「活動内容」カテゴリーアーカイブ

部会、催しの報告(非会員用抜粋)
旧「部会/催し 報告」

英書輪読会:6月度部会報告「日本のフルベッキ」

日時:令和元年6月12日 15:00~17:00
場所:日比谷図書文化館4F セミナールーム
内容:Ch.ⅢIn the Land of Opportunity(希望の国で)
ナヴィゲーター:大森東亜

この章は、1852年9月オランダをからアメリカに移住し、7年後米国オランダ改革派の日本派遣宣教師に選ばれ、1859年5月、ニューヨークを出航し、同年11月上海を経由して長崎に着くまでの物語である。

フルベッキをアメリカに向かわせたのは、ニューヨーク在住のモラビア派*牧師の義弟ヴァン・デュ-ルの勧めだった。実は義弟自身も、先んじてアメリカのウィスコンシン州グリーンベイにモデルタウンを開発していた同派宣教師タンク師に招かれて渡米していたこともあり、フルベッキはとりあえずその鋳物工場で約1年働くことになった。この時フルベッキは「立派なアメリカ人になる」決意をし、名前をフェルビークから、アメリカ人が呼びやすいヴァ―ベックに改めた。

*モラビア派は、15世紀のチェコの宗教改革者でプラハ大学学長だったヤン・フスに端を発するモラビア兄弟団というプロテスタント教団で、フルベッキの生地オランダのザイストに拠点が移されており、フルベッキも少年期に系統の学校に、教会に通っていた。

その後、アメリカをもっと知りたいと思ったフルベッキは、アーカンソー州ヘレナに移り、土木技師として働くが、奴隷たちが同地の綿花畑で過酷な労働を強いられているのを目にして失望し、奴隷解放論者の説教を聞くために遠路を通っていた。そして、瀕死の大病(コレラと推定)を患ったときに、回復後は聖職者になることを決意する。回復後、義弟の薦めもあって、一端グリーンベイに戻った後、ニューヨーク州オーバーンの神学校で3年間学ぶことにした。

1858年に日米修好通商条約が締結され、翌年には米国宣教師の日本駐在が可能となった時、米国オランダ改革派は最も積極的に、3人の宣教師を日本に派遣することにした。まず選ばれたのは、中国伝道経験の長いブラウン、次いで医師のシモンズが選ばれ、3人目に「アメリカ人化したオランダ人」として神学校を卒業したばかりのフルベッキが選ばれた。フルベッキは米国滞在中にオランダ国籍を失っていたため、日本赴任に際してアメリカの市民権を申請したが叶わず、無国籍での来日になった。なお、フルベッキは神学校時代に、ブラウン牧師の教会でドイツ人向け礼拝を手伝ったいた時に知り合ったマリア・マ二ヨンと赴任直前に結婚して、日本に帯同した。(大森東亜記)

英書輪読会:5月度部会報告「日本のフルベッキ第II章 Koppel (コッペル) 」

日時:令和元年5月8日 15:00~17:00
場所:日比谷図書文化館 セミナールーム
ナヴィゲーター: 市川三世史
内容:Verbeck of Japan Chapter II. The Koppel: Page 29~47

II 章の内容は、フルベッキの出自の紹介と、青少年時代に長く暮らしたザイスト(オランダ、ユトレヒトの西)の描写が主体である。フルベッキの名は、小川または細流を意味し、オランダおよびドイツに見出せる。ヤコブ・ファン・ラエル所有下のザイストは居住者6000名の美しく、ラインの支流が中心を流れる小さな町であり、モラビア人のコミュニティがあった。父カール・フルベッキは母アン・ケルマンと1818年に結婚し、1830年にグイド・フルベッキが八人の子供の第六子として生まれた。家族は居住地をライゼンベルグからザイストに移し、コッペルと呼ぶ家に住んだ。コッペルはカップルと同義語で、二つの水路または小道をつなぐことに由来する。ここは庭園、果樹園、牧草地に富む美しい土地であった。

グイドは内気で引っ込みがちな紳士であったが、バイオリン、ギターの演奏に長けていた。彼はこのコッペルで約22年を過ごしている。オランダの裕福な家庭の男子との交友で、グイドはオランダ、イギリス、フランス、ドイツの四か国語を流暢に話すことができた。

グイドには生まれつきの、人を引き付ける力があった。また動物に対する残酷性を厳しく非難していた。二歳の時グイドは水路に落ちて、危うく生命を失う危機を経験している。宗教的に父親はルター派であったが、グイドはザイストに残ってモラビア人の教会で堅信式を挙げている。この教会で宣教師たちの行動と精神を吸収している。

グイドはその後、ユトレヒトの工科学校でグロッテ教授のもとで学び、ここで語学に急速な進歩を遂げている。彼はドイツ人ではないが、ザイストではモラビア人の殆どと流ちょうなドイツ語の会話をして、ドイツ語を心の言語であると述べている。各国語に堪能なグイドはナポレオン法典、ドイツ国法、聖書の翻訳者でもあった。その後の、彼の進路を定める家族会議において、“工学”がとるべき職業であると、満場一致で意見がまとまった。
(市川 三世史)

 

 

英書輪読会:4月度部会報告『フルベッキ輪読会』

『フルベッキ輪読会』が4月スタートしました
日時:令和元年4月17日 15:00~17:00
場所:日比谷図書文化館4階セミナールーム

フルベッキの伝記Verbeck of Japan; A Citizen of No Country”(全376ページ)の輪読会が 、4月17日(水)日比谷図書文化館4階セミナールームに10人が集まってスタートしました。

この日は,ナヴィゲーター役の岩崎が,2013年にある会の紀要に投稿した『フルベッキ~明治新政府の顧問に招聘され、日本近代化に貢献した宣教師』(全20ページ)の抜刷を回覧し、1859年に米国オランダ改革派の宣教師として長崎に着任し、幕府や佐賀藩の英学校で全国から集まった英才を教えた後、政府顧問・大学南校教頭として東京に招聘され、1898年青山外人墓地に葬られるまで、博学な知識、流暢な日本語、幅広い人脈を駆使して、教師として、政府顧問として、日本の近代化に貢献したフルベッキを概説した後、伝記の「前書」と第一章A Glance in Perspective計17ページを輪番で音読しながら内容検討する形で『フルベッキ輪読会』は無事スタートしました。 

