59 孔子の道徳、ニュウトンの物理

福沢諭吉に、63歳の時に書いた「福翁百話」という著作がある。

「福翁自伝」は余りにも有名で多くの人が読んでいるが、「福翁百話」の方は余り知られていないと思う。私自身、最近初めて読んだのだが、そこには福沢流の「宇宙論」、「宗教観」、「道徳論」が展開されていて実に面白い。福沢が晩年に到達した「思想」というべきか、「夢想」というべきか。それは「学問のすすめ」や「文明論之概略」以来20年の体験と思索の成果ともいえ、あるいはラストメッセージ的な放言の観もある。

そこには今日の文明の矛盾を見透すような言説も随所に出てくるのだが、福沢はあくまでも進歩を信じ、極めて楽天的である。そして「孔子は道徳の聖人、ニュウトンは物理の聖人」といい、「二聖ともに一方に偏して二様を兼ねざりし」ゆえ不完全なりとし、「人間の達すべき知徳の標準は由って以て知るべし」と、その兼備を希求する。

「人間社会は進歩無窮にして、地球の寿命永遠の約束なれば、進歩また進歩、改良また改良のその中には、知徳兼備の聖人を見ること易きのみならず、群聖輩出、その極度を想像すれば,満世界の人みな七十の孔子、ニュウトンの知識を兼ね、人生の幸福、社会の円満、ほとんど近人の絵にも画くべからざるの境遇に達することあるべし。即ちこれ黄金世界の時代なり」

そうはいっても、現実には物は豊かになっても品性はよくならず、富は増えても貧富の格差が直らず、やはり宗教・道徳の必要を痛感したのだろう。福沢は無宗教を以て自ら任じていたが、最晩年に書いた「福翁自伝」の最後のところでは、「仏法にても耶蘇教にてもいずれにても宜しい。之を引き立てて多数の民心を和らげるようにすること」が大事だといっている。科学を信じ「銭を目的とすべし」とまでいった福沢も、結局は「知徳兼備」でなくてはダメ、一方に偏してはダメという結論に達したというべきか。

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