60 明治国家草創の舞台裏 改正局の心意気

明治2年の12月、当時の大蔵省にこんな話がある。そのころ、大臣に相当する卿は伊達宗城、次官に相当する大輔が大隈重信、次官補にあたる小輔が伊藤博文だった。伊達は51才旧宇和島藩主、開明派の大名として新政府に入ったが実務には疎い。実務は結局、31才の大隈、29才の伊藤が牛耳っていた。そこへ静岡藩からスカウトされて加わったのが30才の渋澤栄一で租税正という役職だった。そこで渋澤は集中的に政策を創り出す「改正掛」を新設すべきだと建言し、認められその主任となる。新政府の「国家戦略室」という感じである。明治3年、その一員だった前島密が、そのころの「改正局」の雰囲気をこう伝えている。

「大隈、伊藤氏も出席し、伊達侯も亦臨席し、放胆壮語一も尊卑の差は置かず、禁懐を開いて時事を討論せり。余は是に於いて、頗る愉快を感ぜり」

旧幕藩体制という古い建物をぶちこわし、そのあとに明治統一国家という新しい建物をいかに創り上げていくかの時期である。どこから手を付けてよいかわからない状況だった。そこでこれを集中的に議論し決定する組織をつくったのだ。この改正局では2年足らずの間に200もの改正事業が次々と企画実施された。たとえば、全国の測量、度量衡、租税の改正、駅伝制度の改良、貨幣の制度、祿制の改革、鉄道布設案などなど。担当者は寝食を忘れて仕事に没頭した。まさに明治国家草創の時であり、その担い手はいずれも30歳前後の青年たちであった。

いま、平成20年代の日本は、明治維新に匹敵するくらいの大きな世界的な変化の中で、廃藩置県に相当するような大改革を必要としている。岩倉使節団の大久保、木戸、伊藤らは「米欧回覧」をしながら必死に学び、留守政府の大隈、井上馨、渋澤栄一らは命をかけて仕事をした。管内閣も与野党も各省の官僚も、この明治草創期のサムライたちの心意気と燃えるような使命感に是非学んでほしい。

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