憲法改正、是か非か、どこを変えるか、どこを変えないか。今回の衆議院選挙では、それがあからさまに争点の一つに浮上した。契機は尖閣列島であり、ペルシャ湾、北朝鮮のミサイル問題であろう。領土問題、シーレーン、本土攻撃への脅威が、世論を喚起させているのだ。ただ、論点は防衛問題にフォーカスされ、軍隊増強、日米安保の強化、自衛隊の海外派遣が問題になり易い。が、「九条の改正」だけではなく、家族の尊重、首相公選制、議院一院制、道州制なども主張されていることを忘れてはならない。
私も実は憲法改正論者なのだ。が、9条は尊重する考えだから、ちょっと異質かも知れない。その本意は明治の日本人が自力でオーダーメイドの憲法をつくり出したのに、戦後の日本人は米国パターンのイージーオーダーともいうべき憲法を六五年も着続けて唯々諾々としているのがいかにもおかしいじゃないかという思いなのだ。
岩倉使節団の帰朝報告で一番の眼目は憲法をつくることだった。木戸孝允も大久保利通も日本独自の憲法を持つべきだと主張した。それは明治八年の元老院の国憲取調委員会となり、そこで一次から三次までの日本国憲案が作成された。そして岩倉具視がこの三次案について各参議に意見を求めることになったり、多くの結社や個人から憲法草案が提出されることにもなる。その数は41もあったといい、その中には、主権在民の植木枝盛案から絶対君主制まであり、岩倉使節団員関連のものもあった。福地源一郎の国憲意見、山田顕義の憲法草案、井上毅の憲法私案がそれであり、やがては伊藤博文主導の明治憲法に収斂していく。そこに明治人の粘り強く真剣な取り組みがあり「憲法草案の花盛り」時代を生んだのだった。
翻って平成の今日、われわれはどうなのか。護憲派も改憲派も、まだまだ真剣さが足りないように思う。憲法全体をゼロベースから総点検して、二十一世紀の日本にぴったりフィットするオーダーメイドの憲法を目指すべきだと思う。今こそ「憲法草案の花盛り時代」を再現すべき時ではなかろうか。