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I-Café-music: 9月開催報告「イタリア編」

日時:令和元年9月8日(日)14:00~15:00
場所:サロン・ガイヤール

『第33回i-Café-music~イタリア編』は、9月8日(日)四谷 『サロン・ガイヤール』 で開催されました。夜半には台風15号が上陸見込みとの予報もあり開催が危ぶまれましたが、意外にも超満員になり、魅力的なお話とミニコンサートに盛り上がって、天候悪化前にご帰宅いただけたのは幸運でした。

『第一部映像とお話』では、DVD『岩倉使節団の米欧回覧』の第8章「西洋文明の源流イタリア」を見た後、音楽評論家萩谷由喜子さんに『明治の洋楽発展に寄与した女性たち~幸田姉妹、三浦環、大山久子他』をお話いただきました。

女性の視点から描く音楽史に定評がある萩谷さんは、昨年出版した『蝶々夫人と日露戦争~大山久子の知られざる生涯』という本で、日本が舞台となったイタリアの名作オペラ・プッチーニの『蝶々夫人』の誕生を、同年に起きた日露戦争と絡めて描いています。萩谷さんによれば、『蝶々夫人』には「宮さん宮さん」、「お江戸日本橋」、「さくらさくら」等8曲の日本の歌が使われているが、それらは当時の駐伊公使大山綱介の夫人久子がプッチーニに紹介したそうです。それらがどの様にオペラに取り込まれたかを、萩谷さんはピアニストの植木さんに逐一弾いてもらいながら具体的に説明してくれました。第3幕の幕切れに当時の流行歌だった「推量節」のメロデイーが ドラマチックなオーケストラの曲になって奏されることをはじめ、日本の歌がオペラにごく自然に取り込まれていることを教えていただいた。

オペラ誕生と同時期に、イタリアの造船所がアルゼンチンの注文で建造した二隻の軍艦が注文取消しになったとの情報が大山公使にもたらされ、日本が一触即発のロシア戦に備えて購入し、<日進><春日>と命名したこと。購入代金153万ポンドの支払いはロンドンで行われ、これに関わったのが元岩倉使節団員で日英同盟締結に活躍した林董駐英公使だったこと。 日本が日露戦争に勝利したことでプッチーニの日本を見る目が変わり、初演で不評だった『蝶々夫人』から日本を蔑視するような場面を修正し、その結果『蝶々夫人』は世界のオペラハウスで上演される上位5に入るオペラになった等々のお話はとても興味深かく、オペラを見るのが一段と楽しみになりました。

『第二部ミニコンサート』では、メゾソプラノ伊達伸子、ソプラノ酒井えり子、同磯田直子のお三方が、『蝶々夫人』から『ある晴れた日に』や『花の二重唱』、そしてイタリア民謡『チリビリビン』などを熱唱していただき、満席の会場はオペラハウスと化しました。i-Café Singersは戊辰戦争で歌われた日本最初の軍歌『宮さん宮さん』を披露しましたが、この曲はオペラの第二幕で蝶々さんに求婚するヤマドリ公のテーマに使われている由です。因みに、『チリビリビン』は、お三方の師匠で往年の名プリマ大谷洌子さんが1955年のNHK紅白歌合戦で歌った歌だそうです。

『第三部懇親会』にはアメリカの大学院で、日本に派遣された宣教師について博士論文を書いているという若い女性も含めてほとんど全員が残り、『台風どこ吹く風』と盛り上がりましたが、電車の動いている内に帰ろうと5時前に散会しました。
(文責:岩崎洋三)

英書輪読会:9月部会報告「Verbeck of Japan Chapter V. In Nagasaki: First Impresion 」

日時:令和元年9月6日 15:00~17:00
場所:日比谷図書文化館4F セミナールーム
ナヴィゲーター: 栗明 純生
内容:Verbeck of Japan Chapter V. In Nagasaki: First Impresion Page 80~99

V 章は、フルベッキの来日(1859.11.17)から当初の赴任地、長崎での生活の記録である。
-長崎への入港(1859.11.17)初日の夜の美しい光景の感動的な描写と、新天地での期待でこの章は始まる。

-すぐに2人の宣教師(ジョン・リギンスとMCウィリアムズ)が加わり、家捜しの苦労、新居の家づくり、大工・左官らの仕事ぶり、彼らが口にするブリキ、アンドン、ビードロなどの外来語を聞き留めて楽しんだことなどが語られる。

-12月29日には妻が来日して、新しい伝道の誕生を喜んでいる。

-日本人使用人へのかれの当初の低評価と当時の使用人の雇用事情とが記されているが、その後に、当時の日本人の道徳事情、特に自ら体験した、当時の女性を囲うことに対する寛容さへに対して強く憤慨、批判している。
-キリスト教の伝道によりこれらの弊害が除去され、日本での伝道が成功するであろうとの確信を述べている。
-日本の食糧事情―魚の種類の多さ、肉、野菜の豊富さやパン屋の焼くパンやケーキが美味しいことに触れている。
-長崎は大都市であり人の眼につきにいため伝道活動をしやすいだろうとの観測を記している。
-長崎に先住しているオランダ人の存在や影響力に関して、海外で思われているほど大きくなく、自分の伝道にたいして障害とはならないだろう。
-第1子(エマ・ジャポニカ)の誕生の歓喜と僅か2週間後の悲痛な死と、日本語習得の難しさ、日本語学習の様子の記述。
-長崎での当時のキリスト教の礼拝事情とフルベッキの知名度の向上。江戸におけるヒュースケン暗殺の報とそれによる外国使節の横浜移駐。
-日本の急速な西洋文明の吸収に対する賛辞と布教の難しさに関する悲鳴、丘の上の見晴らしのいい家への引越しと日本の治安(盗難)事情

-日本の投獄システムの急速な近代化-中国方式から西洋化(近代化)へ-かつての拷問に関するエピソード(個人的体験)とキリスト教徒の密告に関する高札の紹介。

-第2子(ウィリアム)の誕生と当時の日本の伝染病に関する歴史と当時の対策の悲惨な状況の説明と、西洋医学の漢方医に対して優勢となりつつある状況と、キリスト教の最終的優越への予想。

-彼が尊敬を集めた要因―「知識は力なり」と「真実は強く、勝利する」に関するーについての言及とー真実の探求者はフルベッキを発見し、彼の生徒となるのだーとの記述でこの章は終わる。
(栗明 純生)

実記輪読会:9月部会報告 第二十一巻「イギリス」総説

日時:令和元年9月6日 13:10~15:00
場所:日比谷図書文化館 4Fセミナールーム
ナビゲーター:冨田兼任氏

イギリス回覧を始めるにあたり、イギリスを総括説明。
国名は大ブリテン・アイルランド連合王国。1922年のアイルランド分離後は「・北アイルランド・」となる。イングランドはゲルマンから移住のアングロ人(南デンマークのシュレスビッヒ)とザクセン人(ドイツのザクセン・プロシア)が祖先のアングロサクソンが住み・ウエールズ・スコットランドに土着のケルト(Celt)人を追いやった。

当時のイギリスは、インド・オーストリア・カナダの他、ジブラルタル、マルタ、アデン、シンガポール、香港、パナマを支配する大英帝国の時代。石炭採掘高・銑鉄生産高は共に世界全体の約6割を占め、まさに世界一の工業国、貿易国であった。

道路はほぼ舗装・運河(2000km)・鉄道(2万km)と交通網も発達していた。

文献によれば、1851年のロンドン万国博覧会から73年の「世界大不況」までの時期はイギリス近代史上「繁栄の時代」とよばれたとある。その真っ只中の時に使節団は訪英したことになる。その後96年まで続く大不況の時代を通じ、「世界の工場」から「世界の銀行家」「世界の手形交換所」に変身を遂げ、今日の「シティー」の基礎が作られた。果たしてブレグジットでこの地位はどうなるのであろうか?

