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・・・米欧回覧ニュース 第28号(2002年9月25日)より

 


八十二名の参加を得て充実

大磯歴史ツアー報告

■恒例の国内歴史ツアー

 米欧回覧の会では岩倉使節団ゆかりの史蹟を訪ねる旅を企画・実施しているが、平成14年6月29日(土)には、大磯(神奈川県)の史蹟を訪ねるツアーを開催し、好評を得た。

 これは泉三郎、永富邦雄両氏の発案によるもので83名の参加者を得て行なわれた。

 見どころの選定、コースの立案、訪問先との事前折衝、当日のご案内に至るまで関係者間で周到な準備がなされた。

 

滄浪閣 滄浪閣は伊藤博文公の別邸で現在は大磯プリンスホテルの別館となっている。

 

■さわやかな大磯で学ぶ

 大磯はまた、日本の別荘地の中でも歴史が古く、海水浴を日本人の生活に定着させたレジャー地としても著名なさわやかな土地である。

 ツアーは次のような順序で行なわれた。

1.午前10時30分、JR東海道線大磯駅前集合。

2.駅前に設けられた「米欧回覧の会大磯歴史ツアー受付」で登録手続き。

3.そこからタクシーに分乗して行動を始める。旧吉田茂邸および七賢堂を見学。

4.次に滄浪閣(大磯プリンスホテル経営の中華料理レストラン)へ移動。ここで昼食をとりながら  泉三郎氏、大久保利泰氏、伊藤博雅氏、永富邦雄氏の講話を聴く。

5.澤田美喜記念館へバスで移動。

6.澤田美喜記念館見学。

■吉田茂と七賢堂

 旧吉田茂邸は吉田茂元首相の養父にあたる貿易商・吉田健三郎氏が明治17年に建てたものである。第2次大戦後、吉田茂元首相が外国賓客を招くために新築、改築したもので、敷地1万坪余の中に住居、賓客室、七賢堂、庭園がある。現在では維持・管理を大磯プリンスホテルが行なっている。

 七賢堂には岩倉具視、大久保利通、三条実美、木戸孝允、伊藤博文、西園寺公望、吉田茂の7人が祀られている。

 大久保利泰氏のご指導により、2礼2拍手1礼の礼拝をすませたあと、ご説明を受け、堂内を参観した。

七賢堂 七賢堂の由来を説明される大久保利泰氏。背後は竹の林がつらなり、緑が奥深い。堂内には七賢人の肖像が掲げられている。

 

■滄浪閣ランチョンセミナー

 次いで滄浪閣に移り、海に面したホールで、83名が揃って昼食をとった。ここでは、次の方々からのスピーチを聴いた。

 泉三郎氏からは「大磯歴史ツアーの趣旨と見どころおよび史的考察」、大久保利泰氏からは「四賢堂から七賢堂へ」、伊藤博雅氏からは「伊藤博文について」、永富邦雄氏からは「明治から昭和へ」についてそれぞれ講話を頂いた。

 会場のご参加者の質疑に応答を得るうちに、大磯町長がご挨拶に見えてスピーチをされるなど、充実したランチョンセミナーとなった。

 

■澤田美喜記念館

 大磯歴史ツアーの最終コースは澤田美喜記念館である。

 ここは、エリザベスサンダースホームの主宰者として、戦後、日本聖公会の精神で養護を必要とする児童を育成する偉業を残した澤田美喜氏を記念する文化施設である。内容はかくれキリシタンの資料が数多く展示されている。

 ここでは館長のご懇切なご説明を1時間あまりにわたって頂いた。

 尚、2次会が大磯町内の旅館で開かれ、22名が参加し、大いに懇親を深めた。

(国際交流部会・山田哲司、浅沼晴男)

 

澤田美喜記念館 かくれキリシタンの研究とキリスト教への信仰、エリザベスサンダーホームという戦争孤児の救済博愛事業に一生を捧げた、澤田美喜の記念館。

大内館 希望者22名は2次会を開いた、会場の大内館は大磯で有名な老舗の旅館。

 

<<旧吉田邸拝見>>

 おおぶりでのびやかな、いかにも風雅な兜門を入ると、晴れやかな広い庭があり、右手海側に心字池、左手山側に邸宅がある。通常は見学できないのだが、今回は大久保氏やプリンスホテルの特別のはからいで、内部をくまなく見せていただいた。それも、この邸宅を永年管理されている竹内さんの案内で拝見できたのはまことに幸せであった。

