32 ニューヨークの「堂々たる日本人」高峰譲吉と金子堅太郎

 高峰譲吉はタカジャスターゼやアドレナリンの開発者としてつとに有名だが、事業家として、外交家として、また社会活動家として、実に八面六臂の大活躍をしたスケールの大きな国際人であったことは意外に知られていない。

また、金子堅太郎は、明治憲法の制定にかかわり伊藤博文を助け、農商務、司法大臣などを歴任した政治家として有名だが、日露戦争時、伊藤の特使としてロシアを相手に熾烈な情報戦争で獅子奮迅の活躍をした人物であることも意外に知られていない。

2人が活躍したのは、ちょうど100年前、舞台はまさに世界都市になりつつあったニューヨークであった。

高峰は、化学者として若くして燐鉱石に目を付け渋沢栄一や益田孝の後援を得て人造肥料会社を興したが、さらには新工夫の発酵技術を生かすべく1890年に米国に移住する。そしていくたの挫折を経ながらも、1896年にNYに進出して自らの研究所を設立し、タカジャスターゼやアドレナリンという2大新薬の開発に成功するのだ。これにより、高峰は一躍世界的に脚光を浴び、巨万の富を築くことになる。

金子堅太郎は、明治4年 岩倉使節団に随行して米国に留学し、ハーバードで法律学を収めて帰国するや憲法調査の仕事につくが、日露戦争の開戦に際しては伊藤博文の特使として米国にわたり、セオドア・ルーズベルト大統領との人脈を生かし、ロシアの巧妙な宣伝戦略に対し日本の立場を懸命に説き、米国の対日世論を好転させることに多大の貢献をした。そしてそれを蔭で支えたのが、当時すでに揺るぎない名声と人脈を築いていた高峰だったのである。

そして高峰は1905年、NY日本倶楽部の創立者となり、金子は1917年日米協会の初代会長になった。いずれも「無冠の大使」といわれ、日米交流150年史の中でも、光輝く、忘れてならない存在なのである。

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