭吉、北村元四郎、アレキサンダー・シーボルト、そして薩英戦争後に江戸に派遣された遊学生達を横浜に送り行っていた。

これまで薩英戦争後に大山巌、吉原重俊、木藤市助などの寺田屋騒動に加わった攘夷派の志士達が藩から遊学生として江戸に送られていた事は判っていたが、彼らが江戸で何を行っていたのかは不明だった。
今回、勝海舟が開いた氷解塾に薩摩藩士で後に米国へ密航留学する種子島啓輔、吉原重俊、湯地定基、桐野英之丞の4名が入塾していた事実が東北学院大学の高橋先生の論文から判った。
海舟が書き残した海舟日記が明治40年に日記抄として刊行された時は薩摩藩士達の記述は無かったが40年後に勁草書房版(昭和47年~48年)、講談社版(昭和51年)が出版された時に原本にあった薩摩藩塾生の件が追加された。
そこには4名の薩摩藩遊学生が元治2年2月13日に入塾し、慶応2年1月21日の薩長同盟成立に時をあわせて退塾し国元へ向かったと書かれていた。氷解塾遊学生に加えて大山弥助達10名の薩摩藩遊学生が居た江川塾からも木藤市助、谷元兵右衛門が米国留学生と成った。

氷解塾に居た吉原達4名の薩摩藩士が江戸から国元へ向かっていた頃、京都では維新史には必ず登場する事件が起きていた。
小松帯刀のお花茶屋の邸宅で1月21日の薩長同盟の成立直後に京都伏見の寺田屋で坂本龍馬と三好慎蔵が伏見奉行の捕りかたに襲撃された寺田屋事件が起きた。

そして、
3月4日   小松帯刀、西郷隆盛、桂久武、吉井孝輔、坂本龍馬、
お龍、三吉慎蔵達が藩船三邦丸に乗り翌5日大阪を出港3月7日   夜 馬関(下関)寄港 三吉は下船3月8日   長崎寄港
その後彼らは鹿児島に向かい、龍馬とお龍さんは塩浸
温泉に新婚旅行に行ったと言われています。

留学生のリーダー格だった仁礼景範が米国までの様子を記した仁礼景範航米日記に依ればグラバーが帰ったと同じ28日に薩摩藩第二次米国留学生は長崎よりポルトガル船にて出港しました。種子島、吉原、湯地の3名の氷解塾グループに加え谷元、木藤の江川塾グループそして仁礼、江夏の7名の薩摩藩士達は英国経由で米国に渡りマサチューセッツ州のモンソンアカデミーに留学しました。 

話題を変えて南部弥八郎報告書の内容の一例として1866年12月に横浜から約3年間に渡る欧米公演に旅立った高野広八が率いた帝国日本芸人一座と称する17名の曲芸師一座について述べると、彼らは幕府が発行した「御印章」パスポートを取得した民間人一号だった。彼らが北町奉行所に提出した旅券の申請書に記載された内容がほぼその通り、南部の報告書に記載されていた。

彼等はサンフランシスコ、ニューヨーク、フィラデルフィア、ボルチモアで公演を行い、ワシントンでは第17代アンドリュー・ジョンソン大統領からホワイトハウスに招かれて謁見をうけた。他にサツマ一座も欧米で公演を行い、ニューヨークの5番街で岩倉使節団と遭遇し、石畳に土下座したという逸話が残っているそうだ。 

2.ワシントンでの岩倉使節団続編
先ごろMartin Collcutt先生(プリンストン大学名誉教授)から、ワシントンのMasonic Templeで開催された米国国務省主催の岩倉使節団歓迎の公式晩餐会について、回覧実記に久米邦武は「晴」とだけ書いて何も触れていないのは何故だろうかという問題提起が成されましたのでその後の研究成果を発表致した。

使節団一行がワシントンのアーリントンホテルに到着したのは1872年2月29日でだった。
3月1日には早速造幣寮の視察を行った。
3月4日にはホワイトハウスでグラント大統領に謁見した。
3月5日の午後9時に市内のMasonic Templeに於いて国務省主催の公式晩餐会が開催され、1000名以上の参加者が集まった一大イベントだった。

晩餐会の開催についての新聞記事を読むと確かに多くの参加者を招いて国務省主催の晩さん会が開催されていた事が判る。
副大統領のColfax、国務長官のFish等が参加しましたが何故かグラント大統領は不参加だった。そもそも大日本外交文書付属書(略日記)に26日の記載自体がなく晩餐会などは無かった事に成っていた。こうして見ると久米が実記に晩餐会を書かなかった理由は単純で日本側は晩餐会の事実を公表していなかったからと言える。伊藤博文伝にも晩餐会の記述は無かった。

実は宗教問題が使節団の前に横たわっていてワシントン到着前から新聞紙面をにぎわしていたので岩倉は宗教問題には敏感だった。グラント大統領は謁見式の日に早速宗教問題に触れていた。この宗教問題が発端でグラントが晩餐会を欠席したというのが事実であれば、日米間の宗教問題の対立を表面化させたくなかったという推論も成り立つ。
今後の研究が望まれる。

以上(吉原記)

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