「活動内容」カテゴリーアーカイブ

部会、催しの報告(非会員用抜粋)
旧「部会/催し 報告」

実記輪読会:4月部会報告 第18巻『費拉特費府ノ記』

日時:5月8日(水)13:10~14:50
場所:日比谷図書文化館4FセミナールームA
内容:第18巻『費拉特費府ノ記』
ナヴィゲーター:岩崎洋三

第18巻『費拉特費府ノ記』を、輪番で音読し、ナヴィゲーター役岩崎が、多くの写真や地図を盛り込んだ22コマのパワ―ポイントを使って、使節団訪問時の風景を再現しながら解説した。

使節団は、長引いた米国での条約改正交渉に見切りをつけて、フィラデルフィア、ニューヨーク、ボストン経由、次の訪問国英国を目指すことを決断し、ワシントンを去るが、本章は、その途上2泊3日でフィラデルフィアに立ち寄った記録。

ワシントンから使節団に同行したワシントンDC知事Henry Cookeが、フィラデルフィア近郊の同氏の実兄で金融家のJay Cookeの豪邸”Ogontz”に案内し、使節団はそこに2泊した。

フィラデルフィアは、独立宣言が調印され、当初アメリカの首都だったことから、使節団は議事堂や造幣寮等を見学して多くを学んでいるが、金融家で独立戦争の北軍軍資金調達を一手に引き受けて勝利に貢献したJay Cookeの『大小ノ画額各房ニ充ツ』50室を超える広壮な邸宅で、同氏から西海岸とミネソタ州を繋ぐ4000マイルに及ぶ鉄道開発や、スペリオル湖の港町ドゥルースを第二のシカゴにして、セントローレンス川経由大西洋に至る3700マイルにも及ぶ水運を繋げて両大洋を結ぼうとの巨大構想を聞いて感銘している。

後日談だが、欧州における普仏戦争終結後のインフレと、アメリカの鉄道等の過剰投資から1873年恐慌が勃発し、Jay Cookeの銀行は倒産、Ogontzは100人規模の女学校になった。(岩崎記)

GJ研究会:4月度部会報告 「バチカンが世界に果たす役割」

日時 2019.4.20
場所 国際文化会館 401号室
演題 「バチカンが世界に果たす役割」
講師 上野 景文氏(文明論考家 元駐バチカン大使)
1970年東京大学教養学部卒、外務省入省、1973年ケンブリッジ大学経済学部卒業(後年修士)、1999年在メルボルン総領事、2001年駐グアテマラ大使、2006-10年駐バチカン大使、2011-17年杏林大学客員教授、 主要著書「バチカンの聖と俗」(かまくら春秋社)、「現代日本文明論 / 神を呑み込んだカミガミの物語」(第三企画)

①イントロダクション
外交官の仕事を通じ、長年にわたり、「文明とは何か」、「日本とは?」につき想を巡らして来た。今は「文明論考家」として発言している。キリスト教は、西欧文明の根っこを形成するが、バチカンそのものがひとつの「文明」をなしている。日本ではアニミズムが強く、ものごとの本質は、黒か白ではなく、その中間の灰色のところにあると考える人が多い。無理に黒白をつけるのは「不自然」と考える。アニミズムは「超多神教」と言えるが、このアニミズムを語る自分としては、対極にある「一神教」の総本山であるバチカンに乗り込んで「文明対話」を行いたいと考え、赴任させて貰った。バチカンでは、「Buddhistic Shintoist」 と称して「対話」したが、バチカンは、優秀な頭脳が多く、思った以上に「知的刺激」に富む。

②国家としてのバチカン
バチカンは2つの国名――HS(Holly See:法王聖座)、VCS(バチカン市国)――を有する。HSは、2000年の歴史性(継続性)と世界性を有する。カトリック世界の司令塔であり、法王がその権威と権力を掌握。他方、VCS。イタリア国王が伊統一に際し法王領を取上げたこと(1871)から、法王はその後60年に亘り伊国王との関係を断った(ローマ問題)。結局、1929年のラテラノ条約により「講和」が実現。VCSは、この時出来た国であり、HSを安置する「受け皿」のようなものであるが、90年の歴史を持つに過ぎず、HSのような世界性もない。なお、外交を手掛けるのはHSであり、VCSではない。HSは、宗教機関でありながら、国家でもあると言う意味で、「二重性」を有する(以下、本日は、HSと言うべき場合も、便宜的にバチカンと呼ぶ)。

③宗教機関としてのバチカン
宗教機関は、総じて、分裂する傾向が強い。その中で、世界性と歴史性を維持しているバチカンは、「特異」な存在。この点を理解するカギは、法王の「絶対」性。法王は「神と人間の中間的存在」。この法王の権威の下に、カトリック世界は「統一」、「一体性」を維持して来た。

④法王の悩み、バチカンの問題点
バチカンの直面する最大の問題は西欧などの「世俗化」、「教会離れ」。特に西欧圏はその傾向が強い。たとえば、フランスでは、この60年間に、司祭の数が1/10に激減。カトリック教会の将来は、中国、インドなど、非西洋圏がカギを握る。ところが、バチカンでは、依然として、「バチカン中心主義」、「欧州中心主義」が強く、保守性が強い。この保守性を改めるべく、第二バチカン公会議(1962-65)で大改革を断行した(例えば、典礼はそれまでラテン語で行われていたが、各国語で行なってよいと言うことになった)。加えて、ブラジル、グアテマラなどで、カトリックのシェアがプロテスタントに食われていると言う問題もある。

