歴史部会:4月度部会報告「岩倉使節団の人物論」

日時:令和3年4月30日 10:00~12:30
ZOOMによるオンライン開催
内容:

1.手島精一(1849~1918)大蔵省理事官随行(現地採用通訳)                  担当:大森東亜  

手島精一は、明治5年3月、米フィアデルフィアに留学中、岩倉使節団の通訳、大蔵省理事官随行十三等出仕として現地採用される。使節団がフィラデルフィアから見学招待され、工部省理事官肥田為良、大蔵省理事官随行阿部潜・沖守固ら9名が同地を訪れた際、手島は使節団と応接したと考えられる。

手島は1849年(嘉永2)、沼津藩士田邊四友の次男として江戸藩邸に生まれる。後、同藩士手島右源太の養子となり、藩主継嗣、水野忠誠の小姓見習に。藩校明親館で洋学を学び、明治3年、宮家留学第一号、華頂宮親王が米海軍兵学校にフルベッキの斡旋により留学のとき、随行の柳本直次郎大学南校教師に手島も留学のため藩の許可を受け同伴させてもらう。手島はフィラデルフィア近郊のラフェット・カレッジで物理学、建築を学んでいた。使節団の通訳となり、使節団からは欧州大陸への同行も求められたが、英国の学校で学ぶ強い希望があったため英国に留まり使節団と離れる。しかし、英国の学校には行かず独学で過ごし、明治7年12月帰国する。
明治8年7月東京開成学校監事に就任し、翌9年製作学教場事務取締を兼務する。

明治9年文部省からの求めにより米フィラデルフィア万博に田中不二麿文部大輔政府代表の随行として渡米。明治10年田中文部大輔が構想した教育博物館長補、のち館長を約5年務め社会教育事業の先駆的役割を果す。博物館では社会一般への科学知識の普及、学校教育の質的向上を図ってゆくとともに、盲唖者教育について英仏等の進んだやり方などの見聞を伝え、日本の盲唖教育の呼び水役を果した。在任中、明治10年第1回内国博覧会以降、36年第5回内国博覧会まで博覧会に関与する。
明治11年パリ万国博覧会を文部大書記官九鬼隆一に随行視察しフランスの工業教育展示からその重要性を九鬼に伝える。帰国後、九鬼は文部卿福岡孝弟、学務局長浜尾新などの支援のもと、明治14年5月東京職工学校(後の東京工業大学)設立に至る上申書(文部卿名)を起草したとされる。手島は同校の陰の立役者ともいわれる。

明治23年、東京職工学校が東京工業学校(後と改称を機に学校長となる。校旨を学理を修得するとともに実技の練習に重きを置き、適良の技術者を養成することと定める一方、教育体制の拡充整備に努め日本の工業教育のため多大の貢献をなした。

明治24年にはシカゴ世界大博覧会には農商務省から派遣され帰国後、日本の貿易輸入減の改善策を井上毅が求めたのに対し日本でも精巧な物品、学理を応用した物品が作れるよう工業教育振興を建策、「実業教育論」などと併せ井上毅に実業教育思想を培わせ、文部大臣井上毅に実業教育充実のため実業教育国庫補助法を成立させる。

手島は明治24年から30年まで女子職業学校長を兼務し、女子の職業教育にも尽力したほか、30・31年には文部省普通教育局長および実業教育局長など兼務。

大正5年学校長辞任の際は渋沢栄一はじめ各界からその功労を称えられるとともに、諸名士、卒業生および手島本人により「手島精一工業教育資金団」が設立され、現在まで奨学金、若手研究者への研究助成事業が継続されている。手島は広く海外からの平明な科学的知見を基に工業教育と社会教育について多数の論稿や講演で発表し、自身の考察と言説を国と内外の支援を得て実現に導いた稀有の人物といえよう。

