今、日本列島は「選挙」一色で一方ならぬ喧噪の中にある。が、130年前にアメリカ滞在中の岩倉使節団一行もその「選挙」の喧噪に遭遇していた。久米はその模様を「実記」にこう書いた。 「各都府ニ両党ノ集会、処処ニ堂屋ヲ占メ、大書シテ某党ノ集会場と張出スアリ、大旗ニ書シテ通街ニ掲ケタルアリ、市廛ニハ両氏ノ写真ヲ、各種ノ服飾ニ仕込ミテ売出シ、其喧キ一方ナラス、イツクモ選挙ノウワサノミナリ」 当時アメリカは大統領の予備選挙の最中だった。現職の大統領グラント将軍とニューヨーク・トリビューンのグリーリー社長とが激しく争っていたのだ。
さて、このくだり、「水沢・現代語訳」ではどうなるか。 「各都市では両党の集会がほうぼうのホールで行われており、何々党の集会と大きく書いた看板を出したり、その旨を書いた大きな旗を通りに掲げたり、また商店街でも両氏の写真をいろいろのアクセサリーに仕立てて売り出したりして、その騒ぎはひとおとりのものではなく、どこもかしこも選挙のうわさばかりであった」
久米は米国の「選挙方式」を一方で「公平ヲ極メタルニ似タリ」と認めながら、「卓見ト遠識ハ必ス庸人ノ耳目ニ感セス」とも評し、ポピュリズムや愚民政治に堕し、多数決を「上策ハ廃シテ下策ニ帰スルヲ常トスル」とその弊害も鋭く衝いている。
ところで、現代日本の「選挙」状況やいかに。アメリカ人も驚く「刺客」が大挙登場して喧しい。それもにわか仕立ての美女?ぞろいの「女人刺客」だとなると、これはもう何をかいわんや、暴挙に近い。いま、久米邦武ありとすればこれをどう評するか。寡黙にして真のリアリストだった大宰相、大久保利通だったらどういうか。明治六年八月、征韓論が沸騰する中での大久保の言葉が想起される。「国家の事、一時の噴発力にて暴挙いたし愉快を唱えるようなことにては決して成るべき訳なし」。