⑤フランシスコ法王の登場
現フランシスコ法王は異例づくめの人。初の南米出身者であり、初のイエズス会出身者。その意味で、カトリック世界の「周辺」を体現する人物。法王は、文明的レベルで、4つの挑戦を志向―――(i)「聖職者中心主義から「信者中心主義」への転換、(ii)「排除の論理」から「包摂の論理」への転換、(iii)「北」から「南」へのシフト、(iv)「現代文明」批判(米国流グローバリズム批判、環境問題を巡る「北」批判など)――している。イエズス会士的DNAが、そうさせている面もある。

⑥法王の国際的「存在感」
法王の国際的な存在感の根っこには、4つの力がある―――(i)メッセージ力(=平和の宣教師、モラル・オーソリティ)、(ii)権威の力(バチカンは 西欧の「奥の院」)、(iii)数の力=13億人の信徒、(4)外交の老舗であること 。因みに、ブッシュは7回、プーチンは4回(当時)「法王詣で」。ブレアは、法王のメッセージ力の活用に腐心。西洋以外でも、イランも法王の利用に腐心。中国のバチカンとの「暫定合意」(2018年)も、法王の権威を利用しようとの計算によるもの。

⑦宗教間対話
法王は、宗教対話にも熱心。「キリスト教対イスラム教」の対立と言う構図を持ち出す人がいるが、本来問題なのは、「反宗教勢力」と「伝統的宗教人」との対立。イスラムもキリスト教も等しく「反宗教勢力」の被害者。

⑧法王訪日
38年ぶりの法王来日。貧困、過剰消費、環境、移民などの問題につき、強いメッセージが発せられよう

⑨日本人から見たカトリック
バチカンで、ある長官と遠藤周作の話をした。遠藤の小説「深い河」の主人公(神学生)がフランスに留学した際、(日本人は自然を大切にするのに対し)西欧人は自然にきつく当たる、とこぼしたところ、かれらから「君の信仰は汎神論であり、キリスト教ではない」と批判された―――と言うストーリーを紹介した。すると、長官は、「それはフランスのカトリックだ。イタリアでは違う。アッシジの聖フランチェスコは、鳥、花はもとより、風にまで語りかけたではないか!!」とのコメントをくれた。

⑩西洋では、民主主義・人権は「宗教」
日本は西欧と理念、価値観を共有するというが、無邪気にそう言うのは問題。日本人は、外国で(人権蹂躙などの)不正義が行われても、不愉快にならない。西欧人の場合、不正義の報を聞くと、宗教的パッションに火がつき、「怒る」人が多い。つまるところ、日本は(西洋から)理念こそ輸入したが、宗教的パッションは輸入しなかった。

質疑応答も含め、大変含蓄に富んだお話をしていただき、その後の懇親会でもさらに興味深い話を伺った。(文責 塚本 弘)

I-Café-lecture:4月開催報告『平成政権史―そして安倍政権の今』

日時:2019.4.2 13:30~16:30
場所:日比谷図書文化館4階スタジオプラス
講師:芹川洋一氏 日本経済新聞論説フェロー

芹川氏は1979年から2005年まで日経新聞の政治部に所属、その後も政治部長、論説委員長などを歴任し、一貫して踏み込んだ政治報道を貫いて来られた。昨年10月からはBSテレ東の『NIKKEI経済サロン』のキャスターとしてもご活躍中だ。テーマに沿ったご著書も、『平成の政治』、『平成政権史』、『政治が危ない』等少なくない。平成の終わりで、新元号制定や統一地方選挙関連のお仕事でご多忙の中、当会に時間を割いていただけたのは、大変幸運だった。

芹川氏は、折角政権交代を実現した民主党が政権運営に失敗して政権の座から滑り降りた後、野党が民主勢力の結集叶わず弱体化し、自民党長期政権を許容したという。現在の5政党の体制は、昭和の自民、社会、公明、民社、共産とほとんど一緒とし、自民党長期政権化の55年体制に戻ったともいう。そして、野党が旧体制を打破できるか否かは、今夏の参院選で野党が結集して一人区を制することが出来るか否かにかかっていると。

平成の政治に大きなインパクトを与えたものとして、芹川氏は小選挙区制の導入、上級官僚任免権を含む強すぎる官邸、政治資金規正法に伴う派閥の勢力後退で、養成機能が衰え国会議員の専門性が低下、地方議員が相対的に優位に立つ局面のが目立つようになったと。もし、野党が今後もバラバラのままだったら、待っているのは辞世の句のみと厳しくむすんだ。

講演後の質疑応答に丹念にお答えいただき、セッションが40分も続いたのは近来稀だった。それほど、お話が具体性を帯びて分かり易く、真剣な議論を呼び起こしたということだろう。芹川氏がお帰りになった後も、打ち上げでホットな論議が続いた。(文責岩崎洋三)

I-Café-music:3月開催報告(第32回)