2.由利公正 〜攘夷より殖産富国、政治より経済
  担当:村井智恵

三岡石五郎、八郎、幼名:義由
越前福井藩 東京府知事
文政12年10月11日(1829/11/07)生
明治42年(1909年)4月28日)没

100石の越前福井藩士として生まれる。父親は近習番。自ら家屋の修繕、庭園の栽培、父の馬の飼育などを行う貧しい生活だったが、横井小楠に師事し、福井藩主・徳川慶永の右腕として幕末から明治まで大活躍する。小楠の影響に自らの性質が重なり、絵空事よりも殖産、経済に特に力をそそいで幕末の福井藩、発足当初の混乱の明治新政府を支えた。

【安政以前】
嘉永4年、19才のときに小楠が福井に教師としてやってくるまでは実用に適さないので本を読むこともなく、専ら武芸に勤しんだ。特に、息が切れては何もできないという考えから桜の馬場まで8回走る(約7キロ)ことを日課とした。この健脚で福井から江戸まで3日で歩いた。小楠に学んで以降、大学を読み、自ら実行しようと実務実益を極めるために班の財政を調査。19から24までの5年を費やして統計を取り、年々2万両の赤字の実際を把握し、藩の上役に対策を迫ったがらちがあかないので様々な書類を取り寄せて研究した。

25才の時(嘉永6年、1853)ペリーが来航し、品川御殿山の警備に就く。浦賀まで出かけて実際にアメリカの蒸気船の速さや大砲などを見たことから攘夷鎖港の空論を悟った。藩に戻ると大小銃、弾薬製造掛を命じられ、自ら通訳と共に蘭書を訳し、試験を行い、鉄砲職人を集めて会計役を担うなど、実際にこれらのプロジェクトを成功させた。

【福井藩財政再興と慶永、小楠】
各地での大地震やコレラ流行などに開港問題が絡む乱世の安政年間、藩主慶永は一橋慶喜を将軍後継に推す一橋派の大老候補となり、左内や由利は京都、江戸で関係者を往復したが、安政5年に井伊直弼が大老になると南紀派の家茂を将軍につけ、一橋派を一掃、安政の大獄となる。慶永は隠居謹慎して春嶽と名を変え、左内は江戸藩邸に禁錮の後に死刑となったが、その間、由利は江戸、京都のほか、小楠について熊本を往復するなど、各地への旅で殖産貿易の必要を実感し、独自の実地的な検分と上役説得で藩札発行、養蚕、開港地での貿易などにより、藩の財政再興を実務的に主導した。

【幕末の活躍】
文久2年、春嶽は釈免され政事総裁に就任。時代が怒涛と混乱の尊王攘夷の混乱に陥る中、由利は春嶽の望む諸侯による会議制のため、加賀や薩摩に出かけたが、その間に藩内の派閥が変わって藩論が覆り、福井で慶応3年12月まで蟄居となった。薩英戦争、長州征伐などにより諸侯会議は数年延期となり、結果的に暗殺を免れた由利は、坂本龍馬や小楠の推薦ともいうが、幕末の最後で中央政府に参加し、五箇条の御誓文を起草、藩政での財務処理を見込まれて戊辰戦争の苦しい財政を太政官札発行などで乗り切った。一時福井に戻った際には福井藩に洋学教授として招聘されたウィリアム・エリオット・グリフィスとも交流している。

【岩倉使節参加とその後】
明治4年、東京府知事となり、民政調査のため岩倉使節に参加した。出発は一時帰国した大久保、伊藤、小松、吉原に寺島を加え、通訳として岩見鑑造が同行した。
帰国後は板垣や江藤と共に民選議院設立建白書を提出。江藤の脱走や板垣らの政党発足など由利の本意でないことも続いたが、明治8年に貴族院(上院)の前身である元老院議員を務め、衆議院(下院)の前身であるべく地方官会議が発足した。その間も銀行や保険会社など多くの実業に携わった。
由利が龍馬にもらった写真をなくしてしまい、その時分にちょうど暗殺された司馬遼太郎著「龍馬がゆく」の最終盤にあるくだりが有名。「由利公正伝」からのものと考えられるので由利の話と司馬遼太郎の文才を比較したかったが、小説の文章はみつからなかった。
従二位勲一等、子爵、麝香間祗候