 玄関を入ると右手に広い洋間の応接間、左手に賓客用の食堂ローズルーム、そして応接間の奥には階段があって2階の私室に通じている。それは広い座敷に4畳半ほどの角部屋が付属したユニークなつくりで、窓からの景観もよく掘り炬燵もあっていかにも居心地がよさそうだ。聞けば、側の袋戸棚にはホットラインの電話があったといい、なるほどと納得しながらも一瞬緊張した。特筆すべきは2階にある檜づくりの船形をしたお風呂で、そこから富士が眺められるという。ワンマン首相のお人柄や趣味がうかがわれて感慨深かった。

 1階の食堂は壁が羊のなめし革の総革ばりで、蒋介石から贈られたという豪華な装飾付きの衛立がある。その奥には広いサンルーム「蘭の間」があって、熱帯植物の繁茂する中でくつろぎ歓談ができるようになっている。当日は富士の姿が見えなかったが、それぞれの部屋から富士が見えるように設計されているようだった。

 文化勲章受賞の建築家、吉田五十八氏の設計である。

吉田茂像 吉田茂邸内にある銅像。目の前には大礒の海岸からはじまる太平洋。吉田茂はその先のサンフランシスコ(平和条約締結の地)を見ている。

 


七賢堂の由来と吉田茂翁 

永富邦雄(会員)

 「七賢堂」の名前を知っている日本人は、銀行の普通預金金利の利率よりもっと低い水準では無かろうか。

そもそもは明治36年、伊藤博文公が大磯の家敷内に、維新の中心人物で、且つ自分より先輩で薫陶を受けた三条実美、岩倉具視、木戸考允、大久保利通の四氏の偉勲を称えるためお堂を造り、内に肖像を掲げ「四賢堂」と銘名した。

 当時大正天皇が東宮時代にしばしば大磯に行啓され“四賢堂”の3文字を大書して賜り、これを堂内南方の壁に額として掲げられた。さらに北壁には書家三島中州の「四賢堂歌。應春畝伊藤候微」の漢詩が掲げられていた。しかし残念ながら現在はこの2点は所在不明。

 その後伊藤公が暗殺され、梅子未亡人が亡き夫を祀り五賢堂となった。又大正の初め屋敷は李王家に譲られたが、大正12年の震災で倒壊全焼した。庭先の五賢堂は難を免れたものの、伊藤公亡き後は話題になることもなく「知る人ぞ知る」で一般の人には無縁の存在となってしまった。

 さて戦後は、屋敷が幾人かの人手を転々としたが昭和35年4月、無事同じ大磯の吉田茂邸内に遷座することができ、今日に至っている。この間牧野伸顕(大久保利通の次男)が伊藤公の末子伊藤真一氏に引き取り方依頼されたが実現せず、昭和33年頃伊藤公の孫に当たる藤井清子夫人が吉田邸を訪れ翁に「五賢堂が旅館(西武グループの所有となっていた)の片隅に朽ち果てかけているので何とかしていただきたい」旨陳情した。(私はたまたまこの時同席していた)

 吉田茂翁は熟慮の結果、伊藤公の後継者と言われていた大正・昭和の重臣西園寺公望公をも合祀し六賢堂とし、自分の邸内に転座した。吉田翁は個人的にも西園寺公に対し畏敬の念を持ち、また数々の薫陶を受けている。例えば、こんな話が伝わっている。松岡洋右外相が国際連盟を脱退の意思を固めた頃、吉田翁は「自分は反対である」いう意見を進言した。公は徐に「貴方のお説は抽象的には賛成、具体的には反対である」と言われ、何の事かと怪訝な顔をしていると、急に厳格な口調で「かかる國事の重大事を論ずるに一身を賭す決意なからずべからず。貴方にその決意ありや」と聞かれ思わず襟を正した、と翁は述懐している。

 昨今の政治家に聞かせたい話である。

 翁亡き後佐藤栄作首相の計らいで故人を合祀し「七賢堂」とし、毎年伊藤公の命日(10月26日)前後に旧吉田邸で七賢堂祭を行うこととなった次第である。


 

・・・ 米欧回覧ニュース 第28号(2002年9月25日)より

大磯ツアー おわり

 

 

 

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