(冨田兼任記)

 

実記輪読会:夏休み特集 8月部会報告「教育現場における岩倉使節団の採り上げ状況」

日時:令和元年8月21日 13:30~16:30
場所:日比谷図書文化館4Fセミナールーム
演題:「教育現場における岩倉使節団の採り上げ状況」
講師:福山市立駅家東小学校 教務主任 杉原 進先生

今月は実記輪読に代わり、広島県福山市駅家(エキヤ)東小学校教務主任杉原進氏をお招きし教育現場での岩倉使節団の採り上げ状況について講演頂き、意見交換を行った。

杉原先生は、2004年の教育勉強会(セミナー)の「岩倉使節団」模擬授業に感動され「いつかはああいう授業をしてみたい」という思いを持たれた由。2009年頃から調査・資料収集を始められ、2017年ご自身で初めて岩倉使節団をテーマに公開授業を行った。その際収集資料の中に泉理事長の「堂々たる日本人」もあった縁から、当会に連絡が入りDVDをお貸しする経緯となった。

本年10月7日に教師生活の集大成として、校区の研究授業で「岩倉使節団」模擬授業を計画されている処、意見交換を目的に上京されることとなり当会合を企画した。当日は、塚本副理事長以下会員14名が参加した。

杉原先生より、経緯、授業内容の説明があり、模擬授業形式で、意見・感想等幅広く意見交換した。

当方会員より、当初計画の10か月より大幅に行程が延びた(632日、13か国)のは予期せぬ出来事(ソルトレークの大雪、天皇の委任状をとりにトンボ帰りなど)・本国からの追加調査要求が大幅に増えた・団員の好奇心も膨らんだことなどが要因、彼我の比較は「負けていたか」ではなく「遅れていたか」の表現の方が適切、政府要人トップが自ら見て感じたことが後の国の発展に大きく寄与した、キャッチアップ期間は条約改正までの40年ではなく「40年前」の欧米が当時の日本の状況と同じでありしたがって40年あれば追い着けると考えたというのが実際ではないか、福山出身の開国派老中阿部正弘を採り上げ岩倉使節団に繋げるのも一案、等々意見・解釈を述べた。

杉原先生から、得るところが沢山ありました、と謝意の言葉を頂き散会した。場所を移して行われた懇親会には泉理事長も参加した。

(冨田兼任記)

 

 

 

 

GJ部会:7月部会報告「アフリカ開発とエボラ緊急支援の最前線」

日時:令和元年7月20日(土)13:30~16:30
場所:国際文化会館、401号室
演題:「国際協力最前線―感染症との戦い」
講師:芳野あき氏
プロフィール:コロンビア大学 メールマン公衆衛生大学院
公衆衛生修士、コロンビア大学 国際関係公共政策大学院 行政管理修士(経済政治開発)、学習院大学文学部哲学科学
士(美学美術史)大学卒業後、JTBにて企画営業、ジョンソンエ
ンドジョンソンでプロダクトマネージャーとして医療マーケーテイング業務に関わる。30代を区切りに国際協力開発業界にキャリアチェンジを図り、NYコロンビア大学にて公衆衛生学と行政                 管理学の修士号を取得。以降10年間、サブサハラアフリカ(シエラレオネ、ウガンダ、ナイジェリア、ソマリア、コンゴ               民主共和国)、ボリビア、南アジア(パキスタン、ネパール)の国連機関やJICAにて、公衆衛生専門家(主に感染症対策)                 として緊急支援や開発プログラム管理、調査評価業務に関わる。
2013年~2015年パキスタンにて世界ポリオ撲滅への日本政府援助に関わり、ビルメリンダゲイツ財団、世界銀行との協調               のもと、65億円の借款案件を担当。

2016年~2019年1月 コンゴ民主共和国の国連移住機関(IOM)の保険衛生事業を立ち上げ、プログラムの統括を務め、               三度に亘るエボラ出血熱の緊急対応をリードした。

「アフリカ開発とエボラ緊急支援の最前線」

イントロ
 世界の秩序は大きく変化しつつある。多くの途上国が経済発展を遂げる中で、過去20年間で世界全体における極度の貧困率は半減、貧困削減に向けた世界的な取り組みは大きな前進を遂げた。近年は、テクノロジーの発展により、途上国と呼ばれてきた国が、かつて先進国がたどった軌跡や過程を飛び超え、従来とは違う発展のパターンを辿る事例や、イノベーションを生み出すソーシャルビジネス等、これまでの枠組みを超えた新しい動きが生まれてきている。今や、サブサハラアフリカでは、ほぼ全員の成人が携帯電話をもつようになり、銀行口座を持たずとも、Mpesaのような携帯電話を介して簡単に送金できるシステムが普及するようになった。他方で、世界的に拡大する経済格差や、格差を生む社会構造に対して人々が感じる不安感は、扇動的な思想や社会運動を勢いづかせる要因にもなっており、新たな課題も生まれている。このように世界全体の秩序が大きく変化する今、我々に求められる活動や支援とは何なのか?どうしたら住民や地域の自立と主体性、発展を促し、より効果的な支援を行うことができるのか?

本日は、8月に横浜で行われるアフリカ開発会議も予定されていますので、直近に関わったコンゴ民主共和国(以下、コンゴ民)のエボラ出血熱の封じ込めの取り組みなどを例にあげながら、皆さんと一緒に、アフリカの開発を考えて行きたいと思います。

私の履歴
 私は日本生まれの日本育ちで、幼少の頃に海外と接点があったのは、商社勤務の叔父が、オーストラリアや米国に赴任するのを見てきてきたくらいです。海外と言われても欧米諸国ぐらいしか想像ができなかった中学生のある時、家の本棚にあった「人間の大地」(太田道子著)をふと手にして読んだことがその後、途上国に関わるきっかけになりました。エチオピアの飢饉、アフガニスタン難民、本の中に書かれていた国々は、聞いたこともないような国ばかりであった上に、自分の知らない世界の反対側ではどうも大変なことがおこっているらしいという何か大切なことを知ってしまったという瞬間でした。そんなことから、欧米以外の世界を見て見たいと思い始め、高校では交換留学でメキシコに行く機会を得て、そこで初めて自分がマイノリティーになる経験をしました。留学した年は確かコロンブスがアメリカ大陸を発見して500年目の年でしたが、メキシコの人々はその年を「発見ではなく侵略の始まり」と捉えていたことも非常に興味深く、日本で教えられた世界の歴史は欧米的な視点に偏るということを初めて実感しました。また先住民の人は社会的にも経済的にも優位ではないことを目の当たりにし、メキシコ留学を通じて、格差が生まれる構造ということに漠然と関心を持ち始めました。帰国後は日本の大学に進学し、ジェンダーと表象文化を学ぶ中で、表象されているものの大半がその時の権力者などに都合の良いように描かれ、それを何百年たった今でも「見せさせられている」ということに気がつかないと、ついつい見ているだけなのに、自分たちもその時の権力者の視点に立ってしまうというトリックがあることも大変勉強になりました。この視点は、その後、植民地などの歴史に翻弄された途上国に関わるようになってからも「支援の方法は、強者の目線だけのアプローチではないか。これによって徳をするのは誰か?」と立ち止まり、自分がやっていることは本当に支援をすべき人の目線も見えているかと問い直すのに役に立ちました。社会人になってからは、民間企業で10年勤務し、30歳を手前にして、10代で興味を持った途上国の世界に関わって見たいと思い、米国ニューヨークの大学院留学(公衆衛生、行政管理学)をきっかけに、大きなキャリアチェンジをすることになりました。その後10年間は、シエラレオネ、パキスタン、ナイジェリア、ソマリア、コンゴ民などの内戦や紛争を経験した国々を渡り歩くことになりました。

