57 今、求められる「哲学とビジョン」

この150年ばかり、日本はかってない大変化の時代を体験してきた。そのトリガーになったのは技術の驚異的な進歩であり、その応用としての著しい経済の発展だった。その最も象徴的な技術は、かつては腕や脚に代わる機械と蒸気や内燃機関だった。そしてこの数十年は脳に代わるコンピューターの出現であり、その応用によるIT技術の発達であった。その結果として知識・情報の爆発的な増殖が起こり、我々の生活は様変わりを起こし、その対応に翻弄されている。日本のバブル以降の迷走20年はその表れとみえる。

幕末維新期の日本は、1853年のペリーショック以来、西洋近代文明の大波に襲われて、以後約20年迷走を続けた。そして、岩倉使節団の米欧回覧の成果として、1873年に大久保政権の樹立があり、新しい路線を敷くことが出来た。その時代にはモデルとすべき国があり、「東洋の英国」になるという具体的なビジョンを描くことができた。

しかし、今の日本にはどこにもモデルになる国はない。日本は世界でも欧州諸国と並んで最先端の成熟社会に達しており、新しいモデルを創り出さなくてはならない立場にある。人類が獲得した神をも欺くばかりの技術と経済の仕組みをいかに制御し、人類が等しくよく生きるために活かしていくか、その課題に挑戦していかなくてはなくてはならない。そこにはどうしても21世紀のグローバルに通じる「哲学」とその具体的な展開としての「日本のビジョン」が求められる。

思えば、技術や経済がいくら進歩・発展しても、人間そのものは変わらない。人は生まれ、食べ、恋をし、子供を生み育て、仕事し遊び、老いて死んでいく。その営みに変わりはない。生きることについての叡智はもう2千年も前に、老子、孔子、釈迦、ソクラテス、キリストなどの哲人や宗教家によって生みだされている。この哲学と現代の技術、経済をどう組み合わせていくか、それこそが今、われわれ日本人に課された最も重要な課題ではないのか、その思いが強くしてならない。

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