このたびの東京オリンピックの招致活動で思ったことがある。いま日本にとって一番何が大事か、何が大局か、安倍首相の判断をどう解釈すべきかということをである。
そもそも最近のオリンピックはすっかり商業化してしまい私の関心は薄れていた。しかも今回は「東西文明の架け橋」や「イスラム圏初」という大義からしてもイスタンブールが適当と考えていた。しかし、石原・猪瀬の二代にわたる都知事の熱のいれようは半端でなく「オールジャパン」とやらでマスコミも巻き込んでの大運動となった。そして極めつきが安倍首相のブエノスアイレスへ乗り込んでのあのスピーチである。
ポイントはフクシマ汚染水漏れでの事態をどう説明するかにあった。そこで乾坤一擲「汚染水問題は完全にコントロール下にあり全く心配はない」といいきったのだ。「エエ!? ウソ!? 大丈夫か!?」と唖然とした。恐らくそう感じた人は多かったと思う。フクシマの現場で決死の覚悟で汚染水と戦っている人、農作業も出来ず漁にも出られず、なお仮設住宅で暮らしている人びと、その他さまざまな人が、そう感じたに違いない。
日本国にとって「東京オリンピック」は小事である。東京にとっても「大事」ではない。日本にはもっと大事なことがゴマンとある。その極めつきが原発事故への対応だ。私はひょっとして安倍総理には「深慮遠望」があるのかとも思った。それは「着眼大局・着手小局」で、まずIOCで「国際公約的発言」をし、それをトリガーに「政治生命を懸けて福島原発の事故を収束させる」大決心・大覚悟をしたのだという読みである。そして、これを契機に、東京のみならず54基の原発をもつ日本列島を核のゴミ処理も視野にいれて「美しい安全な国」に甦らす大構想を内に秘めているのではないのかと夢想したのである。
しかし、それは単なる幻想であるかもしれない。保阪氏の心配、歴史認識の危うさもあり、このところみえる自信過剰も重なって、「着手小局・失着大局」に終わらないことを祈るばかりだ。