イー・オリョン氏に「ジャンケン文明論」なる書(新潮新書)があることをご存じだろうか。かつてベストセラー「縮み志向の日本人」を書いて話題となった、あの韓国の代表的文化人、初代文化相も務めた李御寧氏である。その「まえがき」にこうある。
『なにかを決めるとき、西洋の子どもはコイン投げをするが、アジアの子どもたちはジャンケンをする。表か裏かその片面だけで決めるコインは「実体」であり「モノローグ」である。だが、相手の手と取り組んで意味を生むジャンケンは「関係」であり「ダイアローグ」だ』と。
つまり、ジャンケンのグー(石)とチョキ(鋏)とパー(紙)は、それぞれ強さと弱さをもっており、柔らかい「ヒラテ」が固い「コブシ」に勝つところにジャンケンの「徳」があるという。そして「大陸の中国と島の日本の間に韓半島のチョキがあって、はじめて競争しながらも独り勝ちのないアジアのダイナミックな丸い輪がつくられる」と書いている。
コイン投げは西洋の黒白、勝ち負けの二元論に通じ、ジャンケンは東洋の黒白グレイ、勝ち負け無しの多元論に通じている。そして、道教・儒教・仏教の習合や漢字・ハングル・仮名の共用にもみられるように、中・韓・日の文化の諸相にはその思想が深く浸透している。その関係は、誰も勝たない、誰も負けない「東洋独自の循環型の文明」を含意しており、二項対立で「衝突しか生まない西洋のコイン投げ文明」の関係を超えて、平和と融合をもたらすという主張なのである。
いま、中・韓・日は、尖閣や竹島で、お互いにコブシを挙げ、チョキを突きつけている。が、それぞれの国にもう一つの柔らかな「ヒラテ」があることを想起しなくてならない。宇宙船「地球号」はもはや「勝ち負け」では持続できない時にきている。21世紀は「西洋の論理」でなく「東洋の深い知恵」、二次元でなく、三次元での柔らかな大きな手でコブシはむろん鋏までも包みこむことはできないものだろうか。