GJ研究会:7月部会報告「平成時代をふりかえる~天皇退位問題を中心に~」

7月度部会報告

  • 日時:平成29年7月15日(土)13:30~16:30
  • 場所:国際文化会館401号室
  • 演題:「平成時代をふりかえる~天皇退位問題を中心に~」
  • 講師:片山杜秀氏
    プロフィール:
    思想史研究者、音楽評論家
    2013
    年慶応大学法学部政治学科教授
    著書:「近代天皇論」(島薗進氏との対談、2017年集英社新書)
    「近代右翼思想」(2007年講談社選書メチエ)
    「未完のファッシズム”持たざる国”日本運命”」(2012年新潮社、2011年司馬遼太郎賞)
    「クラッシック迷宮図書館~片山杜秀の本3」(2010年アルテスパブリッシング)
    「見果てぬ日本~司馬遼太郎・小津安二郎・小松右京の挑戦」(2015年新潮社)
    他多数

     

    慶応大学教授片山杜秀教授から、以下のような講演、質疑応答があった

    平成元年は、1989年で、ベルリンの壁が崩壊した年。あれから、四半世紀が経った。

    ソ連型社会主義は行き詰まり、先進国の資本主義も格差拡大で、成長モデルを見失っている。そうした中で、中間団体と中間層が弱体化し、良識、常識、教養が崩壊しつつある。
    情報の多元化、劣化、発信源の無際限な拡大が促進され、価値観の局限化が進んでいる。

    日本では、自民党、民主党、都民ファーストなどが、圧勝しては、前との大胆な「切断」を作り出す。「切断」には、価値の問題だけでなく、人の問題もからむ。こうした経過の中で、国民という土壌が崩壊し、国民国家としてのまとまりが危うくなってくる。まとまり維持の最後の仕掛けが、宗教団体であり、国民の束ねの象徴としての天皇と言えよう。

    天皇像に関し、日本会議は、天皇の存在そのものが神聖としているが、今上天皇は、象徴として国民に承認されるためには不断の行為を通じ国民の理解を得ることが不可欠ということを平成28年夏のお言葉で明らかにされた。
    この「お言葉」ほど、戦後民主主義と象徴天皇との関係について、突き詰めて語られたものを他に知らない。
    民主主義の純粋型では、構成員のすべてが対等な民衆の一員であることが求められる。

     

    そこに「神」や「神」の片鱗を有する者がいてはならない。それでも民主主義世界に天皇がいるとすれば、その天皇は、人としてほかの国民から敬愛され信頼される特別な人であると不断に認証され続けなければならない。
    「お言葉」では、国民とふれあう行為を不断に続けることでただひたすら一個の人間として国民に認め続けてもらい皇位を保ちうる存在が象徴天皇であると述べられたと理解している。尊皇思想の中心であった水戸学の会沢正志斎は「新論」の中で、日本は、尊皇攘夷を目指すべきであるが、当時の国力では、欧米列強を追い払って、攘夷をやり遂げることは不可能なので、取りあえず
    文明開化をして、チャンスがあれば、攘夷をすればいいと提言している。

    そして、正に尊王攘夷の考え方で、太平洋戦争まで、突き進んで行った。その後、発展してきた今日の日本の中に、「神権的国家」「尊皇国家」の復活を唱える動きがあり、その方向で進むと、会沢正志斎の予言が二度当たるという
    ことになりかねない。これに、抵抗しているのが、戦後民主主義的象徴天皇像を突き詰めてこられた今上天皇その人であるように見えるところに、日本近代の壮大な悲喜劇があるのではないか。五箇条の御誓文の本質は、神がかった神国思想の否定だと思う。
    明治天皇の膨大な和歌も民と共感共苦をともにするお考えの表れであろう。

    「近代天皇論-「神聖」か「象徴」か」(集英社新書)の結語において、「象徴天皇制の虚妄に賭ける」というタイトルにしたのは、丸山真男氏が「戦後民主主義の虚妄に賭ける」と言ったことを踏まえ、ハードルは高くても、これに挑戦していくべきと思って、
    このタイトルにした。
    民主主義と天皇制は、究極的相性は、よくないだろう。
    しかし、近代民主主義国家として今のところもっとも長続きしているのは、極端に傾かず王室と民主主義政体を両立させてきたイギリスであるという歴史的事実もある。

    (文責 塚本 弘)

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