歴史部会:7月部会報告『タウンセンド・ハリス~初代米国総領事が日本にもたらしたもの』

日時:令和元年7月22日 13:30~14:30
場所:国際文化会館4F
講師:岩崎洋三氏

2019.7.22(月)の歴史部会は、岩崎洋三氏が『タウンセンド・ハリス~初代米国総領事が日本にもたらしたもの』と題して、初代米国駐日総領事として1856年(安政3年)下田に来航し、2年後英仏露に先駆けて通商条約を締結し、日本の開国を果たしたハリスの数奇な生涯と功罪を論じた。

本論に入る前に、総領事ハリスを描いた映画『黒船』の、下田来航・江戸出府・将軍謁見の部分を見大筋を捉えた。上陸を拒否する下田奉行、大名行列並みの道中、江戸城での謁見と開国の利を説く有名なハリスの長口舌など、1958年にジョン・ヒューストンが監督作った映画は意外に良く出来ていた。因みに、ハリス役はジョン・ウェイン、下田奉行が山村聰で、共に様になっていた。

1)ニューヨーク時代~出生からニューヨーク市教育委員会委員長まで

ハリスは1804年にニューヨーク州北部のハドソン川に沿った小さな村で、帽子屋の5男として生まれた。先祖は、全米で最初に奴隷制を禁じたロードアイランド州を起こしたことで有名なピューリタンのロジャー・ウィリアムズと共に1630年にアメリカのニューイングランドに渡って来たウェールズ移民である。父母双方の祖父達は独立争で戦っている。自宅を火災で失った父方の祖母は、ハリスに『真実を語れ、神を畏れよ、イギリスを憎め』と教えた。タウンセンドの名はこの祖母の旧姓でからもらっている。読書家の母親は共和主義・連邦主義で、民主主義・地方分権のハリスとは意見を異にしていたが、ハリスはこの母親をこよなく慕った。

13歳の時ニューヨーク市に出て洋服商に就職した。そして、16歳の時には兄から陶器店の経営を委ねられ、子供商店主として評判になった。商売に精を出す一方、当時市政を牛耳っていた民主党に所属し、ウェトモア将軍等有力者の知己を得て42歳の時ニューヨーク市教育委員会委員長に就任恵まれなかったハリスは、当時急増していたアイルランド移民を含む貧者に高等教育機会を与えようとFree Academyを設立した。これはニューヨーク市立大学に発展する。

2)インド洋・太平洋貿易業時代~ニューヨーク市教育委員長を辞し、初代駐日総領事になるまで

1849年家業の経営悪化に加え、敬慕する母親の死に見舞われたハリスは、ニューヨーク市教育委員長を辞し、サンフランシスコで貨物船の権利を購入し、太平洋・インド洋で貿易業を開始する。年々のクリスマスを過ごした地は以下の通りで、広範に活動していたことが伺える。

1849年北太平洋上
1850年マニラ
1851年ペナン島
1852年シンガポール
1853年香港
1854年カルカッタ
1855年セイロン

3)初代駐日総領事時代~ピアス大統領に直訴の任命から日米修好通商条約締結まで

1854年ペリーの第二次日本遠征で締結された『日米和親条約』第11条で米国領事の下田駐在が可能となり、米政府が派遣方針を定めたのを知ったハリスは、1855年8月ペナンから急遽帰米し、ピアス大統領に初代駐日総領事任命を直訴した。幸い、1853年第1次日本遠征に向かう途中の上海来航時に、ハリスの日本同行を断ったペリー提督が賛成に回り、マーシー国務長官、ウェトモア将軍の推薦を得て、ハリスは首尾よく任命を勝ち取り、併せて通商条約締結の全権を得た。

1855年10月通訳にオランダ人ヒュースケンを雇い日本向け出港したハリスは、途中シャムで同国と通商条約を調印するが、ハリスは直前に同国と条約調印した英国特使パークス(厦門領事)から条約文を入手し参考にした。このパークスは、帰任後広東領事になり、直後アロー号事件を引き起こすが、結果的にアロー号事件が日米修好通商条約交渉を加速させ、英国に先んじて調印されたことは皮肉だ。ハリスは7月に寄港した香港でボウリング総督から、『アロー戦争終了次第大艦隊を率いて訪日予定』と聞かされていた。

下田には1856年8月着任し、玉泉寺に領事館を開設したものの、攘夷派との折り合いがつけられない幕府との交渉はかみ合わなかった。翌年5月に日米和親条約を補完する『下田協約』調印できたものの、通商条約交渉のための江戸出府が認められたのは着任1年3カ月後だった。条約交渉は番所調所で下田奉行井上清直と目付岩瀬忠震両全権との間で進められ、1858年1月14回目の条約談判で決着した。しかし、条約勅許が得られないため、大老に就任した井伊直弼の命で無勅許調印したのは6カ月後だった。

条約は不平等条約とされるが、病身のハリスがリンカーン大統領に辞任申請した時には、幕府は国務長官宛に留任要請をした。『幕府の当局者がハリスに出会ったことは、日本にとって幸せだった』(徳富猪一郎)と前向きに評価する向きも少なくない。清国とアヘン戦争・アロー戦争を戦い、領土拡張を含む不平等条約を勝ち取った英国が、大艦隊を率いて来日する前に、ハリスが平和的な交渉で結んだ日米修好通商条約が、英国を含む他の列強との通商条約の規範となったのは幸いと見るべきであろう。

それにしても、ハリスが江戸出府の途上で日記に記した以下の一文は、今に及ぶ基本的問題を衝いているように思われる。

『見物人の数が増してきた。彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない-これが恐らく人民の本当の幸福の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響をうけさせることが、果してこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるか、どうか、疑わしくなる。私は、質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国におけるよりも、より多く日本において見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる。』(日本滞在記下巻P.26)

(岩崎洋三記)

 

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