岩倉使節団の意味を問う:3月度セミナー開催報告「明治14年の政変」

日時:2022年3月29日 10:00 ~12:30
場所:ZOOM
講師:小野博正
内容:明治14年の政変

憲法制定への手法で漸進主義派と急進主義派が対立して自由民権派が政界から一掃され、結果、薩長政権が確立した政変。

1・憲法制定・国会開設をめぐる急進派と漸進派の争い 漸進派勝利
2・薩長派閥内での、勢力闘争と伊藤博文の台頭・薩摩優和政策 薩長閥確立
3・大隈積極財政と松方など緊縮財政派の抗争 積極財政派大隈の敗退
4・天皇親政派と自由民権運動阻止の動き 民権・親政より安定国家を優先
5・井上毅の台頭(岩倉、大久保、伊藤の憲法論に影響)国会開設の詔
6・岩倉使節団の意味で考えると、岩倉・木戸・大久保の憲法観を継ぐ伊藤博文の政権確立への道
漸進的な天皇国体の確立、ドイツ方式、大日本帝国憲法

・明治14年政変の概要
明治10年の西南戦争で西郷隆盛が自死し、その最中に木戸孝允が病死、明治11年には、有司専制で絶大なる政治力を振るった大久保利通が紀尾井坂の変で暗殺されると、伊藤博文が大久保の内務卿を継いで、参議大蔵卿の大隈重信と並走して大久保後の政権を担っていた。明治13年頃から、国会開設の請願運動が、自由民権運動家を中心に活発化、政府も放置できなくなり、政権内でも国会開設に関する各参議の意見書が求められて、山県、井上、黒田、伊藤等が意見書を寄せる中で、明治14年3月になって最後に出した大隈重信の意見書が天皇に直接見せて欲しとの密奏の形をとろうとした。それを有栖川宮が三条・岩倉に見せ、内容に驚いた岩倉が伊藤に見せて相談する。内容は、明治15年に憲法を作って、明治16年には国会開設を主張した急進的なものでかつイギリス議会制度を目指したものであった。岩倉と伊藤博文は、使節団に司法省から参加した井上毅意見書の影響もあり、漸進的に時間をかけて、日本の歴史風土に合う憲法を創るべきと考えており、それは亡くなった大久保や木戸の憲法論とも同一歩調であった。イギリス、フランス、ドイツ、その他の諸西洋諸国の現状を見てきた使節団は、ブロックやグナイストらの訪問先で逢った先哲の、自然法論の自由・平等思想は急いで導入すべきではないとの慎重論の影響もあり、自由民権運動には警戒感が強く、イギリスの議会も王権を抑えようとしていた時期でもあり、民選の国会で天皇の地位が脅かされる事態を恐れて慎重であった。
伊藤は積極財政で外債発行など主張の大隈にも付いていけないものを感じ、時あたかも黒田清隆の北海道開拓使官有物払い下げ問題(1400万円の官有物が38万円で、薩摩系、関西貿易商社=五代友厚所有へ30年賦無利子払下げ)が、新聞に暴露したのは、反対していた大隈ではないかと疑って、大隈と大木喬任が東北天皇巡幸の留守中に、閣議決定で大隈罷免を決め、それを、天皇帰京を千住駅で待ち構えて岩倉が天皇に上奏した。(払下げは、天皇行幸出発の7月30日裁可済みであった)
天皇は、さっきまで一緒だった大隈の罷免なので、それは本当か?確証がないが、本当です。さもないと内閣が崩壊しますとの問答の末、大隈が納得するならと了解する。
伊藤と西郷従道が早速、大隈説得に当たり辞任を求めるが、大隈は明日決めると二人を返し、翌日、天皇に会おうと有栖川宮を訪れるが門伝払いされ、万策尽きて、辞職を認めた。大隈の辞職で、自由民権派の官僚が大挙して下野したので、残ったのは必然的に薩長中心の政権となった。政変の翌日には、「国会開設の詔」が出され、漸進主義の確認と、明治23年までに憲法制定と国会開設を約束する。急進的民権議論へ脅しとも言える警告も添えていた。民権派にとっては、霹靂の一閃である。これが明治14年の政変の全貌である。

・政変後下野した人物の顔ぶれ (民権派の後退、福沢門下生の一斉下野)
大隈重信(参議)河野敏鎌(農商務卿)佐野常民(大蔵卿)前島密(駅逓総監)
矢野文雄(統計院・太政官大書記)犬養毅(統計院権書記官)小野梓、
牛場卓蔵、大隈英磨、尾崎行雄島田三郎、田中耕造、津田純一中野武営、
中上川彦次郎、牟田口元学、森下岩楠等々。

その結果、小野梓・高田早苗(鴎渡会系)、矢野文雄・尾崎行雄(三田系)沼間守一(嚶鳴社系)河野敏鎌・牟田口元学(修進社系)は共同して、地方自治の基礎を建つること、選挙権を浸潤すること、外国に対し,勉めて政略上の交渉を薄くし、通商の関係を厚くすることを主張し、自由党(板垣退助)と一線を画した。板垣は洋行費用問題で、明治15年自由党を辞任した。

・政変後の内閣の顔ぶれ(薩長政権の色彩が強まり、伊藤政権への道へ)
伊藤博文(参議兼参事院議長)井上馨(参議兼外務卿)山田顕義(参議兼内務卿)
山県有朋(参議兼参謀本部長)黒田清隆(参議兼開発長官)松方正義(参議兼大蔵卿)大山巌(参議兼陸軍卿)
川村純義(参議兼海軍卿)西郷従道(参議兼農商務卿)福岡孝弟(参議兼文部卿)佐々木高行(参議兼工部卿)大木喬任(参議兼司法卿)
寺島宗則(参議兼元老院議長)

翌明治15年、黒田清隆は参議・開拓長官を辞職、内閣顧問に退き、開拓使も2月に廃止。北海道は三県(箱館、札幌、根室県)分割。薩摩閥領袖・黒田の後退で、伊藤中心の長州閥の優勢が確立する。薩摩閥には、政権に拘る人物が他にいなかったこともある。黒田は後に復帰する。
伊藤博文は元老院改革(議官は華族中心、議官増員の見込示唆)と、更に参事院新設(法制、会計、軍事、内務、司法、外務を太政官制で廃し、法案の起草、審査、地方官と地方議会との調整、立法事務、行政事務を担い、元老院に対する優越的権限を盛った。ナポレオンの参事院に真似た、後の内閣法制局となる。憲法制定への前段)
伊藤博文は参事院議長となり、名実内閣のトップとなり、井上毅議官が補佐となった。

いずれにしても、明治14年の政変は伊藤博文体制の確立と、その後の憲法制定までの明治政府の道のりを約束したのである。大隈は、取りあえずは嘗ての盟友・伊藤博文に後を託して、一旦政界を離れたと言うべきだろうか。

レジメより抜粋

文責 吉原

 

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