「英書輪読会」カテゴリーアーカイブ

英書輪読会:9月部会報告「Verbeck of Japan Chapter V. In Nagasaki: First Impresion 」

日時:令和元年9月6日 15:00~17:00
場所:日比谷図書文化館4F セミナールーム
ナヴィゲーター: 栗明 純生
内容:Verbeck of Japan Chapter V. In Nagasaki: First Impresion Page 80~99

V 章は、フルベッキの来日(1859.11.17)から当初の赴任地、長崎での生活の記録である。
-長崎への入港(1859.11.17)初日の夜の美しい光景の感動的な描写と、新天地での期待でこの章は始まる。

-すぐに2人の宣教師(ジョン・リギンスとMCウィリアムズ)が加わり、家捜しの苦労、新居の家づくり、大工・左官らの仕事ぶり、彼らが口にするブリキ、アンドン、ビードロなどの外来語を聞き留めて楽しんだことなどが語られる。

-12月29日には妻が来日して、新しい伝道の誕生を喜んでいる。

-日本人使用人へのかれの当初の低評価と当時の使用人の雇用事情とが記されているが、その後に、当時の日本人の道徳事情、特に自ら体験した、当時の女性を囲うことに対する寛容さへに対して強く憤慨、批判している。
-キリスト教の伝道によりこれらの弊害が除去され、日本での伝道が成功するであろうとの確信を述べている。
-日本の食糧事情―魚の種類の多さ、肉、野菜の豊富さやパン屋の焼くパンやケーキが美味しいことに触れている。
-長崎は大都市であり人の眼につきにいため伝道活動をしやすいだろうとの観測を記している。
-長崎に先住しているオランダ人の存在や影響力に関して、海外で思われているほど大きくなく、自分の伝道にたいして障害とはならないだろう。
-第1子(エマ・ジャポニカ)の誕生の歓喜と僅か2週間後の悲痛な死と、日本語習得の難しさ、日本語学習の様子の記述。
-長崎での当時のキリスト教の礼拝事情とフルベッキの知名度の向上。江戸におけるヒュースケン暗殺の報とそれによる外国使節の横浜移駐。
-日本の急速な西洋文明の吸収に対する賛辞と布教の難しさに関する悲鳴、丘の上の見晴らしのいい家への引越しと日本の治安(盗難)事情

-日本の投獄システムの急速な近代化-中国方式から西洋化(近代化)へ-かつての拷問に関するエピソード(個人的体験)とキリスト教徒の密告に関する高札の紹介。

-第2子(ウィリアム)の誕生と当時の日本の伝染病に関する歴史と当時の対策の悲惨な状況の説明と、西洋医学の漢方医に対して優勢となりつつある状況と、キリスト教の最終的優越への予想。

-彼が尊敬を集めた要因―「知識は力なり」と「真実は強く、勝利する」に関するーについての言及とー真実の探求者はフルベッキを発見し、彼の生徒となるのだーとの記述でこの章は終わる。
(栗明 純生)

英書輪読会:7月部会報告「日本のフルベッキ 第IV章 A GLANCE AT OLD JAPAN」

日時:令和元年7月10日 15:00~17:00
場所:日比谷図書文化館4F セミナールーム
ナヴィゲーター: 市川三世史
内容:Verbeck of Japan Chapter IV. A GLANCE AT OLD JAPAN: 日本寸見Page 69~79

IV 章は、フルベッキの来日(1859.11.17)までの、赴任先である当時の日本の状態を述べている。

-マルコポーロの東方見聞録(1298年)を見るまで、ヨーロッパ人に日本の存在は未知であった。この見聞録は原本が失われ、内容に大差のある140種類の写本が出ている。だが「黄金の国ジパング」の見出しに、ヨーロッパ人は大きな興味を持った。

-1540-1620 年にある宗派のキリスト教が一時的に流行し、日本中部、南部、南西部、北の仙台まで約100万人の信者を獲得し、宣教師の組織、その後の災害と殉教者の詳細な歴史も素晴らしかったとされている。当時の日本の人口は約3000で一世紀にわたり変化していない。

-1604年に徳川家康はキリスト教の弾圧、外国人の追放、長崎へのオランダ人の囲い込み、すべての外国の理念と影響の排除を始めた。一方で当時の琉球、蝦夷への支配力は微々たるものであった。韓国は元寇の乱の後は、日本の属領とみなされていた。