植民地化の影響とアフリカの開発
 これらの国々に赴任してまず実感したことは、植民地化の影響は、アフリカや南アジアの発展に大きく影響したという過去の事実としてではなく、未だにそれが色濃く影響を及ぼしている進行形の事実であるということです。現在の西洋的な基準で見ると、アフリカには多くの失敗国家や貧困国が存在しますが、その背景には19世紀後半から20世紀に起こった「アフリカ分断」に始まる植民地化が大きく影響していることが浮かび上がってきます。リベリアとエチオピアを除くアフリカ全土がたった7つのヨーロッパ列強により分割され、多様な民族言語グループが存在していたにも関わらず、欧州列強の政治や経済政策に沿った形で勝手に境界線を引かれた。民主言語グループに関係なく同じ地域に組み込まれ、他者との差別化につながる「人種」の概念が入った結果、アフリカ人同士の争いがはじまったわけです。コンゴ民、スーダン、ルワンダなどの大量虐殺の悲劇は記憶に新しい。また、アフリカの天然資源の略奪は、欧米諸国のアフリカ植民地化の大きな理由でしたが、それは外交やビジネスという形に変えて、欧州にとって条件が良い交渉が未だに継続されていることも事実です。また、アフリカ諸国が自立的な経済発展の離陸が起こり始めていたところに、欧米による強制的な発展が持ち込まれたため、アフリカ独自の発展の道筋が変えられてしまったことも今の発展に影響を与えています。また、植民地化は、搾取により欧米列強が富の増幅をしたわけですが、現地に残された社会経済システムが、現在も続くアフリカの貧困の大きな原因であることも周知の事実である。その中でも私がアフリカを理解する上で、腑に落ちたことが一つあります。アフリカ諸国に限ったことでもありませんが、60年代にようやく独立したばかりの国々なのに、なぜ国民が政府に対する不信感がこんなに強いのか?常々これは一体どこから来たものなのかと考えていましたが、その理由の一つとして、植民地化の影響によるアフリカ人同士の間で起きている土地所有の格差が影響しているのではないかと考えるわけです。植民地化の強制移住により、人々は従来の土地を喪失したわけですが、欧州諸国は奪った土地をその後アフリカに売りつけ、アフリカ諸国は欧州諸国から借金をし、ようやく土地を取り戻しましたが、未だに旧宗主国に負債を抱えています。その取り返した土地のほとんどが政府の所有となり、その後も土地が公平に分配されることはなかったことがポイントです。これにより、アフリカ人同士の間で土地所有の格差が生まれてしまい、土地を独り占めした政府関係者たちは、その後も国民の信頼を勝ち得ることはなく、その利権を持ち続けるために新たな内紛や、援助の効率化を阻害するような状態が生まれてしまっているわけです。私が赴任した、シエラレオネ、ソマリア、コンゴ民なども例外ではなく、天然資源をめぐる内戦と欧米諸国の関与を経験し、政治腐敗、蔓延する汚職、脆弱なガバナンス、脆弱な経済社会基盤、高い失業率、緩やかな経済発展と貧困が共通した課題です。そのような中でも、これまでのやり方では残された課題は打破できないとして、近年ではアフリカ諸国からも経済発展の支援を求められていることもあり、これまでの既存のドナーの資金や援助機関の取り組みだけでなく、ゲイツ財団などの民間の巨額の資金が入って来て、援助のあり方も徐々に変わりつつあることを実感しています。今のグローバルの一つの主な課題は「格差是正」です。平均的な指標の数値を良くするだけではなく、国の発展の恩恵を受けられず取り残される人たちを優先して支援をし、格差が拡大しないようなシステムを構築するということです。グローバルヘルスにおいても、2013年ごろから「Universal Health Coverage(全ての人が、生涯を通じて必要な時に、基礎的な保健サービスを負担可能な費用で受けられること)」の推進が進められ、医療保健の分野のみならず、保健サービスや制度を可能にするような、法律、政策、行政等への取組みも求められています。

エボラ出血熱流行の緊急援助
 アフリカ開発の課題とその取り組みなどを駆け足でお話しして来ましたが、後半は、私の専門分野の感染症や公衆衛生の経験を取り上げ、特に直近で関わったコンゴ民のエボラ出血熱の緊急援助などの場合には、歴史的背景や根底にある開発課題がどのように影響するのかということをお話ししたいと思います。私は2年半のコンゴ民の滞在のうち、3回もエボラ流行を経験しましたが、2018年8月からは始まったコンゴ民主共和国の東部北キブ州におけるエボラ出血熱のアウトブレークは、現在までに1600人以上の死者が報告され、2014年の西アフリカのアウトブレークに続く、史上2番目に大規模な流行となっています。1年が経過した今でも決定的な打開策が見出せておらず、封じこめが難しい状況が続いています。

エボラのような感染力の強いウィルスの場合は、大都市に広がらないように小さな地域で早期に封じ込めることが感染症対策の第一戦略ですが、マバラコという小さな村で死亡例が出始めた去年の5月ごろは、給料未払いに抗議して地方保健省のスタッフが出勤していなかったため、その報告が遅れ、ようやく症例が確定され、正式なアウトブレークが発表されたのは8月1日のことでした。この報告の遅延も、コンゴ民の脆弱な保健システムが如実に現れた一例と言えます。さらに、流行の中心地となる北キブ州は人口700万人の密集地で、その3分の1が地下資源の採掘地となっています。資源をめぐる25年続いた内戦後も、東部では未だに100以上の武装勢力が活動しており、治安が悪いためなかなか援助開発者の立ち入りも難しく、支援が届かない地域でもあります。しかし、地形や治安が悪いながらも、隣国のウガンダ、ルワンダ、ブルンジなどとの国境を超えた人や物の移動も活発に行われ、今回のアウトブレークにおいても、流行の広がりが南の大都市に南下していき。商業の中垂都市であるブテンボ、100万人の国際都市ゴマにも流行が広がって、隣国ウガンダでも数件ですがエボラが報告されています。

通常、エボラの最初の症例が確定されると、保健大臣が緊急事態を報告し、直ちに国家、地方の両レベルで緊急対応技術委員会が設置されます。緊急宣言が出されると、ドナーや援助関係者、保健省などの関係者が、サーベイランス、コニュニケーション、調達などの7つの専門分野に分かれてチームを組み、組織を超えて一緒に仕事をしていきます。ミーティングも毎日何度も行われ、成果を確認しつつ、感染の状況に応じて優先順位や戦略の改定をしていきます。わたしは移民を専門とした国連組織に所属していたので、サーベイランスの委員会の中でも国境管理や検疫強化のサブ委員会の調整をリードしていました。