3月10日(日)14時~15時
場所:西荻窪 スタジオ&ギャラリー『響』

第一部 映像とお話では、DVD『岩倉使節団の米欧回覧』の
第7章「小国の智恵」を見た後、毎日新聞編集委員森忠彦氏に
『EUに学ぶ外国人労働者の問題点』
と題して、その背景や歴史、問題点などをお話しいただきました。

シリア等から大規模難民が押し寄せる欧州各国は、雇用・宗教問題が深刻化し難民受け入れに消極姿勢に転じている。一方、生産年齢人口の減少から労働力不足に見舞われている日本は、昨年末改正入管法を成立させて、2017年段階で128万人いた外国人労働者を増やす姿勢を明確にした。近隣住民との摩擦や、社会福祉問題・移民問題も含めて、問題深刻化を回避するには、相互理解・共存が不可欠と結んだ。

第2部 ミニコンサートでは、「あの山を越えて」のテーマでゲーテの教養小説「ヴィルヘルムマイスターの修行時代」の中のミニヨンの歌「ただ憧れを知る者だけが」を歌詞にした異なる作曲家による歌曲を、森美智子さん武藤弘子さんのソプラノで聴き比べた他、「サウンドオブミュージック」 から 「エーデルワイス」「クライム エブリ マウンテン」を i cafe singersも加わって歌い、 ヨーロッパの人達の、山を越えた所にある遠い異国への憧れの気持ちに思いを馳せた。

第三部懇親会では、講師の森さん、今回もご参加下さったコルカット先生などに活発な質問が飛び、それに丁寧にお答えいただき、今回も賑やかで和やかな、そして贅沢な時間になりました。(岩崎洋三記)

 

英書(ハリス)輪読会:3月開催報告

日時:2019.3.13(水)13.10-14.50
場所:日比谷図書文化館4階セミナールーム
範囲:終了総括と特別講演

  1. The Complete Journal of Townsend Harris 読了。
    2017年2月以来毎月30ページ弱を交代で音読しながら読んできたが、24回を要した。
  2. 英書輪読会の3冊目のテキストThe Complete Journal of Townsend Harris を読み始めたのは2017年2月、初回ナヴィゲーターは今は亡き小坂田國雄氏だった。

途中息抜きに「The Barbarian and the Geisha」(日本名:黒船)という映画を見た。ハリス役がジョン・ウェイン、下田奉行役が山村聰という、1959年ジョン・ヒューストン監督作品だ。病弱のハリスを演じるにはウェインはどうもという意見もあったが、下田の玉泉寺で通訳のヒュースケンと苦労する光景など、大いに楽しめた。

  • 斎藤純生氏特別講演
     日本文研出版社主で、2001年に『米欧回覧実記』の英訳『Iwakura Embassy 1871-73』を世に出した斎藤純生氏をお招きし、英訳版出版のご苦労や、本にもなっている『洋書流通と翻訳出版の世界』をお話いただいた。当会は英訳実記全5巻約2500ページを、2003年1月から11年2カ月かけて読んだのは懐かしい思い出だ。同氏は岩倉使節団の事績を数多くの低開発諸国に知ってもらい参考にしてもらおうと『Iwakura Embassy 1871-73』を数多く寄贈されて来た由で、心強い限りだ。

3)今後の英書輪読会
4月から4冊目のテキストとして、William Elliot Griffis,”Verbeck of Japan; A Citizen of No Country”全376ページを読みます。第一回は4月17日(水)です。詳しくは、ホームページの『フルベッキ輪読会』が4月スタートします』をご覧ください。
(岩崎洋三記)

英書(ハリス)輪読会:2月開催報告

日時:2019.2.13日(水)13.10-14.50
場所:日比谷図書文化館4階セミナールーム
範囲:Journal 5,pp.541-558(Feb.17,~Feb.27,1858)  Fragments,May15~June9,1858

1月25日に始まった日米条約談判は2月27日の14回をもって議了し、ハリスは条約浄書を日本側に渡す。本書がカバーするのはここまで。ハリスは直後体調を崩し静養のため下田に戻った。

幕府は60日以内の調印を約したが、条約勅許申請が認められず遅延するが、無勅許調印を決意した幕府は、7月29日神奈川沖に来航したポーハタン号上で調印に応じることになる。

直前に下田に入港した軍艦ミシシッピー号からハリスが入手した、「英国がインド反乱(セポイ(ジハーヒー)を鎮圧した」、あるいは、「英仏連合軍が清国を屈服させた(第二次アヘン戦争)」等の情報を知らされ、幕府は列強との条約締結を急ぐことになった。

ハリスは第7条の開港区域に日本側が大幅譲歩したことに驚いている。(岩崎洋三記)

歴史部会:3月部会報告「幕末・維新期の中国人米国留学生と日本人留学生」

日時:平成31年3月31日 13:30~16:30
場所:国際文化会館 401号室
講師:亜細亜大学  容應萸教授

当日が亜細亜大学教授としての最終日にあたり明日からは名誉教授に就任される本会会員の容先生に幕末・維新期における日中の米国留学生の交流及び比較についてレクチャーして頂いた。
先生にお願いして中国人留学生の郎琅さん(中国延辺出身)今年亜大で博士を取得 ,そして王雨芊さん(中国青海出身)去年亜大で修士号を取得し現在は東大大学院の研究生 のお二人に参加して頂いた。当日は容先生含め全部で20名の参加者で、内女性は6名だった。