-1637年には島原の乱において、多くの殉教者が出ている。

-権威の名目上の中心は京都に、武力と財政の中心は江戸にあった。江戸の権威は遠方に及ばず、地方の貴族と大名は世襲の領地を固守していた。この二頭政治あるいは権力の分割に政策的に反対し、大君に敵対する、数千名におよぶ人々もすでに存在した。

-宣教師は仏教を悪魔の宗教とみなし、キリスト教のみが人を救う道であると説いた。仏教の聖職者はこれに団結して対抗し、江戸幕府も極刑をもってクリスチャンを裁いた。

-武家は全人口の十分の一から構成され、知的な文化と精神的な規律を持っていたが、キリスト教にとり最大の、友人となる信者でありかつ敵となる暗殺者であった。

-オランダ船はニュース、科学、装置類、ヨーロッパの原産物、土壌的および精神的な病原菌をもたらした。オ

ランダ語と書物を通じて知識の獲得に努め、医業を営み、さらに新約聖書の中国語版、または中国の船員が持ち込む中国の宣教師の出版物を通じて、キリスト教を求める数百人もの日本人も存在した。そして長崎は外国に対して開かれた唯一の地であった。

-フルベッキと武装した外交官の護衛は、仏教信者と残虐なスパイと、国家の命ずる剣の存在を感じ取ったため、これに対抗する手段を見出す必要があった。

-日本には1000年におよぶ文学で明らかにされた知性があったが、いまだに、国家の思考の種類と品質の総合力

は、古代の大国、または主要ヨーロッパ諸国の仕事と比肩できるランクではないとみられた。
( 市川 三世史)

英書輪読会:6月部会報告「日本のフルベッキ」

日時:令和元年6月12日 15:00~17:00
場所:日比谷図書文化館4F セミナールーム
内容:Ch.ⅢIn the Land of Opportunity(希望の国で)
ナヴィゲーター:大森東亜

この章は、1852年9月オランダをからアメリカに移住し、7年後米国オランダ改革派の日本派遣宣教師に選ばれ、1859年5月、ニューヨークを出航し、同年11月上海を経由して長崎に着くまでの物語である。

フルベッキをアメリカに向かわせたのは、ニューヨーク在住のモラビア派*牧師の義弟ヴァン・デュ-ルの勧めだった。実は義弟自身も、先んじてアメリカのウィスコンシン州グリーンベイにモデルタウンを開発していた同派宣教師タンク師に招かれて渡米していたこともあり、フルベッキはとりあえずその鋳物工場で約1年働くことになった。この時フルベッキは「立派なアメリカ人になる」決意をし、名前をフェルビークから、アメリカ人が呼びやすいヴァ―ベックに改めた。

*モラビア派は、15世紀のチェコの宗教改革者でプラハ大学学長だったヤン・フスに端を発するモラビア兄弟団というプロテスタント教団で、フルベッキの生地オランダのザイストに拠点が移されており、フルベッキも少年期に系統の学校に、教会に通っていた。

その後、アメリカをもっと知りたいと思ったフルベッキは、アーカンソー州ヘレナに移り、土木技師として働くが、奴隷たちが同地の綿花畑で過酷な労働を強いられているのを目にして失望し、奴隷解放論者の説教を聞くために遠路を通っていた。そして、瀕死の大病(コレラと推定)を患ったときに、回復後は聖職者になることを決意する。回復後、義弟の薦めもあって、一端グリーンベイに戻った後、ニューヨーク州オーバーンの神学校で3年間学ぶことにした。

1858年に日米修好通商条約が締結され、翌年には米国宣教師の日本駐在が可能となった時、米国オランダ改革派は最も積極的に、3人の宣教師を日本に派遣することにした。まず選ばれたのは、中国伝道経験の長いブラウン、次いで医師のシモンズが選ばれ、3人目に「アメリカ人化したオランダ人」として神学校を卒業したばかりのフルベッキが選ばれた。フルベッキは米国滞在中にオランダ国籍を失っていたため、日本赴任に際してアメリカの市民権を申請したが叶わず、無国籍での来日になった。なお、フルベッキは神学校時代に、ブラウン牧師の教会でドイツ人向け礼拝を手伝ったいた時に知り合ったマリア・マ二ヨンと赴任直前に結婚して、日本に帯同した。(大森東亜記)