アウトブレークが起こると、国境だけでなく、流行地からほかの主要な都市へ感染が拡大しないように、ルートを遮断するようなポイントに臨時で検疫所を設置します。日本の成田空港で想像するようなサーモカメラで通るだけで自動的に体温を測るような効率の良い検疫ではなく、ワンタッチの体温計を使用し検温、体調の問診、行き先などの確認を行います。コンゴ民は、9つの国と国境を接し、陸路、水路、空路で国境が通じているほか、正式な国境ポイント以外からの抜け道も多く、多くの人は非正式ルートを使うため、移動を把握することは容易ではありません。また、こちらの写真をご覧になっていただけるように、国境ではものすごい数の人がいろんなものを頭や背中に背負って国境を越えるため、検疫の動線を作るのも一苦労です。それでも定量的、定性的データの収集を行い、人口移動の経路とボリュームを把握し感染経路と拡大の予測を立て、ハイリスクな場所には、臨時の検疫所を設置し、24時間の検疫に切り替えるなどをして検疫強化をするわけです。また、国境管理のもう一つの重要な役割として、隣国とのコーディネーション会議をもち、ハイレベル、技術レベルにおける情報共有と共同した対策の強化をしていくわけです。また、エボラは感染力が強く拡大も早いことから、緊急活動の体制をいかに素早く組め、感染が移り変わるごとに体制も柔軟に変更していけるかが鍵となります。私がリードした22名のエボラ緊急対応チームも、医師、疫学、水・衛生、調達、コミュニケーション、アドミニストレーションなどで構成されるチームを編成し、保健大臣やドナーとの調整をする首都のキンシャサのチームと流行地で現場の対応を行うチームを分けて活動を管理していました。しかし緊急対応開始後から現場では度重なる襲撃と阻害を受け、設置した検疫所が夜のうちに壊されたり、国境なき医師団が運営する治療センターなどは火災の襲撃で焼き払われるなどの襲撃も続きました。この地域はもともと武装勢力が多く活動し、治安が悪いことに加え、長年の紛争により政府や国連に対する住民の不信感が強く、政府や外国人が多く関与するエボラ緊急支援もその例外ではありません。治安の悪い場所でようやく援助活動ができるような体制を整えても、周りの住民からの襲撃が止まないわけことも多々あるわけです。「エボラは外国人が持ち込んだ疫病」「治療センターに行くと体をバラバラにされる」などの信じこみが未だに根強く残るため、脱走したり、家族が取り返しにきたりと、我々が想像もしないことがドラマのように次から次へと起こるわけです(笑)。先に触れた、脆弱な保健システムや、人の移動に加えて、このような社会習慣、コミュニティの不信感などが加わり、未だに決定的な対策が見出せておらず、封じ込めが難しい状況が続いています。

ジレンマとやりがい
 我々が仕事で扱う貧困や途上国の問題のスケールは気が遠くなるほど大きいと感じることがよくあります。国際援助が国の成長を抑制してしまう危険性もある上に、先のエボラアウトブレークの例にも見るように、決定的な解決策が見出せなかず、成果が思うように出ないことも多く、支援が常に喜ばれるとも限らないわけです。また、このような仕事は、多数の組織との調整が必要となり、組織を超えたチームワークと高い外交的なスキルも要します。さらに緊急支援対応は、先が予測しにくい状況が続き、スタッフの継続雇用や、安全確保、メンタル、体力の持続も難しいことも多く。それでも、国際協力の仕事の面白さは、目の前のイシューだけでなく、根底にある社会問題、背景も考えながら取り組むことにあると思っています。一度知ってしまったらほっとけないことがますます増えてきました。多国籍の人々との関わりや一体感、世界の変化を現場で体験できることもこの仕事ならではだと感じています。また、途上国では、歴史や社会に翻弄されながらもたくましく生きる人々との出会いが多く、圧倒的に恵まれた自分の育った日本の環境をありがたく感じるとともに、だから自分も頑張らねばと勇気付けられることが多々あります。

アフリカを経験して
 アフリカを経験して、欧米諸国による植民地の歴史やアフリカ関与の背景を実感として理解することができるようになり、米国偏重の日本人が“欧州的視点”を持つ機会にもなりました。また、植民地であった国を経験して、支配された側の視点も見えてくるようになりました。

凄まじい中国のアフリカ進出
 私がアフリカに関わるようになり10年以上が経ちますが、どの国に行っても中国の大規模な進出が見受けられました。中国は景気減速などの苦しい立場にありながらも、アフリカ諸国との関係強化を優先し、向こう3年間で6.6兆円のアフリカ支援を表明しています。アフリカ諸国にとっては、債務返済能力が追いつかず、負債が増大するリスクも承知で、中国支援によるインフラ投資の資金確保を図りたい。他方、中国側は、アフリカの地下資源の獲得、新興国としての需要の取り込み、さらにトランプ政権以降の米国の孤立化は、中国にとってはドル基準の影響を受けない経済圏拡大を目指すなど、経済圏展開のチャンスであると捉えていることが明確です。私が赴任していたコンゴ民においても、前大統領ジョセフカビラ氏は中国人民解放軍国防大学へ留学の経歴があり、国連コンゴ民主共和国ミッションへ中国人民解放軍の平和維持部隊を派兵し、さらに中国企業モンブデンは世界最大の銅コバルト鉱山を買収するなど積極的な経済投資も進めています。

TICAD7に向けて
 アフリカ開発会議は日本が主導で立ち上げて1993年から現在まで3年ごとに開催されており、前半(1993-2008年)は、貧困削減、人間の安全保障、国家開発などがメインに議論されましたが、2008年以降は、アフリカの高度成長に伴い、経済成長と民間投資の促進が関心の的となってきました。今年も8月末に横浜で7回目のTICADが開催されることを機会に、今後のアフリカ開発における日本の役割は何かを見直すきっかけになるでしょう。積極的なアフリカ進出を進める中国とは戦略的な棲み分けを模索し、長期の視点にたってアフリカ開発に資する支援に注力すること。また、日本はアフリカとは歴史的な直接のつながりは薄いとはいえ、グローバルの戦略に沿いながらも、アフリカ諸国との独自のつながりを持ち、支援の戦略を打ち立てていける時期に来たのではないでしょうか。ご静聴いただきありがとうございました。

芳野 あき(よしのあき) 国際協力/公衆衛生専門家

 

歴史部会:7月部会報告『タウンセンド・ハリス~初代米国総領事が日本にもたらしたもの』

日時:令和元年7月22日 13:30~14:30
場所:国際文化会館4F
講師:岩崎洋三氏

2019.7.22(月)の歴史部会は、岩崎洋三氏が『タウンセンド・ハリス~初代米国総領事が日本にもたらしたもの』と題して、初代米国駐日総領事として1856年(安政3年)下田に来航し、2年後英仏露に先駆けて通商条約を締結し、日本の開国を果たしたハリスの数奇な生涯と功罪を論じた。

本論に入る前に、総領事ハリスを描いた映画『黒船』の、下田来航・江戸出府・将軍謁見の部分を見大筋を捉えた。上陸を拒否する下田奉行、大名行列並みの道中、江戸城での謁見と開国の利を説く有名なハリスの長口舌など、1958年にジョン・ヒューストンが監督作った映画は意外に良く出来ていた。因みに、ハリス役はジョン・ウェイン、下田奉行が山村聰で、共に様になっていた。

1)ニューヨーク時代~出生からニューヨーク市教育委員会委員長まで

ハリスは1804年にニューヨーク州北部のハドソン川に沿った小さな村で、帽子屋の5男として生まれた。先祖は、全米で最初に奴隷制を禁じたロードアイランド州を起こしたことで有名なピューリタンのロジャー・ウィリアムズと共に1630年にアメリカのニューイングランドに渡って来たウェールズ移民である。父母双方の祖父達は独立争で戦っている。自宅を火災で失った父方の祖母は、ハリスに『真実を語れ、神を畏れよ、イギリスを憎め』と教えた。タウンセンドの名はこの祖母の旧姓でからもらっている。読書家の母親は共和主義・連邦主義で、民主主義・地方分権のハリスとは意見を異にしていたが、ハリスはこの母親をこよなく慕った。

13歳の時ニューヨーク市に出て洋服商に就職した。そして、16歳の時には兄から陶器店の経営を委ねられ、子供商店主として評判になった。商売に精を出す一方、当時市政を牛耳っていた民主党に所属し、ウェトモア将軍等有力者の知己を得て42歳の時ニューヨーク市教育委員会委員長に就任恵まれなかったハリスは、当時急増していたアイルランド移民を含む貧者に高等教育機会を与えようとFree Academyを設立した。これはニューヨーク市立大学に発展する。

