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歴史部会:3月度部会報告「大蔵省総括」

日時:4月20日 10:00~12:30 オンライン開催

新型コロナウイルス対策の為日比谷図書文化館が閉鎖されたためにZOOMによるオンライン部会開催となった。

内容
明治維新初期の大蔵財政
明治政府の財政は政府紙幣と借入金で出発した(大内兵衛)

由利財政時代と評価 -由利財政の研究(辻岡正巳)
徴士第一号として、新政府の参与となった由利公正は、太政官札の発行を建言するが、参議たちの大反対にあって頓挫しそうになるが、岩倉具視の一存で、不換紙幣の太政官札が誕生する。
大隈財政時代(1873-1880) 大久保政権~佐野常民(1881)
松方財政時代(1881-1892) 緊縮(デフレ)財政、官営事業の払い下げ。

横浜製鉄所接収 新政府は同行から横須賀製鉄所の接収に必要な50万ドルを1868年9月に借り入れ旧幕府の仏ソシエテ・ジェネラルの債務を返済し接収を完了した。
鉄道建設公債 大隈重信・伊藤博文・井上馨達は殖産興業を図る為に鉄道建設を企画。
1870年 にパークスの紹介で英国人ホレーショ・ネルソン・レイと借款契約を結んだ。技師の雇用及び資材の購入までレイに委任した。

秩禄処分とは? その経緯 財政バランスの為、秩禄を漸減させた
明治5年時点で、華族・士族(人口6%)への秩禄費用は歳出の30% 、1873年12月 秩禄奉還を申し出た者に、秩禄公債とて半分を現金、残りを8%利付秩禄公債(満期、1884年4月)で支給。

第一国立銀行開業 伊藤博文は米国式ナショナル・カレンシー・アクトに倣った国立銀行(国営という意味ではなく全国という意味)を提唱、吉田清成はイングランド銀行に倣った中央銀行を提唱して対立した。 1873年(明治6年)に渋沢栄一により第一国立銀行が創設された。

松方財政 戦費増大の為に明治通宝の大増刷を行ったので明治10年の西南戦争直後からインフレが拡大した結果、明治13年2月に大隈は大蔵卿を辞した。佐野常民大蔵卿は1年たらずで終わった。 松方正義は明治11年にパリ万国博覧会副総裁として渡欧し仏の大蔵大臣の レオン・セイからベルギー国立銀行制度に倣った中央銀行の設立を勧められた。

日本銀行開業 明治15年6月27日 日本銀行条例公布
同10月10日に中央銀行である日本銀行は開業した。

明治時代財政の総括 疾風怒濤の時代、概ねうまくやったと言える。

参加者:小野、吉原、岩崎、植木、福島、近藤、畠山、村井、容、山本、久保(郵船)、加藤(郵船)

文責 吉原

英書輪読会:11月/12月度部会報告「日本のフルベッキ 第7章」

日時:令和元年11月20日及び12月18日 15:00~17:00
場所:日比谷図書文化館 4Fセミナールーム

「日本のフルベッキ 第7章(門戸開放)」(大森東亜)

Verbeck of Japan、Ⅶ The Doors Opening , p.115~141

7章では1864年禁門の変と長州征討、四国艦隊下関戦争から、1868年明治維新までの日本の動乱期を幕府および佐賀藩の英語教師として長崎で体験したことを物語る。

来日6年目、禁門の変や4ヵ国(英・仏・蘭・亜)連合艦隊下関砲撃事件を通して日本の政治が天皇を戴いた勢力が政権を担い、敵対者は反逆者となる仕組みを幕府と長州との内戦により知る一方、日本の時代環境が中世の暗い制度下にあり、戦争は悲惨であるが戦いなしで難局を克服するのは困難だと見る。この動乱期にフルベッキが渦中の両サイドの人士から信頼できる人物であることが知られ全国から人々が情報と書籍を求めてやって来る。フルベッキは訪問者に喜んでもらうべく真摯な応接に努める。若き時代に修得した工学技術の知識を提供する一方、来訪者の様々の情報を選別し本国の本部に報告する。フルベッキは外国の文明を知りたいと思う若者に英語およびオランダ語のほか医学を除き、数学、測量、物理学、化学、兵学等を教え、当時、技術者で語学ができる者が大変役立つことを自覚する。時に肥後藩からの蒸気船購入の斡旋に応えるとともに各藩からの招きも受ける。長崎奉行の設置した長崎洋学所の英語教師委嘱を受け、フルベッキは自活する宣教師となる。横井小楠の甥2人の留学斡旋を手始めに多数の留学生を米改革派教会を通してアメリカに送り出す。また、佐賀藩士大隈重信や副島種臣らには新約聖書とアメリカ憲法を教える。

とりわけ漢訳聖書をもとに佐賀藩家老の真剣な聖書知識の求めに3年も応じた後、藩士2名とキリスト教受洗の申し出があり、フルベッキは改革派教会の方式に従って洗礼を行い本来の宣教師としての役割を初めて果す。この間フルベッキの派遣母体、オランダ改革派教会がアメリカ改革派教会に名称変更したことへの賛意と日本のカトリック活動への所感と併せ、長崎では宣教活動を表立って行えなかった実情が語られる。また門下生の僧侶が江戸でキリスト教誹謗のための小冊子を刊行したことに大変苦慮した。

長崎での活動を振り返り、身の危険と怖れがなかった訳ではなく、自身家族の安全のため上海への一時避難もあり、一般の暴動の恐れのある時は拳銃に弾丸を装填したが、自身は個人的暴力の危険はなかったと語る。こんご適切に仕事をしてゆくためには人々の信頼を得ることと日本語を習得することが肝要なほか、人々との交際ではキリスト信徒の義務をはたしていくことと親切と寛容を示すことが求められていると記す。

文責:大森東亜