容先生プロフィール:
先生は中国広東省広州市生まれで、香港の真光女子高校卒業後に留学生として国際基督教大学(ICU)を卒業後、コロンビア大学で修士号、東京大学で社会学博士号を取得された。National Univ of Singapore専任講師を経て亜細亜大学教授と成り副学長を務められた。ハーバード大(2000-2001), イエール大 (1974-1975; 2012-2013)で訪問研究を行われた。

内容:
清政府は1872年から4年連続、毎年30名(計120名)の官費留学生「留美幼童」を米国に派遣した。この派遣計画の立案者であり、初代「幼童出洋肄業局副委員」(留学生副監督)を務めた容閎は中国人としてはじめて米国の大学を卒業した中国人留学生である。

研究を始めた動機はサミュエル・W・ウイリアムズ、S.R.ブラウン、B.G.ノースロップと中国人の容閎、「留美幼童」そして吉田松陰、芦原周平、国友滝之介、山川捨松との関係に興味を持ったからである。
研究の目的としては;
1.米国人と日中両国の留学生が繋がりを持った背景や経緯を明らかにする。
2.日中留学生の間に交流・交友関係があったかどうか、その原因は何であるかを考察する。
3.同時代にイェール大学にいた日中留学生を比較し、両国が近代化において「同じ出発の時点」に立ったといえるかを検証する。

更には米国人と日中両国の留学生が繋がりを持った背景や経緯を明らかにし、日中留学生の間に交流・交友関係があったかどうか、その原因は何であるかを考察する。又、同時代にイェール大学にいた日中留学生を比較し、両国が近代化において「同じ出発の時点」に立ったといえるかを検証する。

清朝の西洋探求を目的とする使節団
1866年3月から11月、海関の総税務司ハートと斌椿(ビンチュン)らによる欧州のフランス、イギリス、オランダ、プロイセン、デンマーク、スウェーデン、フィンランド、ロシア、ベルギーの九か国訪問。

1868年2月から1870年10月、清朝最初の遣外使節団として、バーリンゲーム(蒲安臣)使節団(約30名)が派遣される。公式訪問国:米国、イギリス、フランス、ノルウェー、スウェーデン、デンマーク、オランダ、プロシア、ロシア、ベルギー、イタリア、スペイン(バーリンゲームは1870年2月にロシアのセント・ペテルブルグで客死した。)

天津条約の改訂をめぐって,アメリカ・イギリス・フランス・プロイセン・ロシアなどを訪問し、列強諸国に〈協力政策〉の必要性を改めて確認させる事が目的だった。

米国は『中米追加条約』(俗に『バーリンゲーム条約』といわれる)を調印した。清を対等な国家として認め、清の領土の割譲に反対、さらに「清とアメリカは、両国民の往来・留学・貿易・居住に関して、これを妨げず、相互の利益を図る」と規定したこの条約は、後に実現して学童120名のアメリカ留学への道を切り開いた。一方、米国は大陸横断鉄道の建設のための中国人労働者を得ることができた。

岩倉使節団と比較すると物質文明や風俗習慣に対して強烈な関心を持ったが社会制度や精神文明の面での関心は希薄だった。
綿密な計画がみられず岩倉使節団に見られる緊迫感や使命感は感じられない。

清政府による留美幼童の派遣:
1847年、容閎(1828-1912)はS.R.ブラウン牧師に随行して渡米1850年にイェール大学に入学し、1854年に卒業
1870年、留美幼童派遣計画を提案
1872年から4年連続、毎年30名(計120名)の少年がアメリカ留学に出発し、容閎は留学生副監督と駐米副公使に任命された
1881年、総理各国事務衙門は留学生に帰国を命じたため、留米計画は中断した。

アメリカ・ニューイングランドの「知東洋派」の名前を挙げると

サミュエル・R・ブラウン、(Samuel Robbins Brown)1810-1880
ノースロップ(Birdsey G. Northrop) 1817-1898
アディソン・ヴァンネイム(Addison Van Name)1835-1922
J.H.トゥウィッチェル(Joseph H.Twichell)1838-1918
S.ケプロン(Samuel Capron)1832-1874.1.4
レオナルド・ベーコン(Leonard Bacon)1802-1881
達が居る。 

山川捨松と留美幼童
譚耀勲 (1872第一回留美幼童)
1880 ベーコン牧師は中国へ強制送還の処分から脱走した譚耀勲に部屋を提供し生活を支援した。
蔡廷幹(1873第二回留美幼童、清末・民初の海軍軍人、政治家)1895年、ノースロップ訪日。蔡廷幹は日清戦争で捕虜となる。ノースロップは捨松を通して大山巌にも援助を求め、しばらくして、蔡は牢獄から「脱走させられた」

日本人留学生と中国人留学生の相対比較
家庭的背景
日本人留学生はほぼ全員士族の出だが中国人留学生は伝統的士紳階級ではなかったが、「赤貧洗うが如き」ものもいなかった、農家か商家の出で殆ど広東省の出身

渡米時の年齢と動機
日本人学生の平均年齢:20.2歳で留学動機は日本の近代化
中国人学生の平均年齢:12.9歳で留学動機は本人の見識よりは親・保護者の考え、西学習得による社会地位の上昇だった。