英書輪読会:5月部会報告「日本のフルベッキ第II章 Koppel (コッペル) 」

日時:令和元年5月8日 15:00~17:00
場所:日比谷図書文化館 セミナールーム
ナヴィゲーター: 市川三世史
内容:Verbeck of Japan Chapter II. The Koppel: Page 29~47

II 章の内容は、フルベッキの出自の紹介と、青少年時代に長く暮らしたザイスト(オランダ、ユトレヒトの西)の描写が主体である。フルベッキの名は、小川または細流を意味し、オランダおよびドイツに見出せる。ヤコブ・ファン・ラエル所有下のザイストは居住者6000名の美しく、ラインの支流が中心を流れる小さな町であり、モラビア人のコミュニティがあった。父カール・フルベッキは母アン・ケルマンと1818年に結婚し、1830年にグイド・フルベッキが八人の子供の第六子として生まれた。家族は居住地をライゼンベルグからザイストに移し、コッペルと呼ぶ家に住んだ。コッペルはカップルと同義語で、二つの水路または小道をつなぐことに由来する。ここは庭園、果樹園、牧草地に富む美しい土地であった。

グイドは内気で引っ込みがちな紳士であったが、バイオリン、ギターの演奏に長けていた。彼はこのコッペルで約22年を過ごしている。オランダの裕福な家庭の男子との交友で、グイドはオランダ、イギリス、フランス、ドイツの四か国語を流暢に話すことができた。

グイドには生まれつきの、人を引き付ける力があった。また動物に対する残酷性を厳しく非難していた。二歳の時グイドは水路に落ちて、危うく生命を失う危機を経験している。宗教的に父親はルター派であったが、グイドはザイストに残ってモラビア人の教会で堅信式を挙げている。この教会で宣教師たちの行動と精神を吸収している。

グイドはその後、ユトレヒトの工科学校でグロッテ教授のもとで学び、ここで語学に急速な進歩を遂げている。彼はドイツ人ではないが、ザイストではモラビア人の殆どと流ちょうなドイツ語の会話をして、ドイツ語を心の言語であると述べている。各国語に堪能なグイドはナポレオン法典、ドイツ国法、聖書の翻訳者でもあった。その後の、彼の進路を定める家族会議において、“工学”がとるべき職業であると、満場一致で意見がまとまった。
(市川 三世史)

 

 

英書輪読会:4月部会報告『フルベッキ輪読会』

『フルベッキ輪読会』が4月スタートしました
日時:令和元年4月17日 15:00~17:00
場所:日比谷図書文化館4階セミナールーム

フルベッキの伝記Verbeck of Japan; A Citizen of No Country”(全376ページ)の輪読会が 、4月17日(水)日比谷図書文化館4階セミナールームに10人が集まってスタートしました。

この日は,ナヴィゲーター役の岩崎が,2013年にある会の紀要に投稿した『フルベッキ~明治新政府の顧問に招聘され、日本近代化に貢献した宣教師』(全20ページ)の抜刷を回覧し、1859年に米国オランダ改革派の宣教師として長崎に着任し、幕府や佐賀藩の英学校で全国から集まった英才を教えた後、政府顧問・大学南校教頭として東京に招聘され、1898年青山外人墓地に葬られるまで、博学な知識、流暢な日本語、幅広い人脈を駆使して、教師として、政府顧問として、日本の近代化に貢献したフルベッキを概説した後、伝記の「前書」と第一章A Glance in Perspective計17ページを輪番で音読しながら内容検討する形で『フルベッキ輪読会』は無事スタートしました。 

2003年1月に立ち上がった『英書輪読会』は、当時出版されたばかりの『米欧回覧実記』の英訳版“The Iwakura Embassy1871-73”(全52200ページ)を11年かけて読了後、2014年4月から2冊目のアーネスト・サトウの” A Diplomat in Japan”(全472ページ)を、そして、2017年2月から3冊目The Complete Journal of Townsend Harris “(全616を毎月輪番で音読しながら読んで来ました。

