最近、極めて示唆に富む、興味ある2冊の本を読んだ。
1冊は瀧井一博氏の「文明史のなかの明治憲法ーこの国のかたちと西洋体験」(講談社選書メチエ)であり、「岩倉使節団の憲法体験」、「伊藤博文の滞欧憲法調査」、「山縣有朋の欧米巡遊」の3章からなっている。そして終章には「外から見た明治憲法」と題して、伊藤の懐刀ともいうべき金子堅太郎が明治22年に「新憲法お披露目の旅」を行った際の欧米の評判を紹介している。金子はこの旅に伊藤が編集した公定注釈書ともいえる「憲法義解」の英訳書を携行し、当時一流の学者、著名人から意見を聴取したのだ。
その評を総括すれば、「いずれの者も憲法それ自体の出来には太鼓判を押した」とあり、外交辞令もあろうが概ね好評だった。しかしそれと同時に多くの識者が指摘したことは、この憲法をうまく機能させるには、国民にその歴史をきちんと知らせる必要があるとして、「歴史編纂を国家的事業として遂行する」ことを強く薦めたという。「憲法」はその国の歴史に深く根ざし、そこから生まれてくるべきものだからである。
もう1冊は勝田政治氏の「政事家・大久保利通ー近代日本の設計者」(講談社選書メチエ)である。ここでは、大久保にとっての「米欧回覧」がいかに重大な意味をもったかを、帰国後の事跡に照らして詳述しており、大久保の構想した「この国のかたち」ともからんで、大政治家・大久保の実像に新しい視点から迫っている。
いま、まさに「憲法論議」が高まり、与野党とも真剣に取り組みを始めた今日、当会としては、現行の「平和憲法」と明治の創業者が求めた「この国のかたち」を比較考量し、近代日本150年の歴史を通観し、世界的文明史的視野に立って、新しい「国のかたち」を探ることが重要であると思う。当会の来るべき10周年記念の「グランド・シンポジウム」も、そのメインテーマはこのあたりに収斂してくるのではないだろうか。