イェール大学入学までの教育背景
日本人留学生
早期の留学生は現地で中等教育を受けてから、後期は大学南校からは直接大学に編入
中国人留学生はホームステイ → 公立学校 → 大学

帰国後の職業
日本人学生:教育者・学者(8)、官僚(3)、実業家(3)、政治家(2)、弁護士、銀行家、貴族院議員(1)、政治家・教育者・銀行家

中国人学生:外交や通訳関係官僚(11)、アメリカ領事館通訳(2)、ジャーナリスト・著述業(2)、技師(2)、海軍、教育者、商人(1)商業・鉱業・鉄道・文筆業・外交・大学長

挙国一致で近代化を急ぐ日本では帰国留学生がすぐ要職につくことができたのに対し、中国では一部の洋務担当高官の配下となって働いたのであった。留美幼童が権力の中枢に近づくことができたのは20世紀に入り、清政府が新政の実行に踏み切ってからである

今後の課題

1.新しいコミュニケーションの土壌があったにもかかわらず、日中両国の留学生により深い交流や連帯がみられなかったことが、その後の日中関係の発展とどのようなかかわりがあったかを知る。

2.同じ出発点に立っていた留学生を有しながらも、中国の近代化事業は日本に遅れを取っていた。このことが、日本と中国の近代化の比較に、どのような意味を有したかを探りたい。

質疑応答
日本人留学生と中国人留学生の差は何故生じたかという疑問に対しては中国の場合は中華思想の影響で海外から学ぶものは少ないという認識だったのでは、あるいは科挙が実施されて居たので留学の重要性が少なかったという意見が出た。

他方日本は近代化が急務だったので多くの海外留学生が新政府に登用された。

留学生から見た日本人観として、本音と建て前が違うのではないかという耳の痛い指摘があった。

まとめ
今まであまり知られて居なかった幕末・維新期の日本と中国の留学生の交流について知る機会を得た事は貴重だった。
先生が実際に歩かれたニューヘヴンの山川捨松のステイ先から永井繁子のステイ先までの地図や当時の家、ブラウン牧師の墓など多くの写真を見せて頂き当時の留学生達の思いに心を馳せる事が出来たひと時でした。

佐藤かおり(卯月かいな)さんから従来の青山霊園での甲東祭は行われなくなったので代わりに5月14日にボランティアで大久保利通のお墓の掃除を行うイベントの宣伝をして頂いた。

会の終了後に有志で麻布十番にある鍋島家の菩提寺である賢崇寺にある久米邦武のお墓まいりを行った。川島なお美の墓は直ぐ見つかったが久米家の墓所は奥の方にあり皆で探し回りやっと見つける事が出来た。

以上 文責 吉原重和

実記輪読会:3月度部会報告「第16巻 北部巡覧の記 下」

日時:2019.3.13 13:10 ~ 14:50
場所:日比谷図書文化館 4F セミナールームA
ナビゲーター:吉原重和

行程
明治5年(1872年6月15日)
・5月10日 ナイアガラのホテルを出発、オンタリオ湖に沿って来た線路を戻る。10時にロチェスターを通過、シラキュースを経てサラトガの「グランドユニオンハウス」着

・5月11日 サラトガ湖を廻り山上で休憩、その後車で薬泉に行く。

・5月12日 サラトガを出発、ボストンに向かい夜8時にボストン着

・5月13日 ボストン市内回覧、2時から太平楽会に赴く。

・5月14日 ボストン港を船で回覧、2時から再度太平楽会に赴く。

・5月15日 ボストンを9時に発ち昼にスプリングフィールド着、小銃製造場に至る。夜12時にNYCへ帰着。

・5月16日 セントラルパーク回覧、夜9時過ぎの汽車でワシントンへ戻る。

画像資料はこちらをクリックして下さい。

吉原記

 

 

 

i-Café≪大仏次郎『天皇の世紀』を見る会≫終了報告

『天皇の世紀』は朝日新聞が明治100年に因んで昭和42年に連載をスタートさせた大仏次郎の「史実と信ぜられるものに従い、克明すぎると自分でも見るくらいに、事実のブロックを積み重ねて行って、それがどんな意味を物語っているかを書き綴った」長編で、後に朝日放送で13話の連続1時間物テレビ映画として放送されました。

『見る会』は、明治150年の年に、この『天皇の世紀』13話を7回連続で見ながら、明治維新や岩倉使節団の意義を改めて考えようと昨年7月シェア奥沢でスタートしました。
2回目以降は会場を日比谷図書文化館4階のセミナールームに移し、本年2月の7回目をもって無事終了しました。

1時間物のテレビ映画と言う限界は当然あるものの、映像の迫力は絶大で、文字通り生きた歴史を学べました。毎回丹念な説明で理解を促進してくださったナヴィゲーターのみなさんに心から感謝申し上げます。

それにしても、大佛次郎が筆半ばで倒れ『天皇の世紀』を完結できなかったことが心残りです。(岩崎記)