2年後の2021年が岩倉使節団派遣150周年に当たるので、4冊目には“Brief Sketch”によって、条約締盟14か国に大型政府使節団の派遣を提言して岩倉使節団の実現に貢献したフルベッキの伝記を読もうということになった次第です。本著はWilliam Elliot Griffisが1900年に出版したものですが、同氏は米国オランダ改革派のラトガース大学で福井藩日下部太郎を教えた縁で、卒業後1871年に福井藩校教師として来日、廃藩置県後は、大学南校教頭フルベッキの斡旋で、同行教師に就任、1874年帰国まで約4年間滞日しました。本著を書くに当たってはフルベッキの生地オランダのザイストを3回訪問取材するなどフルベッキの伝記を書く最適の人物と目されます、なお、Griffisには、『皇国』(第一部ミカド、第二部明治日本体験記)、『維新概論』、『日本近世変革論』、『日本のヘボン』等日本関係著書も多数あります。

17年目に入った『英書輪読会』 ですが、この日の出席者の中に当初からの会員が2人もいた一方、新入会員も2人加わって下さり、活発な論議が出来て、楽しみが倍加しました。輪読会はテキストを漏らさず音読することを原則にしていますが、音読は間違いなく快感です。新規参入大歓迎です。一度ぜひ覗いてみてください。(英書輪読会世話人岩崎洋三)

英書(ハリス)輪読会:3月開催報告

日時:2019.3.13(水)13.10-14.50
場所:日比谷図書文化館4階セミナールーム
範囲:終了総括と特別講演

  1. The Complete Journal of Townsend Harris 読了。
    2017年2月以来毎月30ページ弱を交代で音読しながら読んできたが、24回を要した。
  2. 英書輪読会の3冊目のテキストThe Complete Journal of Townsend Harris を読み始めたのは2017年2月、初回ナヴィゲーターは今は亡き小坂田國雄氏だった。

途中息抜きに「The Barbarian and the Geisha」(日本名:黒船)という映画を見た。ハリス役がジョン・ウェイン、下田奉行役が山村聰という、1959年ジョン・ヒューストン監督作品だ。病弱のハリスを演じるにはウェインはどうもという意見もあったが、下田の玉泉寺で通訳のヒュースケンと苦労する光景など、大いに楽しめた。

  • 斎藤純生氏特別講演
     日本文研出版社主で、2001年に『米欧回覧実記』の英訳『Iwakura Embassy 1871-73』を世に出した斎藤純生氏をお招きし、英訳版出版のご苦労や、本にもなっている『洋書流通と翻訳出版の世界』をお話いただいた。当会は英訳実記全5巻約2500ページを、2003年1月から11年2カ月かけて読んだのは懐かしい思い出だ。同氏は岩倉使節団の事績を数多くの低開発諸国に知ってもらい参考にしてもらおうと『Iwakura Embassy 1871-73』を数多く寄贈されて来た由で、心強い限りだ。

3)今後の英書輪読会
4月から4冊目のテキストとして、William Elliot Griffis,”Verbeck of Japan; A Citizen of No Country”全376ページを読みます。第一回は4月17日(水)です。詳しくは、ホームページの『フルベッキ輪読会』が4月スタートします』をご覧ください。
(岩崎洋三記)

英書(ハリス)輪読会:2月開催報告

日時:2019.2.13日(水)13.10-14.50
場所:日比谷図書文化館4階セミナールーム
範囲:Journal 5,pp.541-558(Feb.17,~Feb.27,1858)  Fragments,May15~June9,1858

1月25日に始まった日米条約談判は2月27日の14回をもって議了し、ハリスは条約浄書を日本側に渡す。本書がカバーするのはここまで。ハリスは直後体調を崩し静養のため下田に戻った。

幕府は60日以内の調印を約したが、条約勅許申請が認められず遅延するが、無勅許調印を決意した幕府は、7月29日神奈川沖に来航したポーハタン号上で調印に応じることになる。

直前に下田に入港した軍艦ミシシッピー号からハリスが入手した、「英国がインド反乱(セポイ(ジハーヒー)を鎮圧した」、あるいは、「英仏連合軍が清国を屈服させた(第二次アヘン戦争)」等の情報を知らされ、幕府は列強との条約締結を急ぐことになった。

ハリスは第7条の開港区域に日本側が大幅譲歩したことに驚いている。(岩崎洋三記)

英書(ハリス)輪読会:1月部会報告

時:2019.1.9(水)13.10-14.50
所:日比谷図書文化館4階セミナールーム
範囲:pp.513-541(Jan.26-Feb.17,1858)