2003年1月に立ち上がった『英書輪読会』は、当時出版されたばかりの『米欧回覧実記』の英訳版“The Iwakura Embassy1871-73”(全52200ページ)を11年かけて読了後、2014年4月から2冊目のアーネスト・サトウの” A Diplomat in Japan”(全472ページ)を、そして、2017年2月から3冊目The Complete Journal of Townsend Harris “(全616を毎月輪番で音読しながら読んで来ました。

2年後の2021年が岩倉使節団派遣150周年に当たるので、4冊目には“Brief Sketch”によって、条約締盟14か国に大型政府使節団の派遣を提言して岩倉使節団の実現に貢献したフルベッキの伝記を読もうということになった次第です。本著はWilliam Elliot Griffisが1900年に出版したものですが、同氏は米国オランダ改革派のラトガース大学で福井藩日下部太郎を教えた縁で、卒業後1871年に福井藩校教師として来日、廃藩置県後は、大学南校教頭フルベッキの斡旋で、同行教師に就任、1874年帰国まで約4年間滞日しました。本著を書くに当たってはフルベッキの生地オランダのザイストを3回訪問取材するなどフルベッキの伝記を書く最適の人物と目されます、なお、Griffisには、『皇国』(第一部ミカド、第二部明治日本体験記)、『維新概論』、『日本近世変革論』、『日本のヘボン』等日本関係著書も多数あります。

17年目に入った『英書輪読会』 ですが、この日の出席者の中に当初からの会員が2人もいた一方、新入会員も2人加わって下さり、活発な論議が出来て、楽しみが倍加しました。輪読会はテキストを漏らさず音読することを原則にしていますが、音読は間違いなく快感です。新規参入大歓迎です。一度ぜひ覗いてみてください。(英書輪読会世話人岩崎洋三)

実記輪読会:7月度部会報告「第二十巻「ボストン」市」

日時:令和元年7月10日 13:10~14:50
場所:日比谷図書文化館4F A
ナヴィゲーター:富田兼任氏
内容
6月28日朝5時半ロードアイランド州プロビデンス港に着き北送し8時ボストンに到着、市内巡覧。学校見学、消防馬車の馬がよく調教されているのに感嘆。夜180人集まり享宴を受ける。サンフランシスコ以来の大盛会と記す。

6月29日北70㎞にあるローレンスに行き、綿花紡績工場見学。

7月1日水道貯水池を見た後、ブルックス氏邸宅を訪問、帰途オーロラを見る。

7月2日木戸・伊藤組は西方50kmハドソンタウン、大久保・山口組はローレンスに行き、それぞれ工場視察、昼食接待を受ける。

7月3日ボストンから英国に向け出港、13日アイルランドに達する。

この巻にあるボストン・シカゴの大火について、ボストンは1872年11月に発生し半日間、シカゴは1871年10月に2日間燃えた。焼失面積はボストンが26ha、シカゴは800haに及び、シカゴの大火は19世紀アメリカ最大の災害と言われている。

ブルックス氏とは紳士衣料のブルックスブラザーズ経営者エドワード・ブルックス氏を指すと考えられる。キューナードは、英国の有名な船会社だが、設立は1839年で英国政府の郵船輸送契約を結んだことから「Royal Mail Ship」と冠した。現在は米国「カーニバル」社傘下となっている。

富田命保日記によれば、6月28日田中(光顕)、杉山(一成)氏とニューヨークより汽車にてボストンに着いたとあり本体とは別行動で陸路入った。なお、吉雄辰太郎(永昌?)氏は紙幣製造管理という役目を命ぜられニューヨークに滞在することとなり、6月29日田中(光顕)理事官随行の役を解かれたとある。岩波本p337校注に「団員名簿から吉雄永昌は欠落している」との記述は、このことと関係しているのかもしれない。

(冨田兼任記)

 

GJ研究会:6月度部会報告「Flawed Giant-Lyndon Johnson”欠陥のある巨人“リンドン大統領」

日時:令和元年6月15日(土)13:30~16:30
場所:国際文化会館 401号室
演題:「Flawed Giant-Lyndon Johnson”欠陥のある巨人“リンドン大統領」
講師:大井孝氏(東京学芸大学名誉教授)

大井氏が6月度定例会のテーマに“リンドン・ジョンソン大統領”を選ばれた理由は氏がフルブライト留学生としてコロンビア大学で政治学を学ばれていた時期とジョンソン大統領の任期中と重なって、リアルタイムでジョンソン大統領の“成功と失敗”を身近に見聞きしていて、記憶にも未だ鮮明に残っている事にもよるとのこと。

ジョンソンと言えば翌年に控えた大統領選挙の為ケネデイ大統領の再選をサポートすべく遊説のため訪れた1963年11月22日テキサス州ダラスで暗殺されたケネデイ大統領の後任として副大統領から横滑り大統領となったことで有名である。他方でジョンソンは、アメリカ人にとり悪夢ともいうべきあのヴエトナム戦争を拡大した大統領との悪印象が私達日本人には強く残っている。今回の講演はそのリンドン・ジョンソンがどのようにしてアメリカ合衆国の副大統領の地位に上り詰めて行ったかを、彼の生い立ちについて語ることから始められた。