     
開催日・場所 タイトル(各巻48分) ナヴィゲーター
1 7月22日(日)       @シェア奥沢 第一話 『黒船渡来』~太平の眠りを覚ます4隻の黒船    

第二話 『野火』  ~変革の種を蒔いた吉田松陰

半澤健市氏
2 8月21日(火)       @日比谷 第三話 『先覚』~砲術開祖・高島秋帆の執念       

第四話 『地熱』~日米修好通商条約締結の波紋

岩崎洋三氏
3 10月5日(金)       @日比谷 第五話 『大獄』~安政の大弾圧と桜田門外の変        第六話 『異国』~咸臨丸による太平洋横断の船旅 小野博正氏
4 11月13日(火)      @日比谷 第七話 『黒い風』~相次いで起こるテロリズムの嵐        第八話 『降嫁』~公武合体に暗躍する人々 芳野健二氏
5 12月11日(火)      @日比谷 第九話 『急流』~寺田屋事件の裏で起きた悲劇        第十話 『攘夷』~生麦村で白昼起きた異人斬り 芳野健二氏
6 1月17日(木)      @日比谷 第十一話 『決起』~奇才・高杉晋作の短すぎた生涯        第十二話 『義兵』~土佐勤皇党の斃れた志士たち 小野博正氏
7 2月21日(木)

@日比谷(最終)

第十三話 『壊滅』~時流に乗り遅れた天狗党の悲劇 塚本弘氏

 

歴史部会:2月度部会報告『もう一つの明治維新はあり得たのか―徳川慶喜を素材として』

日時:2019.2.26 13:30~14:30
場所:国際文化会館 404号室
参加者:16名
プレゼンター:小野博正(歴史部会幹事)

昨年のNHK大河ドラマ『西郷どん』の徳川慶喜の悪役ぶりに義憤を覚え、慶喜の名誉挽回にと、雄藩による明治維新でなかったら、どんな明治の道があったかを考えてみた。保阪正康氏によれば、4つの可能性があった。①帝国主義的国家(これが大日本帝国憲法となった現実の歴史)②帝国主義的道義国家③自由民権国家④連邦制国家である。

明治新政府が天皇大権の帝国主義国家を選んだのには必然性があった。王政復古で幕府を朝敵にした時から、国民国家の実現には、天皇を中心に置くしか道はなかった。岩倉使節団はアメリカで共和制国家をみたが、これは幕藩体制を思わせる形態と思えたろう。イギリスの立憲君主制は理想的にみえたが、時あたかもヴィクトリア女王の権勢が議会に削がれかけていて、これでは天皇の地位がいつ弱められるかわからない不安があった。

フランスの王政と共和制の揺れ動きは不安定だ。一方普仏戦争でフランスを破ったドイツは、ビスマルクとモルトケを従えて、ヴィルヘルム一世皇帝の遅れてきた帝国主義国家は産業革命にも成功して盤石であった。明治6年と明治14年の二つの政変を経て、ドイツ模倣国家への道は確定した。士族の反乱などを恐れて、讒謗律、集会条例、保安条例などで自由民権運動の広がりを徹底的につぶしたので、自由民権国家はあり得ない。

帝国主義的道義国家は、明治天皇がイギリスの立憲君主制に一時期共感していたので可能性はあったがこれも日の目を見ることはなかった。残る、連邦制共和国国家は、江戸幕府がそのまま近代化に進んだとき、その可能性が高かった。大政奉還のとき、慶喜は選挙による雄藩とその家臣による二院制議会と、大統領制を頭において西周や津田真道らに検討させていた。これが実現していたら、緩やかな近代化もあり得た。

最後に、慶喜である。味方になるべき四侯会議で、四侯を大バカ者呼ばわりして敵に回し、思想的倒幕派であった勝海舟を、幕府最後の終幕に起用したのはなぜか。慶喜自身が、倒幕(終幕)を当初から考えていたとすれば、すべてが腑に落ちる。彼は側近に、300年の幕府もあと一年も持つまいと語っており、旗本が戦うことを忘れて居ることを嘆いていた。将軍職辞退も恐らく本気だったのではないか。何せ、水戸家家訓は、将軍家に弓を引いても、朝廷には弓を引くなである。彼の血には、武士と公卿の血が流れている。徹底恭順して、明治になってからも、全く政治を語らず、己を語らず。只ひたすらに趣味の世界に没頭したのは、無言のうちに、そのことを語ってはいまいか。これは歴史専門家が決して語らぬ見方である。(文責:小野博正)

I-Café-Music:1月開催報告『ネットワークという未来』

第32回i-Café-musicは1月13日(日)14.00-17.00
西荻窪のスタジオ&ギャラリー『響』にて開催された。

第一部「映像とお話」

ご出席の中にプリンストン大学名誉教授マーティン・コルカット先生がいらっしゃったので、急遽映像に代えて岩倉使節団のアメリカ訪問を短時間語っていただいた。次いで、朝日新聞OB服部桂さんに『ネットワークという未来』と題してご講演いただいた。

服部さんはインターネット以前の社会でのメッセージ伝達の進化、インターネット誕生してからの50年、インターネット以後の世界にまたがる長いレンジでのメディアの進化とパースペクティヴを、58コマのパワーポイントを駆使して分かり易く説いて下さった。

早稲田大学工学部のご出身の服部さんは、1978年に朝日新聞に入社し、Asahiパソコンの立ち上げやインターネット記事連載に関わる一方、その世界では有名なMITのメディア・ラボに特別研究員として3年間身を置いた方で、インターネットを語るに服部さんは最も相応しい方の一人だろう。

