日時:2022年2月26日 10:00 ~12:30
場所:ZOOM
講師:小野博正
内容:明治6年の政変
- 明治6年の政変は、通説ような「征韓論政変」でもなく、「内治派」と「外征派」の抗争でもありえない。
- 西郷の朝鮮への平和的特使派遣を、否認されれば辞任するとの西郷の覚悟を聞いて、大久保を除く全閣僚が賛成に回り、一旦正式に閣議決定された。岩倉、大久保の圧力もあり、再閣議を考える三条に対し、早く上奏せよと迫る西郷と、そのまま上奏ならと辞表を突き付けた大久保、木戸、岩倉ら外遊組との間に立った太政大臣三条が突然人事不肖に陥る。
- その事態を利用して、外遊組が、大久保日記にある「一の秘策」を発動させて、黒田清隆、吉井友実(宮内大丞)の人脈を使って朝廷工作を行う、明治天皇がわざわざ三条を見舞い、岩倉邸を訪れて、岩倉太政大臣執行を命じるという、前例のない事態の逆転があった。
- その結果、岩倉は、西郷の特使派遣の内閣決定を上奏する一方で、自分は西郷が決死の覚悟でまさかの事もあり得るので反対であると意見を述べて、天皇の勅命は、西郷特使派遣の無期延期が決まり、それに対し西郷は参議、陸軍大将、近衛都督辞任と位階返上を申入れる。参議・近衛都督辞任は認められるが、陸軍大将と、階位はそのままとなり、西郷は去り、同時に全参議は、責任辞任することとなる。
- その直後に、改めて大久保、木戸、大隈、大木の再任参議と、新参議に伊藤博文、寺島宗則、勝海舟が選ばれる。これが、明治6年政変の事実関係である。
- 若し逆転劇がなければ、岩倉使節団の外遊中に得た知見による「この国のかたち」の実現は、遅れたか閉された可能性もありうる。従って、結果論から見ても、ある種の陰謀説も考えられる。果たしてどうだろうか。
大久保の帰国後の国家構想も考えてみたい。
1・明治6年の政変を「征韓論政変」と、ほとんどすべての歴史家や識者は呼ぶけれどもそれはあり得ない。
当時「韓国」という国は存在しなかった。「李氏朝鮮」(1392-1897)
大韓帝国(1897-1910) 大韓民国(1948-)
政変のきっかけとなったのは、西郷の平和的朝鮮派遣の是非問題であり、西郷に朝鮮征伐の意図はなかった。
一次資料の全ては、朝鮮征伐か、朝鮮派遣、朝鮮派遣延期の言葉はあるが,征韓の言葉は、全く存在しない。にも拘らず、すべての歴史家・識者は「征韓論」という。 二次資料からは、すべて征韓論に統一されている。歴史家もすべて、これに従って疑わないことの不思議。歴史とはこんなものです。実態は魑魅魍魎。
レジメから抜粋
文責 吉原