ジョンソンは1908年。テキサス州のストーンウオールで生まれる。彼の両親は貧しい地域で農場を経営していて一時期父親は州議会議員をしていたが事業にも失敗、多額の借金を抱えてリンドン少年は幼少時代から貧困生活を強いられる。この経験が後に彼に、黒人やメキシコ人貧困者救済を志向させる。彼の生家には水道も電気も無く、彼の通った小学校は全校で一教室、教員一名のみ。高校通学にはロバに乘って片道三マイル。1924年高校卒業後は大学入学は落第で一時道路建設作業員などに従事。飲酒と喧嘩で逮捕歴もあり、相当な悪であった。19歳で改心し南西テキサス州立教員養成大学に入学。在学中に最貧困地区児童の小学校代用教員を経験。その後州議会で5期務めた父親の縁故を借りて1931年テキサス州出身の連邦下院議員の部下となり、ワシントンに移住。1933年3月4日FDRの政権発足。ニューデイール政策の柱の一つのNational Youth Administrationのテキサス州担当部長となる。

この頃からジョンソンは政治家の道に進む。1934年地元出身の富裕家庭の娘Landy Birdと結婚、妻の支援を受けながら1937年、28歳で連邦下院議員に当選,地元の貧困地域に電力供給やその他の 改善策を実施し、徐々に知名度が上がってゆく。1941年上院議員選挙に出馬希望するが民主党内の対立で失敗。下院議員を続ける。日米開戦後FDRが彼を下院議員のまま海軍予備役将校に任命、太平洋地域の戦況視察委員となる。幸運にも恵まれ生き残り、結果銀星章を授与される。

戦後、1948年テキサス州選出の連邦上院議員に選出され、二年後には民主党の院内副総務になり、1955年には上院の民主党院内総務floor leaderとなる。1957年アイゼンハワー政権下で“民権法”の成立に尽力。1960年の大統領選挙戦ではカトリックのケネデイは共和党候補者の現副大統領ニクソンと大接戦。ケネデイはプロテスタントのジョンソンを副大統領候補とすることで、南部諸州の支持を期待した。当時から大統領選挙では南部諸州が鍵を握って居り、結果として南部出身で、南部での知名度の高いジョンソンを副大統領として味方に引き入れたケネデイがニクソンに僅差で勝利しケネデイ政権が発足。

ジョンソンはケネデイ兄弟には田舎者と軽蔑され政権中枢には入れられなかったが、ジョンソンの方も上院時代のケネデイをさしたる実績もなく軽視していた。ケネデイの下でジョンソン副大統領は黒人青年の就職機会の拡大のために設置されたCEEO(Committee on Equal Employment Opportunity)の責任者となる。ケネデイ兄弟は1964年の大統領選挙ではジョンソンを副大統領候補として指名しない気配であった。

そしてケネデイ大統領は1963年11月22日テキサス州ダラスであの“悲劇”に遭遇し、ジョンソンは予期せぬ“大統領への昇格”となり、ジョンソン政権が誕生する。

ジョンソン大統領が先ず手掛けた政策はケネデイが暗殺前の10月に公共施設、公立学校、雇用での人種差別を禁止する法律案を下院の法務委員会で通過させるところまで進めていた、それらの人種差別撤廃と貧困対策の一連の立法に取り組む。

ジョンソン大統領が手掛けた政策は以下の通り。

“1964年公民権法案”に署名、“Great Society”を目指すべきことを宣言、”War on Poverty”対策と黒人たちの失業対策の一環として“Economic Opportunity Act”を議会に提案

その他、自然環境保護、消費者保護、新移民法、Medicaid , Medicare,など。

1964年11月ジョンソンは大統領選挙で当選。議会の議席確保でも民主党にとってはFDR時代の1936年以来の大勝利であった。ジョンソンはこの選挙結果に自信を抱いて更にGreat Societyの施策を拡大しようと望み、“教育・医療保険・天然資源保護・農業対策”の四項目の政策、中でも教育政策を最優先、貧困児童の教育を重視した。その後の二年間にジョンソンは200個の重要法案を議会に提出し、その内181を成立させた。その他、“新投票権法”も画期的な法案であったことを忘れてはならない。当時は米国経済が好調で五年連続でGDPが上昇し、1964年には減税も可能であった。

この様な輝かし実績の反面、ジョンソンはそのベトナム戦争対策の泥沼に陥った。1954年7月のジュネーヴ協定により、ベトナムからフランスは撤退した後でも米国はこの協定に反対し、南ベトナムの傀儡政権を支持し続けた。

アイゼンハワー、ケネデイの下では軍事顧問団の員数が増大し、引き継いだジョンソンも1964年に起きた「トンキン湾事件」を契機に本格介入の道を選び、米国の戦闘部隊も段階的に総計55万名以上になり、戦費も増大、1968年には第二次大戦以来最高額となる219億ドルの支出であった。連邦予算の75%近くが戦費または戦争関連の支出となり、教育・健康・福祉関連予算は12.2%となった。

上述の一連のジョンソンによる画期的な国内政策の実現の背景には内政面での進歩的な政策の実現との交換条件によるベトナム戦争の拡大があった。また米ソ冷戦下での「ドミノ理論」がジョンソン政権の「ベスト&ブライテスト」の思考を捉えていた事も事実である。

ベトナム戦争による戦死者も1968年には12,000人に達し、全米に反戦運動が巻き起こりジョンソン政権に対してはベトナム戦争への対応のまずさから、国民からの信頼感も失われて行った。結局、悪化したベトナム戦争の難問を抱えて、1968年3月31日にジョンソンは同年の大統領選に出馬しないことを宣言した。民主党の大統領候補者はロバート・ケネデイが有力視されていたが、ロバートが6月6日に暗殺され、結果副大統領のハンフリーが民主党の大統領候補となるが11月の選挙では僅差で共和党の元副大統領ニクソンに敗れた。

大井氏はジョンソンに対する二人の著名人の言葉を紹介することでこの講演を締めくくられた。その一部をご紹介します。

*ジョンソンの伝記作家Robert Dallek (1998年)

