47 10年の重み 咸臨丸から岩倉使節団まで 

 岩倉使節団は、申すまでもなく、1860年の咸臨丸に始まる海外視察やそれに続く多くの海外留学の前史に支えられている。幕府は開国に踏み切って以来、主な使節だけでも六回も欧米に派遣しており留学生も多く出している。しかし、それが結局幕府自身の命脈を短くし、つまるところは薩長主導の明治維新となり岩倉使節団の派遣にいたるのだ。

その様子を一覧できる格好の書が、先に本誌でも紹介した新人物往来社刊行の別冊歴史読本「世界を見た幕末維新の英雄たちー咸臨丸から岩倉使節団まで」である。この本は、幕末から維新に掛けての様々な使節団、各種の留学生まで網羅しており、貴重な肖像写真がふんだんに盛り込まれていてまことに興味深い。

その中でもひときわ興味深く感じたことが二つある。一つは1862年の千歳丸による上海派遣である。これは幕府が貿易を目論んで派遣したもので、石炭、薬用人参、イリコ、乾アワビ、昆布、漆器をのせていた。当時日本から輸出できそうなものはそんなものだったのだろう。ところがほとんど商売にならず失敗に終わる。ところがこの船には薩摩の五代友厚、長州の高杉晋作などが幕吏の従者として参加していた。そして、この従者に身をやつした志士たちが西洋文明のモデルともいうべき上海を目の当たりに見て決意するのだ。その結果、長州は1863年に井上馨、伊藤博文をはじめとする五人の留学生を派遣し、1865年には薩摩が森有礼、鮫島尚信、吉田清成、畠山義成ら15人もの留学生を派遣する。こうして薩長の2藩は、幕府がモタモタしている内にいちはやく藩単位で近代化をすすめしかも倒幕同盟を結ぶことになる。

それからもう一つ象徴的な写真がある。それは1866年のパリ万博時のものである。薩摩はあたかも独立国の如く幕府の向こうを張り「琉球王国」として出品し、幕府を顔色なさしめる。それを演出した若き薩摩のサムライたちが意気軒昂たる洋服姿で映っている。

上海派遣団から岩倉使節団まで10年、最初は幕府主導だったものが、すっかり逆転して薩長主導になっている。激動期の10年がいかに重いかを改めて考えさせてくれる。

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