歴史部会:2月度部会報告「使節団の群像3」

日時:2月25日 13:30~16:30
場所:日比谷図書文化館4Fセミナールーム

大使随行及び大蔵省からの派遣メンバー 5名

1.田中光顕(たなか みつあき)1843‐1939 高知 29歳
  大蔵省理事官

小野博正

明治の黒幕的巨魁。長寿全うした官僚政治家
 土佐藩家老・深尾家家臣の浜田金治の長男として土佐に生れ、土佐勤皇党に参加、文久3年(1863)の土佐勤皇党の弾圧を契機に脱藩して高杉晋作の弟子になる。戊辰戦争で活躍し維新後は新政府に出仕し、岩倉使節団では大蔵理事官として参加し、会計を一手に引き受け、南貞介の銀行破産事件にも、田中の堅実さで公金の被害はなかった。

明治12年(1879)陸軍局会計部長
1885‐1889 元老院議官初代内閣書記官長
1885‐1888 会計検査院長
1887‐1888 警視総監、学習院院長などの要職を歴任
明治20年(1887)子爵となり華族に列する。
明治40年伯爵と成った。
明治42年、西本願寺別荘買い上げ収賄疑惑で辞職し政界から引退するが、97歳の天寿を全うする。従一位勲一等。

五辻安仲(いつつじ やすなか)1845 – 1906 公家 27
大使随行員 式部助

小野博正

明治天皇東京行幸の先発隊長 宮内庁式部寮理事功程編、子爵
 宇多源氏200石、源雅信の子、時方を始祖とする堂上公家半家の名門・五辻家に生まれる。慶応3年12月王政復古で三職書記御用掛となり、明治元年には西郷吉之助、大久保一蔵、桂小五郎、井上聞多、伊藤俊輔らと同列の参与となり、国内事務局権判事を拝命、明治2年、東京・招魂社の創建には、天皇勅使を務めている。旧官制の弾正大弼、少弁を歴任し、式部助として岩倉使節団の大使随行として加わる。

五辻は、回覧中は侍従長・東久世通禧理事官随行で、村田新八と通訳池田寛治らと行動を共にしている。明治5年帰朝、「宮内庁式部寮・理事功程」を理事官・東久世通禧と連名で提出している。式部助従四位の時、『神社祭式』を編纂している。三條実美文書に、五辻書簡があり「叙位進階内規両様・華族叙位進階内規」の清書提上(明治20年)したことが記録されており、三条の華族問題処理・人物評価の相談役になっていたことが窺える。
明治22年-26年は大膳太夫を務め、天皇の側近に努めている。

沖 守固(おき もりかた)1841‐1921 鳥取 31歳
大蔵七等出仕 大蔵随行
栗明純生

 鳥取藩士・江戸詰絵師沖一峨の長男として天保12年(1841)江戸藩邸内で生まれる。父から狩野派の画を学ぶ一方で、漢文を萩原緑野、大橋訥庵に学ぶ。明治4年大蔵省に出仕、その後岩倉使節団の田中光顕理事官随行を命ぜられる。一行とはアメリカで分れ、自費留学で英国に向かう。以降7年間英国留学する。

明治11年に帰国し内務省少書記官となり、明治14年に野村靖の後を受けて、神奈川県令となり8年間務めた。この期間に日本初の近代水道敷設など横浜の近代都市化を推進した。明治23年帝国議会開設に伴い貴族院勅選議員に任じられ、死去するまで在任した。

次いで明治24年から滋賀県知事、和歌山県知事、大阪府知事、愛知県知事を歴任し、明治33年には男爵に叙せられた。

彼は日本と西洋、封建と近代、文化(絵画)と政治、中央と地方の二つの対立項を渡り歩いた人物と言えそうで大正元年(1912)に亡くなっている。

池田寛治 (政懋)(いけだ まさよし)1846 – 1881 佐賀
四等書記官

吉原重和

佐賀藩士の彼は長崎の済美館に学びフランス語を習得。
四等書記官で岩倉使節団に参加、米国からヨーロッパには岩倉使節団とは先行している。1872年11月2日に、パリのホテルドロールビロンに投宿した成島柳北の『航西日乗』には、11月4日に「阿部氏帰国。池田寛治氏に誘われて、市内の浴場に赴く。」8日「昨日岩倉使節団に先行して着いた安藤太郎、池田氏とボアドブロン公園に遊ぶ」11日「長田、池田、安藤三氏とワランチノの歌舞場を見る」とある。

彼はパリ滞在中は公使館付け要員になっていた模様であるが大久保に随行して帰国した。大久保は明治7年に清国へ全権弁理大臣として乗り込んだ時に、法律顧問として随行した仏人ボアソナードの通訳として池田寛治を随行させた。池田にとっては、4年後の大久保の暗殺と、明治6年と明治14年の変による佐賀藩出身者や田辺太一の政府離れが、その後の出世に響いたかもしれない。天津領事、大蔵省少書記官、長崎税関長を務めたが、35歳で早世した。

阿部 潜 (あべ せん)1839 – 没年不明 幕臣33
大蔵省七等出仕
小野博正

沼津兵学校創立の立役者 尾去沢鉱山にも関係
 幕臣・阿部遠江守正蔵の三男として江戸に生まれ蕃書調所に勤める。江戸城開城の直前に、江戸城の金蔵より11万両を盗み出して、沼津兵学校の創設の資金とする。沼津兵学校は、江原素六と企画して、西周を兵学校頭取に招いて、田邊太一、原田一道ら20名を教授陣に招聘して開設した。
明治2年 沼津奉行、静岡藩少参事兼軍事掛となる。
明治3年 薩摩藩の市来四郎に招かれて、鹿児島兵学校創設に
向け、鹿児島赴任のため軍事掛少参事を逸職
明治4年 大蔵省七等出仕・大蔵省勧農寮(1871―72)所属と
なって、岩倉使節団に随行する。使節団では耕牧事務
取調出役とされて、若山儀一、沖 守固、岩山敬義,
由良守慶、野口富蔵らと同役である。アメリカのフィ
ラデルフィア以降、肥田理事官の別働隊として、視察
にあたった。

明治5年11月4日日本に帰国後明治9年から20年にかけて尾去沢鉱山の経営に深くかかわる。多くの幕臣出身の使節団員は、次第に新政府の方針と合わずに官業から疎遠になっていくようで阿部もその例に漏れない。

以上

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