1869年に米軍中心に開発されたAPRAネットでインターネットが誕生して50周年だそうだ。同じ年にアポロ11号が宇宙の暗闇に浮かぶ地球の写真を送ってきたが、それを見たスティーヴ・ジョッブスが、世界の人をネットワークで繋いであげようと一念発起し、数年後パソコンを開発、後スマートフォンを世に出してあっという間にインターネットの大衆化を実現した話には感銘を覚えた。

なお、この日は、服部さんの訳書『<インターネット>の次に来るもの~未来を決める12の法則』を読んで服部さんをi-Cafeの講師に推挙してくださった当会お馴染みの仏文学者芳野まいさんが、インタビューワーを買って出て下さり、興味と理解が一段と深まったのは望外の喜びでした。

第二部 ミニ・コンサート

ソプラノ中澤孝子さんが『エビータ』を中心にブロードウェ・ミュージカルの歌を披露して下さった。実は、中澤さんは昨年9月のi-Caféで芳野まいさんのお話「政治とファッション~たとえばジャッキー・ケネディ」に合わせて選曲していただいていたが、直前の台風のため今日まで延期を余儀なくされものだった。
有名な Don’t Cry For Me Argentina などの熱唱に加えて、ペロン大統領夫人として苦労したエビータについての語りにみなさん酔いしれました。i-Café Singers も頑張ってバックコーラスを歌わせていただきました。

第三部交流会

交流会は、インターネット世界を若干でも理解できた喜び、『エビータ』の熱唱に刺激されてか、初めての方々や若い人たちも含めて活発なご発言が続き、今回も大変盛り上がって幕となりました。(岩崎記)

 

 

出版記念講演会『岩倉具視の実像―最新の研究を踏まえて』

日時:2019.2.14  18:30~19:50
場所:日比谷図書文化館4F

『岩倉使節団の群像』出版記念パーティに先立ち、『岩倉具視―幕末維新期の調停者』(日本史リブレット人)の著書のある國學院大學法学部教授・坂本一登氏による記念講演会が、会場満席の60余名の参加者を得て、盛会裡に開催された。下記はその講演要旨である。

岩倉具視の研究は、戦前の徳富蘇峰の維新三傑として『岩倉伝』と、戦後は大久保利謙氏の先行研究があるが、幕末が中心で明治以降の研究は意外に少ない。天皇中心の列強対抗国家を創った人と思われ、人気が薄くなったようだ。

岩倉の人生は、下級公家・堀河家出身で、やはり下級公家の岩倉家養子となり、ペリー来航の1853年に鷹司政通の歌道の弟子となったのが29歳の遅いデビュー(人生五十年時代)。34歳、佐幕派公家に反対する88人列参を主導し、孝明天皇の近習となり、和宮降嫁の行列団長となる早い出世。四奸二嬪の排斥運動による岩倉村蟄居(5年間)の長い隠棲で特徴づけられる。

王政復古の小御所会議当日に、やっと公職復帰した。その会議で慶喜不在に怒る山内容堂を一喝したとの神話があるが、資料に乏しい。明治6年の政変で、岩倉の変節をよく言われるが、若いときの『神州万歳堅策』で、外遊して西洋文明(敵)を知るべきだと述べており、岩倉使節団は彼の本来の考えと言える。岩倉使節団の意義は、旅での共通体験がその後の政権を担う諸士と共通のイメージを得たことが大きい。

西洋化漸進主義と天皇中心国家構想であろう。主役の居ない政府内で、節目節目で調停役としての正しい行動をした人と言える。鉄道インフラの重要性。時代に取り残されかねない、士族や華族への保護制度化に尽力。明治14年の政変に際し、木戸、大久保、西郷亡き後の政権に、伊藤博文を中心に考え、病気で京都に療養中も憲法調査に欧州に送り出した憲法の行く末に心を残しながら、59歳、癌でなくなった。

読み切れないほどの数々の建言書を残した人である。革命の後はそれを維持することが大切で、それに精神誠意腐心した人。

参加者との質問応答では、
①朝鮮半島政策は、井上毅の朝鮮中立化政策に近いこと
②大隈・岩倉の間に使節団派遣に対する確執は特に見当たらないこと
③孝明天皇暗殺嫌疑には、恐らく直接にはなかったこと
④実記に記述の久米の所感は、岩倉の考えをどれだけ反映しているかには、不明と
⑤岩倉具視には、先生の思うよりカリスマ性が高かったはずと信じる等の意見交換があった。

(文責:小野博正)

GJ研究会:2月部会報告「Open Government, Open Data. Open Governance」

日時:2019.2.9  13:30~16:30
場所:国際文化会館 401号室
演題:「Open Government, Open Data. Open Governance」
講師:奥村裕一氏 (東大公共政策大学院教授、元通商産業省官僚)

1)オープンガバメント
近年世界各国でインターネットの双方向性を活用することで積極的な政府・地方自治体の情報公開(オープンデータ)や行政への市民参加を促進する「政府のオープン化(オープンガバメント)」が急速に進展している。講演はオープンガバメントの歴史から始まった。 インターネットの普及を背景に米国のオバマ政権(2009年)の初署名がオープンガバメントのきっかけを作り、その実施について3原則が策定された。

