64 天空の妖精と地上のドジョウ

9月18日の夜、NHKスペシャルの「宇宙の渚」を見た。宇宙ステーションからの生中継で、世界初という素晴らしい映像が映し出された。90分で地球を一巡り、日の出、月の入り、そして夜景の鮮明な画像がとくに印象的だった。もう50年も前、宇宙船からの映像「青い地球」を見たときと同様の凄い感動を覚えた。科学技術がここまで進歩したか、居ながらにして地球を俯瞰する思いだった。そして「オーロラ」、「流星」、「謎の光・スプライト」が映し出された。とりわけ驚いたのは「スプライト」で「天空の妖精」と訳され、雷雲の上に放射される「妖精」のような光だった。そこに宇宙の不可思議を感じるとともに、日本の科学技術の素晴らしさをあらためて知り誇りに思った。そして人工衛星や宇宙技術のお陰で、我々は日常的に放送や電話やGPSなど極めて便利な暮らしを享受出来ていることを思った。

かつて久米邦武はパリの天文台を見て宇宙研究の重要性を説いたし、福沢諭吉は科学技術の進歩に無限の可能性を夢想した。科学技術はその期待に充分に応えて来たといえる。

しかし、地上で人間のやっていることはどうか。とりわけ人間くさい政治の世界は相も変わらずという感じである。地球のあちこちで流血の争いが続き、日本ではドジョウ内閣が泥田でうごめいているようだ。人間そのものの営み、利害の衝突は、千年前も百年前も余り変わらないようにみえる。むろん、人間社会も少しは進歩した。かつてのような奴隷制はなくなり独裁政治も少なくなった。飢餓で死ぬ人も恐慌で路頭に迷う人も少なくなった。社会科学の知恵もそれなりに進歩したといえる。しかし、科学技術の進歩に比べれば格段に劣り、その進歩は遅々としている。

天空の妖精と地上のドジョウ、進歩と停滞、向上と頽廃、文明と野蛮、その落差の激しさはどうだろう、いまこそ人間そのものの質的向上、久米のいう「道義」、福澤のいう「品性の高尚」が切実に求められる時だと思う。

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