「・・・・あのジョンソンは少なくても一つの異論の余地のない勝利を内政上で挙げた。彼は南部諸州を国の経済・政治の主流の中に組み込むことに大きな役割を果たした。・・・・・南部の人種差別の撤廃は南部が米国の全国社会に再編入される事を意味していた。1960年以来、あの地域が享受してきた繁栄と過去六代の大統領の内、ジミーカーター、ジョージ・ブッシュ、ビル・クリントンの三名が南部出身であることがその点を示している。・・・・・・

ベトナムは大きな失敗であった。それは米国の歴史の中で最悪の外交政策であった。彼の大統領職は偉大な業績とすさまじい失敗、永続的な利得と忘れがたい損失、の物語であった。

・・・・1960年代の激情が鎮静化するとき、ジョンソンはおそらく、当時の米国の偉大さと限界とを忠実に反映した一人の大統領として想起されるだろう・・・・彼の成功と失敗と彼の勝利と悲劇の故に、注目すべき人物として。」

*米国ヴァンダービルト大学 歴史学教授 ジェファーソン・コウイは

「・・・・・1964年5月の演説でジョンソンは“我々のすべての人々に一つの豊かさの制度を作る為にあの一世紀にわたる努力が成功した”と宣言した。・・・・それは一つの豊かな時代に向かう一つのヴイジョンであったが、それはFDRの行った、基本的・物質的安定の保障の協調とは異なるものであった。しかしジョンソンの政策は国民の全般的な生活向上を目的とする様々な社会的・文化的改善の雪崩現象を実際に引き起こした」

(文責:畠山朔男)

 

歴史部会:6月度部会報告『英語の師匠-岩倉使節団一等書記官・何禮之』

日時:令和元年6月18日 13:30~14:30
場所:国際文化会館 403
演題:『英語の師匠-岩倉使節団一等書記官・何禮之』
講師:金子秀明氏
参加者:14名

何禮之(がれいし)は、長崎の唐通事の家系に生まれた。何一族は、明の滅亡に際し、江戸の初期に日本に亡命し、長崎で代々、唐通事を営んできた。唐通事は、単なる通訳の通詞にとどまらず、貿易実務にも関わっていた模様。講師の金子氏(テレソフト会社-点字ソフト、機器製造販売-代表取締役)は、何一族の天草分家のご出身。

何禮之は、7歳で家督を継ぎ15歳で、これからは英語の時代と見極めて、長崎の唐人より『華英・英華事典』を求めて独学を始め、長崎英語伝習所や居留地内の中国人や英米人(フルベッキなど)から発音を学ぶ。そして、英語稽古所学頭の幕臣に取り立てられ、長崎の私塾と大阪・江戸の私塾で英語を教える。門弟には、親友・前島密(前島の葬儀委員長を務める)、高橋新吉(日本勧業銀行総裁)、前田正名(農商務省次官、東京農林学校長)、芳川顕正(東京府知事、文部大臣、内務大臣)、高峰譲吉(工学・医学博士)、陸奥宗光(外務大臣)、星亨(逓信大臣)、中村六三郎(三菱商船学校初代校長)、浜尾新、豊川良平、吉村寅次郎など百数十名を育てる。岩倉使節団関連の弟子だけでも、山口尚芳(副使)、瓜生震(通詞から三菱支配人)、日下義雄(長崎・福島県知事、実業家)、中島永元(文部官僚)、岸良兼養(大審院長)、萩原三圭(ドイツ初留学生、宮内庁侍医)など多彩。勝海舟陸軍総裁時代の通訳や、小松帯刀随行で上京して通詞を務め、岩倉具視にも、訳書のモンテスキューの『法の精神』など進講している。大隈重信の民権思想にも影響を与えたという。回覧中は木戸孝允と同行し、また一緒に帰国しているので、木戸との接点も深い。青山霊園に眠り、墓名碑「徳種」(恩徳を他人に施す人)「音容如在、葬掃維勤」(お墓参りのたびに、声や姿が目に浮かぶ)に人柄が偲ばれる。林洞海の息子・武を養子とし、榎本武揚と赤松則良とは義兄弟。赤松の三男を養子として何盛三(エスペラント学会長、ベトナム商社・大南公司の支援)に。その長男・何初彦は東大教授。何禮之日記は東大図書館に寄贈されている。幕臣ながら貴族院議員まで務めたのは、中国出身、何一族の日本に溶け込む精神の発露かと。
(文責:小野)

 

実記輪読会:6月度部会報告「第19巻 新約克府ノ記」

日時:令和元年6月12日 13:10~14:50
場所:日比谷図書文化館4F セミナールームA
内容:「第19巻 新約克府ノ記」
ナビゲーター:吉原重和

要約/特記事項
・明治5年(1872年)
526日 アスター図書館、聖書協会、YMCA、障害児の病院、シュワルト氏の商店、トリビューン新聞、NY私立大学を訪問
527日 フランクリン氏の商店、ハーパース・ウイークリー社訪問。午後フェリーにてロードアイランド州に向かう。牡蠣がもたらす利益について触れている。久米は聖書協会とYMCAの訪問のあとに彼の「宗教論」を述べているのは注目される。

訪問した場所の詳細
アスター図書館
アスター図書館およびレノックス図書館が統合され1895年にニューヨーク公共図書館と成った、正面玄関前に設置されている2つのライオン像は母体となった2つの図書館の名を受け継いで各々“Astor”および“Lenox”の名を有する。創立者の JohnJacobAstor1763-1848)ハイデルベルグ近郊で生まれ、NYで毛皮及び不動産で成功した。現在の建物にはアスター「忍耐」の名を持つライオンは正面階段向かって左の南側に、レノックス「不屈」の名を持つライオンは反対の北側、正面向かって右側にいる。

アメリカ聖書協会
1816
年に設立、聖書の翻訳・出版・配布を行う団体である。アメリカンボードの宣教師として中国に派遣されたブリッジマン博士の漢訳聖書事業を支援した。岩倉使節団が訪問した時 当時の世界中で 30 の国語に訳された聖書があった。漢訳の聖書を各人にプレゼント。米欧の人々の多数が聖書を読んで心を養っていることを知らされたことが記録されている。その後5回に渡り移転し、来年はフィラデルフィアに移転。

