岩倉使節が「米欧回覧」の旅を続けている間、留守政府では「廃藩置県」に伴う事後処理に懸命だった。とにかく「廃藩置県」は300の大名の首を斬り、士族卒族など200万の失職につながる巨大構造改革である。難題は山積し、抵抗勢力もまた強大だった。
大蔵少輔の吉田清成がワシントンに派遣されたのも、その資金対策であり外国から借金をするためだった。総額3000万ドル、内1000万ドルが華士族の家禄処理のため、2000万ドルが鉄道ならびに鉱山開発のための投資資金である。
留守政府は、使節団が米国訪問中で大歓迎を受けていることが外債募集に好都合と判断したのだが、現実にはそうはいかなかった。駐米公使役の森有礼が西洋かぶれの論理でこれに猛反対し、日本の代表にもあるまじき妨害作戦に出たからだった。吉田は森のはねあがりぶりにほとほと困惑し「あきれはてた幼稚な愚論」と非難したが、そのため米国での募集を諦めて早々に英国にわたることになる。
華士族の家禄は、明治4年の数字で、総予算4247万円の内1607万円、実に37%を占めており、新政府は「座食する穀潰し」たるサラリーマン華士族をばっさり処分する必要があった。
さて、今日、「座食する穀潰し」はいないか。中央地方の公務員、特殊法人とその関連、保護の厚い金融機関などに、ゴマンといるではないか。
結局、明治政府は開発資金の2000万ドルは断念し、吉田は秩禄処分1000万ドルの外債募集に成功し、政府は大処分を断行していくことになる。
維新政府の矢継ぎ早やの大改革の原動力は何か。やはり「命懸けの覚悟」という他はない。平成日本のリーダーも、本気で構造改革をやるつもりなら、この目の覚めるような先人の勇気と断行力に学ぶべきだと思う。