岩倉使節団は何故、米欧各国でそんなに歓迎されたか、という疑問があります。
とりわけアメリカの歓迎ぶりは目立っておりますが、英国でも欧州でもなかなかのもてなしぶりでした。久米邦武は「米欧回覧実記」の前書きで、米英各地では招待状が束をなし、パリを発つときにはベルギーから使いが来て「製作所及ヒ名所、一百余ケ所ヲ記シ、周覧ヲ望ム、他ノ諸国モ大抵此例ナリ」と書いています。
その理由は何か・・
一つはやはり好奇心でありましょう。古くから黄金の国という風聞もあり、2000年の歴史を持つエキゾチックな国、しかも250年近く鎖国していた国ですからいよいよ興味はつのります。そんな国からの使節です、当然、珍しく交流・親睦をはかりたかったと思います。
二つはビジネス上のことです。商売になる相手であり、とくに工業製品の売り込み対象として関心が強かったと思われます。
三つには日本という国、日本人への高い評価でしょう。アジアの中で、日本だけが果敢に西洋に交際を求めてきた、とにかくこれだけの大使節団を派遣した国はありません。それから既に幕末開国以来の交流で、“日本はなかなかの国である”ことがわかってきており、幕末以来の日本からの留学生が欧米各地で立派な成績を挙げています。“日本人はちょっと違うぞ”という気持ちがあったに違いありません。
それから、使節団の面々自身も、当時の肖像写真をみても解るとおり、なかなかきりりとしていい顔をしており、気骨、品性、教養といった面からも、東洋の伝統ある君子国から来たササムライらしい独特の雰囲気を漂わせていたからではないかと思うのです。