YMCA

Alexander Turney Stewart
アイルランド出身の実業家
1846年にMarble PalaceをBroadwayに造った。その後1862年に鉄製のIron Palaceを建築した。1860年代で最も裕福な実業家だった。

The New York Tribune
ホレス・グリーリーHorace Greeley1811-1872)は自由共和党の創設者、社会改革者、政治家である。ニューヨーク・トリビューン紙は1840年代から1870年代にアメリカで最も影響力のある新聞であり、当時の最も偉大な編集者としてのグリーリーの評判を確立した。

Western Union
Hiram W. Sibley Western  Unionの共同創立者で初代社長
Samuel Finley Breese Morse 画家でありモールスコードの発明者Ezra Cornell       1851年にロチェスターでWestern Union を創立した、Cornell大学の共同創立者でもある。

City University of New York
タウンゼント・ハリスが学長だった。
Haper’s Weekly
共和党寄りの政治週刊誌
Blackwell Hospital
イーストリバーの島に設けられた精神病院

以上の諸施設を訪問した。

 

icafe-music:5月度開催報告「岩倉使節団も味わったベルギービールの話」

日時:令和元年5月26日 14:00~17:00
場所:四谷「サロンガイヤール」
第1部:映像とお話

①映像:DVD「岩倉使節団の米欧回覧」第7章小国の知恵から「ベルギー」
②お話:門司健次郎氏(元カナダ大使)

以下の文章は門司氏のFB <https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=147662226369866&id=100033782686891>

からの転載です。

26日岩倉使節団の米欧回覧実記を読み解く「米欧亜回覧の会」で、ベルギービールの講演とテイスティングを行いました。岩倉使節団は、18732月に8日間ベルギーを訪問しています。当時のベルギーは独立後40年強の若い国でしたが、欧州でも先進の重工業国であり、使節団は、製鉄所、ガラス工場、ブリキ工場始め多くの工場を視察しました。一行は、その前に訪問した米、英、仏の大国の力に感心しつつも、ベルギー、オランダの両国について、小国にもかかわらず、自主の権利を有し、経済や貿易で力を発揮していることに感心しています。大国と日本との文明度の落差を痛感し、極東の小国日本の姿をヨーロッパの小国と重ね合わせ、そこに模範国としての可能性を見ていたとも解されます。 

 

ビールについては、英国でビール工場を視察し、「欧州でビール醸造が盛んなのは英、独、オーストリア及びベルギーの各国であり、それぞれ努力している。我々が見た工場の広大さを見ても、この産業がいかに盛んかがわかるというものである。」としています。
ベルギーはビールの博物館と言われますが、それは、銘柄の多さではなく、様々な異なるタイプのビールが醸されているという多様性によるものです。私は2回のベルギー勤務で25カ所の醸造所を訪ね、420種類のビールを味わい、ベルギービールの虜になりました。

   

ベルギーという国とベルギービールの魅力についての講演の後、プロのソプラノ歌手によるミニコンサートを挟み、試飲に入ります。ベルギービールの多様性を伝えるべく7種類のビールを用意しました。タイプとしては、白ビール(フーガルテン)、ランビック(ボーン・クリーク:桜桃ビール)、ベルギー・エール(デ・コニンク)、地域特別ビール(ラ・シュッフ)、強い黄金エール(デュベル)、トラピスト(シメイ・ブルー)、ランビック(ボーン・グーズ)です。

 

スレーワーゲン在日ベルギー大使のご厚意で、2種類のランビックを協賛いただき、自然発酵ビールという最もベルギーらしいビールも味わうことが出来ました。全て上面発酵のエールタイプであり、ピルスナータイプとの大きな違いはその香りと複雑な味にあります。ギンギンに冷やすことはせず、それぞれに適温があり(今回は、68℃812℃1216℃3つ)温度調整に苦労しました。ベルギービールの美味しさと幅の広さがよく分かったと参加者の皆さんには大変好評でした。 

 

ベルギービールの文献、ポスター、専用グラス、Tシャツ、ラベルのコレクション、飲んだ記録等も持ち込みました。ネクタイは、ラ・シュッフの小人柄とホップ柄。まだ日本でベルギービールがよく知られていなかった90年代前半にその普及に力を入れましたが、その頃の雑誌(東京人)の記事(文章は藤田千恵子さん)もお見せしました。

    

   

ベルギービールの後は、持ち込んだ日本酒の一升瓶を味わってもらいました。好みの純米酒を考えていましたが、季節外れの真夏日に、「紀土 純米吟醸 夏の疾風」を買ってしまいました。福島県喜多方市小原酒造のもろみにモーツァルトを聴かせて醸した蔵粋シリーズ2本の持ち込みもあり、日本酒の宣伝も出来ました。
以上

第2部:ミニコンサート ~5月は歌が溢れ~
♪ モーツァルト 『5月の歌』
♪ ブラームス  『5月の歌』
♪ フォーレ 『5月の歌』
♪ シューマン
  『美しき5月に』
♪ 『Ein Prosit 』 など乾杯の歌

ソプラノ:
森美智子
(東京藝術大学卒業・同大学院修了、共立女子高校講師、二期会会員)
武藤弘子(武蔵野音楽大学卒業、ワシントン大学院修了、鎌倉女子大学講師、二期会会員)
ピアノ:
植木園子
東京藝術大学別科修了、武蔵野音楽大学卒業、同大学院修了)
  唱:  i-Café Singers会員/畠山朔男Tr.岩崎洋三Tr.吉原重和Br.西川武彦Bs.相楽敏夫Bs.