初代米国総領事ハリスは、着任後1年半近くたってから江戸出府を許され、課題の通商条約締結交渉をやっと始めることが出来た。ハリスは安政4年(1857年)11月江戸に着くと、日本側全権代表井上信濃守(下田奉行)と岩瀬肥後守(御目付)を相手に、通訳のヒュースケンを従えて、翌年1月から2月にかけて14回の談判を重ねて首尾よく成約し、7月神奈川沖のポーハタン号上で調印に漕ぎつける。 

今日の輪読会では、126日の第二回談判から217日の第11回談判までの部分を輪読した。条約談判はハリスが作成した条約草案を、オランダ語を介して日本語訳を作成した上で逐条的に議論される。日本側全権は保守的な諸大名の説得に苦慮していたことから議論が難航した様子が生々しく描かれている。 

開港場数ついては、ハリスが米捕鯨船の便宜も考慮し8港を要求する一方、日本側は3港以上不要と突っぱねたものの、『ここは条約のセバストポール』と踏ん張ったハリスが6港を獲得して決着した。セバストポールはクリミヤ半島の港で、ハリスが日本の港を戦略的に重視していたことがわかる。 

キリスト教礼拝問題では、18561月の日蘭条約で、日本側が出島の建物内での礼拝を認めていたことを事前に調べ、ハリスは外人居留地内での礼拝自由を条約に盛り込むことに成功している。(岩崎洋三記)

 

 

英書輪読会(ハリス):11月部会報告

日時:2018年11月14日(水)15:00~17:00
場所:日比谷図書文化館4階セミナールーム

テキストの1857年12月7日(月)から12月16日(火)まで、旧暦では安政4年10月21日から10月30日までを読む。

ハリスが下田奉行を通じ幕府の要路者と折衝した結果、来日の主要目的である将軍(家定)と謁見し、アメリカ大統領(ピアス)の信任状(親書)を呈する運びとなる。
米大統領親書により日本に外国との通商と門戸開放を要請する。

謁見は、300有余の大名、高官が居並ぶ前で行われる。大君の右手に堀田備中守と閣老5人、左手には大君の兄弟3人がひれ伏す。ハリスは立って挨拶の口上を述べると、大君はしっかりした口調で「遠境の処、使節を以て書簡差越し、口上の趣、満足せしめ候、猶幾久しく申し通ずべし、此段大統領に宜しく申し述べし」と応答する。

大君の応答のあった後、ハリスは大統領親書を掘田外務相に渡す。親書には「日米の絆を強化し、両国の通商が相互の利益となる条約を結ぶこと、そのため大統領はハリスに全幅の信頼を寄せている」とあり、大統領の自署と国務長官の副署が記されている。

謁見を終えた後、ハリスは堀田外務相に通商問題に関し書簡を出すとともに、堀田備中守を訪ね、ハリスの接待役人同席のもと、幕府の今後の課題について説明する。ハリスは、折しも諸列強は日本を開国させようとしているが、中国とのアヘン戦争など戦争によることなく使節との平和裡での交渉が望ましいとして次の3点を指摘する。即ち、
1)江戸に外国公使を受入れること、
2)幕府の干渉なしに日本人に自由貿易をさせること、
3)開港地を増やすこと。
堀田外務相はハリスの説明を真剣に聞くとともに課題解決には相当日時がかかると応接していたと、ハリスは日誌に記す。                             (大森東亜記)

 

英書輪読会(ハリス):9月部会報告

9月5日(水)
15.00-17.00
日比谷図書文化館4階セミナールーム

・テキスト:The Complete Journal of Townsend Harris

・範囲:pp.423-447(Friday,November27,1857~Monday,November30,1857)

・ナヴィゲーター:水谷剛氏

《概要》:

ハリス一行は大名行列並みに下田を出発して待ちに待った江戸への旅を続ける。
伊豆から東海道に出て小田原~大磯~馬入川~藤沢へと進んだ。
小田原から藤沢までは家の軒波が続き連続した一つの家並みである。 途中の馬入川渡る時に左小指を「水蛭」に吸いつかれて出血したので治療を「随行医師」にさせた。
藤沢から更に海岸沿いに行き神奈川~川崎に到着し、有名な「萬年屋」旅館に宿泊した。ここはペリー提督に随行したビッチンガー牧師が単独で勝手に抜けだし、多摩川から品川に行く寸前に停止させられて帰営した場所である。