2)インド洋・太平洋貿易業時代~ニューヨーク市教育委員長を辞し、初代駐日総領事になるまで

1849年家業の経営悪化に加え、敬慕する母親の死に見舞われたハリスは、ニューヨーク市教育委員長を辞し、サンフランシスコで貨物船の権利を購入し、太平洋・インド洋で貿易業を開始する。年々のクリスマスを過ごした地は以下の通りで、広範に活動していたことが伺える。

1849年北太平洋上
1850年マニラ
1851年ペナン島
1852年シンガポール
1853年香港
1854年カルカッタ
1855年セイロン

3)初代駐日総領事時代~ピアス大統領に直訴の任命から日米修好通商条約締結まで

1854年ペリーの第二次日本遠征で締結された『日米和親条約』第11条で米国領事の下田駐在が可能となり、米政府が派遣方針を定めたのを知ったハリスは、1855年8月ペナンから急遽帰米し、ピアス大統領に初代駐日総領事任命を直訴した。幸い、1853年第1次日本遠征に向かう途中の上海来航時に、ハリスの日本同行を断ったペリー提督が賛成に回り、マーシー国務長官、ウェトモア将軍の推薦を得て、ハリスは首尾よく任命を勝ち取り、併せて通商条約締結の全権を得た。

1855年10月通訳にオランダ人ヒュースケンを雇い日本向け出港したハリスは、途中シャムで同国と通商条約を調印するが、ハリスは直前に同国と条約調印した英国特使パークス(厦門領事)から条約文を入手し参考にした。このパークスは、帰任後広東領事になり、直後アロー号事件を引き起こすが、結果的にアロー号事件が日米修好通商条約交渉を加速させ、英国に先んじて調印されたことは皮肉だ。ハリスは7月に寄港した香港でボウリング総督から、『アロー戦争終了次第大艦隊を率いて訪日予定』と聞かされていた。

下田には1856年8月着任し、玉泉寺に領事館を開設したものの、攘夷派との折り合いがつけられない幕府との交渉はかみ合わなかった。翌年5月に日米和親条約を補完する『下田協約』調印できたものの、通商条約交渉のための江戸出府が認められたのは着任1年3カ月後だった。条約交渉は番所調所で下田奉行井上清直と目付岩瀬忠震両全権との間で進められ、1858年1月14回目の条約談判で決着した。しかし、条約勅許が得られないため、大老に就任した井伊直弼の命で無勅許調印したのは6カ月後だった。

条約は不平等条約とされるが、病身のハリスがリンカーン大統領に辞任申請した時には、幕府は国務長官宛に留任要請をした。『幕府の当局者がハリスに出会ったことは、日本にとって幸せだった』(徳富猪一郎)と前向きに評価する向きも少なくない。清国とアヘン戦争・アロー戦争を戦い、領土拡張を含む不平等条約を勝ち取った英国が、大艦隊を率いて来日する前に、ハリスが平和的な交渉で結んだ日米修好通商条約が、英国を含む他の列強との通商条約の規範となったのは幸いと見るべきであろう。

それにしても、ハリスが江戸出府の途上で日記に記した以下の一文は、今に及ぶ基本的問題を衝いているように思われる。

『見物人の数が増してきた。彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない-これが恐らく人民の本当の幸福の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響をうけさせることが、果してこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるか、どうか、疑わしくなる。私は、質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国におけるよりも、より多く日本において見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる。』(日本滞在記下巻P.26)

(岩崎洋三記)

 

英書輪読会:7月部会報告「日本のフルベッキ 第IV章 A GLANCE AT OLD JAPAN」

日時:令和元年7月10日 15:00~17:00
場所:日比谷図書文化館4F セミナールーム
ナヴィゲーター: 市川三世史
内容:Verbeck of Japan Chapter IV. A GLANCE AT OLD JAPAN: 日本寸見Page 69~79

IV 章は、フルベッキの来日(1859.11.17)までの、赴任先である当時の日本の状態を述べている。

-マルコポーロの東方見聞録(1298年)を見るまで、ヨーロッパ人に日本の存在は未知であった。この見聞録は原本が失われ、内容に大差のある140種類の写本が出ている。だが「黄金の国ジパング」の見出しに、ヨーロッパ人は大きな興味を持った。

-1540-1620 年にある宗派のキリスト教が一時的に流行し、日本中部、南部、南西部、北の仙台まで約100万人の信者を獲得し、宣教師の組織、その後の災害と殉教者の詳細な歴史も素晴らしかったとされている。当時の日本の人口は約3000で一世紀にわたり変化していない。

-1604年に徳川家康はキリスト教の弾圧、外国人の追放、長崎へのオランダ人の囲い込み、すべての外国の理念と影響の排除を始めた。一方で当時の琉球、蝦夷への支配力は微々たるものであった。韓国は元寇の乱の後は、日本の属領とみなされていた。

-1637年には島原の乱において、多くの殉教者が出ている。

-権威の名目上の中心は京都に、武力と財政の中心は江戸にあった。江戸の権威は遠方に及ばず、地方の貴族と大名は世襲の領地を固守していた。この二頭政治あるいは権力の分割に政策的に反対し、大君に敵対する、数千名におよぶ人々もすでに存在した。

-宣教師は仏教を悪魔の宗教とみなし、キリスト教のみが人を救う道であると説いた。仏教の聖職者はこれに団結して対抗し、江戸幕府も極刑をもってクリスチャンを裁いた。

-武家は全人口の十分の一から構成され、知的な文化と精神的な規律を持っていたが、キリスト教にとり最大の、友人となる信者でありかつ敵となる暗殺者であった。

-オランダ船はニュース、科学、装置類、ヨーロッパの原産物、土壌的および精神的な病原菌をもたらした。オ

ランダ語と書物を通じて知識の獲得に努め、医業を営み、さらに新約聖書の中国語版、または中国の船員が持ち込む中国の宣教師の出版物を通じて、キリスト教を求める数百人もの日本人も存在した。そして長崎は外国に対して開かれた唯一の地であった。

-フルベッキと武装した外交官の護衛は、仏教信者と残虐なスパイと、国家の命ずる剣の存在を感じ取ったため、これに対抗する手段を見出す必要があった。

-日本には1000年におよぶ文学で明らかにされた知性があったが、いまだに、国家の思考の種類と品質の総合力

は、古代の大国、または主要ヨーロッパ諸国の仕事と比肩できるランクではないとみられた。
( 市川 三世史)

英書輪読会:6月部会報告「日本のフルベッキ」

日時:令和元年6月12日 15:00~17:00
場所:日比谷図書文化館4F セミナールーム
内容:Ch.ⅢIn the Land of Opportunity(希望の国で)
ナヴィゲーター:大森東亜

この章は、1852年9月オランダをからアメリカに移住し、7年後米国オランダ改革派の日本派遣宣教師に選ばれ、1859年5月、ニューヨークを出航し、同年11月上海を経由して長崎に着くまでの物語である。

フルベッキをアメリカに向かわせたのは、ニューヨーク在住のモラビア派*牧師の義弟ヴァン・デュ-ルの勧めだった。実は義弟自身も、先んじてアメリカのウィスコンシン州グリーンベイにモデルタウンを開発していた同派宣教師タンク師に招かれて渡米していたこともあり、フルベッキはとりあえずその鋳物工場で約1年働くことになった。この時フルベッキは「立派なアメリカ人になる」決意をし、名前をフェルビークから、アメリカ人が呼びやすいヴァ―ベックに改めた。

*モラビア派は、15世紀のチェコの宗教改革者でプラハ大学学長だったヤン・フスに端を発するモラビア兄弟団というプロテスタント教団で、フルベッキの生地オランダのザイストに拠点が移されており、フルベッキも少年期に系統の学校に、教会に通っていた。