第3部:交流会

歴史部会:5月度部会報告『今、ジョン万次郎を語るー「漂巽紀畧」〈ひょうそんきりゃく〉出版を期に』

日時:令和元年5月20日 13:30~17:00
場所:国際文化会館401号室
演題『今、ジョン万次郎を語るー「漂巽紀畧」〈ひょうそんきりゃく〉出版を期に』

中浜万次郎を語るには最適のお二人、北代淳二氏(東京・国際ジョン万次郎協会会長)と谷村鯛夢氏(漂巽紀畧・現代語訳者・俳人)をお招きしての講演会。参加21名。

土佐の漂流漁民・ジョンマンことジョン万次郎は、鳥島に漂着して、捕鯨船ジョン・ハウランド号の船長・ホイット・フィールド船長に、仲間4名と共に救出された。

捕鯨に従事した後、仲間をハワイに残して一人米国東岸のフェアーヘブンで三年間教育を受けた。更に六年余の捕鯨船経験を積んで、カルフォルニアの金鉱で600ドルを稼ぐと、「二重に鍵をかけられた祖国」日本の門戸を開こうと思い立って、10年ぶりに沖縄に決死の上陸を試みる。

ペリーの黒船が、日本の鎖国大平の夢を覚ます二年前のことである。琉球での取調べの後、実効支配の薩摩藩に移送され藩主・島津斉彬に西洋事情と船の技術を伝える。長崎奉行所の聴取を経て、帰り着いた祖国土佐藩で絵師・河田小龍の聞き語りで完成したのが「漂巽紀畧」である。この情報は、即座に江戸幕府に伝えられて、オランダ特段風説書でペリー来航を知らされていて、米国情報を渇望していた老中・阿部正弘に召され、幕府直参に取り立てられ中浜万次郎を名乗り、江川英龍に預けられる。不幸にして、水戸の徳川斉昭が、米国育ちの万次郎を米国有利の通訳をしかねないと警戒したため、米国との交渉通弁には起用されることはなかったが、佐久間象山、吉田松陰、大槻盤渓(万次郎登用を建言)、ペリーの交渉役の先頭に立った林大学頭(復齋)や雄藩藩主・藩士らへ多大な影響を与えた。

咸臨丸の教授方通弁として、太平洋横断を助け、薩摩藩開成所や土佐藩教授、明治政府開成学校教授など歴任する。捕鯨船への夢は生涯持ち続けたが、日本では実業化できなかった。米国の国旗や通貨に表記されている、E Pluribus Unum(多くのものが集まって、一つ=ラテン語で多様性の中の共生)はグローバル・マインドの万次郎の信条そのもので、John Mung Japaneseと自署し、日本人を意識した最初の日本人であろう。身分制の厳しい幕府が、能力のある万次郎を起用し、外国情報を求めて言論の自由を開いたことは、結果的に日本を開国に導いた陰の主役であり、明治維新での下級武士の人材登用にもつながる画期を開いた人とも思われる。それにしても、万次郎の聞き語りで見せた細部までの記憶力の正確さと、たった三年の教育とは思えない端正な英語文章力や的確な文明把握は驚嘆に値する。因みに当時の捕鯨は、最先端のグローバル産業であり、船は技術の先端であり国際化(民族共生、能力主義)の場でもあった。(文責:小野博正)

実記輪読会:5月部会報告 第十八巻『費拉特費府ノ記』

日時:5月8日(水)13:10~14:50
場所:日比谷図書文化館4FセミナールームA
内容:第18巻『費拉特費府ノ記』
ナヴィゲーター:岩崎洋三

第18巻『費拉特費府ノ記』を、輪番で音読し、ナヴィゲーター役岩崎が、多くの写真や地図を盛り込んだ22コマのパワ―ポイントを使って、使節団訪問時の風景を再現しながら解説した。

使節団は、長引いた米国での条約改正交渉に見切りをつけて、フィラデルフィア、ニューヨーク、ボストン経由、次の訪問国英国を目指すことを決断し、ワシントンを去るが、本章は、その途上2泊3日でフィラデルフィアに立ち寄った記録。

ワシントンから使節団に同行したワシントンDC知事Henry Cookeが、フィラデルフィア近郊の同氏の実兄で金融家のJay Cookeの豪邸”Ogontz”に案内し、使節団はそこに2泊した。

フィラデルフィアは、独立宣言が調印され、当初アメリカの首都だったことから、使節団は議事堂や造幣寮等を見学して多くを学んでいるが、金融家で独立戦争の北軍軍資金調達を一手に引き受けて勝利に貢献したJay Cookeの『大小ノ画額各房ニ充ツ』50室を超える広壮な邸宅で、同氏から西海岸とミネソタ州を繋ぐ4000マイルに及ぶ鉄道開発や、スペリオル湖の港町ドゥルースを第二のシカゴにして、セントローレンス川経由大西洋に至る3700マイルにも及ぶ水運を繋げて両大洋を結ぼうとの巨大構想を聞いて感銘している。

後日談だが、欧州における普仏戦争終結後のインフレと、アメリカの鉄道等の過剰投資から1873年恐慌が勃発し、Jay Cookeの銀行は倒産、Ogontzは100人規模の女学校になった。(岩崎記)

GJ研究会:4月度部会報告 「バチカンが世界に果たす役割」

日時 2019.4.20
場所 国際文化会館 401号室
演題 「バチカンが世界に果たす役割」
講師 上野 景文氏(文明論考家 元駐バチカン大使)
1970年東京大学教養学部卒、外務省入省、1973年ケンブリッジ大学経済学部卒業(後年修士)、1999年在メルボルン総領事、2001年駐グアテマラ大使、2006-10年駐バチカン大使、2011-17年杏林大学客員教授、 主要著書「バチカンの聖と俗」(かまくら春秋社)、「現代日本文明論 / 神を呑み込んだカミガミの物語」(第三企画)

①イントロダクション
外交官の仕事を通じ、長年にわたり、「文明とは何か」、「日本とは?」につき想を巡らして来た。今は「文明論考家」として発言している。キリスト教は、西欧文明の根っこを形成するが、バチカンそのものがひとつの「文明」をなしている。日本ではアニミズムが強く、ものごとの本質は、黒か白ではなく、その中間の灰色のところにあると考える人が多い。無理に黒白をつけるのは「不自然」と考える。アニミズムは「超多神教」と言えるが、このアニミズムを語る自分としては、対極にある「一神教」の総本山であるバチカンに乗り込んで「文明対話」を行いたいと考え、赴任させて貰った。バチカンでは、「Buddhistic Shintoist」 と称して「対話」したが、バチカンは、優秀な頭脳が多く、思った以上に「知的刺激」に富む。