主な参考資料
「由利公正傳」三岡丈夫(由利長男)著
「横井小楠伝」山崎正薫著
「グリフィスと福井」山下英一著
「横井小楠」徳永洋著
福井大学附属図書館ウェブサイト「グリフィス・コレクション」福井県文書館ウェブサイト(福井県史、年表などに加え、春嶽や茂昭の書簡、役人の日記など膨大な一次資料の画像を公開、翻刻しているので必見)

3.川路利良(かわじとしよし)1834‐1879 鹿児島 38歳 警保助(司法後発)              担当:小野博正

警察制度創設した日本警察の父

薩摩藩与力(準士分)・川路利愛の長男として、鹿児島比志島村に生れる。
通称:正之進。号:竜泉。「としなが」とも呼ばれた。重野安繹に漢学を、坂口源七兵衛に真影流剣術を学ぶ。藩主・島津斉興や斉彬のお供で、江戸と薩摩を往復する。
軍事に才あり、飛脚(斥候的役割)や貝太鼓役などに研鑽する。元治元年(1864)、禁門の変で、長州藩遊撃隊総督の来島又兵衛を狙撃して倒すという戦功をあげ、西郷隆盛や大久保利通から高く評価される。
慶応3年(1867)薩摩藩の御兵具一番小隊長に任命され、西洋兵学を学ぶ。
慶応4年、戊辰戦争の鳥羽・伏見の戦いに薩摩官軍大隊長として出征し、上野戦争では彰義隊潰走の糸口をつくる。東北に転戦し、磐城浅川の戦いで敵弾により負傷したが、傷がいえると会津戦争に参加。戦功により明治2年(1869)、藩の兵器奉行に昇進した。
維新後の明治4年(1871)、西郷と共に御親兵を率いて上京、東京府大属となり、同年に権典事、典事に累進した。翌年、邏卒総長に就任し、司法省の使節団後発隊8人の一員の警保助として、欧州各国の警察を視察する。帰国後、警察制度の改革を建議し、ジョゼフ・フーシェに範をとったフランス式警察制度を参考に日本の警察制度を確立した。明治7年、警視庁創設に伴い、満40歳で初代大警視(後の警視総監)に就任した。

執務終了後ほぼ毎日、自ら東京中の警察署、派出所を巡視して回り、一日の睡眠は4時間に満たなかったと言う。明治6年の政変で西郷隆盛が下野したが、川路は「私情において誠に忍びないが、国家行政の活動は一日として休むことは許されない」と西郷に従わず、警察に献身を表明した為、内務卿・大久保利通の信頼は厚く、佐賀の乱など不平士族の反乱には密偵を用いて動向を探った。西南戦争では、薩摩藩出身の中原尚雄ら2 4名の警察官を「帰郷」の名目で鹿児島に送り込み、不平分子の離間工作を図ったが、中原らは西郷の私学校生徒に捉えられ拷問の末、川路が西郷暗殺の指示をしたとの「自白書」が取られ、大久保と共に川路は薩摩士族から憎悪の対象とされた。

西南戦争が始まると、川路は陸軍少将を兼任し,警視隊で組織された別動第三旅団の長として九州を転戦して、西郷軍を追い詰めるが、途中で旅団長を大山巖に引き継いで、東京に戻る。明治11年、黒田清隆の妻が急死した際、酒乱の黒田が酔って妻を切り殺したとの噂が立つと、川路が墓を開けて病死と確認したと発表し、これがもみ消し工作と見做されて、川路の庇護者の大久保利通の紀尾井坂暗殺の遠因となったとの見方もある。明治12年、再び欧州の警察視察旅行に出るが、途中で病を得て、現地で入院加療するが治らず、帰国後まもなく死去した。                               以上

 

 

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