歴史部会:9月部会報告『巴里籠城日誌』

9月18日 参加者20名で、『巴里籠城日誌』を、原作者・渡正元氏の、曾孫である渡洋二郎氏に、現在語訳に携わった真野文子氏と石川優美子氏(二人とも、やはり曾孫)のご参加を得て講演をいただいた。

渡正元は広島藩士の子で、脱藩して蘭学や仏語を学び、千両を豪商から借金して岩倉使節団に先立ち、単身軍事研究のため自費留学して、パリ滞在中に普仏戦争に遭遇。パリ市内に籠城して戦争中のパリ市民の姿や戦争の全容を活写した稀有な記録を残した。その132日間の籠城記録は、パリ開城後にパリ入りした大山巌ら観戦武官に提出、日本人による初めての海外戦争の詳細記録として早速、本国に送られて外務省より出版された。後に、パリコンミューンを描いた大佛次郎の名作『パリ燃ゆ』は、これに刺激され、且つ参考にして書かれたともいわれる。

仏国入りした岩倉使節団とも会い、早速山田顕義兵部理事官に随行して、各国軍隊の調査・研究に当たる一方、使節団随員とも幅広く付き合った(別途、漫遊日誌に詳しく記載)。更に井上毅を通じて、立憲君主制の採用に当たり、プロイセンをお手本とすべきとの建白書を岩倉具視に提出している。大山巌とはウィーン万博にも同行した。井上毅は、開成所林正十郎のもとでフランス語を学んだ親友であった。パリでは大山巌に先立つ山縣有朋、西郷従道ら軍事視察団とも同宿・交流した。前田正名、太田徳三郎らとは共に籠城した。

帰国後は、山縣の徴兵令に反対して司法省に転じた山田顕義に従って、司法関係に主に従事し、元老院議官三羽烏の一人に数えられた。

渡の分析による、普仏戦争の敗因は、①激動病のフランス人の国民性②敵を侮り、傲慢になったナポレオン③将師の選任を誤ったこと④兵士・武器の準備が悪かった⑤情報戦でスパイを使わなかったなど、適切な観測を、英紙、独紙など新聞を精査して克明に記している。やはり、普仏戦争の体験が、その後の日本の政策に影響を与えた経緯が読み取れる。遅れてきた帝国主義のドイツは、軍事・経済で着実に英仏に追いついて来ており、明治維新と同時期に、独立したばかりのプロシア(ドイツ)の立憲君主制に範をとったのは、あの時代の必然であったのだろう。

(文責:小野博正)

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です