品川から高輪経由で宿所の九段下「蕃書調所」に到着した。井上下田奉行から江戸城で将軍謁見するときの諸注意事項や江戸城入場は「威厳」を以て駕籠で向かうことなどを諸注意された。

(水谷剛記)

英書輪読会:6月部会報告「ハリス日本滞在記」前半

Journal 4 of Townsend Harris(April 1~July 31, 1857)
ハリス日本滞在記 (1857.4.1~ 7.31)

ハリスの上記滞在期間における幕府側の動きについて、これを「列強の軍事力に対する幕府の軍事力の実態」と題してまとめました。この内容は日記とは全く別個です。
すなわち、開国を迫る列強の圧力に対し、幕府側が保有する軍事力を調査したものです。

  • 列強と幕府の軍事力の比較
  1. 艦船:幕府は500石以上の大船建造禁止令を1609(慶長14)年以降、1842(天保12)年までに5回発令した。1500石(230トン)、200石(300トン)積みクラスの、木造平底帆船が最大である。大船建造禁止令の解除は、1853.9.15(嘉永6年)。第1回米国ペリー艦隊4隻の1853.7.8(嘉永6年)来日時の旗艦サスケハナは、排水量3885トンの世界最大級の蒸気外輪フリゲート艦(砲15門を搭載)
  2. 第2回ペリー艦隊9隻の1854.2.13(嘉永7年)来日時の旗艦ポーハタンは、排水量3825トンの蒸気外輪フリゲート艦(砲15門を搭載)
  3. 列強側
  4. このため大砲を積んだ軍船は全く存在しない。ましてや、蒸気機関の動力源を有する艦船もない。
  5. 日本側
  6. 防衛計画(砲台):戦力増強には新砲台の建設(埋立てを含む)、大砲の鋳造、弾薬の製造、砲兵隊の編成、維持、訓練など、莫大な費用を必要とした。
  7. しかも鋳造には、反射炉の製作から着手せねばならぬ状態にあった。
  8. 江戸湾の既存砲台の砲99門のうち、外国勢に比肩できる砲は僅かに19門であり、しかもその大半は臼砲であって射程が短く、ペリー艦隊まで砲弾は届かない。
  9. 幕府の責任者と財政1842(天保13)年      歳入148万2421両、歳出145万3209両、収支差額 黒字2万9212両大きな歳入は金銀の改鋳である。徳川200年の鎖国が大きくのしかかっている。
  10. 列強の軍事力には全く歯が立たない。また財政的にも無策で、戦費のための歳入増強が見込めない。
  11. 1854(弘化元年)         歳入171万9090両、歳出212万9130両、収支差額 黒字44万6340両
  12. 主席家老 阿部正弘
    担当:市川三世史

英書輪読会:5月部会報告「ハリス日本滞在記 」

ハリス日本滞在記 (1857.4.1~ 7.31:テキスト 第338ページ第 4行~第383ページ第 2行)

要旨
阿部にとり、将軍への大統領書簡の直接提示のための、ハリスの出府容認など論外である。従って下田奉行に全権委任と称して、ハリスの江戸出府要請を阻んできた。

結局この期間内にハリスが成し遂げた仕事は、先に締結(1854年3月31日/嘉永7年3月3日)されていた日米和親条約の、執行命令的性格を持つ補完条約である下田条約の締結(1857年5月26日/安政4年6月12日)である。

下田入港(1856.8.21)以来、1857.7.31まで11か月を経過しても、ハリスの出府要求はまだ実現されない。即ち、江戸城における合衆国大統領書簡の将軍への直接提示と陳述は、実現していない。この原因は、時の老中首座阿部正弘の、攘夷主義者に劣らぬ外国嫌いの、開国反対論者にある。

下田条約の主要項目
第1条 合衆国船に対して長崎を開港する。
第2条 下田と函館における合衆国人に永住権を与え、函館
港における副領事の任命権を認める。
第3条 通貨の相場を定め、合衆国人の従来の支払い額100
ドルに代えて、今後は34ドル50セントとする。
第4条 合衆国人は全て同国領事の管轄下におかれ、同国の
法律によって審理される。
第5条 長崎、下田、函館の港での合衆国船の修理と、代金
のバーター支払いを認める。
第6条 合衆国総領事の自由通行権を認めるが、その行使は
難船などの切迫の場合に限るよう下田奉行所は要望
し、領事も承諾する。
第7条 総領事および随員に、日本商人からの直接物品購入を
認める。 (文責 市川)