②国家としてのバチカン
バチカンは2つの国名――HS(Holly See:法王聖座)、VCS(バチカン市国)――を有する。HSは、2000年の歴史性(継続性)と世界性を有する。カトリック世界の司令塔であり、法王がその権威と権力を掌握。他方、VCS。イタリア国王が伊統一に際し法王領を取上げたこと(1871)から、法王はその後60年に亘り伊国王との関係を断った(ローマ問題)。結局、1929年のラテラノ条約により「講和」が実現。VCSは、この時出来た国であり、HSを安置する「受け皿」のようなものであるが、90年の歴史を持つに過ぎず、HSのような世界性もない。なお、外交を手掛けるのはHSであり、VCSではない。HSは、宗教機関でありながら、国家でもあると言う意味で、「二重性」を有する(以下、本日は、HSと言うべき場合も、便宜的にバチカンと呼ぶ)。

③宗教機関としてのバチカン
宗教機関は、総じて、分裂する傾向が強い。その中で、世界性と歴史性を維持しているバチカンは、「特異」な存在。この点を理解するカギは、法王の「絶対」性。法王は「神と人間の中間的存在」。この法王の権威の下に、カトリック世界は「統一」、「一体性」を維持して来た。

④法王の悩み、バチカンの問題点
バチカンの直面する最大の問題は西欧などの「世俗化」、「教会離れ」。特に西欧圏はその傾向が強い。たとえば、フランスでは、この60年間に、司祭の数が1/10に激減。カトリック教会の将来は、中国、インドなど、非西洋圏がカギを握る。ところが、バチカンでは、依然として、「バチカン中心主義」、「欧州中心主義」が強く、保守性が強い。この保守性を改めるべく、第二バチカン公会議(1962-65)で大改革を断行した(例えば、典礼はそれまでラテン語で行われていたが、各国語で行なってよいと言うことになった)。加えて、ブラジル、グアテマラなどで、カトリックのシェアがプロテスタントに食われていると言う問題もある。

⑤フランシスコ法王の登場
現フランシスコ法王は異例づくめの人。初の南米出身者であり、初のイエズス会出身者。その意味で、カトリック世界の「周辺」を体現する人物。法王は、文明的レベルで、4つの挑戦を志向―――(i)「聖職者中心主義から「信者中心主義」への転換、(ii)「排除の論理」から「包摂の論理」への転換、(iii)「北」から「南」へのシフト、(iv)「現代文明」批判(米国流グローバリズム批判、環境問題を巡る「北」批判など)――している。イエズス会士的DNAが、そうさせている面もある。

⑥法王の国際的「存在感」
法王の国際的な存在感の根っこには、4つの力がある―――(i)メッセージ力(=平和の宣教師、モラル・オーソリティ)、(ii)権威の力(バチカンは 西欧の「奥の院」)、(iii)数の力=13億人の信徒、(4)外交の老舗であること 。因みに、ブッシュは7回、プーチンは4回(当時)「法王詣で」。ブレアは、法王のメッセージ力の活用に腐心。西洋以外でも、イランも法王の利用に腐心。中国のバチカンとの「暫定合意」(2018年)も、法王の権威を利用しようとの計算によるもの。

⑦宗教間対話
法王は、宗教対話にも熱心。「キリスト教対イスラム教」の対立と言う構図を持ち出す人がいるが、本来問題なのは、「反宗教勢力」と「伝統的宗教人」との対立。イスラムもキリスト教も等しく「反宗教勢力」の被害者。

⑧法王訪日
38年ぶりの法王来日。貧困、過剰消費、環境、移民などの問題につき、強いメッセージが発せられよう

⑨日本人から見たカトリック
バチカンで、ある長官と遠藤周作の話をした。遠藤の小説「深い河」の主人公(神学生)がフランスに留学した際、(日本人は自然を大切にするのに対し)西欧人は自然にきつく当たる、とこぼしたところ、かれらから「君の信仰は汎神論であり、キリスト教ではない」と批判された―――と言うストーリーを紹介した。すると、長官は、「それはフランスのカトリックだ。イタリアでは違う。アッシジの聖フランチェスコは、鳥、花はもとより、風にまで語りかけたではないか!!」とのコメントをくれた。

⑩西洋では、民主主義・人権は「宗教」
日本は西欧と理念、価値観を共有するというが、無邪気にそう言うのは問題。日本人は、外国で(人権蹂躙などの)不正義が行われても、不愉快にならない。西欧人の場合、不正義の報を聞くと、宗教的パッションに火がつき、「怒る」人が多い。つまるところ、日本は(西洋から)理念こそ輸入したが、宗教的パッションは輸入しなかった。

質疑応答も含め、大変含蓄に富んだお話をしていただき、その後の懇親会でもさらに興味深い話を伺った。(文責 塚本 弘)

I-Café-lecture:4月開催報告『平成政権史―そして安倍政権の今』

日時:2019.4.2 13:30~16:30
場所:日比谷図書文化館4階スタジオプラス
講師:芹川洋一氏 日本経済新聞論説フェロー

芹川氏は1979年から2005年まで日経新聞の政治部に所属、その後も政治部長、論説委員長などを歴任し、一貫して踏み込んだ政治報道を貫いて来られた。昨年10月からはBSテレ東の『NIKKEI経済サロン』のキャスターとしてもご活躍中だ。テーマに沿ったご著書も、『平成の政治』、『平成政権史』、『政治が危ない』等少なくない。平成の終わりで、新元号制定や統一地方選挙関連のお仕事でご多忙の中、当会に時間を割いていただけたのは、大変幸運だった。

