49 旅の人、記録の人、久米邦武

高田誠二氏の著書「評伝・久米邦武」は「旅の人」の章で始まる。それは青少年時代から70歳を越えた晩年までよく旅をした久米の実像を的確に捉えた表現だといえる。

久米は10代のころ長崎へ、20代で薩摩に、そして江戸に留学し、その往復の旅については記録「跋渉備考」を残している。それは、はからずも「米欧回覧」以前にすでに旅のルポルタージュの予習をしていたことになる。好奇心が盛んで筆まめな久米は、旅が大好き・・・そして観察は鋭く、メモ魔で、自ら描く絵図面も含めての記録は詳細である。

また帰国後も、主な旅だけでも、41歳の時には天皇の行幸に供奉して「東海東山巡幸日記」を残しており、48歳の時には日本史の資料探索のため九州各地を旅し、60歳の時には歴史地理学会の設立に参加し、以来日本列島をあちこち旅し講演したり各種の記録を残したりしている。

当時としては例外的な長命を生きた久米(93歳まで)だが、73歳の時には長年の盟友だった大隈重信夫妻と山陰の旅をしているし、その後も地方史研究を兼ね各地を旅した。そして87歳の時には宇治川界隈を旅し、その船旅の様子を次のように書き残している。

「小艇に上る、左右の峯嶽近く迫り、水は紺碧を湛え、深き所は67丈に及ぶ、山みな闊葉樹を生じ、高峻ならざるも、巫峡の舟は日中夜半ならざれば日月をみずという景趣を聯想しつつ喜撰山の麓に著けり、山には喜撰の憩ひし巌洞を存すとなん。」

カタカナが平仮名に変わっているが、まるで「実記」英国編ハイランドや欧州編スイスの山水景勝描写の記述を彷彿させるものがある。「米欧回覧」から50年を経て、最晩年にある久米の旅と観察や筆致がなお変わらぬ事を思い、ある種の感慨を覚えるのである。

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