歴史部会:5月部会報告『今、ジョン万次郎を語るー「漂巽紀畧」〈ひょうそんきりゃく〉出版を期に』

日時:令和元年5月20日 13:30~17:00
場所:国際文化会館401号室
演題『今、ジョン万次郎を語るー「漂巽紀畧」〈ひょうそんきりゃく〉出版を期に』

中浜万次郎を語るには最適のお二人、北代淳二氏(東京・国際ジョン万次郎協会会長)と谷村鯛夢氏(漂巽紀畧・現代語訳者・俳人)をお招きしての講演会。参加21名。

土佐の漂流漁民・ジョンマンことジョン万次郎は、鳥島に漂着して、捕鯨船ジョン・ハウランド号の船長・ホイット・フィールド船長に、仲間4名と共に救出された。

捕鯨に従事した後、仲間をハワイに残して一人米国東岸のフェアーヘブンで三年間教育を受けた。更に六年余の捕鯨船経験を積んで、カルフォルニアの金鉱で600ドルを稼ぐと、「二重に鍵をかけられた祖国」日本の門戸を開こうと思い立って、10年ぶりに沖縄に決死の上陸を試みる。

ペリーの黒船が、日本の鎖国大平の夢を覚ます二年前のことである。琉球での取調べの後、実効支配の薩摩藩に移送され藩主・島津斉彬に西洋事情と船の技術を伝える。長崎奉行所の聴取を経て、帰り着いた祖国土佐藩で絵師・河田小龍の聞き語りで完成したのが「漂巽紀畧」である。この情報は、即座に江戸幕府に伝えられて、オランダ特段風説書でペリー来航を知らされていて、米国情報を渇望していた老中・阿部正弘に召され、幕府直参に取り立てられ中浜万次郎を名乗り、江川英龍に預けられる。不幸にして、水戸の徳川斉昭が、米国育ちの万次郎を米国有利の通訳をしかねないと警戒したため、米国との交渉通弁には起用されることはなかったが、佐久間象山、吉田松陰、大槻盤渓(万次郎登用を建言)、ペリーの交渉役の先頭に立った林大学頭(復齋)や雄藩藩主・藩士らへ多大な影響を与えた。

咸臨丸の教授方通弁として、太平洋横断を助け、薩摩藩開成所や土佐藩教授、明治政府開成学校教授など歴任する。捕鯨船への夢は生涯持ち続けたが、日本では実業化できなかった。米国の国旗や通貨に表記されている、E Pluribus Unum(多くのものが集まって、一つ=ラテン語で多様性の中の共生)はグローバル・マインドの万次郎の信条そのもので、John Mung Japaneseと自署し、日本人を意識した最初の日本人であろう。身分制の厳しい幕府が、能力のある万次郎を起用し、外国情報を求めて言論の自由を開いたことは、結果的に日本を開国に導いた陰の主役であり、明治維新での下級武士の人材登用にもつながる画期を開いた人とも思われる。それにしても、万次郎の聞き語りで見せた細部までの記憶力の正確さと、たった三年の教育とは思えない端正な英語文章力や的確な文明把握は驚嘆に値する。因みに当時の捕鯨は、最先端のグローバル産業であり、船は技術の先端であり国際化(民族共生、能力主義)の場でもあった。(文責:小野博正)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です