芹川氏は、折角政権交代を実現した民主党が政権運営に失敗して政権の座から滑り降りた後、野党が民主勢力の結集叶わず弱体化し、自民党長期政権を許容したという。現在の5政党の体制は、昭和の自民、社会、公明、民社、共産とほとんど一緒とし、自民党長期政権化の55年体制に戻ったともいう。そして、野党が旧体制を打破できるか否かは、今夏の参院選で野党が結集して一人区を制することが出来るか否かにかかっていると。

平成の政治に大きなインパクトを与えたものとして、芹川氏は小選挙区制の導入、上級官僚任免権を含む強すぎる官邸、政治資金規正法に伴う派閥の勢力後退で、養成機能が衰え国会議員の専門性が低下、地方議員が相対的に優位に立つ局面のが目立つようになったと。もし、野党が今後もバラバラのままだったら、待っているのは辞世の句のみと厳しくむすんだ。

講演後の質疑応答に丹念にお答えいただき、セッションが40分も続いたのは近来稀だった。それほど、お話が具体性を帯びて分かり易く、真剣な議論を呼び起こしたということだろう。芹川氏がお帰りになった後も、打ち上げでホットな論議が続いた。(文責岩崎洋三)

I-Café-music:3月開催報告(第32回)

3月10日(日)14時~15時
場所:西荻窪 スタジオ&ギャラリー『響』

第一部 映像とお話では、DVD『岩倉使節団の米欧回覧』の
第7章「小国の智恵」を見た後、毎日新聞編集委員森忠彦氏に
『EUに学ぶ外国人労働者の問題点』
と題して、その背景や歴史、問題点などをお話しいただきました。

シリア等から大規模難民が押し寄せる欧州各国は、雇用・宗教問題が深刻化し難民受け入れに消極姿勢に転じている。一方、生産年齢人口の減少から労働力不足に見舞われている日本は、昨年末改正入管法を成立させて、2017年段階で128万人いた外国人労働者を増やす姿勢を明確にした。近隣住民との摩擦や、社会福祉問題・移民問題も含めて、問題深刻化を回避するには、相互理解・共存が不可欠と結んだ。

第2部 ミニコンサートでは、「あの山を越えて」のテーマでゲーテの教養小説「ヴィルヘルムマイスターの修行時代」の中のミニヨンの歌「ただ憧れを知る者だけが」を歌詞にした異なる作曲家による歌曲を、森美智子さん武藤弘子さんのソプラノで聴き比べた他、「サウンドオブミュージック」 から 「エーデルワイス」「クライム エブリ マウンテン」を i cafe singersも加わって歌い、 ヨーロッパの人達の、山を越えた所にある遠い異国への憧れの気持ちに思いを馳せた。

第三部懇親会では、講師の森さん、今回もご参加下さったコルカット先生などに活発な質問が飛び、それに丁寧にお答えいただき、今回も賑やかで和やかな、そして贅沢な時間になりました。(岩崎洋三記)

 

英書(ハリス)輪読会:3月開催報告

日時:2019.3.13(水)13.10-14.50
場所:日比谷図書文化館4階セミナールーム
範囲:終了総括と特別講演

  1. The Complete Journal of Townsend Harris 読了。
    2017年2月以来毎月30ページ弱を交代で音読しながら読んできたが、24回を要した。
  2. 英書輪読会の3冊目のテキストThe Complete Journal of Townsend Harris を読み始めたのは2017年2月、初回ナヴィゲーターは今は亡き小坂田國雄氏だった。

途中息抜きに「The Barbarian and the Geisha」(日本名:黒船)という映画を見た。ハリス役がジョン・ウェイン、下田奉行役が山村聰という、1959年ジョン・ヒューストン監督作品だ。病弱のハリスを演じるにはウェインはどうもという意見もあったが、下田の玉泉寺で通訳のヒュースケンと苦労する光景など、大いに楽しめた。

  • 斎藤純生氏特別講演
     日本文研出版社主で、2001年に『米欧回覧実記』の英訳『Iwakura Embassy 1871-73』を世に出した斎藤純生氏をお招きし、英訳版出版のご苦労や、本にもなっている『洋書流通と翻訳出版の世界』をお話いただいた。当会は英訳実記全5巻約2500ページを、2003年1月から11年2カ月かけて読んだのは懐かしい思い出だ。同氏は岩倉使節団の事績を数多くの低開発諸国に知ってもらい参考にしてもらおうと『Iwakura Embassy 1871-73』を数多く寄贈されて来た由で、心強い限りだ。

3)今後の英書輪読会
4月から4冊目のテキストとして、William Elliot Griffis,”Verbeck of Japan; A Citizen of No Country”全376ページを読みます。第一回は4月17日(水)です。詳しくは、ホームページの『フルベッキ輪読会』が4月スタートします』をご覧ください。
(岩崎洋三記)

英書(ハリス)輪読会:2月開催報告

日時:2019.2.13日(水)13.10-14.50
場所:日比谷図書文化館4階セミナールーム
範囲:Journal 5,pp.541-558(Feb.17,~Feb.27,1858)  Fragments,May15~June9,1858

1月25日に始まった日米条約談判は2月27日の14回をもって議了し、ハリスは条約浄書を日本側に渡す。本書がカバーするのはここまで。ハリスは直後体調を崩し静養のため下田に戻った。

幕府は60日以内の調印を約したが、条約勅許申請が認められず遅延するが、無勅許調印を決意した幕府は、7月29日神奈川沖に来航したポーハタン号上で調印に応じることになる。

直前に下田に入港した軍艦ミシシッピー号からハリスが入手した、「英国がインド反乱(セポイ(ジハーヒー)を鎮圧した」、あるいは、「英仏連合軍が清国を屈服させた(第二次アヘン戦争)」等の情報を知らされ、幕府は列強との条約締結を急ぐことになった。

ハリスは第7条の開港区域に日本側が大幅譲歩したことに驚いている。(岩崎洋三記)