最近、「伊藤博文傳」を読み直す機会があった。そこに、いわば若い世代への遺言のような文章があったのでご紹介したい。
博文は、明治42年10月、満州のハルピンに旅立つ前、当時海外に留学することになっていた息子の文吉へ酒を汲みながら次のように語ったという。
「人には銘々もって生まれた天分がある。俺はおぬしに何でも俺の志を継げよと無理はいわぬ。もって生まれた天分ならば、たとえおぬしが乞食になったとて、俺は決して悲しまぬ。金持ちになったとて喜びもせぬ。」
裸一貫から身を起こした博文だけに思い切った事をいっている。そして「誠」の大切さを説き、健康に留意するように諭したあと、こういっている。
「学問は、読む学問も必要じゃが、耳学問もまた必要じゃ。人は生きた書物じゃから、西洋に往ったら。あまねく人に接して識見を広め、いかなる人に逢うてもいかなる問題を議論するにも、相手となって話ができるようにするのが肝要じゃ。
社会の時々物々には必ず表と裏のあるものじゃから、広く深く事物の表裏を洞察して宜しきに通ずるがその眼目じゃ。観察の精は西洋人の特色で,粗は東洋人の弱点じゃ」
そして、さらにこう付け加えている。
「物事を成すには順序がある。突飛は禁物じゃ。常識の周到な運用が大切じゃ。いやしくも天下に一事一物をなしとげようとすれば、命がけのことは始終あるもので、俺は今まで生きていたのが自分でも不思議と思うくらいじゃ。おぬし、俺の志を継ごうというのなら、この覚悟を以ておれ。依頼心を起こしてはならぬ。他力はいかぬ。自力でやれ。」
満州行ということで、伊藤を送る大磯の駅には大勢の見送り客があったが、その中には徳富蘇峰もいてなにか不吉な旅立ちを予感したようなことを述べている。結局、これが、博文の日本での最後の言葉となった。それは、われわれ日本人の子孫への遺言であったといえるかも知れない。