その後、アメリカをもっと知りたいと思ったフルベッキは、アーカンソー州ヘレナに移り、土木技師として働くが、奴隷たちが同地の綿花畑で過酷な労働を強いられているのを目にして失望し、奴隷解放論者の説教を聞くために遠路を通っていた。そして、瀕死の大病(コレラと推定)を患ったときに、回復後は聖職者になることを決意する。回復後、義弟の薦めもあって、一端グリーンベイに戻った後、ニューヨーク州オーバーンの神学校で3年間学ぶことにした。

1858年に日米修好通商条約が締結され、翌年には米国宣教師の日本駐在が可能となった時、米国オランダ改革派は最も積極的に、3人の宣教師を日本に派遣することにした。まず選ばれたのは、中国伝道経験の長いブラウン、次いで医師のシモンズが選ばれ、3人目に「アメリカ人化したオランダ人」として神学校を卒業したばかりのフルベッキが選ばれた。フルベッキは米国滞在中にオランダ国籍を失っていたため、日本赴任に際してアメリカの市民権を申請したが叶わず、無国籍での来日になった。なお、フルベッキは神学校時代に、ブラウン牧師の教会でドイツ人向け礼拝を手伝ったいた時に知り合ったマリア・マ二ヨンと赴任直前に結婚して、日本に帯同した。(大森東亜記)

英書輪読会:5月部会報告「日本のフルベッキ第II章 Koppel (コッペル) 」

日時:令和元年5月8日 15:00~17:00
場所:日比谷図書文化館 セミナールーム
ナヴィゲーター: 市川三世史
内容:Verbeck of Japan Chapter II. The Koppel: Page 29~47

II 章の内容は、フルベッキの出自の紹介と、青少年時代に長く暮らしたザイスト(オランダ、ユトレヒトの西)の描写が主体である。フルベッキの名は、小川または細流を意味し、オランダおよびドイツに見出せる。ヤコブ・ファン・ラエル所有下のザイストは居住者6000名の美しく、ラインの支流が中心を流れる小さな町であり、モラビア人のコミュニティがあった。父カール・フルベッキは母アン・ケルマンと1818年に結婚し、1830年にグイド・フルベッキが八人の子供の第六子として生まれた。家族は居住地をライゼンベルグからザイストに移し、コッペルと呼ぶ家に住んだ。コッペルはカップルと同義語で、二つの水路または小道をつなぐことに由来する。ここは庭園、果樹園、牧草地に富む美しい土地であった。

グイドは内気で引っ込みがちな紳士であったが、バイオリン、ギターの演奏に長けていた。彼はこのコッペルで約22年を過ごしている。オランダの裕福な家庭の男子との交友で、グイドはオランダ、イギリス、フランス、ドイツの四か国語を流暢に話すことができた。

グイドには生まれつきの、人を引き付ける力があった。また動物に対する残酷性を厳しく非難していた。二歳の時グイドは水路に落ちて、危うく生命を失う危機を経験している。宗教的に父親はルター派であったが、グイドはザイストに残ってモラビア人の教会で堅信式を挙げている。この教会で宣教師たちの行動と精神を吸収している。

グイドはその後、ユトレヒトの工科学校でグロッテ教授のもとで学び、ここで語学に急速な進歩を遂げている。彼はドイツ人ではないが、ザイストではモラビア人の殆どと流ちょうなドイツ語の会話をして、ドイツ語を心の言語であると述べている。各国語に堪能なグイドはナポレオン法典、ドイツ国法、聖書の翻訳者でもあった。その後の、彼の進路を定める家族会議において、“工学”がとるべき職業であると、満場一致で意見がまとまった。
(市川 三世史)

 

 

英書輪読会:4月部会報告『フルベッキ輪読会』

『フルベッキ輪読会』が4月スタートしました
日時:令和元年4月17日 15:00~17:00
場所:日比谷図書文化館4階セミナールーム

フルベッキの伝記Verbeck of Japan; A Citizen of No Country”(全376ページ)の輪読会が 、4月17日(水)日比谷図書文化館4階セミナールームに10人が集まってスタートしました。

この日は,ナヴィゲーター役の岩崎が,2013年にある会の紀要に投稿した『フルベッキ~明治新政府の顧問に招聘され、日本近代化に貢献した宣教師』(全20ページ)の抜刷を回覧し、1859年に米国オランダ改革派の宣教師として長崎に着任し、幕府や佐賀藩の英学校で全国から集まった英才を教えた後、政府顧問・大学南校教頭として東京に招聘され、1898年青山外人墓地に葬られるまで、博学な知識、流暢な日本語、幅広い人脈を駆使して、教師として、政府顧問として、日本の近代化に貢献したフルベッキを概説した後、伝記の「前書」と第一章A Glance in Perspective計17ページを輪番で音読しながら内容検討する形で『フルベッキ輪読会』は無事スタートしました。 

2003年1月に立ち上がった『英書輪読会』は、当時出版されたばかりの『米欧回覧実記』の英訳版“The Iwakura Embassy1871-73”(全52200ページ)を11年かけて読了後、2014年4月から2冊目のアーネスト・サトウの” A Diplomat in Japan”(全472ページ)を、そして、2017年2月から3冊目The Complete Journal of Townsend Harris “(全616を毎月輪番で音読しながら読んで来ました。

2年後の2021年が岩倉使節団派遣150周年に当たるので、4冊目には“Brief Sketch”によって、条約締盟14か国に大型政府使節団の派遣を提言して岩倉使節団の実現に貢献したフルベッキの伝記を読もうということになった次第です。本著はWilliam Elliot Griffisが1900年に出版したものですが、同氏は米国オランダ改革派のラトガース大学で福井藩日下部太郎を教えた縁で、卒業後1871年に福井藩校教師として来日、廃藩置県後は、大学南校教頭フルベッキの斡旋で、同行教師に就任、1874年帰国まで約4年間滞日しました。本著を書くに当たってはフルベッキの生地オランダのザイストを3回訪問取材するなどフルベッキの伝記を書く最適の人物と目されます、なお、Griffisには、『皇国』(第一部ミカド、第二部明治日本体験記)、『維新概論』、『日本近世変革論』、『日本のヘボン』等日本関係著書も多数あります。

17年目に入った『英書輪読会』 ですが、この日の出席者の中に当初からの会員が2人もいた一方、新入会員も2人加わって下さり、活発な論議が出来て、楽しみが倍加しました。輪読会はテキストを漏らさず音読することを原則にしていますが、音読は間違いなく快感です。新規参入大歓迎です。一度ぜひ覗いてみてください。(英書輪読会世話人岩崎洋三)

実記輪読会:7月度部会報告「第二十巻「ボストン」市」

日時:令和元年7月10日 13:10~14:50
場所:日比谷図書文化館4F A
ナヴィゲーター:富田兼任氏
内容
6月28日朝5時半ロードアイランド州プロビデンス港に着き北送し8時ボストンに到着、市内巡覧。学校見学、消防馬車の馬がよく調教されているのに感嘆。夜180人集まり享宴を受ける。サンフランシスコ以来の大盛会と記す。

6月29日北70㎞にあるローレンスに行き、綿花紡績工場見学。

7月1日水道貯水池を見た後、ブルックス氏邸宅を訪問、帰途オーロラを見る。

7月2日木戸・伊藤組は西方50kmハドソンタウン、大久保・山口組はローレンスに行き、それぞれ工場視察、昼食接待を受ける。

7月3日ボストンから英国に向け出港、13日アイルランドに達する。

この巻にあるボストン・シカゴの大火について、ボストンは1872年11月に発生し半日間、シカゴは1871年10月に2日間燃えた。焼失面積はボストンが26ha、シカゴは800haに及び、シカゴの大火は19世紀アメリカ最大の災害と言われている。

