英書輪読会:5月部会報告「日本のフルベッキ第II章 Koppel (コッペル) 」

日時:令和元年5月8日 15:00~17:00
場所:日比谷図書文化館 セミナールーム
ナヴィゲーター: 市川三世史
内容:Verbeck of Japan Chapter II. The Koppel: Page 29~47

II 章の内容は、フルベッキの出自の紹介と、青少年時代に長く暮らしたザイスト(オランダ、ユトレヒトの西)の描写が主体である。フルベッキの名は、小川または細流を意味し、オランダおよびドイツに見出せる。ヤコブ・ファン・ラエル所有下のザイストは居住者6000名の美しく、ラインの支流が中心を流れる小さな町であり、モラビア人のコミュニティがあった。父カール・フルベッキは母アン・ケルマンと1818年に結婚し、1830年にグイド・フルベッキが八人の子供の第六子として生まれた。家族は居住地をライゼンベルグからザイストに移し、コッペルと呼ぶ家に住んだ。コッペルはカップルと同義語で、二つの水路または小道をつなぐことに由来する。ここは庭園、果樹園、牧草地に富む美しい土地であった。

グイドは内気で引っ込みがちな紳士であったが、バイオリン、ギターの演奏に長けていた。彼はこのコッペルで約22年を過ごしている。オランダの裕福な家庭の男子との交友で、グイドはオランダ、イギリス、フランス、ドイツの四か国語を流暢に話すことができた。

グイドには生まれつきの、人を引き付ける力があった。また動物に対する残酷性を厳しく非難していた。二歳の時グイドは水路に落ちて、危うく生命を失う危機を経験している。宗教的に父親はルター派であったが、グイドはザイストに残ってモラビア人の教会で堅信式を挙げている。この教会で宣教師たちの行動と精神を吸収している。

グイドはその後、ユトレヒトの工科学校でグロッテ教授のもとで学び、ここで語学に急速な進歩を遂げている。彼はドイツ人ではないが、ザイストではモラビア人の殆どと流ちょうなドイツ語の会話をして、ドイツ語を心の言語であると述べている。各国語に堪能なグイドはナポレオン法典、ドイツ国法、聖書の翻訳者でもあった。その後の、彼の進路を定める家族会議において、“工学”がとるべき職業であると、満場一致で意見がまとまった。
(市川 三世史)

 

 

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