①行政の透明性 ②国民が行政に参加 ③行政と国民が協働

この制度で強調されたことは米国の民主主義の強化と政府の効率性や有効性の向上であり、 このトレンドはこれからの政府と行政のあるべき姿として世界的に受け入れられた。
特にEUや日本でも「オープンガバメント」を積極的に推進している。

2)オープンデータ
行政が持つデータを民間へ積極的に公開する流れが急速に高まっている。 行政が持つデータは個人情報など情報公開法で不開示となっている情報を除き、全て市民と共有する。
これがオープンデータの原則である。 2013年G8サミットで「オープン・データ憲章」が合意された。 オープンデータは世界の潮流になっている。

オープンデータの基本形は
①オープンデータを政府・自治体の標準とする
②データの量と質を改善 ③全ての者に利用可能とする

その目的は、データを公開することは民主主義プロセスの強化であり、民間のデータ活用はイノベーションにつながり、産業育成になる。
日本政府は平成28年度に「官民データ活用推進基本法」を定め、政府及び地方自治は「オープンデータ」に取り組むことが義務づけられた。 この取組により、国民参加官民共同の推進を通じて諸課題の解決、経済の活性化、行政の高度化、効率化などが期待されている。近々、次期国会に向けて「デジタル・ファースト法案」が検討されており、今後デジタル化が急速に進展することが予想される。

3)ポリシーラボのアプローチ
「オープンガバメント」を実現するための新しい政策形成の手法である「ポリシーラボ」が潮流になっている。 英国、デンマーク、米国でこの手法が普及しており、日本も導入を考えている。 行政の政策形成の新しいアプローチで「デザイン思考」と言う新しい手法で課題解決を考える。「デザイン思考」とは人間中心デザインのプロセスを行政サービスの経営に取り入れ、 行政サービスをより人にとって共感を得られるサービスにデザインすることである。ポリシーラボの考え方は日本の地方自治体にも影響を与え、滋賀県は行政運営の政策形成にデザイン思考を活用している。県知事が率先して「県民の本音を起点にした共感に基づく政策形成」を小冊子で発表している。

4)オープンガバナンス
奥村先生が自ら実践している地方自治体がオープンデータを活用し、地域課題を解決するコンテスト「チャレンジオープンガバナンス(COG)」が2016年から毎年開催されている。 全国の地方自治体から市民/学生に解決してほしい地域課題を募集し、デザイン思考やデータ分析を活用して課題を掘り下げ、自分達で解決策に取組むことを基本としている。 2018年度は38自治体から応募があり、今年の3月に最終公開審査と表彰が行われる予定。
過去のコンテストで入賞した色々な解決アイデアが披露され、中でも川崎市の地域全体で子育てを応援する街作り「ファミリーサポートから里親へ」の感動的な課題解決の話は印象に残った。今年も素晴らしい課題解決のアイデアが出ると期待している。
(文責: 小泉勝海)

 

実記輪読会:2月度部会報告「第15章 北部巡覧の記 中」

日時:2019.2.13 13:10 ~ 14:50
場所:日比谷図書文化館 4F セミナールームA
ナビゲーター:吉原重和

行程
・明治558日(1872613日)
ウエストポイントを発ちコロンビヤ号に乗車してハドソン河沿いに北上。

NY州の州府オルバニー着、シラキュースを経て午後11時にナイアガラ村のインターナショナルホテルに着いた。 

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ナイアガラ回覧。アメリカ滝からゴード島に至る。
カナダ滝近くの博物館見学。エジプトのミイラ(ラムセス一世)見学
夕方フィルモア元大統領をホテルに招き夕食会を催した。

画像資料はこちらをクリックして下さい。

吉原記

 

 

英書(ハリス)輪読会:1月部会報告

時:2019.1.9(水)13.10-14.50
所:日比谷図書文化館4階セミナールーム
範囲:pp.513-541(Jan.26-Feb.17,1858)

初代米国総領事ハリスは、着任後1年半近くたってから江戸出府を許され、課題の通商条約締結交渉をやっと始めることが出来た。ハリスは安政4年(1857年)11月江戸に着くと、日本側全権代表井上信濃守(下田奉行)と岩瀬肥後守(御目付)を相手に、通訳のヒュースケンを従えて、翌年1月から2月にかけて14回の談判を重ねて首尾よく成約し、7月神奈川沖のポーハタン号上で調印に漕ぎつける。 

今日の輪読会では、126日の第二回談判から217日の第11回談判までの部分を輪読した。条約談判はハリスが作成した条約草案を、オランダ語を介して日本語訳を作成した上で逐条的に議論される。日本側全権は保守的な諸大名の説得に苦慮していたことから議論が難航した様子が生々しく描かれている。 

開港場数ついては、ハリスが米捕鯨船の便宜も考慮し8港を要求する一方、日本側は3港以上不要と突っぱねたものの、『ここは条約のセバストポール』と踏ん張ったハリスが6港を獲得して決着した。セバストポールはクリミヤ半島の港で、ハリスが日本の港を戦略的に重視していたことがわかる。 

キリスト教礼拝問題では、18561月の日蘭条約で、日本側が出島の建物内での礼拝を認めていたことを事前に調べ、ハリスは外人居留地内での礼拝自由を条約に盛り込むことに成功している。(岩崎洋三記)