ブルックス氏とは紳士衣料のブルックスブラザーズ経営者エドワード・ブルックス氏を指すと考えられる。キューナードは、英国の有名な船会社だが、設立は1839年で英国政府の郵船輸送契約を結んだことから「Royal Mail Ship」と冠した。現在は米国「カーニバル」社傘下となっている。

富田命保日記によれば、6月28日田中(光顕)、杉山(一成)氏とニューヨークより汽車にてボストンに着いたとあり本体とは別行動で陸路入った。なお、吉雄辰太郎(永昌?)氏は紙幣製造管理という役目を命ぜられニューヨークに滞在することとなり、6月29日田中(光顕)理事官随行の役を解かれたとある。岩波本p337校注に「団員名簿から吉雄永昌は欠落している」との記述は、このことと関係しているのかもしれない。

(冨田兼任記)

 

GJ研究会:6月部会報告「Flawed Giant-Lyndon Johnson”欠陥のある巨人“リンドン大統領」

日時:令和元年6月15日(土)13:30~16:30
場所:国際文化会館 401号室
演題:「Flawed Giant-Lyndon Johnson”欠陥のある巨人“リンドン大統領」
講師:大井孝氏(東京学芸大学名誉教授)

大井氏が6月度定例会のテーマに“リンドン・ジョンソン大統領”を選ばれた理由は氏がフルブライト留学生としてコロンビア大学で政治学を学ばれていた時期とジョンソン大統領の任期中と重なって、リアルタイムでジョンソン大統領の“成功と失敗”を身近に見聞きしていて、記憶にも未だ鮮明に残っている事にもよるとのこと。

ジョンソンと言えば翌年に控えた大統領選挙の為ケネデイ大統領の再選をサポートすべく遊説のため訪れた1963年11月22日テキサス州ダラスで暗殺されたケネデイ大統領の後任として副大統領から横滑り大統領となったことで有名である。他方でジョンソンは、アメリカ人にとり悪夢ともいうべきあのヴエトナム戦争を拡大した大統領との悪印象が私達日本人には強く残っている。今回の講演はそのリンドン・ジョンソンがどのようにしてアメリカ合衆国の副大統領の地位に上り詰めて行ったかを、彼の生い立ちについて語ることから始められた。

ジョンソンは1908年。テキサス州のストーンウオールで生まれる。彼の両親は貧しい地域で農場を経営していて一時期父親は州議会議員をしていたが事業にも失敗、多額の借金を抱えてリンドン少年は幼少時代から貧困生活を強いられる。この経験が後に彼に、黒人やメキシコ人貧困者救済を志向させる。彼の生家には水道も電気も無く、彼の通った小学校は全校で一教室、教員一名のみ。高校通学にはロバに乘って片道三マイル。1924年高校卒業後は大学入学は落第で一時道路建設作業員などに従事。飲酒と喧嘩で逮捕歴もあり、相当な悪であった。19歳で改心し南西テキサス州立教員養成大学に入学。在学中に最貧困地区児童の小学校代用教員を経験。その後州議会で5期務めた父親の縁故を借りて1931年テキサス州出身の連邦下院議員の部下となり、ワシントンに移住。1933年3月4日FDRの政権発足。ニューデイール政策の柱の一つのNational Youth Administrationのテキサス州担当部長となる。

この頃からジョンソンは政治家の道に進む。1934年地元出身の富裕家庭の娘Landy Birdと結婚、妻の支援を受けながら1937年、28歳で連邦下院議員に当選,地元の貧困地域に電力供給やその他の 改善策を実施し、徐々に知名度が上がってゆく。1941年上院議員選挙に出馬希望するが民主党内の対立で失敗。下院議員を続ける。日米開戦後FDRが彼を下院議員のまま海軍予備役将校に任命、太平洋地域の戦況視察委員となる。幸運にも恵まれ生き残り、結果銀星章を授与される。

戦後、1948年テキサス州選出の連邦上院議員に選出され、二年後には民主党の院内副総務になり、1955年には上院の民主党院内総務floor leaderとなる。1957年アイゼンハワー政権下で“民権法”の成立に尽力。1960年の大統領選挙戦ではカトリックのケネデイは共和党候補者の現副大統領ニクソンと大接戦。ケネデイはプロテスタントのジョンソンを副大統領候補とすることで、南部諸州の支持を期待した。当時から大統領選挙では南部諸州が鍵を握って居り、結果として南部出身で、南部での知名度の高いジョンソンを副大統領として味方に引き入れたケネデイがニクソンに僅差で勝利しケネデイ政権が発足。

ジョンソンはケネデイ兄弟には田舎者と軽蔑され政権中枢には入れられなかったが、ジョンソンの方も上院時代のケネデイをさしたる実績もなく軽視していた。ケネデイの下でジョンソン副大統領は黒人青年の就職機会の拡大のために設置されたCEEO(Committee on Equal Employment Opportunity)の責任者となる。ケネデイ兄弟は1964年の大統領選挙ではジョンソンを副大統領候補として指名しない気配であった。

そしてケネデイ大統領は1963年11月22日テキサス州ダラスであの“悲劇”に遭遇し、ジョンソンは予期せぬ“大統領への昇格”となり、ジョンソン政権が誕生する。

ジョンソン大統領が先ず手掛けた政策はケネデイが暗殺前の10月に公共施設、公立学校、雇用での人種差別を禁止する法律案を下院の法務委員会で通過させるところまで進めていた、それらの人種差別撤廃と貧困対策の一連の立法に取り組む。

ジョンソン大統領が手掛けた政策は以下の通り。

“1964年公民権法案”に署名、“Great Society”を目指すべきことを宣言、”War on Poverty”対策と黒人たちの失業対策の一環として“Economic Opportunity Act”を議会に提案

その他、自然環境保護、消費者保護、新移民法、Medicaid , Medicare,など。

1964年11月ジョンソンは大統領選挙で当選。議会の議席確保でも民主党にとってはFDR時代の1936年以来の大勝利であった。ジョンソンはこの選挙結果に自信を抱いて更にGreat Societyの施策を拡大しようと望み、“教育・医療保険・天然資源保護・農業対策”の四項目の政策、中でも教育政策を最優先、貧困児童の教育を重視した。その後の二年間にジョンソンは200個の重要法案を議会に提出し、その内181を成立させた。その他、“新投票権法”も画期的な法案であったことを忘れてはならない。当時は米国経済が好調で五年連続でGDPが上昇し、1964年には減税も可能であった。

この様な輝かし実績の反面、ジョンソンはそのベトナム戦争対策の泥沼に陥った。1954年7月のジュネーヴ協定により、ベトナムからフランスは撤退した後でも米国はこの協定に反対し、南ベトナムの傀儡政権を支持し続けた。

アイゼンハワー、ケネデイの下では軍事顧問団の員数が増大し、引き継いだジョンソンも1964年に起きた「トンキン湾事件」を契機に本格介入の道を選び、米国の戦闘部隊も段階的に総計55万名以上になり、戦費も増大、1968年には第二次大戦以来最高額となる219億ドルの支出であった。連邦予算の75%近くが戦費または戦争関連の支出となり、教育・健康・福祉関連予算は12.2%となった。

上述の一連のジョンソンによる画期的な国内政策の実現の背景には内政面での進歩的な政策の実現との交換条件によるベトナム戦争の拡大があった。また米ソ冷戦下での「ドミノ理論」がジョンソン政権の「ベスト&ブライテスト」の思考を捉えていた事も事実である。

ベトナム戦争による戦死者も1968年には12,000人に達し、全米に反戦運動が巻き起こりジョンソン政権に対してはベトナム戦争への対応のまずさから、国民からの信頼感も失われて行った。結局、悪化したベトナム戦争の難問を抱えて、1968年3月31日にジョンソンは同年の大統領選に出馬しないことを宣言した。民主党の大統領候補者はロバート・ケネデイが有力視されていたが、ロバートが6月6日に暗殺され、結果副大統領のハンフリーが民主党の大統領候補となるが11月の選挙では僅差で共和党の元副大統領ニクソンに敗れた。