英書輪読会:3月部会報告「ハリス輪読会」

日時:2018年3月14日 
内容:1857年2月26日から3月31日までを読む

ハリスは日米修好通商条約の下交渉に入り、下田奉行との応接と要請等を記す。

(1)幕府が1856年2月、ロシアとの条約で取り決めた航海に必要な物資と石炭供給を米国にも許可すること。

(2)米国人が日本で犯した犯罪は米国領事の下で処断させること(後日、治外法権問題として大きな問題となるが、要請が異論なく認められたことにハリス自身が驚く)。

(3)1856年1月の日蘭和親条約12条と13条の条項(出島オランダ商館住居と土地貸借問題)を米国にも適用するよう求める。この条項は仮協約とされ幕府で批准されていなかったことをハリスが知らず誤解があった。
(『ハリス 日本滞在記(中)』(坂田精一訳、岩波文庫p201)の注記(一)により判明。)

(4)領事職権として全国を自由に移動できる旅行の自由を求める。

(5)通貨問題について重要な交渉が行われる。奉行が1954年、ペリーと締結された通貨交換で1ドルにつき1600文と定められたが正当でなく、米国金貨は日本金貨と、銀貨は銀貨同士で重さを量り、それぞれ目減り分15%を見込むと提案する。これに対しハリスは
①銀ドルは4800文に換算する。
②日本の通貨計量は5%差引くこと。
③貨幣の合金分は予め10%差引くこと。ハリスは自分の提案に基づく交渉を強硬に求める。通貨交渉は3月一杯かけ、20回もの応接と折衝がなされた結果、従来の銀ドル通貨1600文が4670文に換算され、約200%の割増となる形で決着する。この交渉中、ハリスは米国務長官からのハリス宛文書を奉行に披露。文書で国務長官は日本が米国との条約を回避した場合、議会は日本が抵抗できない措置をとれる権限を大統領に与えるという。ハリスはこの恫喝文書を奉行から幕府に告知させる。

(6)ハリスは江戸居住を希望する事由を文書で提出するよう求められ文書を提出。この間、下田に米商船が来航し船長夫妻と懇談したほか、通訳森山から幕閣の米国との条約問題の見解が賛否伯仲しているとの情報、下田奉行へのピストル進呈などが記される。今回の日誌を通して幕末の政治経済情勢に極めて重大な影響を与えた通貨交換の取り決めがなされた経緯を知らされる。
(大森東亜記)

 

 

 

英書輪読会:2月部会報告「ハリス輪読会」

2018年2月14日
範囲:1857年1月1日 294頁 ~ 2月15日 310頁
・ハリスが日本に初代駐在領事として伊豆下田に来てから初めての新年元旦 (西洋暦)を迎えたが、訪問者もこないのでヒュースケンと祝賀の挨拶をしたのみ。下田奉行に護衛の番士が過剰に目立つのであたかも囚人のようなので速やかな退去を強く要求したら珍しく速やかにそのとおりにしてくれた。

また、奉行の自宅に招待されて接待を受け、奉行自らがが茶を立てて接待した。
交渉事も通貨問題など重要な問題は解決しないが、親睦は深めた。しかし、酒席での下卑た話題は謹厳実直な ハリスにとっては苦痛であり、疲れることでもあった。
御蔭で体調も悪く、「丹毒」になったり寝つきも悪くなっが、下田の近辺の散策で気分転換をはかった。
1月26日~28日は日本暦の正月風景が珍しく家々の門松注連縄などの飾りつけを珍しく見て回った。
2月25日に幕府老中の書状が届いた。以前ハリスが届けた大統領書簡への返書だと思ったのに何もそれらしき返事はなくただあらゆる用務は下田奉行で処理するとの素っ気ない文書であった。

担当 水谷 剛

英書輪読会:12月部会報告「ハリスの日記」

日時:2017年12月20日開催
内容:1856年12月4日から同年12月31日までを読んだ。

ハリスは「丹毒」、即ち主に連鎖球菌に感染して起る皮膚病のため健康は優れない。
12月31日、この年最後の日の感慨として「日本人との交渉、極めて遅速にして捗らず」と記している。その上自らの生活環境について日本側に対する不満を記録している
(永島脩一郎)