日時:2018.3.19(月)
場所:国際文化会館
講師:岩崎洋三(会員)
アーネスト・サトウ(Ernest Mason Satow)は、文久2年(1862)9月日本語通訳生として19歳で来日し、以後明治13年まで約20年間滞日し、流暢な日本語を武器に初代英国公使オールコック、二代目パークスを助け、明治維新に大きな影響を与えたイギリスの外交官である。サトウは13年後に駐日公使として再来日し、日本勤務は通算25年に及び、英国では日本学の権威としても評価されている。
サトウが日本に憧れるきっかけは、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン2年生で通訳生試験直前の18歳の時に読んだ『エルギン卿遣中・遣日使節録』が日本を美しく描いていたことだった。この本はアロー戦争と日英修好通商条約交渉の記録だが、アロー戦争指揮官エルギン卿の私設秘書として随行した著者ローレンス・オリファントが帰国と同時に1859年に出版したものだが、条約交渉のため2週間訪問した日本を丹念に、美しく描いていた。
オリファントは1861年に代理公使含みの駐日英国公使館一等書記官として来日するが、直後に第一次東禅寺事件に遭遇し負傷帰国を余儀なくされた。サトウは赴任前にこれを知り、着任5日後には更に生麦事件と、外国人が襲われる事件が頻発する中での日本赴任になったが、「外国人が襲われるのは当然」と肝が据わっていた。この胆力はその後幕府の目を盗んでの雄藩人士との交流や、頻繁な内陸調査旅行の実施にも見て取れる。
着任翌日には日本語のエキスパートである米人宣教師ブラウンとヘボンを訪ね、日本語学習を急ピッチでスタートし、オールコック公使をして「半年後には目を見張る進歩を成した。サトウは書かれた日本語の難しさもマスターできた唯一の人物。」と言わしめる長足の進歩を遂げる。
オランダ語通訳を介さずに、流暢な日本語で西郷隆盛・勝海舟を含む幕府・雄藩・新政府の要人と直接日本語で意思疎通出来たのは画期的なことで、結果情報収集の質量や影響力が格段に増した。
着任4年後には「天皇を元首とする諸大名の連合体が支配権力になるべし」とする内容の『British Policy』を横浜の英字紙に発表したが、翌年『英国策論』と題して日本語版が全国の書店に出回ると、西郷はじめ雄藩の重要人物がこぞって読み、大きな影響を与えた。
また、薩摩戦争、下関戦争、新将軍慶喜の外交使節謁見、大坂開市・神戸開港準備、明治天皇謁見、雄藩重要人物との会見等重要局面でサトウの日本語能力は不可欠で、オールコック、パークスを助け、英国がフランス等他国を制して対日交渉の主導権を握り、明治維新に大きな影響を与えることに貢献した。
なお、サトウは、英国では外交官として以上に日本学(Japanologist)の権威として高く評価される。また、言語学者、旅行家、旅行作家、辞書編纂者、登山家、植物学者、日本文献の収集家としても多くの実績を残す多才でエネルギッシュな傑物だった。
サトウの幅広い活躍を詳細に紹介するのは至難の業で、今回は自著「A Diplomat in Japan」(邦訳「一外交官の見た明治維新」)を中心に、最初の日本赴任をカバーするにとどまった。
(文責:岩崎洋三)