大井氏はジョンソンに対する二人の著名人の言葉を紹介することでこの講演を締めくくられた。その一部をご紹介します。

*ジョンソンの伝記作家Robert Dallek (1998年)

「・・・・あのジョンソンは少なくても一つの異論の余地のない勝利を内政上で挙げた。彼は南部諸州を国の経済・政治の主流の中に組み込むことに大きな役割を果たした。・・・・・南部の人種差別の撤廃は南部が米国の全国社会に再編入される事を意味していた。1960年以来、あの地域が享受してきた繁栄と過去六代の大統領の内、ジミーカーター、ジョージ・ブッシュ、ビル・クリントンの三名が南部出身であることがその点を示している。・・・・・・

ベトナムは大きな失敗であった。それは米国の歴史の中で最悪の外交政策であった。彼の大統領職は偉大な業績とすさまじい失敗、永続的な利得と忘れがたい損失、の物語であった。

・・・・1960年代の激情が鎮静化するとき、ジョンソンはおそらく、当時の米国の偉大さと限界とを忠実に反映した一人の大統領として想起されるだろう・・・・彼の成功と失敗と彼の勝利と悲劇の故に、注目すべき人物として。」

*米国ヴァンダービルト大学 歴史学教授 ジェファーソン・コウイは

「・・・・・1964年5月の演説でジョンソンは“我々のすべての人々に一つの豊かさの制度を作る為にあの一世紀にわたる努力が成功した”と宣言した。・・・・それは一つの豊かな時代に向かう一つのヴイジョンであったが、それはFDRの行った、基本的・物質的安定の保障の協調とは異なるものであった。しかしジョンソンの政策は国民の全般的な生活向上を目的とする様々な社会的・文化的改善の雪崩現象を実際に引き起こした」

(文責:畠山朔男)

 

歴史部会:6月部会報告『英語の師匠-岩倉使節団一等書記官・何禮之』

日時:令和元年6月18日 13:30~14:30
場所:国際文化会館 403
演題:『英語の師匠-岩倉使節団一等書記官・何禮之』
講師:金子秀明氏
参加者:14名

何禮之(がれいし)は、長崎の唐通事の家系に生まれた。何一族は、明の滅亡に際し、江戸の初期に日本に亡命し、長崎で代々、唐通事を営んできた。唐通事は、単なる通訳の通詞にとどまらず、貿易実務にも関わっていた模様。講師の金子氏(テレソフト会社-点字ソフト、機器製造販売-代表取締役)は、何一族の天草分家のご出身。

何禮之は、7歳で家督を継ぎ15歳で、これからは英語の時代と見極めて、長崎の唐人より『華英・英華事典』を求めて独学を始め、長崎英語伝習所や居留地内の中国人や英米人(フルベッキなど)から発音を学ぶ。そして、英語稽古所学頭の幕臣に取り立てられ、長崎の私塾と大阪・江戸の私塾で英語を教える。門弟には、親友・前島密(前島の葬儀委員長を務める)、高橋新吉(日本勧業銀行総裁)、前田正名(農商務省次官、東京農林学校長)、芳川顕正(東京府知事、文部大臣、内務大臣)、高峰譲吉(工学・医学博士)、陸奥宗光(外務大臣)、星亨(逓信大臣)、中村六三郎(三菱商船学校初代校長)、浜尾新、豊川良平、吉村寅次郎など百数十名を育てる。岩倉使節団関連の弟子だけでも、山口尚芳(副使)、瓜生震(通詞から三菱支配人)、日下義雄(長崎・福島県知事、実業家)、中島永元(文部官僚)、岸良兼養(大審院長)、萩原三圭(ドイツ初留学生、宮内庁侍医)など多彩。勝海舟陸軍総裁時代の通訳や、小松帯刀随行で上京して通詞を務め、岩倉具視にも、訳書のモンテスキューの『法の精神』など進講している。大隈重信の民権思想にも影響を与えたという。回覧中は木戸孝允と同行し、また一緒に帰国しているので、木戸との接点も深い。青山霊園に眠り、墓名碑「徳種」(恩徳を他人に施す人)「音容如在、葬掃維勤」(お墓参りのたびに、声や姿が目に浮かぶ)に人柄が偲ばれる。林洞海の息子・武を養子とし、榎本武揚と赤松則良とは義兄弟。赤松の三男を養子として何盛三(エスペラント学会長、ベトナム商社・大南公司の支援)に。その長男・何初彦は東大教授。何禮之日記は東大図書館に寄贈されている。幕臣ながら貴族院議員まで務めたのは、中国出身、何一族の日本に溶け込む精神の発露かと。
(文責:小野)

 

実記輪読会:6月部会報告「第19巻 新約克府ノ記」

日時:令和元年6月12日 13:10~14:50
場所:日比谷図書文化館4F セミナールームA
内容:「第19巻 新約克府ノ記」
ナビゲーター:吉原重和

要約/特記事項
・明治5年(1872年)
526日 アスター図書館、聖書協会、YMCA、障害児の病院、シュワルト氏の商店、トリビューン新聞、NY私立大学を訪問
527日 フランクリン氏の商店、ハーパース・ウイークリー社訪問。午後フェリーにてロードアイランド州に向かう。牡蠣がもたらす利益について触れている。久米は聖書協会とYMCAの訪問のあとに彼の「宗教論」を述べているのは注目される。

訪問した場所の詳細
アスター図書館
アスター図書館およびレノックス図書館が統合され1895年にニューヨーク公共図書館と成った、正面玄関前に設置されている2つのライオン像は母体となった2つの図書館の名を受け継いで各々“Astor”および“Lenox”の名を有する。創立者の JohnJacobAstor1763-1848)ハイデルベルグ近郊で生まれ、NYで毛皮及び不動産で成功した。現在の建物にはアスター「忍耐」の名を持つライオンは正面階段向かって左の南側に、レノックス「不屈」の名を持つライオンは反対の北側、正面向かって右側にいる。

アメリカ聖書協会
1816
年に設立、聖書の翻訳・出版・配布を行う団体である。アメリカンボードの宣教師として中国に派遣されたブリッジマン博士の漢訳聖書事業を支援した。岩倉使節団が訪問した時 当時の世界中で 30 の国語に訳された聖書があった。漢訳の聖書を各人にプレゼント。米欧の人々の多数が聖書を読んで心を養っていることを知らされたことが記録されている。その後5回に渡り移転し、来年はフィラデルフィアに移転。

YMCA

Alexander Turney Stewart
アイルランド出身の実業家
1846年にMarble PalaceをBroadwayに造った。その後1862年に鉄製のIron Palaceを建築した。1860年代で最も裕福な実業家だった。

The New York Tribune
ホレス・グリーリーHorace Greeley1811-1872)は自由共和党の創設者、社会改革者、政治家である。ニューヨーク・トリビューン紙は1840年代から1870年代にアメリカで最も影響力のある新聞であり、当時の最も偉大な編集者としてのグリーリーの評判を確立した。

Western Union
Hiram W. Sibley Western  Unionの共同創立者で初代社長
Samuel Finley Breese Morse 画家でありモールスコードの発明者Ezra Cornell       1851年にロチェスターでWestern Union を創立した、Cornell大学の共同創立者でもある。

City University of New York
タウンゼント・ハリスが学長だった。
Haper’s Weekly
共和党寄りの政治週刊誌
Blackwell Hospital
イーストリバーの島に設けられた精神病院

以上の諸施設を訪問した。

 

岩倉使節団の紹介記事

泉代表が寄稿した岩倉使節団の紹介記事がnippon.comに下記の
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